第十話 二人なら
島の朝は、私が起きるよりずっと前に始まっていた。
目を覚ますと、障子はもう白かった。時計は六時にもなっていない。それでも表では軽トラのドアが閉まる音がして、鶏が鳴き、港のほうから船のエンジンをかける低い音が届いていた。
朝食を済ませて外に出た。日はもう高く、潮の匂いが昨日より濃い。歩きながら、昨夜決めたことをもう一度確かめた。
今日は、あの話をしない。
名前も、なぜ誰も言わないのかも、自分からは尋ねない。イニシャルを手がかりに姓を尋ねて回るのはやめると決めたのに、別の入口から同じものを取りに行くのなら、やっていることは何も変わらない。
だから今日は、島の暮らしの話だけを聞くことにした。
港では、朝の便が着いたところだった。和夫さんが発泡スチロールの箱を軽トラに積んでいる。小さいほうを運びながら話を聞いた。島の予定はぜんぶ船に合わせて組まれること。診療所に医者が来るのも船の日で、その日は年寄りが集まること。
荷台に縄をかけ終えて、和夫さんが手を止めた。
「あんた、昨日じいさんに何か聞いてたろ」
ベンチの男性のことだ。
「聞きましたけど、途中でやめてもらいました」
和夫さんは縄の端を結び直しながら、少し黙っていた。
「言わんのは、別に決まりでもなんでもないさ」
「言えば、その日のうちに本人に届くからね。この島は、そういう広さだから」
それだけ言って、和夫さんは運転席に乗り込んだ。
軽トラが走り去ったあと、私は堤防に立っていた。
作法でも、優しさでもなかった。距離の問題だ。二百人の島では、よそ者に名前を渡すのは、本人に向かってそう言うのと変わらない。その名前は夕方までに当人の耳へ届く。だから言わない。理屈としては、それで通る。
ただ、それだけでは説明しきれない。距離の問題なら、言う必要がない、で済むはずだ。けれど昨夜、ハルさんははっきり言った。言わんことにしてるんよ、と。あれは、言わずに済んでいるという言い方ではない。決めている人の言い方だった。
午前のあいだは、集落を歩いた。
昨日と同じ道のはずなのに、目に入るものが違った。表札のある家がほとんどないこと。代わりに、玄関の脇に、墨の薄れた木の札が打ちつけてある家がいくつもあること。名字ではなく、その家の呼び名らしかった。分校の門柱に、錆びたインターホンが残ったままであること。
昨日は、島を見ていた。今日は、家を見ている。
共同売店で麦茶を買った。台風が近いのだという。進路によっては二、三日船が止まると、店番の女性は笑った。私は噂の話をしなかった。女性のほうも、しなかった。
昼を過ぎて港へ戻ると、あの男性がベンチにいた。昨日と同じ日除け帽をかぶって、昨日と同じように網を繕っている。私は隣に腰を下ろして台風の話をした。船が止まるかもしれないと言うと、男性は空を見上げて「まだ来んよ」と言った。それから、二人とも黙って海を見ていた。
十分ほどして、私は礼を言って立ち上がった。
「昨日は、悪かったな」
背中のほうから声がした。男性は網から目を上げずにいた。
「言いかけて、やめて」
「いえ」
「あれはね」男性は、網の目に指を入れたまま言った。「あの人が、自分で頼んだのさ。名前を出さんでくれ、って」
「あの人が、ですか」
「そう。誰かが決めたんじゃないよ。本人が、そう頼んだのさ」
「なぜですか」
男性は少し考える顔をして、それからこともなげに言った。
「さあ。聞いてないさ。頼まれたから、そうしてるだけよ」
「頼まれてから、二十年以上ですよね。誰も理由を聞かないまま、ですか」
「聞く必要がないさ」
男性は、ようやく顔を上げた。日除け帽の影で、目が細くなった。
「頼まれたことは、頼まれたことよ」
また網に戻った。話は、それで終わりだった。
突堤の先まで歩いて、私はコンクリートの縁に座り込んだ。
島が伏せているのではなかった。本人が伏せていたのだ。
昨夜、私は姓を尋ねて回るのをやめると決めた。島が伏せているものを裏から取りに行くことになるから、と思った。その理由は半分しか合っていない。伏せているのは島ではない。島は、頼まれたことを、理由も確かめないまま二十年以上守っているだけだ。
それなら、なおのこと、私からは行けない。行き止まりだった。それでも、思ったより嫌な気分ではない。祖母は、ここに何日いたのだろう。
宿に戻ると、台所から油の跳ねる音がしていた。手を洗って居間に入ると、ハルさんが振り向きもせずに言った。
「あんた、今日は何も聞かんかったね」
日はまだ残っている。私が誰に何を聞かなかったかまで、この島では半日で伝わるらしい。
「聞かないことにしました」
菜箸の音が止まった。ハルさんが、こちらを向いた。
「なんで」
「あれは、その人が自分で伏せていることだと分かったので」
「うん」
「まわりの人から取ってきたら、順番が違う気がして」
ハルさんは、しばらく何も言わなかった。私の顔を見ているのに、私を見ていないような目だ。それから前掛けで手を拭き、火を止めた。
「ちょっと待っといて」
サンダルをつっかけて、ハルさんは表へ出て行った。
一人になって、庭のほうを見た。日が落ちかけている。低い石垣の向こうに、屋根が一つ見える。瓦の色がまだ濃い家だ。昨夜、ハルさんの目が一瞬だけ動いた先には、たぶんあれがあった。たぶん、としか言えない。確かめたわけではない。
十五分ほどで、ハルさんは戻ってきた。前掛けを外し、上着を羽織っている。鍋に蓋をして、こちらを見た。
「ごはんは、帰ってからね」
「行こうか」
「どこへ」
ハルさんは答えずに、私のサンダルを揃えて、こちらへ寄せた。
「私が言うわけには、いかんからね」
そして、笑った。
「二人だから、大丈夫さ」
暮れたばかりの集落を、二人で歩いた。
島に来て初めて、私は夜の外にいた。街灯は少ない。電柱に一つ、また少し先に一つ。集落の外れで灯りが尽きて、その先には何もない。道の続きだけが黒く残っている。ハルさんは、そちらへは足を向けなかった。
三分ほどで、その家に着いた。庭に低い石垣があって、フクギが二本、風よけに立っている。
戸を叩くと、すぐに開いた。出てきたのは、五十代の半ばくらいに見える女性だった。日に焼けていて、白いものの混じった髪を短くまとめている。
「上がりなさい」
それだけで、女性は先に奥へ入っていった。ハルさんは、その人の名前を一度も呼ばない。通された座敷で湯呑みが三つ置かれ、ハルさんは縁側に近いほうへ座って、口を開かなかった。
私は名乗った。祖母が記者だったこと。ノートにこの島のことが書かれていたこと。コピーを出そうとすると、女性は手で制した。
「静さんの、孫さんね」
「はい」
「顔が、似てるねえ」
女性は、そこでようやく笑った。
「あの晩のことは、どこまで聞いた」
「後ろから足音がついてきて、走っても離れなかったと」
「うん。それだけよ。集落の灯りが見えるとこまで来たら、ふっと止んだ」
「振り返らなかったと、聞きました」
女性は、少しのあいだ庭のほうを見た。
「振り返らんかったのは、怖かったからじゃないよ。振り返ったら、走れんようになると思ったのさ」
私は、ペンを止めた。
「今も、あれが何だったかは分からんよ。見てないんだから」
見ていないものを、この島の人たちは二十数年、語り継いできた。語り継いだ誰一人、見ていない。
「そのあとがね。島の人が、みんな親切になったのよ」
夜、集落で用事があれば、必ず誰かが北側まで送ってくれた。頼まなくても、誰かが立ち上がる。
「一人で歩くな。二人なら来ない。あれね、あのあとにできたのよ。昔からあるみたいな顔してるけどね、違うの」
手帳の余白に、その一行を書いた。昨夜、ハルさんが玄関で私に言ったのと同じ決まりだ。昨夜の私は、それを言い伝えだと書いた。二十数年前にできたものを、昔からあったものだと思って書いていた。
「みんなが、私のために決めたことよ」
「悪い人は、一人もおらんかったよ。ほんとうに、一人もね」
少し、間があった。
「だけどねえ。誰と話しても、しまいには、あの話になるのさ」
畑で会えばあの話。売店で会えばあの話。法事の席でも誰かが持ち出す。
「悪気はないのよ。心配してくれてるの。だけど、こっちは毎日そうだから」
子どもが指をさすようになった。親がそう話すのを聞いて、覚えただけだ。
「本土から人が来るたびに、私の名前が出るのよ。あんたみたいな人がね」
女性は、言葉を切った。
「私はね。畑もするし、子も育てたし、いろんなことをしたのよ。だけどこの島で、私は、あの晩の人だったのさ」
青森では、誰も彼もが口をつぐんだ。触れないのが作法で、黙って遠ざけるのが親切だった。私はそれを、来る者を案じる優しさだと受け取って、そのつもりで土地を出た。
けれど、あのとき遠ざけられていたのは、何日かで出ていく私だった。ここでは同じものが、どこへも出ていかない人に、毎日向けられている。
「それでね。北の家を引き払って、こっちへ来たのよ。空いてた親戚の家をね、譲ってもらった」
集落に移れば、夜にあの道を歩く用事はない。畑へ行くのは昼だ。
「それから私は、あの道を夜に歩いてないよ。一度もね。だからさ」
女性は、なんでもないことのように言った。
「出んようになったんじゃないよ。歩く人が、おらんようになっただけさ」
「名前のことも、そのころよ」
女性は、湯呑みに手を伸ばして、そのまま持ち上げなかった。
「島の集まりで、一度だけ頼んだのよ」
公民館の寄り合いだったという。会計の報告が終わったあとで手を挙げて、名前を出さないでほしいと言った。理由は言わなかった。誰も聞かなかった。
「そしたら、みんな、ぴたっと言わんようになってねえ」
女性はそこで、少しおかしそうな顔をした。
「二十年以上よ。おかしいもんだねえ。私が頼んだのは、あの日一度きりよ。次の日には忘れてくれてもよかったのに。みんな、まじめなのよ。今でも守ってるの」
その笑い方には、恨みも、悲しみもなかった。ただ、少し呆れているようだった。
「祖母は、この島のことを、数行しか書いていないんです」
「そうねえ。ノートは、ほとんど開かんかったよ。あの話を聞いたのは、一回きりさ。私が話して、それでしまい。あとはずっと、別の話よ」
畑の話。天気の話。台風で屋根が飛んだ年の話。これからどうするのかという話。祖母は毎日のように来て、帰る船の時間になっても腰を上げなかった。
「何日おったかねえ。四日か、五日か。書いたのは、たぶん最後の日に少しだけさ」
女性は、私の顔を見た。
「私をね、あの話の人として扱わん人は、あの人が初めてだった」
その一言で、ノートの短さの理由が分かった気がした。書くために聞いたのではない時間が、この島には四日か五日ぶんあって、そのうち書いていい分が数行だったのだ。
帰り際、玄関で靴を履いていると、女性が言った。
「あんたも、聞かんかったねえ。一日、誰にも聞かんかったって。聞いたよ」
私は思わずハルさんを見た。素知らぬ顔で外の暗がりを見ている。この島の話の速さには、もう驚かないことにした。
「だから、言うわ」
そして女性は、玄関の灯りの下で、姓と名を、区切るようにゆっくり言った。
私はそれを、口の中で一度だけ繰り返した。手帳は開かなかった。
島に来てから、姓を名乗った人は、この人だけだった。ハルさんの姓も、和夫さんの姓も、私はいまだに知らない。この島では、その必要がない。
「書いてくれとも、書かんでくれとも、言わんよ」
女性は、少し笑った。
「好きにしなさい」
帰り道、ハルさんは何も聞かなかった。何が話されたのかも、私がこれからどうするのかも。宿の灯りが見えたところで、一度だけこう言った。
「二人だから、大丈夫さ」
遅い夕食をいただいてから、自室に上がって、手帳を開いた。
「当人より直接聴取。二十数年前の夜半、集落より北側の自宅へ帰る途中、後方より足音が近づいたとの由――談。当人は振り返っておらず、姿は不明。以後、島の者が夜間の付き添いを申し合わせ、『一人で歩くな、二人なら来ない』との決まりが生じた由――談。古い言い伝えではなく、この一件のあとに作られたものとの由。当人、のちに港の集落へ転居。以後、夜間に当該の道を通っていない由。氏名を伏せるよう申し出たのは当人自身。理由は誰も聴取していない由」
最後の行の前で、ペンが止まった。名前を、どう書くか。
手帳を伏せて、祖母のノートのコピーを開いた。波名島のページの、最後の一行。
「T・K氏(女性、当時二十代)より直接聴取」
二文字は、合っていた。祖母も、姓と名の頭だけを残して、あとは書かなかった。
手帳を起こして、こう書いた。
「氏名は聴取した。記載しない」
柊野町の宿でも、私は手帳の最後によく似た一行を書いた。あのとき気づいたのは、書かなかったことと聞けなかったことが、紙の上では同じ顔になってしまう、ということだった。今夜の一行は、その顔を、私が自分の手で作った。
窓を開けた。風はまだ来ていない。港の常夜灯が、水面に細く伸びていた。
もう出ない、とこの島の人は言う。街灯がついたから。北側に人がいなくなったから。どちらも本当だ。今日、そこに三つ目が並んだ。あの道を夜に歩いていた人が、集落へ移った。三つとも違うことを言っているつもりで、同じ一つのことを言っている。終わったのかどうかは、誰も知らない。確かめた人が、いないだけだ。
一人で歩くな。二人なら来ない。
その決まりを作らせた出来事は、もう誰も通らない道の上に置き去りになっている。昨夜、私はその決まりに止められた。今夜は、その決まりに連れられて歩いた。決まりのほうだけが、あの人の手を離れて、まだこの島に残っている。
本作の地名・人名はすべて架空です。実在の場所や事件を一対一でなぞったものではなく、各地に伝わる「型」だけをお借りしています。あくまでフィクションとしてお楽しみください。(モチーフになった噂の考察は、いずれ「都市伝説ラボ」(toshidensetsu-labo.net)のほうでも触れられたらと思っています)
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