第九章 遼の葬列
商店街の時計は、八時十八分を指していた。
たった一分。
それだけしか、世界は進んでいなかった。
けれど、その一分を動かすために、僕たちはほとんどすべてを使い果たしたような気がした。遼を呼び、高瀬湊を呼び、水瀬千紗を、真柴悠斗を、大野孝一を、自分自身を呼んだ。クラスの名前を繋ぎ、商店街の放送で名前を流した。
葬列は消えていない。
だが、薄くなっている。
高瀬湊は踏切の手前で立ち止まっていた。黒い服の人々は、その後ろに長く続いている。顔の輪郭が戻りかけている者もいれば、まだ白い空白のままの者もいる。全員が濡れている。誰も傘を差していない。
雨は弱くなっていた。
それでも、僕たちの制服はずぶ濡れだった。靴の中に水が入り、歩くたびに不快な音がした。遼は僕の肩を掴んだまま、荒い息をしている。千紗はその横で膝に手をつき、真柴は顔を青くして看板に寄りかかっていた。大野は商店街の入口に立ち、周囲の状況を確認している。
普通なら、警察や救急に連絡するべき場面だ。
しかし、何をどう説明すればいいのかわからない。
商店街の人々は、さっきまで放送に協力していたはずなのに、今は夢から醒めたような顔で店先に立っていた。パン屋の女主人はマイクを握ったまま、なぜ自分がそれを持っているのかわからないという表情をしている。八百屋の主人は手元の紙を見つめ、そこに書かれた「高瀬湊」という名前を何度も読み返していた。
名前は、町に広がった。
でも、定着していない。
呼んだだけでは足りないのだ。
その名前に結びつく記憶が必要だった。
高瀬湊とは誰か。
どこに住み、誰と笑い、誰を助け、誰に忘れられたのか。
名前だけを呼んでも、人間は戻らない。
名前に繋がるものを取り戻さなければ、空白は空白のままだ。
「凪人」
遼が言った。
僕は顔を上げた。
「大丈夫か」
「お前がそれ言う?」
「いや、今のお前、俺より死にそうな顔してる」
「さっき葬列に並んでたやつに言われたくない」
「それもそうだな」
遼は弱く笑った。
その笑い方が、少しだけいつもに近かった。
僕は安心しかけた。
その瞬間、遼の顔がぼやけた。
ほんの一瞬だった。
目の前にいるはずの遼の輪郭が、雨に濡れた写真のように揺れた。目元が薄くなり、口元が滲み、次の瞬間にはまた元に戻る。
僕は息を呑んだ。
遼は気づいていない。
千紗は気づいたらしい。顔色を変えて遼を見た。
「北原」
「何」
「今、変だった」
「何が」
「顔」
遼は眉をひそめる。
「ひどくない?」
「そういう意味じゃない」
千紗の声が震えていた。
遼は自分の頬に触れた。
「大丈夫だろ。ちゃんとある」
「そういう問題じゃない」
僕は遼の名前を呼んだ。
「北原遼」
遼がこちらを見た。
「急に何」
「北原遼」
もう一度呼ぶ。
遼の輪郭が少しだけ濃くなったように見えた。
やはり、まだ不安定だ。
戻ったように見えて、完全には戻っていない。
大野がこちらへ来た。
「北原の様子がおかしいのか」
「一瞬、顔が滲みました」
「滲む?」
「写真みたいに」
大野は遼をじっと見た。
そして、低く言った。
「北原遼」
遼が困ったように笑った。
「先生まで」
「黙って聞け」
「はい」
「北原遼」
大野がもう一度呼ぶと、遼は少し肩をすくめた。
「大丈夫ですって。そんな何回も呼ばれたら照れるんですけど」
そう言いながらも、彼の目は笑っていなかった。
本人にもわかっているのだ。
自分がまだ完全には戻っていないことを。
高瀬湊が、葬列の先頭でこちらを見ていた。
遼はその視線に気づき、表情を変えた。
「湊」
名前を呼ぶと、高瀬の輪郭がわずかに強くなる。
高瀬は遼を見ていた。
その目に浮かんでいたのは、悲しみではなかった。恨みでもない。むしろ、戸惑いに近い。自分が呼ばれたことに、どう反応していいのかわからないように見えた。
十七歳の少年の顔だった。
葬列の先頭に立つ存在ではなく、突然名前を取り戻され、忘れられていた時間から引きずり出された少年の顔。
「俺、どうすればいい」
遼が呟いた。
誰に向けた言葉でもなかった。
でも、高瀬が聞いていた。
高瀬の唇が動く。
声は聞こえない。
しかし、今度は少しだけわかった。
――帰れ。
遼の顔が強ばった。
「それは無理だろ」
高瀬の声は聞こえない。
遼だけに届いているのかもしれない。
「お前がここにいるのに」
高瀬は首を横に振った。
遼は黙った。
そのやり取りを見て、胸の奥が重くなった。
高瀬は、遼を戻そうとしている。
遼は、高瀬を置いて戻ることを拒んでいる。
あの日と同じ構図だ。
雨の日の北沢川原。
高瀬は遼を助けた。
その結果、自分が消えた。
今度は遼が高瀬を助けようとしている。
その結果、遼が葬列へ入ろうとしている。
同じことを繰り返している。
どちらかが、どちらかを助けて消える。
そんな形を、葬列は求めているのかもしれない。
僕は未来の自分を探した。
灰色のコートの男は、商店街の薬局前に立っていた。雨に濡れた髪。痩せた頬。乾いた目。彼はもう、僕を止めようとはしていない。ただ、見ている。
その姿が腹立たしかった。
「見てないで言えよ」
僕は歩み寄った。
千紗が「佐倉」と呼んだが、止まらなかった。
「ここまで来た。遼も戻った。高瀬の名前も呼んだ。商店街にも名前を流した。それでもまだ足りない。何が足りない」
未来の僕は、僕を見た。
「昨日、お前は同じことを聞いた」
「それで?」
「昨日、俺は答えなかった」
「今日は答えろ」
「答えれば、また列が増える」
「嘘をつかなければいい」
「真実でも、増えることがある」
僕は言葉に詰まった。
「どういう意味だ」
「知ることで、誰かが思い出す。思い出すことで、別の誰かが押し出される。嘘だけが列を増やすわけじゃない」
「じゃあ、何をしても増えるってことか」
「そういう時もある」
「ふざけるな」
声が震えた。
「じゃあ、どうすればいいんだよ。名前を呼べと言ったのはあんただろ。呼んだら戻る。でも呼びすぎると失敗する。真実を知っても増える。嘘をついても増える。助けても後悔する。助けなくても消える。そんなの、選びようがないだろ」
未来の僕は何も言わなかった。
沈黙が、さらに腹立たしかった。
「遼は助かるのか」
「昨日、遼は生きていた」
「それは答えじゃない」
「答えだ」
「違う。生きているだけじゃ駄目だって、あんた自身が言ったんだろ」
未来の僕の表情がわずかに動いた。
「遼を遼のまま戻すには、どうすればいい」
未来の僕は、葬列の方を見た。
高瀬湊。
北原遼。
黒い服の人々。
そして、踏切の向こう。
「遼の葬列を止める」
彼は言った。
遼の葬列。
その言葉に、背筋が冷えた。
「これは高瀬の葬列じゃないのか」
「始まりは高瀬だ」
「じゃあ」
「今、進んでいるのは遼の葬列だ」
僕は振り返った。
葬列の先頭は高瀬湊だ。
けれど、確かに列の中心にいるのは遼だった。商店街に流れる名前も、僕たちの視線も、未来の僕の言葉も、すべて遼へ向かっている。
高瀬は始まり。
遼は今の中心。
なら、葬列は先頭にいる者ではなく、最も忘れられそうな者を中心に形を変えるのか。
「遼が消えたら」
僕は言った。
「高瀬は戻るのか」
未来の僕は答えなかった。
その沈黙だけで、わかった。
戻るかもしれない。
遼が高瀬の代わりに葬列へ入れば、高瀬は戻るのかもしれない。
遼もそれを感じている。
だから高瀬を置いて戻れない。
だから自分だけ戻るのは違うと言った。
僕は奥歯を噛んだ。
「そんなの、認めない」
「昨日、お前もそう言った」
「それで失敗したんだろ」
「そうだ」
「でも今日は違う」
未来の僕は、静かに僕を見た。
「何が違う」
僕は答えようとして、言葉に詰まった。
何が違う。
千紗がいる。
真柴がいる。
大野がいる。
商店街の人たちも名前を呼んでくれた。
僕は一人ではない。
それは確かだ。
でも、それだけでこの仕組みを壊せるのか。
僕が黙った時、未来の僕は小さく息を吐いた。
「そこだ」
「何が」
「昨日のお前も、同じところで黙った」
僕は拳を握った。
また同じ。
未来の僕は、僕が辿る道を知っている。
だから先回りしてくる。
僕が怒ることも、疑うことも、希望を持つことも、黙る場所さえ知っている。
それが腹立たしくて、怖かった。
未来とは、こんなにも逃げ場のないものなのか。
その時、背後で遼が言った。
「じゃあ、俺が違うことをする」
僕と未来の僕が同時に振り返った。
遼は高瀬の方を見ていた。
「凪人が昨日と同じなら、俺が違うことをすればいい」
「遼」
「たぶん、昨日の俺は、自分だけで高瀬を戻そうとしたんだろ」
未来の僕は何も言わない。
遼は続けた。
「で、今の俺も同じことをしようとしてた。俺が行けばいいって。俺が代わりになればいいって」
千紗が低い声で言った。
「それは禁止」
「わかってる」
「本当に?」
「たぶん」
「たぶんじゃ駄目」
「わかった。本当に」
遼は少し笑った。
けれどすぐに真顔になった。
「俺、誰かの代わりになるのはやめる」
その言葉に、高瀬がわずかに顔を上げた。
「高瀬も、俺の代わりになるな」
遼は葬列へ向かって歩き出した。
僕は反射的に止めようとしたが、彼は振り向いて言った。
「大丈夫。一人では行かない」
そう言って、手を差し出した。
僕ではなく、千紗へ。
千紗は一瞬だけ戸惑い、それから遼の手を掴んだ。
次に遼は、僕を見た。
「凪人」
僕も彼の手を掴んだ。
真柴がぼそりと言った。
「俺も?」
「お前、名前係だろ」
「まだそれ言うのか」
真柴も僕の肩を掴んだ。
大野は黙って、真柴の背後に立った。
「生徒を見失うわけにはいかないからな」
遼は小さく笑った。
「先生、ほんとに教師ですね」
「今さらだ」
僕たちは繋がったまま、葬列の先頭へ向かった。
高瀬湊は踏切の手前に立っている。
遮断機は下りたままだ。
電車は来ない。
ただ警報音だけが、カン、カン、カン、と鳴り続けている。現実の踏切ではない。時間の境目にある踏切なのだろう。
ここを越えれば、戻れない。
そう直感した。
遼は高瀬の前で立ち止まった。
「湊」
高瀬は遼を見た。
「俺、お前に助けられた」
高瀬の目が揺れる。
「でも、お前が消えたことを忘れた。覚えてたら耐えられなかったのかもしれない。だから忘れた。たぶん、忘れたかったんだと思う」
遼の声は震えていた。
「ごめん」
高瀬は首を横に振った。
遼は続けた。
「でも、俺が消えれば帳尻が合うとか、そういうのは違うよな」
高瀬は遼を見つめている。
「お前も戻る。俺も戻る。凪人も、水瀬も、真柴も、先生も、みんな戻る。欲張りだけど、それ以外は嫌だ」
千紗が横で小さく言った。
「そう。欲張れ」
遼は少しだけ笑った。
「水瀬が言うと強いな」
「今ふざけない」
「はい」
遼は高瀬へ手を伸ばした。
今度は、助けるためでも、代わるためでもない。
握手するように。
高瀬はその手を見た。
長い沈黙。
そして、ゆっくりと手を伸ばした。
二人の手が触れた。
その瞬間、葬列の人々が一斉に顔を上げた。
白い顔。濡れた目。名前を失った空白。
彼らの視線が、すべて遼と高瀬に集まる。
そして、鈴が鳴った。
ちりん。
今までとは違う音だった。
冷たくない。
むしろ、遠い昔の風鈴のような音だった。
高瀬の唇が動いた。
声が聞こえた。
初めて、はっきりと。
「遼」
遼の肩が震えた。
「湊」
互いの名前を呼び合う。
それだけで、二人の輪郭が強くなる。
だが、葬列はまだ動いている。
後ろに並ぶ人々が、ゆっくりと踏切へ向かって進み始めた。
遼と高瀬だけでは足りない。
列にいる全員が、自分の名前を待っている。
商店街の放送がまた鳴った。
高瀬湊。
北原遼。
水瀬千紗。
真柴悠斗。
佐倉凪人。
大野孝一。
同じ名前が何度も流れる。
けれど、列の後ろの人々には届いていない。
彼らには彼らの名前が必要なのだ。
大野が言った。
「商店街の名簿がいる」
「名簿?」
「店舗会、町内会、学校の関係者。名前がわかるものを全部集める」
「今から?」
「今からだ」
大野はスマートフォンを取り出した。
だが、画面が映らない。
水に濡れたせいではない。電源は入っているのに、表示が真っ白になっている。
僕のスマートフォンも同じだった。
千紗のものも、真柴のものも。
名前を探そうとすると、記録が閉ざされる。
葬列は、簡単には名簿を見せてくれない。
未来の僕が、薬局の前で言った。
「昨日、お前たちは記録を失った」
僕は睨んだ。
「どうすればいい」
「記録に頼るな」
「じゃあ何に頼る」
「人に聞け」
その言葉だけは、まっすぐだった。
人に聞け。
名前は、記録ではなく、人が持っている。
商店街の人々に、互いの名前を呼んでもらう。
忘れかけた名前を、誰かが補う。
僕はパン屋の女主人へ走った。
「すみません!」
彼女はまだ店先にいた。
手にはマイク。
顔は青い。
「この商店街の人たちの名前、わかりますか」
「え?」
「お店の人たちです。八百屋さん、薬局さん、惣菜屋さん。名前を呼んでください」
「名前?」
「お願いします。誰かが消えるかもしれないんです」
普通なら、意味不明な頼みだ。
でも彼女は、さっきまで自分が放送で名前を呼んでいたことを覚えていたのだろう。震える手でマイクを握り直した。
「八百屋の、田辺さん」
スピーカーから声が流れる。
『田辺さん』
八百屋の主人が驚いて顔を上げた。
僕は叫んだ。
「下の名前も!」
「田辺……修一さん」
スピーカーが流す。
『田辺修一さん』
八百屋の主人の輪郭が、はっきりした。
彼は自分の胸に手を当てる。
「俺?」
僕は頷いた。
「次!」
女主人は続けた。
「薬局の、古賀さん。古賀幸江さん。惣菜屋の三原さん夫婦。三原和夫さん、三原礼子さん」
名前が流れる。
商店街の人々が、互いに顔を見合わせる。
最初は戸惑い。
次第に、何かを思い出すように。
八百屋の田辺が叫んだ。
「パン屋は小宮さんだろ! 小宮晴美さん!」
薬局の古賀が続ける。
「田辺さんの奥さんは美佐子さん! 今はいないけど、名前は美佐子さん!」
惣菜屋の三原が叫ぶ。
「隣の時計屋、亡くなったけど、岡崎進さん!」
次々に名前が出る。
生きている人。
ここにいない人。
亡くなった人。
引っ越した人。
忘れられかけた人。
名前が商店街に満ちていく。
葬列の後ろの人々が、一人、また一人と顔を上げ始めた。
黒い服の輪郭が薄くなる。
白かった顔に色が戻る。
閉じた傘が消えていく。
僕はその光景を見ながら、胸が熱くなった。
これだ。
僕一人では無理だった。
遼一人でも、未来の僕一人でも無理だった。
名前は、一人で抱えるものではない。
町全体で、互いに持ち合うものなのだ。
遼と高瀬は、まだ踏切の手前で手を握っていた。
高瀬の輪郭がはっきりしていく。
遼も、もう滲んでいない。
千紗が僕の横に来た。
「いける?」
「わからない」
「でも、さっきよりはいい」
「うん」
真柴が遠くで商店街の人に名前を聞いて回っている。
「名前! フルネームで! あだ名じゃなくて!」
普段なら絶対にしないような大声だった。
大野も、町の人たちに事情を説明しながら名前を集めていた。
雨はさらに弱くなった。
踏切の警報音も小さくなっていく。
高瀬が、遼の手を離した。
遼の顔に不安が走る。
だが高瀬は、今度は僕の方を見た。
「凪人」
彼が僕の名前を呼んだ。
胸の奥で何かがほどけた。
「高瀬」
僕は言った。
「高瀬湊」
高瀬は笑った。
その笑顔を、僕は知っていた。
中学の教室で、遼の冗談に呆れながら笑っていた顔。
失われたはずの顔。
戻ってきた顔。
僕は思った。
成功した。
今度こそ。
だが、世界はまだ終わらせてくれなかった。
葬列の最後尾に、ひとつだけ影が残っていた。
黒い服ではない。
灰色のコート。
未来の僕だった。
彼だけが、列から離れない。
いや、違う。
彼自身が、葬列の最後尾に立っていた。
僕は息を呑んだ。
未来の僕は、自分を列の外に置いているように見えた。
でも、本当は違ったのだ。
彼もまた、葬列に並んでいる。
最後尾に。
未来を変えようとして失敗した者として。
遼が呟いた。
「凪人」
僕は未来の自分を見た。
灰色のコートの男は、少しだけ笑った。
諦めたような、安心したような笑みだった。
「昨日、お前は俺を呼ばなかった」
彼は言った。
「今日も、まだ呼んでいない」
僕は声が出なかった。
佐倉凪人。
さっき、自分の名前は呼んだ。
でも、彼の名前としては呼んでいない。
未来の僕を、僕として認めていない。
失敗した未来。
避けたい未来。
ああなりたくない自分。
そうやって、僕は彼を切り離していた。
それが、彼を葬列の最後尾に縛っているのかもしれない。
僕は一歩進んだ。
「佐倉凪人」
未来の僕は、静かにこちらを見た。
僕はもう一度言った。
「佐倉凪人」
商店街の放送が、僕の声を拾ったのか、スピーカーから同じ名前が流れた。
『佐倉凪人』
遼が続いた。
「佐倉凪人!」
千紗が。
「佐倉凪人!」
真柴が。
「佐倉凪人!」
大野が。
「佐倉凪人!」
商店街の人々も、それに続いた。
佐倉凪人。
佐倉凪人。
佐倉凪人。
未来の僕の輪郭が揺れた。
彼は、初めて苦しそうな顔をした。
「やめろ」
小さく言った。
僕は止めなかった。
「佐倉凪人」
「やめろ」
「佐倉凪人」
「俺は」
未来の僕は、雨の中で首を横に振った。
「俺は、もう」
「佐倉凪人」
僕は近づいた。
「あんたも僕だ」
未来の僕の顔が歪んだ。
「違う」
「違わない」
「俺は失敗した」
「それでも僕だ」
「俺は遼を壊した」
「それでも」
「水瀬を忘れた。真柴を忘れた。先生も、町も、高瀬も、全部忘れて、遼だけを残した」
未来の僕の声が震えた。
「それで遼は笑っていた。誰もいない世界で、俺の前だけで笑っていた。俺は、それを助かったことにした」
彼の目から、雨ではない水が落ちた。
「そんな俺を、呼ぶな」
胸が締めつけられた。
未来の僕は、怪異ではなかった。
失敗した僕だった。
誰かを助けたかっただけの、けれど助け方を間違えた僕だった。
僕は彼の前に立った。
「呼ぶ」
彼は首を横に振る。
「呼ばないでくれ」
「呼ぶ」
「消えたいんだ」
「駄目だ」
「俺が残っている限り、葬列は終わらない」
「なら、消えるんじゃなくて戻れ」
「戻る場所なんかない」
「ある」
僕は自分の胸に手を当てた。
「ここだ」
未来の僕は、呆然と僕を見た。
「僕はあんたにはならない。でも、あんたをなかったことにはしない」
その言葉を言った瞬間、商店街の時計がまた動いた。
八時十九分。
たった一分。
でも、確かに進んだ。
葬列の人々が、少しずつ薄れていく。
高瀬湊の姿も、遼の隣で揺れていた。
彼は戻るのか。
それとも、本来の場所へ帰るのか。
まだわからない。
ただ、彼はもう白い顔ではなかった。
名前のある少年の顔だった。
未来の僕は、まだそこにいる。
けれど、灰色のコートの裾から、少しずつ雨が落ちていく。
彼を縛っていた雨が、剥がれ始めている。
遼が僕の隣に来た。
「未来のお前、めちゃくちゃ面倒くさいな」
僕は少し笑った。
「お前に言われたくないと思う」
未来の僕が、わずかに目を細めた。
それは笑ったようにも見えた。
千紗が言った。
「まだ終わってない」
その通りだった。
葬列は薄れたが、完全には消えていない。
踏切の向こうには、まだ黒い影がいくつか残っている。
そして、時計は八時十九分。
朝はまだ、完全には動き出していない。
大野が言った。
「続けるぞ。名前を呼び続けろ。商店街全体でだ」
僕たちは頷いた。
その時、高瀬湊が遼に近づいた。
二人は何かを話した。
今度は声が聞こえなかった。
だが、遼の表情でわかった。
別れの言葉ではない。
約束だった。
高瀬は、遼の胸を軽く叩いた。
遼は泣きそうな顔で笑った。
そして高瀬は、僕を見た。
「凪人」
今度は声が聞こえた。
「遼を、忘れないで」
僕は頷いた。
「高瀬も」
高瀬は少し笑った。
「うん」
その笑顔が雨に溶ける。
でも、消えたわけではない。
名前は残った。
高瀬湊。
僕は心の中で、その名前をもう一度呼んだ。
踏切の警報音が止まった。
遮断機が上がる。
葬列は、もう進まない。
ただ、最後尾にいる未来の僕だけが、まだ雨の中に立っていた。
彼を戻すには、もうひとつ足りないものがある。
それが何か、僕にはまだわからなかった。
けれど遼が言った。
「凪人」
「何」
「未来のお前を戻すには、たぶん、お前だけじゃ駄目だ」
「どういうこと」
「あいつが一番忘れたくない人に、呼ばれなきゃ駄目なんだと思う」
僕は未来の僕を見た。
未来の僕が一番忘れたくない人。
そんなの、考えるまでもなかった。
北原遼。
でも今の遼ではない。
未来の遼。
未来の僕が壊してしまった、誰もいない世界で笑っていた遼。
その遼の名前を、どうやって呼ぶのか。
その時、未来の僕が言った。
「遼は、もういない」
鈴が鳴った。
ちりん。
また嘘か。
そう思った。
だが、葬列は増えなかった。
つまり、それは嘘ではない。
未来の僕の世界の遼は、もういない。
生きていたはずの遼。
笑っていたはずの遼。
その遼は、もういない。
未来の僕はそれを知っていて、過去へ来た。
自分が失った遼を取り戻すためではなく、今の遼を同じ場所へ行かせないために。
僕は何も言えなかった。
雨は、ほとんど止んでいた。
時計は八時十九分のまま、静かに針を震わせていた。




