第16話 脱走兵にする必要はありましたか
クラウスは封筒を開けた。出てきたのは、財務庁の保存原本から写した三枚だった。
「確認済みの順に、読みます。違う点があれば、その都度言ってください」
ヴァルターは頷かなかった。席も立たなかった。
「竜災の五日目。軍の内部で、リディア・セルンを敵前逃亡・無断離隊と認定しています。人事簿と懲戒録の両方に、同じ日が残っている」
「翌六日目。軍から財務庁へ、主文書と付属書の二点が出ています。財務庁の受領簿では第二一二号。軍の発送簿には、同じ番号が受領証として控えてある」
クラウスは一枚目を、卓の中央へ滑らせた。
「付属書の題は《公務戦死・負傷補償付属書》。《竜討伐臨時隊》十一名。現場責任者、リディア・セルン。行動、竜迎撃」
ヴァルターの視線が、紙の上を一度だけ動いた。
「末尾に追記があります。『現場判断による迎撃行動を承認する』。ヴァルター・グレン名義の署名と、軍の認証。認証番号の付け方は、同じ月の通常書類と同じ体系です。代理の注記もない。発送簿の提出名義とも合っています」
「財務庁が承認した、という話ではないな」
「違います。財務庁は受け取って保存しただけです。承認の文言を書いたのは、提出した側です」
ミロが、五日目と六日目の欄を、控えの上で別の行に分けた。
*
「確認できていないことも、先に言います」
クラウスは、二枚目を重ねなかった。
「追記をあなたが自筆した瞬間。本文を誰が起案したか。認定を決裁した時点で、すでに迎撃の事実を知っていたか。この三つは、記録からは出ません」
「それを分かっていて、ここへ置くのか」
「分かっているから、置いています。反論があるなら、聞きます」
ヴァルターは、組んだ指をほどいた。
「ならば言おう。認定は五日目だ。迎撃の報告を私が初めて受けたのは、その後かもしれん。六日目の提出までの間に。違うと言えるか」
「言えません」
「補償を通すには、現場の行動を書かねば処理が進まん。書いたのは補償のためだ。軍紀の上で無断離隊とした処理と、行政の上で行動を追認することは、両立する。署名と認証も、行政処理の名義にすぎん」
「どれも、記録で否定はできません」
クラウスは認めた。ミロの筆が止まらないまま、その一行も控えに入った。
「五日目に知らなかった可能性は残ります。だから、そこは尋ねません。私が尋ねたいのは、その後です」
ヴァルターの顎が、わずかに締まった。
「遅くとも六日目には、あなたの名義の文書が、リディア・セルンを現場責任者とする竜迎撃を承認していた。その後、八年。敵前逃亡・無断離隊の記録は、訂正されないまま残りました。『後年まで知らなかった』は、記録の上で成り立ちません。なぜ、直さなかったのですか」
*
「軍紀だ」
答えは早かった。
「持ち場を離れた事実は動かん。現場判断を後から追認しても、命令なく動いた処理は処理として残る。それを消せば、次の戦で誰が命令を聞く」
「持ち場を動いた処理と、敵前から逃げたという評価は、別のものです」
クラウスは言った。
「無断で動いた。それなら、そう書けば足りる。軍紀はそこで保てます。しかし、記録には『敵前逃亡』とある。竜へ向かった者を、竜から逃げた者として残した。補償文書では迎撃を承認し、人事の記録では逃亡とした。同じ人物について、同じ時期に、両方が出ている」
「……」
「英雄の像を保つだけなら、リディアの名を表に出さなければ済む。給付を保つだけでも同じです。薄めて、伏せればいい。逃亡者という汚名まで、なぜ必要だったのか。士気にも、遺族の給付にも、それは要らなかったはずです」
卓の上で、湯気のない茶が揺れた。誰も手を伸ばさない。
ヴァルターは何も言わなかった。時計の音が聞こえるほどの間が、二度、過ぎた。ミロが一行を空けた。
クラウスは、静かに言った。
「英雄は必要だったとしても、脱走兵にする必要はありましたか」
*
「……あった」
ヴァルターの声は、低かった。
「聞け。だが、言える範囲でしか言わん」
「結構です。控えます」
「監視所の警告は、届いていた。それを受けたうえで、私は進軍の判断を変えなかった。あの谷で現場が崩れた責任は、そこへ行き着く。あの娘は、警告が届いている前提で動いた。生き残って、それを語れる側にいた」
ヴァルターは、紙から目を上げなかった。
「あの話が通れば、私が問われる。だから、あの者の言うことに、誰も耳を貸さぬようにする必要があった。私は、そう判断した。自分を守るためだ」
ミロの筆先が、紙に小さく鳴った。
「警告を読んだ時刻、進軍の命令の文言は、今は述べん。損耗の整理の方針も、全てを私が命じたとは言わん。ただ、あの者の信用が損なわれる処理を、私は止めなかった。必要だと判断した。それは、私の責任だ」
「あなたの供述として、そのまま控えます」
クラウスは言った。
「警告の受領と、日付の順序は、帳簿で確認済みです。あなたが読んだ時刻と、命令の文言は、供述にも記録にもない。損耗の整理について、全ての変更をあなたが指示したとは、控えません。リディアの信用を損なう処理を、必要と判断して止めなかった。ここまでが、本人の供述です」
ヴァルターは、ようやく背もたれに体を預けた。
「士気も、遺族の暮らしも、本気で守るつもりだった。偽りではない」
「疑っていません」
クラウスは頷いた。
「その大義を、私は否定しません。必要だったのは、混乱を収める英雄の像でした。必要でなかったのは、そのために一人へ負わせた汚名です。二つは、分けて書けます」
*
控えが読み上げられた。ミロが声に出し、ヴァルターが一行ずつ聞いた。
二箇所で、手が上がった。
「『信用を損なうことを必要と判断した』の前に、私が命じた処理の全てではない、と入れろ」
「入れます」
ミロが書き足した。ヴァルターは最後の頁を見て、筆は取らなかった。
「署名は、しない」
「強要はしません。署名なし、と控えます。内容は、本人が読み、一箇所の補足を求めたうえで確認した、とだけ残します」
ヴァルターは短く息を吐いた。
「財務庁には、遺族の給付の件を、どう出す」
クラウスは、その問いが来るのを待っていた。
「認定の訂正だけで、特別加算が直ちに停止や返還になるとは限らない。これが財務庁の限定的な事前見解です。生活保障の目的を保ったまま、根拠だけを移した前例もある。正式な審査に添えます。ただし、継続は保証できません。決めるのは、私どもではありません」
「マティアスは」
「竜殺しを自称したことはありません。後方で再編を担い、約三百人を帰した功績は本物です。それを正しい名で評価し直す手続きも、求められます。決めるのは、人事を担う側です」
ヴァルターは、それ以上、問わなかった。
「調査所は、あなたを処罰しません。任用の可否も、名誉の回復も、補償の変更も決めません。報告できるのは、二重の記録、文書の経路、本人の供述、それぞれの確度までです」
クラウスは手控えを閉じた。
「事実認定、責任に関する本人供述、評価の訂正、生活保障への影響。報告書では、四つに分けます」
ヴァルターは立ち上がり、扉の前で一度だけ振り向いた。
「あの娘に、会ったのか」
「会っています。ここで話したことは、先方の同意なしには伝えません」
ヴァルターは頷かず、出ていった。
*
扉が閉まってから、ミロが控えを揃えた。五日目と六日目、軍の発送簿と財務庁の受領簿、本人の供述。三つの束が、混ざらずに並んだ。
「勝った、という顔はしないんですね」
「勝負ではない」
クラウスは、最後の頁の余白を見た。
「リディア・セルンの敵前逃亡認定。マティアス殿の功績。遺族の給付。三つとも、正式な再審査を、関係の機関に求める材料が揃った。就任式の延期も、最終報告の期限の延長も、そのためにある。あとは、出す順序と、出す先だ」
ミロが頷き、封筒に控えを収めた。
クラウスは、資料の一番上に置かれた付属書の写しに目を落とした。十一名の欄と、現場責任者の名。その下の、承認の一行。
英雄は、必要だったのかもしれない。
だが、その陰で、必要のない脱走兵が、八年、作られ続けていた。
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次回は明日19:10に更新予定です。
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