第十二話 よく知られた話
新幹線を降りて在来線に乗り換え、それからもう一度乗り換えた。
椋坂町の駅は無人だった。改札の代わりに木の箱が置いてあって、切符はそこへ落とす。ホームの端に自転車が三台停めてあり、どれも鍵はかかっていなかった。
駅を出ると、道はすぐに上りになった。
正面に山があるわけではない。町そのものが斜面に載っている。駅前の平らなところは、バス停と自動販売機とで終わってしまって、その先はもう坂だった。時刻表を見ると、バスは一日に六本だった。
坂を上りながら、町の形を見た。焼杉の板塀と、格子の入った古い家が続いている。ところどころ、アルミサッシに替わった窓がある。細い路地が坂に対して横に走っていて、そこから先は階段になっていた。
観光地ではなかった。土産物屋も、案内板も、写真を撮っている人もいない。人の姿は、荷物を運んでいる人と、犬を連れた人だけだった。
新しい家も何軒かあった。建て替えたばかりらしい白い壁の家が、古い板塀のあいだに挟まっている。表札は新しいが、門柱だけが黒く古いままの家もあった。人が住み続けている町の見え方だった。誰もいなくなった常世谷とも、区画が同じ形で並んでいた柊野町とも違う。
坂を上りきると、寺の白い塀に突き当たった。振り返ると、瓦の屋根が下へ向かって重なっていて、その向こうに川があるらしい光が見えた。
来る前に、この町のことを調べてきた。町の名前と、坂の話を並べて検索すると、いくらでも出てきた。個人のページ、まとめの記事、動画。数が多すぎて、途中でやめた。どれも同じ話をしているように見えたからだ。祖母のノートに書いてある土地で、こういうことは初めてだった。常世谷は、名前を入れても地図が出てこなかった。
宿は坂の中ほどにあると聞いていた。下りる途中、荒物屋の前で水を撒いている女性がいた。六十くらいだろうか。桶とひしゃくを使って、道の乾いたところに水をかけていた。
「すみません。このあたりに、宿はありますか」
女性はひしゃくを止めて、坂の下のほうを指した。
「二つ目の角を曲がらはったら、看板が出てますわ」
礼を言って行きかけると、女性が言った。
「あんた、あの話やろ。坂の上の」
足が止まった。
「よう来はりますわ、そういう人。夏になるとね」
私は何も言っていなかった。鞄を持って坂を上っていただけだ。青森では、誰も口を開かなかった。沖縄では、名乗る前に名前を呼ばれた。この町では、聞く前に当てられた。
「そんなに、来ますか」
「来はりますよ。学生さんやら、雑誌の人やら」
女性はひしゃくを桶に戻して、こちらに向き直った。それから、私が何も尋ねていないうちに、話しはじめた。
「夜中にね、坂の上で女の人が手ぇ挙げてはるんよ。乗せたら、行き先だけ言うて、あとは何も言わはらへん。ほんで坂を下りて、着いたと思て後ろを見たら、誰もおらへん。座席だけ、濡れてる」
淀みがなかった。言い直しも、思い出す間もなかった。順番が、初めから決まっている話し方だった。
「そのお話は、どなたから聞かれたんですか」
女性は、少し不思議そうな顔をした。
「どなたて……本に載ってますやろ」
そう言って、桶を持って店の中へ入っていった。撒かれた水が、坂の傾きに沿って細く下りていった。
駅前に戻ると、タクシーが一台だけ停まっていた。個人タクシーだった。運転手は六十を過ぎたくらいで、窓を開けて新聞を読んでいた。
坂の上まで、と言うと、新聞を畳んで前を向いた。
車は、私が歩いた道をそのまま上っていった。ゆっくりだった。対向車が来ると、どちらかが路地の口まで下がらなければならない。運転手は慣れた手つきで一度だけ下がった。
「観光ですか」
「調べものです。この町の話を」
すると運転手は、ああ、という顔をした。
「坂の上のやつですやろ」
「ご存じですか」
「そら、この町の者はみんな知ってますわ」
そして、荒物屋の女性とほとんど同じ話をした。手を挙げている女性。行き先だけを言う。着いて振り返ると誰もいない。座席が濡れている。順番も、細部も、そろっていた。
「決まりごとがありましてな」
運転手はミラーごしにこちらを見た。
「坂の上で、手ぇ挙げてはる人がおっても、停まったらあかんのです」
「停まると、どうなるんですか」
「さあ。そこまでは聞いてませんな」
数えるな、と青森では言われた。答えるな、と岐阜では言われた。一人で歩くな、と沖縄では言われた。停まるな、とこの町は言う。私は手帳を出さずに、頭の中に置いた。
「運転手さんは、乗せたことがありますか」
「わしはありませんわ」
「この町で、長く走っていらっしゃるんですか」
「三十年になりますかな。夜も走りますよ。この坂も、何べんも上ってます」
「同業の方で、乗せたという方は」
運転手は少し考えて、首を横に振った。
「聞きませんなあ」
三十年、夜の坂を上っている人が、一度も見ていない。その人が、決まりごとのほうは知っている。
「では、そのお話は」
「本に書いてありましたわ」
言い方に、隠すところは何もなかった。自分の見たものを話しているのではない、と本人が思っていない。本に書いてあることと、この町のことは、この人の中で同じ棚に載っている。
坂を上りきったところで車は停まった。運転手はメーターを倒して、待ってると言った。
降りて、道の端に立った。寺の塀と、ガードレールと、自動販売機がある。その先は下りで、屋根が重なって見える。夜になれば暗いだろうが、昼のここは、ただの坂の上だった。
手を挙げる人が立つとしたら、この自動販売機の前あたりだろうと思った。そう思ってから、自分がもう本の通りに考えていることに気づいた。
古書店は、坂の下の商店街の端にあった。杉尾書店、と白い字で書いた看板が出ている。硝子戸を開けると、紙と埃の匂いがした。
奥の帳場に、七十くらいの男性が座っていた。老眼鏡を額に上げて、こちらを見た。
「『椋坂の夜ばなし』という本は、ありますか」
男性は立ち上がりもしなかった。帳場のすぐ横の棚から、薄い本を一冊抜いて、台の上に置いた。
「これですやろ」
背表紙が焼けて、茶色くなっていた。表紙は無地に近く、題字と、坂を線で描いただけの絵がある。手に取ると、思ったより軽かった。
「よう出ますねん、この本。夏場は特に」
奥付を開いた。著者は沖田与一。発行は町内の印刷所で、刊行は十数年前になっていた。
「みなさん、この本のお話をされます」
「そら、これしかありませんもん」
男性は、そう言って老眼鏡を下ろした。
「ほかにも、この町の話を書いた本はあるんですか」
「郷土史の分厚いのはありますけどな。あれは祭りと寺の話ですわ。夜の話が載ってるのは、これだけです」
「ご主人は、ご覧になったことはありますか。坂の上で」
男性は、ふ、と息だけで笑った。
「見てたら、こんなとこに座ってませんわ」
在庫は棚に三冊あった。同じ本が並んでいるのを見るのは、古書店では珍しいことのような気がした。奥付を見ると、刷りが三度重ねられている。町の印刷所が、十数年のあいだに三度刷り直したということだった。
私は本を持ったまま、少し迷ってから尋ねた。
「沖田さんという方は、今も」
「さあ。うちは本を売ってるだけですわ」
閉じられた、と思った。だが男性は、そのあとに付け足した。
「奥付に印刷所が出てますやろ。あそこはまだやってはります」
礼を言って、代金を払った。男性は釣り銭を数えながら、帳場の奥を見るともなく見て言った。
「昔はな、みんな自分の話をしてはったんですけどね」
手が止まっていた。
「今は、みなさん、本の話をしはる」
それだけだった。私が何か言う前に、男性は次の客のほうを向いていた。硝子戸を開けて出ると、坂の上のほうから風が下りてきていた。
宿は古い旅館で、帳場に女将さんが座っていた。宿帳に名前を書いていると、上から覗き込むようにして東京の住所を見た。
「遠いとこから、ようお越しで」
鍵を渡されて、階段の下まで案内された。上がりかけたところで、女将さんが下から言った。
「夜、坂の上のほうへは行かはらへんほうがええですよ」
振り返った。
「何かあるんですか」
「手ぇ挙げてはる人がおっても、停まったらあかん、言いますからね」
歩いている私に向かって、停まるな、と言ったことになる。女将さんは自分の言葉のおかしさに気づいていないようだった。話のほうが先にあって、目の前の相手はあとから当てはめられている。
「その話は、どちらで」
「本に出てますわ。うちにも一冊ありますえ」
部屋は二階の角だった。窓を開けると、真下に路地が見えた。
畳に座って、まず本を読んだ。薄い本で、坂の話はそのうちの三ページきりだった。
うまい文章だった。読みやすくて、余分なところがない。手を挙げる女性の描写があり、行き先を告げる声の低さがあり、着いたときの座席の濡れ方まで書いてある。読み終えると、絵が頭の中に残った。荒物屋の女性が話した通りの絵で、タクシーの運転手が話した通りの絵だった。
もう一度、初めから読んだ。二度目に気づいたことがある。
この三ページには、聞き手がいない。誰から聞いた話なのかが、どこにも書いていない。何年の何月に、誰が、どこで見たのかも書いていない。話だけが、初めからその形で置いてある。
祖母のノートなら、必ず頭文字が入るところだった。――談、と書いて、その前に誰かの頭文字が入る。書けないときは、書けなかったと書く人だった。
本の前と後ろも読んだ。まえがきには、この町に伝わる話を集めた、とだけある。あとがきはなかった。集めた相手のことは、最初から最後まで一行も出てこない。
手帳を出して、書いた。
「椋坂町・一日目。聞き取り三件(荒物屋・タクシー・宿)。いずれも同一の内容。細部まで一致。出典はいずれも『椋坂の夜ばなし』(沖田与一・刊行は奥付による)。直接の目撃者、未確認。――要確認」
それから、鞄の底から祖母のノートのコピーを出した。
椋坂町のページを開いた。
日付が一つ。そのあとに、船の上で読んだ一行がある。
「京都府・椋坂町。旧市街。夜、坂の上で客を乗せたという話について、取材予定」
その下を見た。
何も書いていなかった。
次の行も、その次の行も白い。ページをめくると、また白い。数えると、四枚分だった。字が始まるのは、そのあとだ。地名が違っていた。この町ではない、別の県の名前だった。
私は、ページの白いところに手を置いた。
波名島のときは、数行あった。柊野町のときは、聞き取った相手の頭文字があった。常世谷のときは、見取り図まであった。この町には、行き先の見出しが一行あるきりだ。
祖母がこの町に来たのかどうかも、この紙からは分からない。来て、聞いて、書かなかったのかもしれない。来なかったのかもしれない。波名島で覚えたばかりの読み方は、ここでは役に立たなかった。どちらなのかを決める材料が、一行もない。
分かるのは、日付だけだった。
もう一度、本の奥付を開いて、二つを並べた。祖母がこのページに日付を書いたのは、この本が出るより十年ほど前だった。
つまり、祖母がこの町の名前を書いたとき、この本はまだ、どこにもなかったことになる。荒物屋の女性も、タクシーの運転手も、そのころは別のことを話していたはずだ。杉尾書店の男性が言ったように、自分の話をしていたはずだ。
本を閉じて、ノートのコピーの上に置いた。厚みが、まるで違った。
窓の外は、もう暗くなっていた。坂の上のほうに、灯りは見えない。自動販売機の光が、あのあたりにあるはずだと思ったが、屋根が邪魔をして見えなかった。
明日、印刷所へ行ってみようと思った。
この町には、話が多すぎる。誰に尋ねても出てくるし、活字にもなっている。それなのに、私が探している話は、まだ一つも出てきていない。
よく知られた話なら、私が来る必要はなかった。
本作の地名・人名はすべて架空です。実在の場所や事件を一対一でなぞったものではなく、各地に伝わる「型」だけをお借りしています。あくまでフィクションとしてお楽しみください。(モチーフになった噂の考察は、いずれ「都市伝説ラボ」(toshidensetsu-labo.net)のほうでも触れられたらと思っています)
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