第十一話 急がない人
目が覚めたのは、風の音が変わっていたからだった。
昨夜、窓を開けたときには、まだ何も動いていなかった。港の常夜灯が水面にまっすぐ伸びて、それだけだった。今は、フクギの葉が絶え間なく鳴っている。一枚ずつではなく、木ごと、ひとかたまりで鳴る音だった。雨は降っていない。風だけが、同じ向きから続けて吹いている。
枕元で時計を確かめた。五時半前だった。
障子を開けると、庭の物干し竿が下ろされていた。昨日の夕方には、まだ渡してあったはずだ。誰かが、夜のうちに片づけたらしい。
戸の開く音がした。部屋を出ると、台所ではもう火が使われていて、土間に和夫さんが立っていた。長靴のままだった。
「起きてたか」
朝の挨拶より先に、和夫さんは言った。
「午後の便、たぶん出んさ」
夜のうちに進路が東へ寄ったのだという。昼を過ぎれば波が高くなる。午後三時の便は、本島の側で早めに見合わせを決めるだろうと。
「朝の便は出るよ。八時に本島を出るやつ。あれは出す」
「そのあとは」
「二、三日は無理さ。こればっかりは、こっちの都合じゃないからね」
昨日までなら、そういうこともあるのだろうと思って聞いていた。今日は違った。私は今日、この島を出る予定だった。
「母さんが、あんたに先に言っとけって」
和夫さんは、それだけ言って長靴のまま出ていった。表で軽トラのドアが閉まって、エンジンの音が遠ざかっていった。風が来る前に、港でやることがあるのだろう。
私は、午後の便で島を出るつもりでいた。昼までにもう一度だけ集落を歩いて、それから港へ行けばいいと思っていた。半日が、急になくなった。
部屋に戻って、荷物をまとめた。着替えを畳んで、洗面道具を袋に入れて、鞄の口を閉めた。それから、もう一度開けた。手帳を出して、机に置いた。何か書くつもりがあったわけではない。しばらくそのままにして、それから鞄ではなく、ポケットに入れた。
船が止まれば、あと二、三日、この島にいられる。
取材は、昨日で終わっている。当人にも会った。名前も聞いた。書かないと決めた。この島で聞くことは、もう残っていない。それなのに、二、三日という言葉が、頭の中で妙な形をしていた。残る理由を、私は一つも挙げられなかった。挙げられないのに、消えなかった。
雨戸の隙間で、風の音がひと息だけ強くなった。
鞄の紐を引いて、立ち上がった。朝の便に乗る。それだけのことだった。
布団を畳んで、部屋の隅へ寄せた。二晩しかいなかった部屋なのに、畳の色も、窓の建て付けの癖も、もう覚えてしまっていた。
朝食は、魚の煮つけと、豆腐の味噌汁だった。煮つけは、一昨日の晩に出たのと同じものだった。ハルさんは向かいに座って、台風のときの停電の話をした。電気が止まると、冷凍庫の中身から先に食べるのだという。
「うちのは古い冷凍庫でね。止まったら、もたんのよ。だから、みんなで食べるの」
「みんなで、ですか」
「そう。あっちの家からも持ってくるさ。台風のあとは、どこの家もごちそうよ」
「停電、長いんですか」
「長いときは長いさ。二日も三日もね。だけど、そのうち点くよ」
ハルさんは、そう言って笑った。私が発つことについては、何も言わなかった。私がポケットから手帳を出して、鞄の内側に入れるのを、湯呑みを持ったまま見ていただけだった。
土間に降りると、ハルさんはもう履物を履いていた。
「港まで送るさ」
軽トラは、和夫さんが先に出してしまっていた。私たちは歩いた。
風は強いのに、日は差していた。空は青いところと灰色のところにはっきり分かれていて、灰色のほうが、ゆっくり広がっている。
雨戸を閉めている家があった。洗濯物を早々に取り込んでいる家もあった。植木鉢を軒の下へ寄せている人が、こちらを見て、ハルさんに何か短く言った。ハルさんも短く返した。何を言ったのかは聞き取れなかったが、台風の話なのだろうということだけは分かった。誰も慌ててはいない。
石垣の上のフクギが、いっせいに同じ向きへ葉を返している。緑が、裏側から白く見えた。風は背中から来て、ときどき私たちを前へ押した。ハルさんは押されるままに少しだけ歩調を速めて、また元に戻した。
三日のあいだに、この道は何度も通った。歩いても十分とかからない道だ。共同売店の前を過ぎるとき、中で女性が棚の飲み物を奥のほうへ動かしているのが見えた。電気が止まれば冷えないから、ということかもしれない。尋ねなかった。
道が港のほうへ下りはじめるあたりに、石垣で囲われた畑がある。うねの間に、腰をかがめている人がいた。頭に手拭いを巻いて、長袖の袖を肘までまくっている。足元には、平たい籠が置いてあった。台風の前に、取れるものを取っているのだろう。
昨夜、玄関の灯りの下で、姓と名を区切るように言った人だった。
私は足を止めなかった。声もかけなかった。
その人は、足音で顔を上げた。こちらを見て、それから、また手元に戻った。手は振らなかった。私も振らなかった。それだけだった。
畑にいるのは、あの晩の人ではない。
ハルさんは、そちらを見なかった。歩く速さも変えなかった。
坂の途中で一度だけ足を止めて、集落のほうを振り返った。赤い瓦の屋根が重なって、その向こうに、防風林の切れ目がある。あの先から、北へ抜ける道が始まっている。一昨日の昼に歩いたときは、呆気ないほど、ただの道だった。今はサトウキビが風で一方へ傾いで、遠くからでも葉のこすれる音が届いていた。
「風、強くなってきましたね」
「今日はまだ、遊んでるだけさ」
道が下りきって防風林が切れると、港が目の前に開けた。海は、集落から見るよりずっと白かった。
朝の便は、もう着いていた。舷側に古いタイヤが下げてあって、それが堤防にこすれて鳴っている。和夫さんが、発泡スチロールの箱を船から降ろしていた。
私に気づくと、箱を抱えたまま、顎で船のほうを示した。
「今日出るのが正解さ。半日ずれてたら、足止めさ」
「お世話になりました」
「なんの。荷、まだあるからさ」
そう言って、和夫さんはすぐ次の箱に手を伸ばした。荷物のほうが忙しいらしい。船が二、三日来ないのなら、この便で降ろすものは、いつもより多いのだろう。堤防には島の人が何人か出てきていて、荷を受け取る人と、それをただ見ている人が、両方いた。
ベンチには、あの男性がいた。日除け帽をかぶって、網を繕っている。この風の中でも、いつもと同じ場所だった。膝の上の網が、ときどき風でめくれ上がる。そのたびに手のひらで押さえて、また続けていた。
前を通ると、男性は網から目を上げた。私を見て、一度だけ頷いた。何も言わなかった。私は頭を下げた。日除け帽の影で、目もとがゆるんだ。それから、また網に戻った。
乗船まで、まだ少し時間があった。堤防の風下に立って、ハルさんと二人で船を見ていた。船体が、繋がれたまま上下している。
「揺れるよ、今日は」
「はい」
「酔ったら、外に出なさい。中におるより、ましさ」
しばらく、二人とも黙っていた。風の音と、タイヤの鳴る音と、和夫さんが箱を置く音だけがしていた。
一昨日の朝、ここに降りたとき、私は名乗る前に名前を呼ばれた。誰が来るのか、島はもう知っていた。あのときは、見られているようで落ち着かなかった。今日、同じ場所に立っていて、その感じはもうなかった。
私は鞄を持ち直した。それから、自分でも思っていなかったことを言った。
「また来ます」
言ってしまってから、少し驚いた。誰に頼まれたわけでもない。次に来る理由も、まだ何もない。
ハルさんは、目を細めた。
「そう」
それから、おかしそうに笑った。
「あんた、静さんより急ぐねえ」
どういう意味ですか、と聞き返そうとして、やめた。ハルさんは、それ以上説明する顔をしていなかった。何か返さなければと思ったのに、口から出たのは、ありがとうございました、という当たり前の言葉だけだった。
ハルさんは、私の腕のあたりを二度軽く叩いて、それで終わりにした。
和夫さんが手を挙げて、時間を知らせた。
タラップを上がって、船室に鞄を置いてから、もう一度出口のほうを見た。ハルさんは堤防の上に立ったままだった。手は振らなかった。この島の人は、あまり手を振らないらしい。
エンジンの音が高くなって、船が離れた。
デッキに出ると、風で髪が顔に張りついた。手すりを掴んで、島のほうを見た。
来るときは、海鳥が船と同じ速さで飛びながらついてきた。今日は、港を出てすぐに引き返していった。風のせいなのか、行きと帰りとで違うものなのか、私には分からない。
船はよく揺れた。波の上をまっすぐ進むというより、越えては落ちる、という進み方だった。デッキにいた数人が、順に中へ戻っていく。私も、しばらくしてから中に入った。
風の当たらない船室の隅に座って、手帳を開いた。三日目の分は、短くなった。
「台風接近により、午後の便は欠航の見込み。朝の便にて島を出る。本日、新たな聴取なし」
そのあとに、もう一行だけ書いた。
「当人への追加の聴取は行わない」
要確認、とは書かなかった。この一行だけは、伝聞ではない。誰かから聞いたことでもないし、これから確かめることでもない。私が決めたことだ。書いておかないと、次の土地で、私はまた同じ入口の前に立つ気がした。
鞄から、祖母のノートのコピーを出した。波名島のページは、日付が一つと、数行きりだ。島に着いた晩に読んだときは、この短さが、何も聞けなかった証拠のように見えていた。
今は、この数行の後ろに、四日か五日ぶんの時間があることを知っている。畑の話。天気の話。台風で屋根が飛んだ年の話。祖母はそれを毎日聞いて、書かなかった。
船が揺れて、コピーの端が指の下で滑った。押さえながら、私は、少し違うことを考えていた。
このノートは、祖母が見聞きしたことの記録ではない。祖母が、書いてもいいと決めた分の記録だ。
書かれていないところは、祖母が届かなかったところなのだと、私はずっと思っていた。そうではなかった。届いていて、書かなかったところが、たぶん、どのページにもある。私が読んできたのは、いつも、その分だけだった。
前のほうのページを、少しだけ戻って眺めた。文字の数は、昨日までと一つも変わらない。それでも、同じ紙が、違う厚みを持っているように見えた。
ページを繰った。波名島の記述のあとにも、白いページが何枚か続いている。前にも同じものを見た。何日ぶんなのか、そこに何もなかったのか、この紙からは分からない。空白は、空白のままだった。
その先で、また文字が始まる。
「京都府・椋坂町。旧市街。夜、坂の上で客を乗せたという話について、取材予定」
行く先と、聞くべきことの見出しだけ。あとは何も書いていない。前に同じ書き方を見たときは、現地に行くまでは書けないからだろうと思っていた。今は、少し違う気もする。この人は、書くのはいちばん後でいいと思っていた人だ。
坂の上で客を乗せた、という一行を、もう一度読んだ。乗せた、とは書いてある。降ろした、とは書いていない。
椋坂町がどこにあるのか、私は知らない。旧市街というのだから、坂の多い、古い町なのだろう。夜、その坂の上まで行く用のある人が、どれくらいいるのかも分からない。今のところ、分かるのは、それだけだった。
コピーを閉じて、鞄の底に入れた。本島に着いたら、宿を探して、乗り継ぎを調べる。それからでいい。
船室にいるのは、私を入れて数人だった。段ボール箱を足元に置いた年配の女性が、揺れに合わせて、箱を膝で押さえている。来るときにも、よく似た人が乗っていた。あのときは、荷物をちらりと見られて、小さく会釈をされた。今日は、誰も私を見なかった。この船に乗っている人たちにとって、私はもう、島から出ていくだけの人だった。
デッキに戻ると、島はもう、水平線の上の低い緑になっていた。来るときに初めて見たときと、同じ大きさだ。
これから、あそこに雨と風が来る。共同売店の女性は笑って停電の話をするのだろうし、ハルさんは冷凍庫の中身から先に食べるのだろう。畑の人は、今朝のうちに取るものを取っていた。誰も慌ててはいなかった。
あんた、静さんより急ぐねえ。
意味は、たぶん、分かっている。私は名前を聞いた次の日の朝に船へ乗って、もう次の町の名前を読んでいる。祖母は、帰る船の時間になっても腰を上げない人だった。四日も五日もいて、書いたのは最後の日に少しだけだった人だ。
急がない人になるには、まだ何年かかかりそうだ。
緑は、少しずつ低くなっていった。海鳥は、もういない。空はまだ半分が青くて、風だけが、先に来ていた。
本作の地名・人名はすべて架空です。実在の場所や事件を一対一でなぞったものではなく、各地に伝わる「型」だけをお借りしています。あくまでフィクションとしてお楽しみください。(モチーフになった噂の考察は、いずれ「都市伝説ラボ」(toshidensetsu-labo.net)のほうでも触れられたらと思っています)
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