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祖母の遺した「取材ノート」を継いだら、日本中の都市伝説を追う羽目になりました  作者: 青空もち
坂の客

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第十四話 置いていった人

坂下印刷の硝子戸は、昨日と同じように開いていた。


中では機械が動いていた。昨日より速い音だった。声をかけると、坂下さんは手を止めずに顔だけこちらへ向けた。


「今日はちょっと立て込んでますねん」


「すみません。あのノートを、もう一度だけ見せていただけませんか」


坂下さんは、機械のほうへ目を戻した。数を数えるような間があって、それから言った。


「勝手に見ててください。倉庫、開いてますわ」


私は礼を言って、奥の戸を開けた。


倉庫は、昨日と同じ紙の匂いがした。段ボールは出したままになっている。中に五冊のノートが、昨日私が戻した順のまま重なっていた。


床に膝をついて、一冊目から開いた。


昨日は、坂の話の中身ばかりを追っていた。今日は、聞き取りの相手の欄だけを見て、ページを繰った。頭文字。頭文字。また頭文字。二冊目の半ばまで、同じ形が続いた。


沖田与一は、律儀な人だった。相手の頭文字と、日付と、聞いた場所。三つが必ず揃っている。揃っていないページは一枚もない。そこだけを見ていると、この五冊は誰かの家計簿のようだった。


祖母のノートも、同じ形をしている。私は膝の上でそれを何度も見てきた。似た記法を使う人が、同じ時期に、同じ町にいた。それだけのことなのだと、昨日までは思っていた。


三冊目の、前のほうにあった。


日付があって、相手の欄に、頭文字ではない字が書いてある。


「よそから来はった人、新聞社にいてはったとか」


昨日、私が読み流したものだった。


指を止めて、その下を読んだ。




書いてあったのは、坂の話ではなかった。


よその土地の話が、三つ並んでいた。


一つ目は、夜道で後ろから足音がついてくるという話だった。走っても離れない。声はしない。二つ目は、夕方の道で子どもに声をかける人の話だった。返事をすると連れて行かれる。三つ目は、墓の数が合わないという話で、数えた者に良くないことが起こると書いてあった。


私は、三つとも知っていた。


一つ目は、波名島だ。一本道の夜、後ろから足音が近づく。走っても離れない。それを教えてくれたハルさんの、湯呑みを持った手まで思い出せる。


二つ目は、柊野町。夕方の畦道に立って、通りかかる子に問いかける人。名前は最後まで出てこなかった。黒田ふささんが縁側で話してくれたときの、日の傾き方まで覚えている。


三つ目は、常世谷。墓を数えるな。麓の老女が畦道で私を止めた、あの言い方。


私がこれまで歩いてきた、その順番のとおりだった。


順番が同じなのは当たり前だった。私は祖母のノートの順に歩いている。祖母が回った順に、同じ土地を、同じ順で辿ってきた。


だから、このページに三つが並んでいるということは、祖母がこの町に着いたとき、その三つを既に持っていたということだ。青森を歩き、岐阜を歩き、沖縄を歩いたあとで、この町に来た。そして、そこまでに集めたものを、ここで話した。


沖田与一が聞き取ったのは、この町の噂ではなかった。この町に来たよその人が話した、よその土地の話だった。


その下に、沖田の字で、二行あった。


「これはうちの町の話やない。使えん」


そして、そのすぐ下に。


「けど、まとめ方の参考になる」


私は、しばらくそのページを見ていた。


倉庫は静かで、戸の向こうの機械の音だけが、低く続いていた。


祖母は、この町で取材をしなかったのではなかった。この町で、話をした。自分が別の土地で聞き集めてきたものを、目の前の人に話して聞かせた。


そして、その人は、まとめ方の参考になると書いた。


沖田が本を作るとき、ばらばらの十いくつを一本に寄せた。その判断がいつ固まったのかは、どこにも書いていない。この日より前だったのかもしれない。この日のあとだったのかもしれない。祖母が何かを勧めたとは、一行も書かれていない。ただ、参考になる、とだけ書いてある。


私は、その二行を三度読んだ。読むたびに、意味が少しずつ動いた。


確かめる方法は、ない。


沖田与一は三年前に亡くなっている。祖母も、もういない。この二行の前後にあったはずの会話は、二人が持って行ってしまった。


膝の上のノートが、急に重くなった気がした。実際には、大学ノート一冊の重さしかない。


私がこれまで会ってきた人たちは、みんな、自分の土地の話を私に渡してくれた。ハルさんも、ふささんも、矢代さんも。渡すかどうかを迷った人もいた。渡さないと決めた人もいた。波名島で会ったあの人は、書いてくれとも書かんでくれとも言わずに、好きにしなさい、とだけ言った。


私は、渡された側だとばかり思っていた。


祖母は、渡す側にも回っていた。


それが悪いことなのかどうか、私にはまだ分からない。話を聞いた土地のことを、次の土地で話す。取材の途中でそうなることは、たぶん珍しくない。私だって、この町で坂下さんに、沖縄の島の話をしていたかもしれない。しなかったのは、たまたま話の順番がそうならなかっただけだ。


ただ、この町では、渡されたものが活字になった。


私は膝の上のノートを閉じて、元の順に重ねた。




作業場に戻ると、坂下さんは機械の前で紙の束を揃えていた。


「見れましたか」


「はい。ありがとうございました」


尋ねようと思えば、尋ねられた。二十数年前に、よその記者がここへ来ませんでしたか、と。お父様から何か聞いていませんか、と。


尋ねなかった。


昨日は、祖母のしたことを他人の記憶から先に埋めるのが惜しい、と自分に説明した。今日は、その理由が使えなかった。もう埋まってしまっている。私が今日読んだ二行は、間違いなく祖母のことだ。


尋ねなかったのは、坂下さんが答えられないからだった。この人は父親から仕事を継いだだけで、二十数年前の来客のことも、その人が何を話したのかも知らない。知らない人に尋ねれば、その人は考えて、たぶん、いちばんありそうな形を答えてくれる。


この町では、それがどうなるかを、私は昨日見たばかりだった。


「あの箱、どうしはるんですか」


代わりに、それを尋ねた。坂下さんは、紙を揃える手を止めずに答えた。


「置いときますわ。誰も要らんでしょうけど」


「捨てないでいただけますか」


坂下さんは、初めて手を止めて、こちらを見た。


「あんた、そんなん言いに、また来はったんか」


「いえ。それは、今思いました」


坂下さんは、少しおかしそうな顔をして、また紙に戻った。


「置いときますて。場所くらい、ありますわ」




杉尾書店の硝子戸を開けると、昨日と同じ匂いがした。


帳場の男性は、老眼鏡を額に上げて顔を出した。私を覚えていた。


「もう一冊、要りますか」


「いえ。お礼を言いに来ました」


私は、印刷所へ行ってきたことを話した。ノートが残っていたことも話した。中身までは言わなかった。男性は、ああ、そうですか、とだけ言って、しばらく黙っていた。


それから、聞かれてもいないのに言った。


「昔はな、うちの店にも、坂の話をしに来る人がおったんですわ」


「どんな話をされたんですか」


「みんなばらばらでしたわ。あれは違う、これはこうやと。しょうもない言い合いになってね」


男性は、帳場の縁を指で二度叩いた。


「今は、来はりません。言い合うことがないですやろ」


言い合いがなくなった、というのは、揉め事がなくなったということだ。ふつうなら、良くなったと言う場面だと思う。この人は、良くなったとは言わなかった。惜しいとも言わなかった。ただ、来なくなった、とだけ言った。


「その言い合いは、楽しかったですか」


尋ねてから、失礼だったかもしれないと思った。男性は気を悪くした様子もなく、少し考えた。


「楽しいことは、なかったですなあ」


そして、老眼鏡を下ろした。


「ただ、店は賑やかでしたわ」


私は頭を下げて、店を出た。


坂を上る途中で、一度だけ振り返った。屋根が下へ重なって、その向こうに川の光がある。二日前に着いた日に見たのと、同じ景色だった。景色のほうは、何も変わっていない。




駅は、着いた日と同じように無人だった。


ホームのベンチに座って、手帳を開いた。


「椋坂町・三日目。坂下印刷にて聞き取りノート三冊目を再確認。頭文字でない記載一件。日付は本の刊行の約十年前。内容は当町の噂ではなく、他県三件の類話(常世谷・柊野町・波名島に相当)。著者の書き込み二行あり。以上、確認できたのはここまで。以下は断定不可」


そこで一度、ペンを止めた。


それから、行を変えて書いた。


「祖母は、この町では、聞く側ではなかった」


その下に、もう一行足そうとして、やめた。まとめ方の参考になる、と書かせたのが祖母なのかどうかは、書けない。分からないことを、分からないと書くのは祖母の作法だが、それを書いてしまうと、私はきっと、これから先ずっとその一行を読み返す。


手帳を閉じて、鞄から祖母のノートのコピーを出した。


椋坂町のページは、今日も白い。


白いままの理由が、昨日までとは違う顔をしていた。書けなかったのでも、書かなかったのでもない。書くものがなかったのだ。この町で祖母が手に入れたものは、何もない。


持ち帰らなかったのではなく、置いていった。


置いていったものが、この町の話のかたちを決めた。かもしれない。そこから先は、誰にも確かめられない。


三日前、私はこの町に、話が多すぎると思って着いた。実際に多かった。ただ、多かったのは話ではなく、同じ一つの話の部数だった。そして、その一つが選ばれた場所に、祖母がいた。


いたことしか分からない。何をしたのかは分からない。分からないまま、私は次の町へ行く。


この町のローカルな謎は、これで解けたことになるのだろうか。噂の出どころは分かった。なぜ全員が同じ話をするのかも分かった。分からないままなのは、噂のことではなく、祖母のことだ。取材ノートを継ぐというのは、こういうことなのかもしれない。土地の謎は解けて、その人の謎だけが増えていく。


ページを繰った。白いページが四枚続いて、その先で、また字が始まる。


「島根県・宇津良町。旧街道。夜、家までの道が終わらなくなるという話について、取材予定」


行き先と、聞くべきことの見出しだけ。あとは何も書いていない。いつもの書き方だった。


この人は、書くのはいちばん後でいいと思っていた人だ。そして、書かないことも選ぶ人だった。今日、もう一つ分かった。この人は、話す人でもあった。


線路の向こうで、踏切の音が鳴りはじめた。


私は、白いページに一度だけ手を置いてから、コピーを閉じた。このページは、白いまま持っていく。誰かが後から読んだとき、祖母が何も聞けなかった町だと思うかもしれない。それでいい。私は、そう思わない読み方を、一つだけ知っている。


電車が来た。二両だった。

本作の地名・人名はすべて架空です。実在の場所や事件を一対一でなぞったものではなく、各地に伝わる「型」だけをお借りしています。あくまでフィクションとしてお楽しみください。(モチーフになった噂の考察は、いずれ「都市伝説ラボ」(toshidensetsu-labo.net)のほうでも触れられたらと思っています)


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