第8話 リディアが黙った理由
返事は、二日で来た。
窓口に預けられた封は、前回と同じく薄かった。紙は一枚。
――伺います。前と同じ条件で。それと、控えは私が読んでから残してください。
「条件が増えましたね」
ミロが言った。
「減らされるよりいい。読ませるつもりだった」
クラウスは面談室の扉を外から留め、開け放した。再照会の文面にも、応じるかどうかは本人が決めてよいと書いてある。前回の控えを、本人の目の前以外で直さないことも。
リディアは、刻限ちょうどに来た。戸口にいちばん近い椅子に座り、扉の幅と窓の位置を先に見た。それから机を見た。今日は、紙が一枚も伏せられていない。
「見せる紙は、ないんですね」
「今日は、先に伝えることが一つと、聞くことが一つある」
「伝えるほうから」
ミロは隅で筆を持ったまま、動かなかった。
「マティアス・レーマン殿に聴取した。彼の事情は伝えない。ただ、調べに必要な一点だけ、本人の説明として伝える」
「一点」
「彼は、八年間訂正しなかった理由に、特別加算を挙げた。英雄の認定を根拠に、通常の補償とは別に、竜災の遺族へ上乗せされているものだ。訂正すれば止まるのか、返せと言われるのか、減るのか。彼はそれを恐れていた。ただし、これは彼の説明だ。制度の上でどうなるかは、私はまだ確認していない」
リディアの手が、膝の上で一度だけ組み直された。
「驚いたとは言いません。知っていた、とも言いません」
「分かった。聞くことを言う。八年、あなたはなぜ、訂正を求めなかった」
言い終えて、クラウスは筆を取った。リディアは、その手を見ていた。
「その聞き方には、前提がありますね」
「前提」
「名誉を奪われた人は、取り戻したがるものだ。だから、八年の沈黙は説明を要する。あなたの問いは、その形をしています。私が被害者なら、訂正を望むはずだと」
ミロの筆が止まりかけて、また動いた。
「……そう組んでいた。否定しない」
「訂正は、誰のためのものですか」
「あなたの名誉のためだ」
「私が訂正を求めたとして、その後、誰が何を負担するか。考えましたか」
「考え始めたのは、マティアス殿の話を聞いてからだ。それまでは、記録を正す側からしか見ていなかった」
「正直ですね」
責める声ではなかった。順序を取り戻した人の声だった。
「では、私から答えます。全部ではありません。順に話します」
「聞く」
「私が自分の名誉を公に求めれば、あの日、竜へ向かった者が誰だったのかが、改めて調べられます。その場でまとまった、十一人です。名前、位置、何をしたか。死んだ人、傷を負った人。全員が、再調査の机に載ります」
クラウスは頷いた。
「その人たちの死傷には、遺族がいます。通常の補償も、特別加算も、暮らしに結びついている。調べ直しの途中で、それがどう扱われるのか。止まるのか、返せと言われるのか、何も起きないのか。私には分かりませんでした。確かめる方法も、ありませんでした」
「止まると、確定していたわけではない」
「していません。していないから、怖かったんです。確かめようと動けば、動いたこと自体が目に付く。その先で誰が何をするか、私には読めませんでした」
人の表情を読むのが得意な人間が、読めない相手を前に立っていた。クラウスはそう思ったが、口にはしなかった。推測だ。
「だから、私の名誉は、いらないと決めました。奪われたのではなく、手放したんです。同じに見えても、違います」
「あなたが決めた」
「はい。誰にも言われていません」
リディアは、膝の上の鞄に手を置いた。開けはしなかった。
「十一人の記録は、手元にあります」
クラウスの筆が止まった。
「名前。当日、どこにいたか。何をしたか。誰が傷を負い、誰がどうなったか。私が、自分で書きました。八年、書き足して、書き直さずに持っています」
「今日、全文は求めない」
「求めないんですか」
「求めない。ただ、先に線を引いておく。それはあなたが作った私的な記録で、あなたの証言の一部だ。軍や補償の記録と照合するまでは、それだけで事実を確定させる材料にはならない」
「分かっています。私が書いたものは、私が書いたものです。だから、あなたの帳簿と突き合わせる意味がある。私の紙だけが正しいと言うつもりなら、八年、持ち続けた意味がありません」
「なぜ、手元に置いた」
「出せば、手を入れられるかもしれないからです。散らばるかもしれない。名前が別の綴りに混ざって、誰のものか分からなくなる。そうなる前に、元の形のまま持っている人間が、一人要ると思いました。必要な時に、事実へ戻せるように」
クラウスは、在所欄から拾った五つの名を追い、軍の記録で行方が途切れた三人を思い出した。だが、それを今の十一人に重ねる材料はない。
「こちらの確認を、必要な分だけ言う。軍の記録の一部は、後から整えられている。補償の支給簿に、痕跡の残る名もある。どれも、あなたの十一人とは、まだ照合していない。同じ人かどうかは言えない」
「言わないでください。私も、今は言いません」
「記録を整えた命令の出どころを、あなたは」
「知りません。変えられていると聞いて、驚かなかった。それだけです」
リディアは、顔を上げた。
「前回、名前を出さなかった理由を、不信だと思っていたでしょう」
「そう取れる、とは思っていた」
「半分は、見ていたんです。調査所に、訂正と補償の保護を、両方やる気があるのか。やる手順を持っているのか。一度、行政の記録に載った名は、載った本人だけの話では済みません。遺族の暮らしも、残された名誉も。載せてしまえば、取り消せない」
クラウスは、すぐには答えなかった。
「あなたの選択を、全面的に正しいとは言わない。言えば、あなたを都合よく使うことになる」
「どうぞ」
「あなたが黙ったことで、誤った英雄像と、あなたへの脱走の記載が、八年固定された。その間、当日の別の事実を確かめる機会も、塞がった。人が死んだ場所の記録を、直す機会も」
「はい。それは、払いました」
リディアの声は、揺れなかった。
「八年先まで見通していたわけではありません。出そうと思った夜は、何度もあります。そのたびに、今年も出さない、と決め直しただけです」
「その決め直しが、八年続いた」
「そうです」
「そして」
クラウスは、机の脇から控えの紙を一枚引き寄せた。昨夜書いた順序が、そこにある。リディアの証言の確認、十一人の特定、軍の記録との照合、報告書への訂正事項。
「補償への影響を確かめないまま、名誉の回復だけを進めれば、十一人と遺族を、もう一度手段にする。それも、私は認める」
彼は最後の行に線を引き、一番上へ移した。
「順番を変える。先に、通常の補償と特別加算が、それぞれ何を根拠に払われているか。訂正が、そこへ及ぶのか、及ばないのか。及ぶなら、給付を壊さずに事実を直す道があるのか。調べるのは、それが先だ。十一人の記録は、今は出してほしいと言わない」
「後では、言うでしょう」
「そのときは、あなたが出す範囲を選べる形にする。全部でも、一部でも、出さなくてもいい。出さない場合に、こちらで何が足りなくなるかは、正直に言う」
リディアは、しばらくクラウスを見ていた。
「全部を協力するとは、約束しません」
「求めない」
「あなたが、補償と名誉を、別々の帳簿として扱えるか。片方を直すために、もう片方を手段にしないか。それを見ます。足りなければ、次は話しません」
「それでいい」
クラウスは筆を取り、一度、置いた。
「一つだけ、今日聞いておく。その記録は、いつから始まっている。竜が来てからか」
リディアの指が、鞄の留め具の上で止まった。
「来る前からです。持ち場に着いた時から、書いていました」
「何を」
「監視所から警告が出たらしい、という話です。誰が言い出したかは、覚えていません。伝令の口からか、誰かが聞いてきたのか。ただ、私たちは、警告が上に届いている前提で動きました。届いているなら、後方が動く。持ち場を決めたのは、それが理由です」
「届いていたのか」
「私には言えません。出たらしい、までです。当日、崩れたのは突然だったように見えて、そうではなかったのかもしれない。私が言えるのは、そこまでです」
クラウスは、そのまま書いた。
――リディア・セルンの証言。迎撃の前に、監視所から警告が出たらしいと聞いた。警告が上に届いている前提で動いた。出たか否か、送信、受領、宛先、時刻は未確認。
「送信側の控えと、受けた側の受付簿。両方を当たります」
ミロが、小さく言った。
「そうだ。彼女の記憶だけでは決めない」
控えを読み終えたリディアは、一箇所を指で押さえた。
「『十一人の記録を保持している』を、『保持していると述べた』に。見せていないものを、あったことにしないでください」
「直す」
クラウスが書き換えるのを、彼女は最後まで見ていた。それから立ち上がり、襟を直した。扉は開いたままで、廊下の光が床に伸びている。
彼女が去ったあと、ミロが言った。
「黙っているだけの人だと、思っていました」
「黙ることと、守ることは、紙の上では同じ空白になる」
クラウスは、控えの最後の行を閉じた。
八年分の空白の下に、一人分の手で書かれた、十一人の記録があった。
彼女は諦めていたのではない。
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次回は明日19:10に更新予定です。
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