第12話 三百人を救った男
資料室の机に、調査の初めに軍から取り寄せた木箱が、そのまま残っていた。
「竜を倒した人の調べは、いったん脇に置きます」
ミロが命令の控えと受付簿を机の中央へ置いた。
「ああ。マティアス殿が、あの日、後方で何を成したか。結果の側から引く。命令が実行されたなら、動いた分は、別の目的の帳簿に、別の数字で残る」
クラウスは輸送の出発簿を開いた。負傷兵を乗せた荷馬車は、午後二時半から集結所を続けて出ている。最初にこの簿冊を開いたときは、命令が動いた証拠として見ただけだった。今度は人数の欄を読む。
「第一便、三十八。第二便、四十一。第三、四、六、七便と合わせて、確定している行は二百五十一です」
「第五便は」
「人数の欄が水で滲んでいます。『約四十』と読めるだけで、数字ではなく概数です」
「確定には入れるな。別に置く」
ミロは頷き、もう一冊を重ねた。前日に届いた、後方の収容所の受入記録だ。到着した負傷者の区分、旧部隊名、搬送便が一行ずつ並んでいる。
「出発簿は出た人数、こちらは着いた人数です。便ごとの数字と、ほぼ合います」
「ほぼ、か」
「それとは別に、再編の分があります」
ミロは命令控えの末尾を指した。旧部隊名と新部隊名が、対になって並んでいる。
「崩れた持ち場から下がってきた孤立部隊が、集結所で新しい部隊名の下に点呼を受けています。百二十六人」
「搬送の二百五十一に足せば、三百七十七」
「足したら、駄目なんです」
ミロの声が硬くなった。
「軽傷の人は、収容所で手当を受けて、そのまま再編部隊へ編入されています。受入記録では負傷者として一行、点呼簿では新しい部隊の一員として、もう一行。命令の前後で部隊名も収容区分も変わっているので、名前だけ見ても同じ人だと気付きません」
「どう見つけた」
「受入記録の旧部隊名が、命令の対応表の旧部隊欄と同じ行が、多すぎたんです。対応表を橋にして、旧部隊名、搬送便、受入の日時を揃えると、一致する組が百十二」
クラウスはミロの手控えを自分で追った。同じ便の再記載や、転送で二度書かれた行も、すでに除いてある。
「三七七から百十二を引いて、二百六十五」
「確実に、です。第五便の約四十は、再編側と重なる分が分かりません。全部別人なら三百五、全部重なるなら増えません」
「二百六十五から三百五。約三百人だ。これ以上細かい数は、記録から出ない。出ないものを、出たことにはしない」
ミロが息を吐いた。
「三百人を救った男、ですね」
「その言い方は、広い」
クラウスは紙を指で叩いた。
「記録が示すのは、命令の後に撤収と再編が実行され、その経路で約三百人が後方へ到達し、収容されたところまでだ。全員が彼一人の指示で助かったとは書けない。担架を担いだ者、荷馬車を回した者、手当をした者がいる。命令は、それが動く形を作った。動かしたのは現場の人間だ。死者が出なかったとも、どこにも書いていない」
「収容後に亡くなった方は、受入記録に載っています」
「そこは別に数える」
ミロは推薦状を引き寄せ、差出人三人の旧部隊名を、対応表に当てた。三つとも、あった。
「退路が確保された。指揮がなければ助からなかった。おかげで生き延びた。竜の話じゃなかったんですね」
「竜の話だと読んだのは、こちらだ。書いた側は、自分が受けた撤収と再編のことを書いた。誰も嘘をついていない。《北境の竜殺し》という称号が、読む側の意味を取り違えさせた」
クラウスは報告書の骨子を出し、最初の柱を書いた。
――マティアス・レーマン。当日、後方で撤収と再編を命じ、その実行により、約三百人の後方到達に寄与。
「竜殺しの功績ではない。記録と結果に裏づけられた、別の実績だ。柱にする。任用の可否は、我々が決めない。誤った評価が訂正されなかったことも、この柱では消えない。別の項になる」
「次は」
「数字の外だ。命令が現場でどう受け取られたのか。収容後に亡くなった行の中に、家族が存命の方がいる。聞く」
「任意ですよね」
「任意だ。調査所に、答えさせる力はない。答える範囲は、相手が選ぶ」
*
申し入れの手紙には、三日後に承諾の返事が来た。
借家の居間で、兵の妻は湯を出し、自分の分は置かなかった。
クラウスは、最初にそれを告げた。強制ではないこと。答えたくない問いは飛ばしてよいこと。答えがなくても、報告書で不利には扱わないこと。
「知っていることは、お話しします」
妻は膝の上で手を重ねた。
「夫が運ばれて戻ったのは、私も見ました。同じ隊の人たちが、担いで来たと聞いています。三日して、息を引き取りました。命令のことは、知りません。退路がどうとか、誰が決めたとか、私に聞かれても分かりません。夫について知っているのは、それだけです」
クラウスは頷いた。ここまでは、記録と合っている。
「亡くなった日は、受入記録の区分変更の日付と、一致しますか」
「はい」
「ありがとうございます。もう一点。ご主人を、搬送で後方へ到達した数に含めるか、収容後の死亡として除くか、集計上の扱いを決めたいのです。重複の可能性もあるので、収容された日時を、ご存じでしたら」
湯の器を持った妻の手が、止まった。
クラウスは、続けようとした。重複が出るのは、この一行だけではない。同じ便、同じ旧部隊の――
「含める、除く」
妻が、低く繰り返した。
「その分け方で、夫は何になるんですか。帰ってきたことになるんですか。死んだことになるんですか」
「どちらも事実です。集計では、到達と死亡を別に――」
「支給の額の話ですか」
「いえ。調査所に、それを決める権限はありません」
「では、数えに来られたんですか。夫が、何人のうちの一人か」
クラウスは、口を開けて、閉じた。
問いの中身は、間違っていない。聞かなければならないことでもあった。だが、器を持つ手が止まった時点で、続けるべきではなかった。
「……失礼しました。順序も、言葉も、誤りました」
立ち上がって、頭を下げた。質問は、それ以上しなかった。妻は答えず、玄関まで、二人の後ろをついてきた。
戸口の外で、ミロが声を落とした。
「記録の上では、要る質問でした。ただ、お悔やみより先に『含めるか』を聞かれたら、あの方は、ご主人の最後の三日を、飛ばして取られたように感じたと思います」
「確認すべき項目ではあった。順序を入れ替えれば、聞くこと自体は」
言いかけて、クラウスは口を閉じた。
現場へ聞く。あの失敗以来、記録だけで決めないと、自分に課してきた。聞けば足りると思っていた。聞き方ひとつで、証言が閉じることを、今日まで数えに入れていなかった。必要な質問だった。そう言い切る声と、聞き方を誤った、という認識が、胸の中で並んだまま、どちらも動かない。
「ミロ。もう一つある」
「はい」
「訂正だけでは、あの家の暮らしを傷つけかねない。英雄認定を根拠にした加算を外したとき、あの家の取り分がどう変わるか。先に確かめる。同じ支えを、別の形で続けられる道があるか。前例と、財務庁の見解を、真実を出す前に押さえる」
「どの書庫に前例が残っているかは、探せます」
ミロが頷いた。
戸は、まだ閉まっていなかった。
背中の側で、妻の声がした。
「あなたには記録の一行でも、私には夫です」
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次回は明日19:10に更新予定です。
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