第5話 消された名前
面会の翌朝、クラウスは机の中央に何も広げなかった。置いたのは昨日の控え一枚だけだ。見出しは「リディア・セルンと名乗る人の証言」。その下に四行ある。
「この四行は、まだ記録の外にあります」
ミロが言った。
「そうだ。証言は証言として置く。ただ、彼女が言ったことが、既にある記録のどこかに触れていないかは確かめられる。証明のためではなく、探す場所を決めるために」
クラウスは谷の在所欄を開き、最初の資料確認で印だけつけて後回しにした行を拾い出した。叙勲とも戦死とも結びつかず、確認の印が付かないまま残っていた行だ。五つあった。
「十一人には足りません」
「足りなくていい。これは十一人の候補ではない。配されるはずだった者と、実際に集まった者は別だと、本人が言った」
「じゃあ、何なんです」
「当日の、別の記録を探す入口だ。この五つの名が、軍の帳簿のどこに出て、どこで途切れるか。途切れ方を見る」
最初に開いたのは戦闘詳報だった。谷で動いた部隊の参加者と損耗を、戦闘のあとで上がまとめる文書だ。ミロが五つの名を、参加欄、損耗欄の順に指で追っていく。
「一人目、参加欄にありません。損耗欄にも」
「戦没者名簿は」
「ありません。二人目も、三人目も」
ミロの指が止まった。
「残りの二人は、参加欄にあります。生還の欄で、帰還後の勤務の記録までつながっています」
「その二つは外す。説明がついた」
五つのうち三つが残った。クラウスは兵籍へ移った。人事の側から見れば、戦闘詳報とは別の理由で名が載る。
一人目の所属欄には「編成替」とだけあった。移った先の隊名は書いてある。ミロがその隊の名簿を引いたが、名はなかった。
「二人目は、所属欄が空白です。その後の記載もありません」
「空白の前に、何か消した跡は」
「ないです。最初から書かれなかったのか、あとで空いたのか、紙の上では見分けがつきません」
三人目の行には、事由が書かれていた。
――竜災当日。後送先の救護所にて病没。
クラウスは三行を並べ、しばらく眺めた。
「転記の漏れかもしれない。編成の変更が、どこかで書き損じられただけかもしれない。誰かが意図して外した可能性もある。三つとも、この紙からは言えない」
「でも、戦闘の記録からは、三人とも追えなくなってます」
「軍の、この系統では、だ」
戦闘詳報、戦没者名簿、兵籍。名が途切れるたびに別の帳簿へ当たり直し、三度とも同じところで切れた。ミロは索引帳を閉じ、何かを考える顔になった。
「軍のこれらの帳簿は、何があったか、誰がどこにいたかを残すために付けています。戦果や名誉の根拠にもなる。でも、死んだり怪我をしたりした人には、もう一本、別の帳簿が走っているはずです」
「何だ」
「補償の支給簿です。竜がどうだったかは関係ない。誰に、どういう理由で、払ったか。それだけを残す帳簿です。払ったことは受け取った側にも残りますから、軍の都合では動かしにくい。……と言いたいんですが、動かせないとまでは、まだ言えませんね」
「言えない。だが、保存の目的が違う帳簿に当たる価値はある」
クラウスは請求書を書いた。竜災の年の公務戦死・負傷の補償について、功績の根拠に関わる範囲で、五つの名の行に限った閲覧。調査所にできるのは、そこまでだ。
三日後、軍の経理の閲覧室で許されたのは、立会い付きの閲覧と、請求した行の控えだけだった。写しは出ない。それでも、断られなかった。
支給簿は厚く、背の色が褪せていた。五つの名を引くのに、午前がかかった。
生還した二人は、通常の給与簿に収まっていて、補償の行はない。当然だ。
「一人目に、あります」
ミロが頁を押さえた。
氏名。所属隊。区分は「公務上の負傷」。一時給付、処理済。日付は竜災当日だった。
「兵籍では編成替だった人です。負傷の記載は、どこにもなかった」
「支給簿が示すのは、この人物が公務で負傷し、給付が処理されたことまでだ。どこで、何によってかは書かれていない。十一人の一人だったかどうかも、竜に向かったかどうかも、ここからは出ない」
「二人目は……行がありません。ここにも」
「ない、というのも記録だ。補償に痕跡のない者がいる。これも控えておく」
ミロは三人目の名を引いた。頁を繰る手が、途中でゆっくりになった。
「あります」
声が低くなっていた。
「クラウスさん、これ」
氏名。所属隊。死亡の日付は、竜災当日。区分は「公務上の戦傷死」。受取人の欄は処理済で、支給の印がある。
クラウスは自分の控えを横に置いた。兵籍の写しには、「竜災当日。後送先の救護所にて病没」とある。
「氏名は同じだ。だが、同じ名の別人かもしれない」
「兵籍の索引で、同じ綴りの名を探しました。もう一人いますが、別の隊で、死んだ日も違います」
ミロは兵籍の写しと支給簿の控えを並べ、指で項目を一つずつ押さえた。
「所属隊が同じ。死亡日が同じ。谷の在所欄の持ち場の符号も、この人の行と合います。名前だけで結んでいるわけじゃありません」
「そうだな」
二枚の紙には、同じ死が書かれている。ただし、死に方が違った。兵籍は病没と書き、支給簿は戦傷死と書く。
「どちらが正しいとは言わない。後送先で傷が悪化することも、病で倒れることもある。ただ、同じ人物の死因が、二つの記録で一致していない。それは、確かだ」
調査所へ戻る道で、ミロが言った。
「消されたんですね、あの人たち」
「消えている、までだ」
クラウスは歩調を変えなかった。
「軍の一つの系統で、当日の戦闘との結びつきが追えなくなっている。補償には、少なくとも二人に痕跡が残っている。うち一人は、死に方が記録の間で違う。分かっているのはそこまでだ。誰が、いつ、何のために、は何も出ていない」
「リディアさんが名前を言わなかったのは、こういうことを知っていたからでしょうか」
「推測はしない。彼女が決めたことだ」
ミロは頷いて、少し間を置いた。
「この三人は、十一人に入るんでしょうか」
「分からない。五つの行は、配置簿の在所欄から拾っただけだ。配されていた者と、実際に集まった十一人が、どう対応するのか。まだ取れていない。十一人の全員も、特定できていない」
「じゃあ、次は」
「記録を作った者に会う。戦闘詳報や兵籍の整理に、署名を残した担当がいるはずだ。どの綴りを誰が閉じたのか、綴じ目から探してくれ」
「署名欄ですね。分かりました」
事務所の机に、二枚の控えが並んだ。同じ名で、同じ隊で、同じ日に死んだ男が、一方では病で、一方では戦の傷で死んでいる。
同じ死者が、二つの記録で、違う死に方をしていた。
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次回は明日19:10に更新予定です。
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