第3話 竜の斃れた場所に名を残す脱走兵
氏名の欄には、はっきりした字でこう書かれていた。
――リディア・セルン。
クラウスは指を離さないまま、右隣へ目を移した。区分は「軍属魔術師」。本隊の編成番号を書く欄は空白で、持ち場の欄に「谷中ほど・東岩棚下」とある。状況欄が、昨日見た一語だった。
「軍属って、軍人とは違うんですか」
「軍に雇われて働く民間の者だ。兵と同じ持ち場に立つが、名簿の綴りは別になる。この欄が空白なのはそのせいだろう」
ミロは頷いてから、声の調子を上げた。
「でも、これでほとんど決まりじゃないですか。竜の倒れた場所にいて、英雄譚には名前がなくて、しかも脱走兵。マティアス殿が倒していないなら、この人が――」
「その場所に配される予定だった、という記録だ」
クラウスは頁を一枚ずつ戻して、同じ持ち場の符号が並ぶ行を拾った。「谷中ほど・東岩棚下」には、セルンのほかにも名がある。
「配置簿が言えるのは、予定までだ。同じ持ち場に、複数の名がある。当日そこにいたのか、竜を倒したのが誰なのかは、この頁からは出ない」
「じゃあ、どうやって絞るんです」
「絞る前に、この名が別の目的の記録に出てくるかを探す。配置簿は、配置を決めた側が書いたものだ。当日、谷で何かが動いた痕跡が要る。照会できるのは、功績の根拠に関わる記録までだ。軍が機密を理由に断れば止まる。止まったら別の系統を探す」
「別の系統なら、僕の領分です」
ミロは木箱の底から、配置簿の付録の二冊目を引き出した。昨日の部隊日誌の抜粋は、その原簿から一行だけを写したものだったという。
「同じ綴りに、通信受領の控えがあります。谷口の部隊が、周りの持ち場とやり取りした分です。受け取った側が時刻と相手を必ず書く決まりで」
該当の頁は、午後の手前にあった。
――午後一時十分。谷中ほどより伝令。リディア・セルン名の口上。「竜、街道を南下中。当方は持ち場を動かず」。
クラウスは行を二度読んだ。
「竜が斃れたのは、遅くとも二時二十分。その一時間ほど前に、中ほどの持ち場から、この名義で連絡が出ている」
「竜の進路を知らせて、動かないと言ってるんですね。逃げる人の連絡には見えません」
「それは読む側の印象だ。書かれているのは、中ほどの持ち場から彼女の名で口上が届いた、ということだけだ。本人が口にしたのか、誰かが代わりに言ったのか。伝令が運んだ言葉が、どこまで原文なのか。この控えからは分からない」
ミロの顔が、少し曇った。
「名前を借りて出せる、ってことですか」
「出せないとも言えない、というだけだ。決めつけるのは、確かめた後でいい」
谷中ほどからの通信は、その一件を最後に途切れていた。理由は、この簿冊からは分からない。分からないことは、そのまま残す。
「次は場所だ。竜が実際に倒れたのは、中ほどのどこか。部隊日誌も急報も、地点までは書いていない」
ミロは目を閉じて、保存分類を頭の中でめくった。
「竜の死骸は街道に横たわったはずです。放っておけば荷馬車が通れない。撤去の前に、街道保守の側が位置を測って記すはずです。輸送の分類の中の、街道の保守です。請求がまだ出ていません」
「出してくれ。それと、軍属の除籍の記載がどこにあるかも」
「軍人の分とは別の人事簿です。懲戒は別に残ります。ただ、除籍の決裁書そのものは軍務の別綴りで、断られるかもしれません」
「簿冊に決裁の番号があれば、まずそれでいい」
翌日の午後、請求分が同じ箱で届いた。
街道保守の簿冊は、事務的な綴りだった。竜災の年の街道の寸断箇所が、里程標ごとに並んでいる。谷の中ほどの項に、短い記載があった。
――大型の死骸一。谷中ほど、東の岩棚の下。頭部は北向き。街道を半ば塞ぐ。撤去は部位を分けて搬出。
誰が倒したかは、一語も書かれていない。この簿冊が気にしているのは、荷馬車が通れるかどうかだけだ。
「谷口の部隊の持ち場は、ここではありません。入口寄りです」
ミロが配置簿の別の行を指で押さえた。
「死骸の記載と同じ『東岩棚下』を持ち場にしていたのは、この区画だけですね」
「ああ。ただし、配されていたのはセルン殿だけではない」
クラウスは三つの記録を並べた。
「配置簿は、彼女がその持ち場に配される予定だったこと。通信受領簿は、竜が斃れる前に、その持ち場から彼女の名で『動かない』という口上が届いたこと。街道保守簿は、死骸がその持ち場と同じ『東岩棚下』の区画で見つかったこと。書いた目的は三つとも違う。互いに相手を知らずに書かれている」
「そろうと、かなり強いですよね」
「強い。だが強いのは、三つの記録が同じ区画を指しているというところまでだ。彼女がその場にいたのか、竜と向き合ったのか、誰が致命傷を与えたのか。本人か、同じ持ち場の者か、別の記録が要る」
ミロは頷いて、肩の力を抜いた。
「でも、そうだとすると、変じゃないですか。そんな区画に名のある人が、名簿に出てこない」
「出てこないだけではない」
クラウスは、もう一つの箱を引き寄せた。軍属の人事簿だった。除籍の部を繰ると、項の数が少なく、見つかるのは早かった。
――リディア・セルン。軍属魔術師。除籍。事由、敵前逃亡・無断離隊。
その下に決裁番号の欄があった。番号はあるが、決裁書の本文はない。注記に「軍務別綴」。続く欄の最終届出先は、王都の城外の住所だった。
「ここ、行けば会えるんじゃないですか。城外なら、馬車で半日もかかりません」
ミロは、もう住所を索引帳に書き写していた。声が弾んでいる。クラウスはその手元を見て、すぐには頷かなかった。
「竜災の年の届出だ。今もそこにいる保証はない。それに、いきなり訪ねるのは避ける」
「どうしてですか。居場所が分かれば、話が早いのに」
「彼女は公式には、逃げた者だ。そこへ王都の人間が、軍の名で来たと思われたらどうなる」
ミロは筆を止めた。
「……連れ戻しに来た、と思われます。戸口で閉じられるだけならまだいい。近所に知られたら、そこにいられなくなるかもしれません」
言ってから、ミロは索引帳の住所を見下ろした。さっきまで宝の地図のように見えていた一行が、別のものに変わったようだった。
「保存の仕事をしていると、脱走兵は、ただの分類の一つなんです。懲戒録の、この棚の、この列って。でも、その人は今も、その記録を背負って暮らしてるんですよね」
「そうかもしれない。そうでないかもしれない。それも、本人に聞かなければ分からない」
クラウスはそれ以上を言わず、白紙を一枚ずつ机に出した。
「まず、住まいの今の記録を調べる。軍の側ではなく、民間の居住の届けを。そこで所在が分かっても、行かない。書面を出す」
「書面、ですか」
「会うか会わないか、返事をするかしないかを、本人が選べる形にする。調査所の名で、封書で。軍の使いではないと、最初の数行で分かるように」
二人は項目を挙げていった。差出人は民間の認定経歴調査所であること。依頼は騎士団人事評議会の任用審査に関わるものだが、彼女の処遇を決める立場にはないこと。尋ねたいのは、竜災当日の谷中ほどの記録について、本人の記憶を教えてほしいということ。応じなくても不利益はないこと。返信は調査所の窓口だけに、ということ。
ミロが書きかけた「敵前逃亡の件で」という一句を、クラウスは指で止めた。
「その語は書かない。こちらが先に断じる形になる」
ミロは線を引いて消し、余白に「谷中ほど当日の記録について」と書き直した。
届けを出す前に、確かめる順番も決めた。居住の届けの照会。封書の宛名の書き方。受け取った家の誰かが先に読むことのない封の仕方。
「これで、第一歩ですね」
「第一歩だ。返事が来る保証はない」
ミロが、小さく息を吐いた。
「竜のいた区画から、午後一時には『動かない』って名前で連絡が出た人が、公式には、逃げた人になってるんですね」
クラウスは答えなかった。机の上には、三つの記録と、人事簿の除籍の記載と、まだ宛名のない封書の下書きが並んでいる。
持ち場を動かないという口上に記された名は、公式の記録では、敵前から逃げた者として閉じられていた。どちらが本人の事実なのかは、本人に確かめるほかない。
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