第八章 失敗した明日
雨が、教室の中に降っていた。
窓は開いている。そこから吹き込む雨もある。けれど、それだけでは説明できなかった。天井から落ちているわけではない。壁が濡れているわけでもない。それなのに、机の上、床の隅、黒板の下に、ぽつり、ぽつりと水滴が落ちている。
雨は、現実の外側から染み出してきていた。
教室の中にいた生徒たちは、最初こそ騒いだ。窓を閉めろと叫ぶ者、ノートを鞄にしまう者、スマートフォンを濡らすなと慌てる者。けれど、やがてその騒ぎもおかしな形で静まっていった。
雨音の中に、鈴の音が混じったからだ。
ちりん。
誰もが同時に黙った。
黒板の前に立っていた大野が、教室全体を見回した。いつものように怒鳴るかと思ったが、そうはしなかった。大野は一度だけ深く息を吸い、チョークを置いた。
「全員、席に着け」
その声は低く、よく通った。
不思議なものだった。あれほど騒いでいた生徒たちが、反射的に従った。教師という存在に染みついた力なのかもしれない。どれほど不可解なことが起きていても、教室で教師が命じれば、生徒は一瞬だけ日常の形を取り戻す。
僕は窓際に立ったまま、校庭の向こうに見える葬列を見ていた。
黒い服の人々。
濡れた肩。
先頭に立つ高瀬湊。
その後ろに北原遼。
そして列の脇に、灰色のコートの男。
未来の僕は、雨の向こうからこちらを見ていた。
助けるな。
お前は、助けたあとに後悔する。
その言葉は、まだ耳の奥に残っている。
だが、もうそのまま信じるつもりはなかった。
未来の僕は嘘をついた。嘘をつくと列が増える。なら、彼の言葉の中には、真実と嘘が混じっている。必要なのは従うことではない。見分けることだ。
大野が黒板に大きく書いた。
北原遼
高瀬湊
水瀬千紗
真柴悠斗
佐倉凪人
教室がざわついた。
「先生、これ何ですか」
「北原の名前はわかるけど」
「高瀬って誰?」
「水瀬はそこにいるじゃん」
「真柴は何で?」
大野は振り返った。
「今から、名前を書く」
教室がさらにざわつく。
「自分の名前を書け。隣の席の者の名前も書け。覚えている友人の名前も書け。北原遼と高瀬湊の名前も書け」
誰かが笑いかけた。
だが、その笑いは途中で消えた。
雨の中で、鈴が鳴ったからだ。
ちりん。
真柴が僕の隣で、顔を青くしていた。
「佐倉」
「何」
「これ、全員に見えてるのか」
「たぶん」
「やばくね?」
「やばい」
「お前、冷静だな」
「冷静じゃない」
本当は、足が震えていた。
けれど震えている暇がないだけだった。
千紗は教室の中央で、ノートを配っていた。白紙のルーズリーフを持ってきた者から受け取り、足りない生徒にはコピー用紙を渡している。彼女の動きには迷いがなかった。
つい数時間前まで、この教室から消えかけていた人間とは思えないほどだった。
いや、だからこそかもしれない。
名前を呼ばれない恐怖を、千紗は知っている。
誰にも見られず、誰にも覚えられず、机だけが残る感覚を知っている。
だから彼女は、誰より真剣だった。
「佐倉」
千紗が僕の机に紙を置いた。
「北原を戻すには、北原を覚えてる人間を増やせばいいんだよね」
「たぶん」
「たぶん禁止」
「……そうだと思う」
「それも弱い」
「でも、今できるのはそれしかない」
千紗は頷いた。
「じゃあ、やるしかない」
彼女は自分の紙に、強い筆圧で名前を書き始めた。
水瀬千紗。
北原遼。
佐倉凪人。
真柴悠斗。
高瀬湊。
大野孝一。
担任の名前まで書いたのを見て、僕は少し驚いた。
「先生の名前も?」
「先生も消えかけたって言ってたでしょ」
「うん」
「じゃあ書く」
千紗は簡潔に言った。
僕も紙に名前を書いた。
佐倉凪人。
自分の名前を書いた時、少しだけ指が止まった。
未来の僕。
灰色のコートの男。
彼も、佐倉凪人だ。
僕と同じ名前を持っている。なのに、僕は彼を別人のように見ている。未来の自分だから当然だと思っていた。けれど、もしかすると、それが間違いなのかもしれない。
彼もまた、名前を呼ばれる必要があるのではないか。
僕は紙の端に、もう一つ書いた。
佐倉凪人。
同じ名前を、二度。
今の僕と、未来の僕。
そう思いながら。
その瞬間、校庭の葬列の脇に立つ灰色のコートの男が、わずかに顔を上げた。
見えているのか。
僕が彼の名前を書いたことが、届いたのか。
確かめる前に、大野の声が教室に響いた。
「全員、書いたか」
生徒たちは戸惑いながらも頷いた。
半信半疑の者も多い。何が起きているのか理解できていない者もいる。だが、雨の中で校庭に並ぶ葬列は、多くの者に見えているようだった。
見えているものを、なかったことにはできない。
大野は言った。
「今から、北原遼の名前を呼ぶ」
誰かが息を呑んだ。
「北原は今、行方がわからない。これは正式な捜索ではない。警察も動いている。だが、ここでやれることがあるならやる」
教師らしい、妙に現実的な前置きだった。
けれど、その現実感が逆に頼もしかった。
「北原遼」
大野が呼んだ。
一拍遅れて、千紗が続いた。
「北原遼」
真柴が言った。
「北原遼」
僕も呼んだ。
「北原遼」
教室のあちこちから声が重なっていく。
「北原遼」
「北原遼」
「北原」
「北原遼」
最初はばらばらだった。照れた声。戸惑った声。笑いをこらえた声。けれど、何度も呼ぶうちに、その声は少しずつ揃っていった。
北原遼。
名前が教室に満ちる。
雨音の向こうで、葬列が揺れた。
校庭の端に立つ遼の輪郭が、わずかに濃くなった。
千紗が窓へ駆け寄る。
「見て、北原」
「見えてる」
遼はまだ遠い。
だが、さっきより確かにこちら側へ近づいていた。黒い列の中に沈んでいた体が、少しだけ外へ出ている。彼は顔を上げ、教室の方を見ていた。
声が届いている。
僕はさらに強く呼んだ。
「北原遼!」
教室中の声が続く。
雨が強くなる。
鈴の音も大きくなる。
それでも名前を呼び続けた。
遼の輪郭が、また濃くなる。
その時、高瀬湊が振り返った。
葬列の先頭に立つ少年は、遼を見ていた。彼の表情は遠くて読めない。けれど、怒ってはいない。引き止めているようにも見えない。
待っている。
ただ、待っている。
僕は大野を見た。
「次は高瀬です」
大野は短く頷いた。
「高瀬湊」
僕が呼んだ。
千紗が続く。
「高瀬湊」
真柴。
「高瀬湊」
大野。
「高瀬湊」
教室の生徒たちは、その名前に戸惑った。知らない名前。覚えていない名前。けれど、大野が黒板に書いた文字を見て、一人、また一人と読み上げていく。
「高瀬湊」
「高瀬湊」
「高瀬……湊」
最初はただ文字を読むだけだった。
それでもよかった。
名前は、呼ばれなければ始まらない。
高瀬湊。
その名前が教室に満ちた瞬間、僕の頭に強い痛みが走った。
記憶が流れ込む。
中学の教室。
遼と高瀬が、僕の机の前で言い合っている。
「佐倉、聞いてくれ。こいつ、俺の消しゴム勝手に使った」
「遼が貸せって言う前に取ったんだろ」
「高瀬、それは盗難って言うんだぞ」
「返したから貸借だ」
「言い方が法律っぽくて腹立つ」
遼が笑う。
高瀬も笑う。
僕も、少しだけ笑っている。
記憶の中の高瀬は、葬列の少年よりずっと普通の少年だった。少し真面目で、字がきれいで、遼の雑な冗談に冷静に突っ込む。遼とは不思議に気が合っていた。僕は二人の横で聞き役に回ることが多かった。
どうして忘れていた。
こんなにも近くにいたのに。
僕は机に手をついた。
千紗が支える。
「大丈夫?」
「思い出してる」
「無理しないで」
「無理しないと、たぶん届かない」
また記憶が来る。
雨の日。
北沢川原。
僕たちは三人でいた。
どうしてそこへ行ったのかは、まだ見えない。だが、遼がふざけて水門の近くへ行き、高瀬が危ないからやめろと言った。僕は少し離れた場所で、濡れた靴を気にしていた。
遼の足が滑る。
高瀬が走る。
僕は動けない。
手が届かない。
高瀬が遼の腕を掴む。
遼が叫ぶ。
「湊!」
そこで記憶が途切れた。
いや、途切れさせている。
その先を、僕自身が見ないようにしている。
名前を呼ぶ声は続いていた。
校庭の葬列が大きく揺れる。
遼が列から半歩外へ出た。
千紗が叫んだ。
「北原!」
遼の目が開いた。
教室の窓越しに、視線が合った気がした。
次の瞬間、教室の扉が開いた。
誰かが入ってきた。
全員が振り向く。
濡れた制服。
髪から落ちる水滴。
片方だけ靴紐がほどけている。
北原遼が、教室の入口に立っていた。
一瞬、誰も声を出せなかった。
遼は教室を見回し、困ったように笑った。
「何、これ。俺の名前、連呼される会?」
千紗が駆け出した。
遼の胸を叩いた。
「馬鹿!」
乾いた音が教室に響く。
遼は驚いた顔をした。
「痛っ」
「馬鹿! 馬鹿! 馬鹿!」
「三回も言うなよ」
「何回でも言う!」
千紗は泣いていた。
遼は困ったように手を浮かせ、どうしていいかわからない顔をしている。
真柴が呟いた。
「本当に戻った」
大野はしばらく遼を見ていたが、すぐに教師の顔になった。
「北原」
「はい」
「あとで職員室だ」
「ですよね」
遼は力なく笑った。
その笑顔は、久しぶりに生きた人間のものだった。
僕は遼に近づいた。
「本物か」
「第一声それ?」
「答えろ」
「本物だよ。たぶん」
「たぶんって何だ」
「いや、俺もよくわかんねえし」
遼は自分の手を見た。
「さっきまで橋の下にいた気がする。葬列に並んでた気もする。あと、めちゃくちゃ名前呼ばれて、うるさかった」
「聞こえたのか」
「聞こえた」
遼は教室を見回した。
「みんな、俺の名前呼んでた?」
クラスメイトたちは気まずそうに頷いたり、目を逸らしたりした。
遼は少し笑った。
「何それ。恥ず」
千紗がまた叩いた。
「恥ず、じゃない」
「はい」
遼は素直に頷いた。
僕は笑いそうになった。
戻った。
遼が戻った。
その事実だけで、体から力が抜けそうになった。
だが、次の瞬間、窓の外で鈴が鳴った。
ちりん。
僕は振り返った。
校庭の葬列は、まだ消えていなかった。
高瀬湊が、先頭に立ったままこちらを見ている。
遼は戻った。
でも、高瀬は戻っていない。
それどころか、黒い列は前より長くなっていた。
僕は眉を寄せた。
遼を戻したのに。
高瀬の名前も呼んだのに。
なぜ列が伸びている。
千紗も気づいた。
「佐倉」
「うん」
高瀬の背後に、新しい人影が増えていた。
ひとりではない。
何人も。
黒い服の人々が、校庭の端から校門の方へ伸びている。生徒の姿も混じっていた。教師らしき影もある。顔は見えない。名前もわからない。
遼が窓に近づいた。
顔が強ばる。
「何で」
「わからない」
「俺、戻ったんだよな」
「うん」
「高瀬も呼んだんだよな」
「呼んだ」
「じゃあ、何で増えてんだよ」
答えは、窓の外から聞こえた。
「昨日、お前は遼を助けた」
未来の僕の声だった。
灰色のコートの男は、葬列の脇に立っている。
「昨日、お前は高瀬を呼んだ」
僕は窓越しに睨んだ。
「それで?」
「昨日、お前は明日を失敗した」
失敗した明日。
その言葉が、胸の奥に落ちた。
遼を戻した。
高瀬を呼んだ。
名前を教室中で呼ばせた。
それでも、何かを間違えた。
大野が窓の近くへ来た。
「何が起きている」
未来の僕は、大野には答えない。
僕だけを見ている。
「昨日、お前は名前を集めた」
「今と同じことをしたんだな」
「昨日、お前は遼を戻した」
「その先は」
「昨日、遼は笑った」
遼が隣で小さく息を呑んだ。
「昨日、水瀬は泣いた」
千紗の肩が震えた。
「昨日、真柴は忘れた」
真柴が顔を上げる。
「何を?」
未来の僕は、静かに言った。
「自分の名前を」
教室が冷えた。
真柴は反射的に自分の胸元を押さえた。
僕はすぐに叫んだ。
「真柴悠斗!」
千紗も続けた。
「真柴悠斗!」
大野も。
「真柴悠斗!」
遼も少し遅れて叫ぶ。
「真柴悠斗!」
真柴の顔に血の気が戻る。
「やめろよ、怖いだろ」
その声は震えていた。
だが、消えてはいない。
僕は紙を見た。
真柴が書いてくれた名前の紙。
そこにある文字はまだ読める。
真柴悠斗。
水瀬千紗。
北原遼。
高瀬湊。
佐倉凪人。
大丈夫だ。
まだ名前はある。
未来の僕が言った。
「昨日、お前たちは呼びすぎた」
「呼びすぎた?」
「名前は、ただ呼べばいいわけじゃない」
まただ。
未来の僕は、肝心なことを後から言う。
「先に言え!」
僕は怒鳴った。
「知ってたなら、なぜ先に言わない!」
未来の僕は、雨の中で目を伏せた。
「昨日、お前は聞かなかった」
「嘘をつくな!」
叫んだ瞬間、鈴が鳴った。
ちりん。
葬列にまた人影が増えた。
僕は息を止めた。
未来の僕の言葉に対して、僕が嘘だと言った。
だが、増えたのは彼が嘘をついたからなのか。
それとも、僕が何かを間違えたからなのか。
未来の僕は言った。
「今のは、嘘じゃない」
なら、なぜ増えた。
僕の疑問に答えるように、遼が低く言った。
「俺だ」
全員が遼を見る。
遼は窓の外を見つめていた。
「俺が戻ったから、増えたんだろ」
「違う」
僕は即座に言った。
「違わない」
「違う」
「凪人」
遼の声は静かだった。
「俺、さっき葬列の中でわかった。俺が戻る場所を作るために、誰かの場所が削れる」
「そんなこと」
「たぶんそうだ」
遼は黒板を見た。
北原遼。
高瀬湊。
水瀬千紗。
真柴悠斗。
佐倉凪人。
「名前を呼んでもらって戻るってことは、こっち側に場所を作るってことなんだよ。俺の席、俺の机、俺を覚えてる記憶。そういうのを一気に取り戻す。その分、別の誰かの場所が押し出される」
遼の言葉は、妙に落ち着いていた。
葬列の中で何かを見てきた人間の声だった。
「だから、ただ俺を戻すだけじゃ駄目なんだ」
未来の僕がこちらを見ている。
遼は続けた。
「高瀬を戻すだけでも駄目。俺と高瀬だけを戻したら、他の誰かが消える」
「じゃあ、どうすればいい」
千紗が訊いた。
遼は少し笑った。
「知らねえ」
「知らないのに、そんなそれっぽいこと言ったの?」
「ごめん」
「謝るくらいなら考えて」
「考えてる」
遼は窓の外を見た。
「たぶん、列にいるやつ全員の名前を戻さないと駄目なんだと思う」
教室が静まり返った。
校庭に伸びる黒い列。
その全員。
名前のわからない人々。
生徒も、教師も、知らない大人もいる。
それを全部戻す。
無理だ。
そう思った。
でも、遼は言った。
「俺だけが戻るのは違う」
ノートに書かれていた言葉と同じだった。
俺だけが戻るのは違う。
それは自己犠牲の言葉に聞こえた。だが今の遼の声は違った。自分を捨てるのではなく、全員を戻す方法を探している声だった。
千紗が言った。
「全員の名前なんて、どうやって」
大野が腕を組んだ。
「出席簿、卒業アルバム、住民記録、学校の名簿。現実側に残っている記録を集める」
教師らしい答えだった。
真柴が言う。
「でも、知らない大人とかいるぞ」
「商店街の人かもしれない」
僕は言った。
「葬列通りにいた人たち。駅へ向かう列。もしかすると、この町の誰かが消えている」
大野が頷いた。
「学校だけではないな」
遼は窓の外を見つめたままだった。
「高瀬が先頭にいるのは、俺たちが最初に忘れたからだと思う」
「うん」
「でも、列がここまで伸びたのは、未来の凪人が何度も助けようとしたからなんだろ」
未来の僕の顔が、雨の中でわずかに歪んだ。
遼は彼を見た。
「お前、俺を助けるために、何人忘れた?」
未来の僕は答えなかった。
遼は笑わなかった。
「なあ、未来の凪人。俺、生きてた?」
その問いに、教室の空気が止まった。
「お前が助けた未来で、俺は生きてたんだよな」
未来の僕は、静かに答えた。
「昨日、遼は生きていた」
「笑ってた?」
「昨日、遼は笑っていた」
「それ、本当に笑ってた?」
未来の僕は黙った。
遼は小さく頷いた。
「そっか」
それだけで、遼には伝わったようだった。
助けられた未来の遼は、きっと笑っていた。
でも、それは今までの遼と同じ笑顔だったのだろう。
大丈夫なふりをする笑顔。
誰もいない世界で、自分を知る人たちを失ったまま、それでも笑っていた。
遼は窓の外へ言った。
「そんなの、助かったって言わねえよ」
未来の僕は、何も言わなかった。
僕はその横顔を見ながら、ようやく少し理解した。
未来の僕は、遼を救ったのではない。
遼が生きている形だけを残した。
その結果、遼を遼にしているものを失った。
友人。母親。教師。教室。名前を呼ぶ声。
それらがなければ、北原遼という人間はただ生きているだけになる。
遼はそれを望まない。
今の遼なら、絶対に。
大野が教室の前に立った。
「全員、聞け」
生徒たちは大野を見る。
雨はまだ降っている。
窓の外には葬列がある。
だが、教室には不思議な集中が生まれていた。
「今から、ここにいる全員の名前を確認する。一人ずつ、自分の名前を言え。隣の人間が復唱しろ。次に、クラス全員の名簿を読み上げる。途中で違和感があったら言え。誰か一人でも忘れられそうなら、全員で呼ぶ」
誰かが小さく言った。
「先生、本気ですか」
大野は即答した。
「本気だ」
「何でこんなこと」
「わからないからやる」
大野の声は強かった。
「わからないものを前にして、何もしない理由を探すな」
教室の生徒たちは黙った。
僕は、その言葉を胸の中で繰り返した。
わからないものを前にして、何もしない理由を探すな。
それは、今の僕に必要な言葉だった。
出席確認が始まった。
一人ずつ名前を言う。
隣の者が復唱する。
大野が名簿にチェックを入れる。
馬鹿馬鹿しいようで、誰も笑わなかった。
雨の中、葬列の人影が一つ、また一つと揺れる。名前を呼ばれた者と呼ばれていない者の境目が、目に見えない形で動いているのがわかった。
真柴悠斗。
水瀬千紗。
佐倉凪人。
北原遼。
名前が教室を巡る。
やがて、大野が名簿の最後まで読み終えた。
クラス全員の名前は、今のところ戻っている。
だが、葬列は消えない。
高瀬湊がまだ先頭にいる。
そして、その後ろに、多くの知らない人々がいる。
遼が言った。
「商店街だ」
「何?」
「最初に葬列を見た場所。葬列通り。たぶん、あそこに戻らないと駄目だ」
僕も同じことを考えていた。
葬列は商店街から始まった。
高瀬の記憶は北沢川原にあった。
だが、列そのものは葬列通りに現れる。
始まりの場所へ戻らなければ、全体は見えない。
未来の僕が、雨の向こうで小さく笑ったように見えた。
その笑みは、諦めにも、期待にも見えた。
「昨日、お前たちは商店街へ向かった」
彼は言った。
「そこで失敗したんだな」
僕が訊くと、未来の僕は答えた。
「昨日、お前たちは間に合わなかった」
間に合わなかった。
その言葉に、遼が反応した。
「何に?」
未来の僕は、遼を見た。
そして言った。
「最初の葬列に」
僕は眉を寄せた。
最初の葬列。
高瀬が先頭に立つ、すべての始まりの列。
そこに間に合わなければ、何度名前を呼んでも帳尻が合わないのかもしれない。
大野がすぐに判断した。
「商店街へ行く。だが、全員では動けない」
「先生」
「佐倉、北原、水瀬、真柴。お前たちは来い。私は学年主任に連絡する。クラスには残る教師をつける。ここにいる生徒たちは、互いの名前を呼び続けろ」
大野は教室を出ようとして、立ち止まった。
「佐倉」
「はい」
「未来のお前が何と言っても、こちらで確認するまで信じるな」
「はい」
「北原」
「はい」
「一人で戻ろうとするな」
遼は少しだけ笑った。
「バレてます?」
「顔に書いてある」
「先生までそれ言うんだ」
「黙れ」
遼は「はい」と答えた。
その声は、少しだけいつもの調子に近かった。
僕たちは教室を出た。
廊下にも雨が滲み出していた。
天井からではない。床から、壁から、空気の隙間から、記憶の雨が入り込んでいる。校内放送のスピーカーからは、かすかなノイズが流れていた。その奥に鈴の音が混じっている。
ちりん。
ちりん。
名前を失った者たちが、近づいている。
昇降口で靴を履き替える時、遼がふいに言った。
「凪人」
「何」
「俺、戻ったんだよな」
「戻った」
「でも、何か半分だけ戻った感じがする」
「半分?」
「名前はある。体もある。でも、葬列の中にまだ何か置いてきた感じ」
僕は遼を見た。
彼の顔は青白い。
完全には戻っていない。
それでも生きている。
ここに立っている。
「取りに行こう」
僕が言うと、遼は少し驚いたように笑った。
「何を」
「置いてきたもの」
「何それ」
「知らない。でも、必要なんだろ」
遼はしばらく僕を見ていた。
やがて、小さく頷いた。
「うん」
千紗が横から言った。
「置いてきたものが命だったらどうするの」
遼は肩をすくめた。
「その時は、拾うの手伝って」
「本当に馬鹿」
「今日それ何回目?」
「足りないくらい」
真柴が後ろで小さく笑った。
「お前ら、こういう時でもその感じなんだな」
「真柴も名前呼ばれたら戻る係だからな」
遼が言うと、真柴は顔をしかめた。
「嫌な係だな」
「大事な係だろ」
「まあ、そうかもな」
わずかに笑いが生まれた。
その一瞬だけ、僕たちは普通の高校生に戻った。
けれど校門を出ると、すぐに現実が押し寄せた。
商店街の方角だけが暗い。
雲が渦を巻くように集まり、細い雨の幕が町を区切っている。人々は傘を差して歩いているが、その一部は妙に輪郭が薄かった。信号待ちの会社員。自転車を押す老人。ランドセルを背負った小学生。
名前を知らない人々。
その全員が、葬列に近づいているように見えた。
僕たちは走った。
大野が先頭を行く。
遼、千紗、真柴、僕が続く。
商店街へ近づくにつれて、雨は強くなった。
傘など意味がない。
制服も、髪も、鞄もすぐに濡れた。
そして、葬列通りに入った瞬間、世界の音が消えた。
パン屋の匂いも、車の走る音も、店員の声もなくなった。
商店街の時計台は、八時十七分で止まっていた。
朝と同じ時刻。
すべての始まりの時刻。
通りの中央に、葬列があった。
今まで見たどの葬列よりも長かった。
黒い服の人々が、商店街の端から踏切の向こうまで続いている。全員の肩が濡れ、全員が閉じた傘を持っている。先頭には高瀬湊。少し後ろに遼の影。さらに、その横に灰色のコートの男。
いや、違う。
遼は僕たちの隣にいる。
だが列の中にも、遼がいる。
半分だけ戻った。
遼の言葉の意味が、ようやくわかった。
現実の遼と、葬列の遼。
二つに分かれている。
どちらも北原遼なのだ。
千紗が息を呑む。
「北原が二人」
遼は列の中の自分を見て、顔をしかめた。
「気持ち悪」
真柴が小さく言った。
「そういう感想でいいのかよ」
大野は前を見据えたまま言った。
「佐倉、どうする」
僕は葬列を見た。
高瀬湊がこちらを見ている。
未来の僕も見ている。
列の中の遼は、目を閉じている。
現実の遼は、拳を握っている。
名前を呼ぶ。
それだけでは足りない。
全員の名前を呼ぶには、全員が誰かを覚えなければならない。
しかし、ここにいるのは僕たちだけだ。
どうすればいい。
その時、商店街のスピーカーからノイズが流れた。
普段は夕方になると、町内放送が流れるスピーカーだ。古い柱の上に取り付けられている。
ノイズの向こうに、声が混じった。
遼の声だった。
『俺を、ちゃんと呼べ』
続いて、高瀬の声がした。
初めて聞く声だった。
静かで、少し掠れていた。
『僕も、呼んで』
僕は顔を上げた。
スピーカー。
町内放送。
商店街全体に声を届けるもの。
名前を呼ぶ声を増やすには、ここから流せばいい。
「先生」
僕は言った。
「放送設備、使えますか」
大野は一瞬だけ目を見開き、それから商店街の管理事務所の方を見た。
「鍵があれば」
「商店街の人を探します」
千紗が言った。
「私、パン屋のおばさん知ってる」
「行こう」
僕たちは走り出そうとした。
その瞬間、未来の僕が言った。
「昨日、お前たちは放送した」
足が止まる。
「それでも失敗した」
「なぜ」
未来の僕は、雨の中で静かに言った。
「名前を間違えた」
名前を間違えた。
その言葉に、全身が冷えた。
町中に間違った名前を流せば、どうなるのか。
想像したくなかった。
大野が低く言った。
「なら、確認してから流す」
「時間がない」
未来の僕が言った。
「昨日、お前たちは確認に時間をかけた」
「それで?」
「最初の葬列が踏切を越えた」
踏切の向こう。
葬列の行き先。
そこを越えると戻れないのかもしれない。
葬列は、ゆっくりと進み始めていた。
高瀬湊が一歩、前へ出る。
列が続く。
八時十七分で止まったはずの時間の中で、葬列だけが動いている。
遼が言った。
「俺、行く」
「駄目だ」
千紗が即座に言った。
「でも、俺が行かないと高瀬は止まらない」
「だからって」
「大丈夫」
遼は笑った。
千紗が睨む。
「笑うな」
遼は笑うのをやめた。
「ごめん」
彼は僕を見た。
「凪人、俺が列の中の俺に触れば、たぶん戻れる」
「根拠は?」
「ない」
「ないなら駄目だ」
「でも、そういう感じがする」
「感じで動くな」
「お前に言われたくない」
言い返せなかった。
遼は葬列の中の自分を見た。
「あれ、俺の置いてきたものなんだろ。だったら、俺が取りに行くしかない」
高瀬湊が踏切へ近づいている。
時間はない。
未来の僕がこちらを見ている。
止めるのか。
行かせるのか。
助けるのか。
選べ。
そう言われている気がした。
僕は遼の腕を掴んだ。
「一人で行くな」
「じゃあ?」
「一緒に行く」
千紗がすぐに言った。
「私も」
真柴も、青い顔で言った。
「俺も行く。名前係だし」
大野がため息をついた。
「全員で行くなと言いたいが、もう言っても無駄だな」
「先生も?」
「当然だ。生徒だけで葬列に突っ込ませる教師がいるか」
こんな状況なのに、僕は少しだけ笑いそうになった。
遼も小さく笑った。
「先生、かっこいいっすね」
「黙れ。職員室では説教だ」
「戻れたら聞きます」
「戻るんだよ」
大野の声は強かった。
僕たちは葬列へ向かった。
黒い服の人々の間に入ると、空気が一変した。
冷たい。
雨の匂い。
線香ではなく、濡れた制服と川の匂いがする。
列に並ぶ人々は、僕たちを見ない。ただ、前だけを向いている。その顔は白く、名前を失った空白のようだった。
遼は列の中の自分へ近づいた。
もう一人の遼は、目を閉じたまま立っている。
現実の遼が手を伸ばす。
僕はその腕を掴んだまま離さなかった。
千紗が遼の反対の腕を掴む。
真柴が僕の肩を掴む。
大野が真柴の背を支える。
名前の鎖のように、僕たちは繋がった。
遼が、自分自身に触れた。
その瞬間、商店街全体が揺れた。
記憶が流れ込んできた。
雨の日。
北沢川原。
遼が足を滑らせる。
高瀬が腕を掴む。
僕は転んで、動けない。
高瀬は遼を引き上げた。
助けた。
だが、その直後、水門の警告音が鳴った。
増水した水が押し寄せる。
高瀬の足元が崩れる。
遼が手を伸ばす。
今度は遼が高瀬を助けようとする。
僕も這うようにして手を伸ばす。
届かない。
高瀬は笑っていた。
大丈夫、と言っていた。
だが、その声は雨に消えた。
高瀬は川へ落ちたのではない。
水の中へ消えたのでもない。
葬列の中へ消えた。
黒い服の人々が、雨の向こうに立っていた。
僕と遼は、それを見た。
見たのに。
翌日には忘れていた。
世界が、忘れさせた。
遼が叫んだ。
「湊!」
記憶の中の遼と、今の遼の声が重なる。
「高瀬湊!」
高瀬が振り返る。
葬列の先頭で。
雨の日の水門で。
過去と現在が重なる。
僕も叫んだ。
「高瀬湊!」
千紗が。
「高瀬湊!」
真柴が。
「高瀬湊!」
大野が。
「高瀬湊!」
名前が雨を切り裂く。
高瀬の輪郭が濃くなる。
遼の分かれていた影が、現実の遼へ重なっていく。
成功した。
そう思った。
その瞬間、踏切の警報音が鳴った。
カン、カン、カン。
葬列の先頭が、踏切へ入ろうとしていた。
高瀬湊が、こちらを見たまま進んでいる。
なぜ止まらない。
名前を呼んだのに。
遼が叫ぶ。
「湊、止まれ!」
高瀬の足は止まらない。
未来の僕の声がした。
「昨日、お前たちは高瀬を呼んだ」
僕は振り返った。
「でも、高瀬を呼ぶだけでは足りなかった」
「何が足りない!」
「高瀬を覚えているのは、遼だけじゃない」
僕は息を止めた。
そうだ。
高瀬には家族がいる。
中学の教師がいる。
友人がいる。
僕たちだけが名前を呼んでも、高瀬のすべては戻らない。
だから放送が必要だった。
町に、名前を届ける必要があった。
僕たちは間に合っていない。
踏切の遮断機が下りる。
葬列はその内側へ進んでいく。
時間がない。
遼が僕の手を振りほどこうとした。
「俺が行く」
「駄目だ!」
「あいつを止める!」
「一人で行くな!」
「じゃあどうする!」
遼の叫びに、僕は答えられなかった。
その時、商店街のスピーカーが鳴った。
ノイズ。
そして、声。
『高瀬湊』
知らない女性の声だった。
『高瀬湊』
次に、男性の声。
『高瀬湊』
また別の声。
僕たちは一斉に顔を上げた。
商店街のスピーカーから、高瀬の名前が流れている。
誰が。
振り返ると、パン屋の店先に千紗が立っていた。
いや、千紗は僕の隣にいる。
違う。
パン屋の店先にいるのは、千紗ではない。
パン屋のおばさんだった。
その隣に、商店街の人々がいる。
八百屋の店主。
薬局の老人。
惣菜屋の夫婦。
彼らは紙を手に、スピーカーへ向かって名前を読み上げていた。
大野が呟いた。
「学年主任か」
おそらく、大野が学校へ連絡した時に、商店街にも話が回ったのだ。あるいは、クラスの誰かが動いたのかもしれない。理由はわからない。
でも、声は確かに増えていた。
高瀬湊。
北原遼。
水瀬千紗。
真柴悠斗。
佐倉凪人。
名前が商店街中に響く。
葬列が揺れる。
高瀬の足が止まった。
踏切の手前で。
あと一歩のところで。
遼が泣きそうな声で叫んだ。
「湊!」
高瀬が、ゆっくりと振り返る。
その顔には、もう白い空白はなかった。
普通の少年の顔だった。
雨に濡れて、少し困ったように笑っている。
彼の唇が動いた。
遼。
声は聞こえなかった。
でも、確かにそう呼んだ。
遼が崩れるように膝をついた。
葬列が止まる。
雨が弱まる。
僕は成功したと思った。
今度こそ。
だが、次の瞬間、商店街の時計台が激しく鳴った。
八時十七分の針が、ぐるりと回り始める。
八時十八分。
八時十九分。
八時二十分。
異常な速さで時間が進む。
未来の僕が叫んだ。
初めて聞く、切迫した声だった。
「止めろ!」
僕は振り返った。
未来の僕が、葬列の最後尾を見ている。
そこには、新しい人影が立っていた。
灰色のコートを着た男。
未来の僕ではない。
もっと若い。
僕だった。
佐倉凪人。
今の僕自身が、葬列の最後尾に立っていた。
名前を呼びすぎた代償。
遼を戻し、高瀬を止め、商店街に名前を流したことで、今度は僕が列に引き込まれようとしている。
千紗が叫んだ。
「佐倉!」
遼が顔を上げる。
「凪人!」
真柴も、大野も僕の名前を呼んだ。
だが、葬列の最後尾にいる僕は、ゆっくりと前へ進んだ。
僕の足元が冷たくなる。
現実の僕の体から、何かが抜けていく。
視界が薄くなる。
名前を呼ばれているのに、届かない。
なぜだ。
僕は自分の名前を知っている。
皆も呼んでいる。
それなのに、足りない。
未来の僕が、僕の目の前に立った。
灰色のコートの男は、雨に濡れた顔で言った。
「昨日、お前は自分を呼ばなかった」
僕は息を止めた。
「自分を、忘れるな」
その言葉が、胸の奥に刺さった。
僕はずっと、遼を呼んでいた。
高瀬を呼んでいた。
千紗を、真柴を、大野を。
でも、自分を呼んでいなかった。
自分を数に入れていなかった。
誰かを助けるために、自分を葬列に差し出しかけていた。
それは、未来の僕と同じだった。
僕は震える声で言った。
「佐倉凪人」
声は雨に消えそうだった。
もう一度。
「佐倉凪人」
遼が叫んだ。
「佐倉凪人!」
千紗が。
「佐倉凪人!」
真柴が。
「佐倉凪人!」
大野が。
「佐倉凪人!」
商店街のスピーカーからも、その名前が流れた。
佐倉凪人。
佐倉凪人。
佐倉凪人。
葬列の最後尾にいた僕の影が、ゆっくりと薄くなっていく。
足元の冷たさが消える。
僕は膝をついた。
雨が頬を打つ。
息が戻る。
遼が駆け寄ってきて、僕の肩を掴んだ。
「馬鹿! お前まで消えんなよ!」
僕は荒く息をしながら、何とか笑った。
「お前に言われたくない」
「うるせえ」
遼は泣いていた。
千紗も、真柴も、大野も駆け寄ってくる。
踏切の警報音は止まっていた。
葬列は、まだそこにある。
だが、さっきより明らかに薄くなっていた。
高瀬湊は踏切の手前に立ち、こちらを見ている。
その顔には、穏やかな色が戻っていた。
けれど完全には戻っていない。
列に並ぶ人々も、まだ多い。
成功ではない。
失敗でもない。
明日は、まだ失敗したままではない。
でも、取り返したとも言えない。
未来の僕は、少し離れた場所に立っていた。
雨の中で、彼は僕を見ている。
その目に、初めて小さな光があった。
「昨日、お前はここで倒れた」
彼は言った。
「今日は?」
僕は訊いた。
未来の僕は答えなかった。
代わりに、ほんの少しだけ首を横に振った。
昨日とは違う。
そういう意味だと思った。
商店街の時計は、八時十八分を指していた。
時間は、ほんの一分だけ進んでいた。




