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葬列通りの少年――未来の自分がいる列のうしろ  作者: 二条理|アコンプリス


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第七章 未来の僕は嘘をつく

 遼の鞄は、雨に濡れていた。

 橋の下のコンクリートの上に、それだけが残されていた。黒い通学鞄。角に貼られた安っぽい交通安全の反射シール。遼が「夜道で俺だけ助かる仕様」と言って笑っていた、あのシールだ。

 僕は膝をついて、鞄に手を伸ばした。

 触れる直前、指が止まる。

 濡れている。

 現実の雨で濡れているのか、葬列の雨で濡れているのか、わからなかった。

 それでも触れた。

 冷たかった。

 中まで水を吸っているように重い。僕は鞄を持ち上げ、胸に抱えた。遼のものなのに、遼の体温は残っていなかった。代わりに、川底から引き上げた石のような冷たさがあった。

 千紗が隣に膝をついた。

「北原は」

 声が震えていた。

 僕は答えられなかった。

 橋の下に、遼はいない。

 高瀬湊もいない。

 黒い服の葬列も、濡れた肩の人々も、灰色のコートの男も消えていた。残っているのは、雨の音と、川の流れと、遼の鞄だけだった。

 大野が少し離れた場所で警察に電話をしている。

「北沢川原の橋の下です。北原の鞄を発見しました。本人はいません。ええ、生徒二名と私が確認しています。はい、すぐに」

 いつもの担任の声ではなかった。

 教師としてではなく、一人の大人として、ぎりぎりのところで冷静さを保っている声だった。

 僕は鞄のファスナーを開けた。

 千紗が息を呑む。

「勝手に見ていいの?」

「手がかりがあるかもしれない」

 自分に言い聞かせるように言った。

 中には、教科書、濡れたノート、筆箱、折り畳み傘、空のペットボトル、丸められたプリントが入っていた。財布はない。今使っているスマートフォンもない。

 教科書の端は湿っているのに、文字は読める。ノートの紙は波打っていた。僕はそれを一冊ずつ開いた。

 数学。

 英語。

 現代文。

 どれも遼らしく、ところどころに意味のない落書きがある。教師の似顔絵。眠い、という文字。購買のパンランキング。僕の名前もいくつかあった。

 佐倉はツッコミが遅い。

 佐倉はたまに目が死んでいる。

 佐倉、弁当食え。

 そんな落書きが、濡れた紙の上に残っている。

 胸が詰まった。

 遼はここにいた。

 いたのに、今はいない。

 現代文のノートの最後のページで、手が止まった。

 雨に滲んだ文字があった。

 遼の字だった。

 高瀬湊。

 何度も書かれている。

 高瀬湊。

 高瀬湊。

 高瀬湊。

 その下に、小さく一行。

 俺が忘れた。

 僕は息を吸うのを忘れた。

 遼は、思い出していた。

 完全ではなかったにしても、高瀬湊の名前に近づいていた。だからここへ来た。だから河川敷で川を見ていた。だから葬列の中で、高瀬の名前を呼べた。

 いや、呼べたのは僕が先だった。

 でも遼の中にも、名前は戻りかけていたのだ。

 千紗がノートを覗き込んだ。

「高瀬湊」

 彼女が名前を口にした瞬間、橋の下の空気が揺れた。

 遠くで鈴が鳴った。

 ちりん。

 僕は周囲を見回した。

 葬列は見えない。

 だが、音だけは残っている。

「高瀬湊って、先頭の子だよね」

「うん」

「北原、思い出してたんだ」

「たぶん」

 千紗は唇を噛んだ。

「だったら、何で連れていかれたの」

「わからない」

 僕はノートのページをめくった。

 次のページには、また別の言葉が書かれていた。

 俺だけが戻るのは違う。

 その文字は、他より強く書かれていた。紙が少し破れている。遼がどんな気持ちでその一行を書いたのか、考えるだけで胃の奥が重くなった。

 俺だけが戻るのは違う。

 それは、遼らしい言葉だった。

 普段は軽くて、自分勝手に見えるところもある。けれど、最後の最後で妙なところに律儀になる。自分が助かることで誰かが消えるなら、遼はたぶん喜べない。

 千紗が低く言った。

「馬鹿」

 それは遼に向けた言葉だった。

「ほんと、馬鹿」

 雨が強くなった。

 大野が電話を終えて戻ってきた。

「警察が来る。北原の鞄は触らない方がいい」

「もう触りました」

「だろうな」

 大野は怒らなかった。

 怒る余裕がないのかもしれない。

「何かわかったか」

 僕はノートを見せた。

 高瀬湊。

 俺が忘れた。

 俺だけが戻るのは違う。

 大野はページを見つめ、眉をひそめた。

「高瀬湊」

「先生、覚えていますか」

「いや」

「中学の同級生です。僕と遼の」

「この学校の生徒ではないんだな」

「はい。でも、今起きていることの中心にいると思います」

 大野は黙って頷いた。

 もう否定しない。

 それが今はありがたかった。

 その時、僕のスマートフォンが震えた。

 遼の番号だった。

 画面を見た瞬間、千紗も大野も近づいた。

 表示された文面は短かった。

『遼は助からない』

 僕の中で、何かが冷たく固まった。

 千紗が画面を見て、息を呑んだ。

「何これ」

 大野が低く言う。

「誰が送っている」

 僕は返信欄に指を置いた。

『誰だ』

 既読はすぐについた。

 返事。

『昨日、お前はそれを知った』

 未来の僕だ。

 少なくとも、そう思わせる文体だった。

 昨日。

 お前。

 過去形。

 僕は打った。

『遼はどこにいる』

 既読。

『葬列の中』

『どうすれば出せる』

 既読。

 少し間が空いた。

 雨音だけが強くなる。

 返事。

『出せない』

 千紗が画面を見たまま、震える声で言った。

「嘘でしょ」

 僕は同じことを思った。

 嘘であってほしい。

 いや、嘘だ。

 そうでなければ困る。

 僕は打った。

『高瀬湊を思い出した。遼も思い出した。それでも駄目なのか』

 既読。

『遼は助からない』

 また同じ言葉。

 遼は助からない。

 その文面を見た瞬間、橋の下で鈴が鳴った。

 ちりん。

 そして、僕たちの目の前に黒い服の人影が一つ現れた。

 突然だった。

 空気の中に滲みが生まれ、それが人の形を取る。黒い喪服。濡れた肩。閉じた傘。顔は伏せている。

 千紗が叫びそうになり、口を押さえた。

 大野は一歩後退した。

 人影は、遼の鞄のすぐ後ろに立っていた。

 列ではない。

 ただ一人だけ。

 それでも、わかった。

 葬列に新しい誰かが増えたのだ。

 僕はスマートフォンを握りしめた。

 未来の僕の言葉。

 遼は助からない。

 その直後に現れた人影。

 胸の奥で、ばらばらだった断片が繋がった。

「嘘だ」

 僕は呟いた。

 千紗が僕を見る。

「何が?」

「遼は助からないって言葉。あれは嘘だ」

「どうしてわかるの」

「嘘をつくと、列が増える」

 自分で言って、背筋が冷えた。

 未来の僕は嘘をついた。

 だから列に一人増えた。

 以前にもあった。未来の僕が「遼は助からない」と言った時、葬列に一人増えた。あの時は気づかなかった。いや、気づきかけていたのに、確信できなかった。

 でも今は違う。

 目の前で起きた。

 未来の僕は嘘をつける。

 ただし、嘘をつくと葬列が増える。

 千紗が画面を見た。

「じゃあ、北原を助ける方法はあるってこと?」

「ある」

 僕は言った。

 そう信じるしかなかった。

「あるから、あいつは嘘をついた」

 大野が低く言った。

「その未来のお前は、なぜ嘘をつく」

「わかりません」

「お前たちを諦めさせたいのか」

「たぶん」

「なぜ」

 その答えも、もう薄々わかっていた。

 未来の僕は、同じことを経験している。

 遼を助けようとした。

 高瀬を思い出そうとした。

 誰かの名前を呼び戻そうとした。

 そして失敗した。

 失敗した結果が、あの灰色のコートの男だ。

 だから彼は、僕に同じ道を辿らせたくない。

 あるいは、同じ道を辿らせた上で、どこかで選択を変えさせたい。

 どちらにしても、彼はすべてを話していない。

 僕は返信した。

『嘘をつくと列が増えるんだな』

 既読。

 返事は来ない。

『遼を助ける方法はある』

 既読。

 沈黙。

『あんたは知っている』

 既読。

 しばらくして、画面に文字が表示された。

『昨日、お前は助けた』

 僕は息を止めた。

 助けた。

 遼を?

『誰を』

 既読。

『昨日、お前は遼を助けた』

 千紗が画面を見て、顔を上げた。

「助けたんだ」

 僕は頷いた。

 だが、喜べなかった。

 未来の僕は、いつも大事な続きを隠す。

 僕は打った。

『その結果、何が起きた』

 既読。

 返事はなかった。

 代わりに、橋の下の人影が一歩こちらへ近づいた。

 黒い服の裾から、水が滴っている。

 大野が僕たちの前に立った。

「下がれ」

 教師としてではなく、大人としての反応だった。

 だが、その人影は僕らに危害を加えるわけではなかった。

 ゆっくり顔を上げる。

 見覚えのある顔だった。

 しかし名前が出てこない。

 僕の頭に痛みが走った。

 まただ。

 新しく列に増えた人間。

 今度は誰だ。

 千紗が隣で息を呑んだ。

「先生」

 大野が振り返る。

「今の人」

「知っているのか」

「たぶん、同じ学校の人です」

 僕もそう感じていた。

 見覚えがある。

 学校の廊下。職員室の前。図書室。どこかで見た顔だ。

 けれど名前が出ない。

 それはつまり、この人物も消えかけているということだ。

 僕は頭を押さえた。

 遼を助ける手がかりを掴むほど、別の誰かが葬列に近づく。

 名前を呼べば戻る。

 でも順番を間違えると、さらに誰かが押し出される。

 未来の僕は、これを知っている。

 だから諦めさせようとしている。

 遼は助からない、と嘘をついて。

 僕のスマートフォンが震えた。

『助けるな』

 続けて。

『お前は、助けたあとに後悔する』

 僕は画面を睨んだ。

「勝手に決めるな」

 声が出ていた。

 千紗が僕を見た。

 僕はスマートフォンに向かって言った。

「後悔するかどうかは、今の僕が決める」

 返信はない。

「遼を助けた結果、誰かが消えたんだろ。あんたはそれを見たんだろ。だから怖いんだろ」

 雨が激しくなる。

 スマートフォンの画面に水滴が落ちる。

「でも、嘘をついて僕を止めるなら、あんたも同じだ。誰かを消してる」

 画面がちらついた。

 文字が浮かぶ。

『昨日、お前は同じことを言った』

 僕は奥歯を噛んだ。

 そうか。

 未来の僕も、かつて同じ怒りを持っていた。

 同じ言葉を口にした。

 それでも、今あの男は僕を止めている。

 なら、その先で何を見たのか。

 僕は知る必要がある。

 警察のサイレンが遠くで聞こえた。

 大野が振り返る。

「警察が来る。いったんここを離れるぞ」

「でも」

「北原の鞄は警察に渡す。手がかりは写真に撮ったか」

「はい」

「なら、ここに残ってもできることはない」

 正しい。

 けれど、足が動かない。

 葬列の新しい人影は、橋の下に立ったまま僕を見ている。顔は見えているはずなのに、名前が出ない。名前を呼ばなければ、彼も前へ進んでしまう。

 でも、今ここでその名前を探せば、遼から意識が逸れる。

 順番を間違えるな。

 未来の僕の言葉が蘇る。

 僕は鞄から真柴が書いてくれた紙を取り出した。

 水瀬千紗。

 北原遼。

 真柴悠斗。

 佐倉凪人。

 高瀬湊。

 最後の空欄に、震える指で高瀬の名前を書き足した。

 そして、その下に小さく書いた。

 名前不明。

 今、橋の下に現れた人物。

 忘れないための仮の杭。

 名前ではない。

 それでも、何もないよりはましだと思った。

 人影は、それを見たように少しだけ俯いた。

 警察が来た。

 そこから先は、現実の手続きになった。

 遼の鞄が発見されたこと。本人が見つからないこと。僕たちが昨日ここで遼に会ったこと。大野が教師として説明し、僕と千紗も事情を聞かれた。

 葬列の話はできなかった。

 高瀬湊のことも、未来の僕のことも、スマートフォンの不可解なメッセージも、すべて話せる形にはならなかった。

 ただ、遼がここにいた。

 その証拠だけが、現実に残った。

 遼の鞄。

 濡れたノート。

 高瀬湊の名。

 俺が忘れた、という文字。

 俺だけが戻るのは違う、という言葉。

 警察は捜索範囲を広げると言った。川沿い、駅周辺、防犯カメラ、聞き込み。大人たちは正しい手順で動き始めた。

 でも、僕にはわかっていた。

 正しい手順だけでは遼に届かない。

 遼は今、葬列の中にいる。

 生きているか死んでいるかという問題ではなく、名前と記憶の境目に立っている。

 そこへ行くには、僕たちが忘れたものを思い出すしかない。

 学校へ戻る車の中、誰も喋らなかった。

 大野は運転に集中しているように見えたが、顔色は悪かった。千紗は後部座席で自分の手を見つめている。僕は助手席で遼のノートを膝に置いていた。

 大野がふいに言った。

「佐倉」

「はい」

「その未来のお前は、本当にお前なのか」

 僕はすぐには答えられなかった。

「顔は、僕です」

「顔が同じでも、味方とは限らない」

「わかっています」

「いや、わかっていない」

 大野の声は硬かった。

「お前は、その男の言葉を信じすぎている。疑っているようで、結局その男が示した方へ進んでいる」

 その通りだった。

 昨日しか話せない。

 そう言われて、僕は彼の言葉をルールのように受け取っていた。

 でも、彼は嘘をついた。

 遼は助からない、と。

 そして、その嘘で葬列に一人増えた。

「先生は、どう思いますか」

「わからない」

「正直ですね」

「わからないことをわかると言う教師は信用するな」

 少しだけ、いつもの大野に戻った声だった。

 彼は続けた。

「だが、ひとつだけ言える。未来の自分だろうが、過去の友人だろうが、誰か一人の言葉だけで動くな。複数の証拠を見ろ。複数の人間で確認しろ。推理と同じだ」

 その言葉は、妙に腑に落ちた。

 推理。

 そうだ。

 これは怪異ではあるが、同時に謎でもある。

 葬列にはルールがある。

 名前を呼ぶと戻れる。

 嘘をつくと列が増える。

 忘れられた順に前へ進む。

 未来の僕は昨日のことを語るが、すべてを語るわけではない。

 なら、感情だけで走るのではなく、ルールを組み立てなければならない。

 遼を助けるために。

「先生」

「何だ」

「高瀬湊について調べたいです」

「中学の同級生だったな」

「はい。でも、僕も遼も忘れていました。記録が消えている可能性があります。でも、完全には消えていない。卒業アルバムには滲んだ形で残っていました」

「中学に問い合わせる」

「お願いします」

「お前は?」

「遼のノートを調べます。それと、スマホのメッセージを全部保存します。消えるかもしれないので」

 大野は頷いた。

「水瀬」

「はい」

「君は佐倉を見張っていろ」

 千紗が顔を上げた。

「見張る?」

「勝手に走るなと言っても走る。なら、誰かが横にいた方がいい」

「わかりました」

 千紗は真面目に頷いた。

 僕は少し不満だった。

「僕、そんなに信用ないですか」

 大野と千紗が同時に言った。

「ない」

 否定できなかった。

 学校に戻ると、夕方になっていた。

 職員室の一角で、大野は中学への問い合わせを始めた。僕と千紗は空き教室を借り、遼のノートと卒業アルバム、スマートフォンのスクリーンショットを並べた。

 真柴も呼んだ。

 彼は最初こそ「俺、部活あるんだけど」と言っていたが、遼の鞄が見つかったことを聞くと黙った。そして、机に置かれた紙を見て、眉をひそめた。

「高瀬湊」

「覚えてる?」

 僕が訊くと、真柴は首を振った。

「知らない。けど」

「けど?」

「字面が、何か嫌だ」

「嫌?」

「見てると頭が痛くなる」

 千紗が僕を見た。

 やはり、高瀬の名前には力がある。

 記憶の奥に触れる。

 僕は真柴に説明した。

 高瀬湊が中学の同級生だったらしいこと。雨の日の写真に写っていたこと。遼を助けた可能性があること。そして今、葬列の先頭にいること。

 真柴は黙って聞いていた。

 全部を信じたわけではないだろう。

 でも、自分が一度忘れられかけたという事実がある。真柴はそれを完全には覚えていないが、名前を呼ばれた時の感覚だけは残っているらしい。

「俺さ」

 真柴が言った。

「昨日の夜、夢見たんだよ」

「どんな?」

「教室で、誰も俺の名前を呼ばない夢。俺はいるのに、みんな俺の机を避けて通る。佐倉が何か叫んでるんだけど、聞こえない。で、最後に名前を呼ばれて目が覚めた」

「誰に?」

「わからない。でも、声はお前だった気がする」

 僕は黙った。

 葬列の中の記憶は、夢の形で残るのかもしれない。

 千紗も言った。

「私も似た感じだった。教室にいるのに、誰も見ない。名前を呼ばれて戻った」

「じゃあ、遼も」

 真柴が言いかけて、止まった。

 遼も今、同じ場所にいるのかもしれない。

 名前を呼ばれるのを待っている。

 だが、ただ北原遼と呼ぶだけでは足りない。

 遼自身が、高瀬湊の名前を呼ぶ必要がある。

 そしておそらく、高瀬湊もまた、遼を呼ばなければならない。

 互いに名前を呼ぶ。

 それが、葬列から出る条件なのかもしれない。

 僕たちは手がかりを整理した。

 紙に書き出す。

 北原遼。

 高瀬湊。

 水瀬千紗。

 真柴悠斗。

 葬列。

 未来の凪人。

 雨の日の写真。

 北沢川原。

 橋の下。

 名前。

 嘘。

 書けば書くほど、見えない中心が浮かび上がってくる。

 高瀬湊。

 この名前が鍵だ。

 しかし、彼を思い出すほど遼が薄くなる。

 なぜなのか。

 真柴が遼のノートをめくっていて、ふと手を止めた。

「これ」

 彼が指したページに、遼の走り書きがあった。

 昨日見たページとは別のノートだった。

 そこには、短い会話のようなものが書かれている。

 高瀬は怒っていない。

 高瀬は待っている。

 俺が呼べば戻る。

 でも、俺が呼ぶと俺が行く。

 僕はその文字を見つめた。

 俺が呼ぶと俺が行く。

 つまり、遼が高瀬の名前を呼ぶことには代償がある。

 高瀬を戻す代わりに、遼が葬列へ入る。

 橋の下で起きたこと、そのままだった。

 千紗が震える声で言った。

「じゃあ、北原はわかってて呼んだの?」

「たぶん」

「馬鹿じゃないの」

 彼女は同じ言葉を繰り返した。

 でも、その声には怒りより悲しみがあった。

 僕はノートの続きを読んだ。

 俺だけが戻るのは違う。

 あいつを置いていくのは二回目になる。

 二回目。

 僕の中で何かが引っかかった。

「二回目?」

 千紗が言った。

「一回目は、雨の日?」

 そうだ。

 あの日、僕たちは高瀬を置いてきた。

 少なくとも、遼はそう感じている。

 高瀬は遼を助けた。

 その結果、高瀬が消えた。

 遼はそれを忘れた。

 忘れたことで生きてきた。

 そして今、思い出した。

 だから、もう一度置いていくことができなかった。

 僕はノートを握りしめた。

「遼は助けられた側なんだ」

 誰も何も言わなかった。

「だから、今度は助ける側になろうとしている」

 それが遼の選択だった。

 自分だけが戻るのは違う。

 高瀬を置いていくのは二回目になる。

 だから、葬列に入った。

 未来の僕は、それを知っていた。

 だから「遼は助からない」と嘘をついた。

 僕に追わせないために。

 これ以上、遼の選択を壊させないために。

 でも、それは違う。

 遼が自分を犠牲にすることを、正しい選択にしてはいけない。

 高瀬を戻す。

 遼も戻す。

 誰か一人を選ぶのではなく、全員の名前を繋ぐ。

 無茶だ。

 でも、それ以外に納得できる答えはなかった。

 その時、教室の蛍光灯がちらついた。

 一度。

 二度。

 窓の外が暗くなる。

 雨が降り始めた。

 学校の窓ガラスを、雨粒が叩く。

 千紗が窓の外を見た。

「さっきまで晴れてたのに」

 真柴が顔をしかめる。

「何か、寒くね?」

 僕は立ち上がった。

 窓の向こう、校庭の端に黒い列が見えた。

 葬列だ。

 学校にまで来た。

 先頭に高瀬湊。

 その後ろに遼。

 黒い服の人々。

 そして、列の脇に灰色のコートの男。

 未来の僕。

 彼はこちらを見ていた。

 僕は窓を開けた。

 雨が吹き込んでくる。

 千紗が止めようとしたが、僕は身を乗り出した。

「何を隠してる!」

 雨の向こうで、未来の僕が口を開いた。

 声は、はっきり届いた。

「昨日、お前は遼を助けた」

「それは聞いた!」

「昨日、お前は高瀬を戻した」

「その結果は?」

 未来の僕は、少しだけ目を伏せた。

「昨日、お前は水瀬を忘れた」

 千紗が息を呑んだ。

 僕は言葉を失った。

 未来の僕は続けた。

「昨日、お前は真柴を忘れた」

 真柴の顔が青ざめる。

「昨日、お前は大野を忘れた」

 廊下の向こうで、大野の声が聞こえた。

 こちらへ走ってくる足音。

「昨日、お前は、遼以外の全員を忘れた」

 雨の音が強くなる。

「そして遼は、生きていた」

 未来の僕は、僕を見た。

「名前を呼ばれない世界で、一人だけ」

 その言葉の意味が、少しずつ理解されていく。

 未来の僕は、遼を助けた。

 高瀬も戻した。

 その代償として、周囲の人間を忘れた。

 水瀬も、真柴も、大野も、他の誰も。

 遼は生きた。

 だが、遼を知る人々が消えた。

 名前を呼ぶ者のいない世界で、遼だけが残った。

 それは、本当に助かったと言えるのか。

 未来の僕は、静かに言った。

「遼を生かすことと、遼を遼のまま残すことは違う」

 その言葉は、雨より冷たかった。

 大野が教室に入ってきた。

「佐倉!」

 僕は窓の外を見たまま言った。

「先生、見えますか」

 大野は窓の外を見た。

 顔が強ばる。

「見える」

 千紗も真柴も、窓の外を見ていた。

 全員が見ている。

 葬列は、もう僕だけのものではなくなっていた。

 未来の僕が言った。

「助けるな」

 僕は首を横に振った。

「助ける」

「お前はまた失う」

「失わない方法を探す」

「ない」

 鈴が鳴った。

 ちりん。

 未来の僕の背後に、新しい人影が現れた。

 黒い服の誰か。

 また列が増えた。

 僕は叫んだ。

「また嘘をついたな!」

 未来の僕は黙っていた。

「ないって言ったから、増えた。つまり、あるんだ」

 雨の中で、未来の僕の顔が歪んだ。

 それは怒りではなかった。

 泣きそうな顔だった。

 僕は続けた。

「方法はある。あんたは知ってる。でも失敗した。だから、ないことにしたいんだ」

 未来の僕は答えない。

「僕は、あんたと同じにはならない」

 その言葉を言った瞬間、未来の僕の姿が大きく揺れた。

 葬列の中で、遼が顔を上げる。

 遠すぎて表情は見えない。

 でも、彼の唇が動いた。

 凪人。

 そう呼んだ気がした。

 僕は窓枠を握った。

「北原遼!」

 千紗も叫ぶ。

「北原遼!」

 真柴が続く。

「北原遼!」

 大野も、少し遅れて叫んだ。

「北原遼!」

 雨の向こうで、遼の輪郭がわずかに濃くなる。

 高瀬湊が振り返る。

 僕は次に彼の名前を呼んだ。

「高瀬湊!」

 千紗も、真柴も、大野も続いた。

「高瀬湊!」

「高瀬湊!」

「高瀬湊!」

 葬列が揺れた。

 黒い服の人々が、顔を上げる。

 それぞれの顔には、名前を失った空白があった。

 僕は理解した。

 遼と高瀬だけではない。

 列に並ぶ全員が、名前を待っている。

 誰かに呼ばれるのを待っている。

 未来の僕は、それを一人でやろうとしたのだ。

 一人で遼を助け、一人で高瀬を戻し、一人で全員の名前を背負おうとした。

 だから壊れた。

 だから灰色のコートを着て、葬列の脇に立つしかなくなった。

 僕は一人ではない。

 千紗がいる。

 真柴がいる。

 大野がいる。

 遼の母親もいる。

 名前を呼ぶ人間を増やせば、誰か一人に記憶の負担が偏らないのではないか。

 それが、未来の僕が失敗した場所なのではないか。

 僕は振り返った。

「先生」

「何だ」

「クラス全員に、名前を書かせてください」

「名前?」

「忘れたくない人の名前を。自分の名前も。友達の名前も。北原遼と高瀬湊の名前も」

 大野は一瞬だけ戸惑い、それから頷いた。

「わかった」

「水瀬、真柴」

「うん」

「手伝って」

 千紗はすぐに頷いた。

 真柴は少し青い顔のまま、それでも言った。

「やる」

 未来の僕が窓の外でこちらを見ている。

 その表情は、もう読めなかった。

 ただ、彼の背後でまた鈴が鳴った。

 ちりん。

 列はまだ止まっていない。

 でも、僕は初めて、ほんの少しだけ道が見えた気がした。

 名前は一人で背負うものではない。

 呼び合うものだ。

 遼を遼のまま戻すには、遼を知る人間たちが、遼の名前を呼ばなければならない。

 高瀬を戻すには、高瀬の名前を誰かが思い出さなければならない。

 そして、未来の僕を止めるには。

 僕自身が、彼の名前を呼ぶ必要があるのかもしれない。

 佐倉凪人。

 未来の僕もまた、名前を失いかけているのではないか。

 雨が教室に吹き込んでいた。

 机の上のノートが濡れる。

 そこに書かれた遼の文字が、少しだけ滲んだ。

 俺だけが戻るのは違う。

 僕はその文字の下に、ペンで書き足した。

 違う。

 お前だけじゃ戻さない。

 窓の外で、未来の僕が目を伏せた。

 そして、雨の向こうから遼の声が聞こえた。

 微かで、途切れそうで、それでも確かに遼の声だった。

「凪人」

 僕は顔を上げた。

 遼の姿は見えない。

 でも、声だけが届いている。

「俺を、ちゃんと呼べ」

 僕は答えた。

「呼ぶ」

 雨音の中で、鈴が鳴った。

 今度は、遠くではなく、教室の中で。

 ちりん。



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