第七章 未来の僕は嘘をつく
遼の鞄は、雨に濡れていた。
橋の下のコンクリートの上に、それだけが残されていた。黒い通学鞄。角に貼られた安っぽい交通安全の反射シール。遼が「夜道で俺だけ助かる仕様」と言って笑っていた、あのシールだ。
僕は膝をついて、鞄に手を伸ばした。
触れる直前、指が止まる。
濡れている。
現実の雨で濡れているのか、葬列の雨で濡れているのか、わからなかった。
それでも触れた。
冷たかった。
中まで水を吸っているように重い。僕は鞄を持ち上げ、胸に抱えた。遼のものなのに、遼の体温は残っていなかった。代わりに、川底から引き上げた石のような冷たさがあった。
千紗が隣に膝をついた。
「北原は」
声が震えていた。
僕は答えられなかった。
橋の下に、遼はいない。
高瀬湊もいない。
黒い服の葬列も、濡れた肩の人々も、灰色のコートの男も消えていた。残っているのは、雨の音と、川の流れと、遼の鞄だけだった。
大野が少し離れた場所で警察に電話をしている。
「北沢川原の橋の下です。北原の鞄を発見しました。本人はいません。ええ、生徒二名と私が確認しています。はい、すぐに」
いつもの担任の声ではなかった。
教師としてではなく、一人の大人として、ぎりぎりのところで冷静さを保っている声だった。
僕は鞄のファスナーを開けた。
千紗が息を呑む。
「勝手に見ていいの?」
「手がかりがあるかもしれない」
自分に言い聞かせるように言った。
中には、教科書、濡れたノート、筆箱、折り畳み傘、空のペットボトル、丸められたプリントが入っていた。財布はない。今使っているスマートフォンもない。
教科書の端は湿っているのに、文字は読める。ノートの紙は波打っていた。僕はそれを一冊ずつ開いた。
数学。
英語。
現代文。
どれも遼らしく、ところどころに意味のない落書きがある。教師の似顔絵。眠い、という文字。購買のパンランキング。僕の名前もいくつかあった。
佐倉はツッコミが遅い。
佐倉はたまに目が死んでいる。
佐倉、弁当食え。
そんな落書きが、濡れた紙の上に残っている。
胸が詰まった。
遼はここにいた。
いたのに、今はいない。
現代文のノートの最後のページで、手が止まった。
雨に滲んだ文字があった。
遼の字だった。
高瀬湊。
何度も書かれている。
高瀬湊。
高瀬湊。
高瀬湊。
その下に、小さく一行。
俺が忘れた。
僕は息を吸うのを忘れた。
遼は、思い出していた。
完全ではなかったにしても、高瀬湊の名前に近づいていた。だからここへ来た。だから河川敷で川を見ていた。だから葬列の中で、高瀬の名前を呼べた。
いや、呼べたのは僕が先だった。
でも遼の中にも、名前は戻りかけていたのだ。
千紗がノートを覗き込んだ。
「高瀬湊」
彼女が名前を口にした瞬間、橋の下の空気が揺れた。
遠くで鈴が鳴った。
ちりん。
僕は周囲を見回した。
葬列は見えない。
だが、音だけは残っている。
「高瀬湊って、先頭の子だよね」
「うん」
「北原、思い出してたんだ」
「たぶん」
千紗は唇を噛んだ。
「だったら、何で連れていかれたの」
「わからない」
僕はノートのページをめくった。
次のページには、また別の言葉が書かれていた。
俺だけが戻るのは違う。
その文字は、他より強く書かれていた。紙が少し破れている。遼がどんな気持ちでその一行を書いたのか、考えるだけで胃の奥が重くなった。
俺だけが戻るのは違う。
それは、遼らしい言葉だった。
普段は軽くて、自分勝手に見えるところもある。けれど、最後の最後で妙なところに律儀になる。自分が助かることで誰かが消えるなら、遼はたぶん喜べない。
千紗が低く言った。
「馬鹿」
それは遼に向けた言葉だった。
「ほんと、馬鹿」
雨が強くなった。
大野が電話を終えて戻ってきた。
「警察が来る。北原の鞄は触らない方がいい」
「もう触りました」
「だろうな」
大野は怒らなかった。
怒る余裕がないのかもしれない。
「何かわかったか」
僕はノートを見せた。
高瀬湊。
俺が忘れた。
俺だけが戻るのは違う。
大野はページを見つめ、眉をひそめた。
「高瀬湊」
「先生、覚えていますか」
「いや」
「中学の同級生です。僕と遼の」
「この学校の生徒ではないんだな」
「はい。でも、今起きていることの中心にいると思います」
大野は黙って頷いた。
もう否定しない。
それが今はありがたかった。
その時、僕のスマートフォンが震えた。
遼の番号だった。
画面を見た瞬間、千紗も大野も近づいた。
表示された文面は短かった。
『遼は助からない』
僕の中で、何かが冷たく固まった。
千紗が画面を見て、息を呑んだ。
「何これ」
大野が低く言う。
「誰が送っている」
僕は返信欄に指を置いた。
『誰だ』
既読はすぐについた。
返事。
『昨日、お前はそれを知った』
未来の僕だ。
少なくとも、そう思わせる文体だった。
昨日。
お前。
過去形。
僕は打った。
『遼はどこにいる』
既読。
『葬列の中』
『どうすれば出せる』
既読。
少し間が空いた。
雨音だけが強くなる。
返事。
『出せない』
千紗が画面を見たまま、震える声で言った。
「嘘でしょ」
僕は同じことを思った。
嘘であってほしい。
いや、嘘だ。
そうでなければ困る。
僕は打った。
『高瀬湊を思い出した。遼も思い出した。それでも駄目なのか』
既読。
『遼は助からない』
また同じ言葉。
遼は助からない。
その文面を見た瞬間、橋の下で鈴が鳴った。
ちりん。
そして、僕たちの目の前に黒い服の人影が一つ現れた。
突然だった。
空気の中に滲みが生まれ、それが人の形を取る。黒い喪服。濡れた肩。閉じた傘。顔は伏せている。
千紗が叫びそうになり、口を押さえた。
大野は一歩後退した。
人影は、遼の鞄のすぐ後ろに立っていた。
列ではない。
ただ一人だけ。
それでも、わかった。
葬列に新しい誰かが増えたのだ。
僕はスマートフォンを握りしめた。
未来の僕の言葉。
遼は助からない。
その直後に現れた人影。
胸の奥で、ばらばらだった断片が繋がった。
「嘘だ」
僕は呟いた。
千紗が僕を見る。
「何が?」
「遼は助からないって言葉。あれは嘘だ」
「どうしてわかるの」
「嘘をつくと、列が増える」
自分で言って、背筋が冷えた。
未来の僕は嘘をついた。
だから列に一人増えた。
以前にもあった。未来の僕が「遼は助からない」と言った時、葬列に一人増えた。あの時は気づかなかった。いや、気づきかけていたのに、確信できなかった。
でも今は違う。
目の前で起きた。
未来の僕は嘘をつける。
ただし、嘘をつくと葬列が増える。
千紗が画面を見た。
「じゃあ、北原を助ける方法はあるってこと?」
「ある」
僕は言った。
そう信じるしかなかった。
「あるから、あいつは嘘をついた」
大野が低く言った。
「その未来のお前は、なぜ嘘をつく」
「わかりません」
「お前たちを諦めさせたいのか」
「たぶん」
「なぜ」
その答えも、もう薄々わかっていた。
未来の僕は、同じことを経験している。
遼を助けようとした。
高瀬を思い出そうとした。
誰かの名前を呼び戻そうとした。
そして失敗した。
失敗した結果が、あの灰色のコートの男だ。
だから彼は、僕に同じ道を辿らせたくない。
あるいは、同じ道を辿らせた上で、どこかで選択を変えさせたい。
どちらにしても、彼はすべてを話していない。
僕は返信した。
『嘘をつくと列が増えるんだな』
既読。
返事は来ない。
『遼を助ける方法はある』
既読。
沈黙。
『あんたは知っている』
既読。
しばらくして、画面に文字が表示された。
『昨日、お前は助けた』
僕は息を止めた。
助けた。
遼を?
『誰を』
既読。
『昨日、お前は遼を助けた』
千紗が画面を見て、顔を上げた。
「助けたんだ」
僕は頷いた。
だが、喜べなかった。
未来の僕は、いつも大事な続きを隠す。
僕は打った。
『その結果、何が起きた』
既読。
返事はなかった。
代わりに、橋の下の人影が一歩こちらへ近づいた。
黒い服の裾から、水が滴っている。
大野が僕たちの前に立った。
「下がれ」
教師としてではなく、大人としての反応だった。
だが、その人影は僕らに危害を加えるわけではなかった。
ゆっくり顔を上げる。
見覚えのある顔だった。
しかし名前が出てこない。
僕の頭に痛みが走った。
まただ。
新しく列に増えた人間。
今度は誰だ。
千紗が隣で息を呑んだ。
「先生」
大野が振り返る。
「今の人」
「知っているのか」
「たぶん、同じ学校の人です」
僕もそう感じていた。
見覚えがある。
学校の廊下。職員室の前。図書室。どこかで見た顔だ。
けれど名前が出ない。
それはつまり、この人物も消えかけているということだ。
僕は頭を押さえた。
遼を助ける手がかりを掴むほど、別の誰かが葬列に近づく。
名前を呼べば戻る。
でも順番を間違えると、さらに誰かが押し出される。
未来の僕は、これを知っている。
だから諦めさせようとしている。
遼は助からない、と嘘をついて。
僕のスマートフォンが震えた。
『助けるな』
続けて。
『お前は、助けたあとに後悔する』
僕は画面を睨んだ。
「勝手に決めるな」
声が出ていた。
千紗が僕を見た。
僕はスマートフォンに向かって言った。
「後悔するかどうかは、今の僕が決める」
返信はない。
「遼を助けた結果、誰かが消えたんだろ。あんたはそれを見たんだろ。だから怖いんだろ」
雨が激しくなる。
スマートフォンの画面に水滴が落ちる。
「でも、嘘をついて僕を止めるなら、あんたも同じだ。誰かを消してる」
画面がちらついた。
文字が浮かぶ。
『昨日、お前は同じことを言った』
僕は奥歯を噛んだ。
そうか。
未来の僕も、かつて同じ怒りを持っていた。
同じ言葉を口にした。
それでも、今あの男は僕を止めている。
なら、その先で何を見たのか。
僕は知る必要がある。
警察のサイレンが遠くで聞こえた。
大野が振り返る。
「警察が来る。いったんここを離れるぞ」
「でも」
「北原の鞄は警察に渡す。手がかりは写真に撮ったか」
「はい」
「なら、ここに残ってもできることはない」
正しい。
けれど、足が動かない。
葬列の新しい人影は、橋の下に立ったまま僕を見ている。顔は見えているはずなのに、名前が出ない。名前を呼ばなければ、彼も前へ進んでしまう。
でも、今ここでその名前を探せば、遼から意識が逸れる。
順番を間違えるな。
未来の僕の言葉が蘇る。
僕は鞄から真柴が書いてくれた紙を取り出した。
水瀬千紗。
北原遼。
真柴悠斗。
佐倉凪人。
高瀬湊。
最後の空欄に、震える指で高瀬の名前を書き足した。
そして、その下に小さく書いた。
名前不明。
今、橋の下に現れた人物。
忘れないための仮の杭。
名前ではない。
それでも、何もないよりはましだと思った。
人影は、それを見たように少しだけ俯いた。
警察が来た。
そこから先は、現実の手続きになった。
遼の鞄が発見されたこと。本人が見つからないこと。僕たちが昨日ここで遼に会ったこと。大野が教師として説明し、僕と千紗も事情を聞かれた。
葬列の話はできなかった。
高瀬湊のことも、未来の僕のことも、スマートフォンの不可解なメッセージも、すべて話せる形にはならなかった。
ただ、遼がここにいた。
その証拠だけが、現実に残った。
遼の鞄。
濡れたノート。
高瀬湊の名。
俺が忘れた、という文字。
俺だけが戻るのは違う、という言葉。
警察は捜索範囲を広げると言った。川沿い、駅周辺、防犯カメラ、聞き込み。大人たちは正しい手順で動き始めた。
でも、僕にはわかっていた。
正しい手順だけでは遼に届かない。
遼は今、葬列の中にいる。
生きているか死んでいるかという問題ではなく、名前と記憶の境目に立っている。
そこへ行くには、僕たちが忘れたものを思い出すしかない。
学校へ戻る車の中、誰も喋らなかった。
大野は運転に集中しているように見えたが、顔色は悪かった。千紗は後部座席で自分の手を見つめている。僕は助手席で遼のノートを膝に置いていた。
大野がふいに言った。
「佐倉」
「はい」
「その未来のお前は、本当にお前なのか」
僕はすぐには答えられなかった。
「顔は、僕です」
「顔が同じでも、味方とは限らない」
「わかっています」
「いや、わかっていない」
大野の声は硬かった。
「お前は、その男の言葉を信じすぎている。疑っているようで、結局その男が示した方へ進んでいる」
その通りだった。
昨日しか話せない。
そう言われて、僕は彼の言葉をルールのように受け取っていた。
でも、彼は嘘をついた。
遼は助からない、と。
そして、その嘘で葬列に一人増えた。
「先生は、どう思いますか」
「わからない」
「正直ですね」
「わからないことをわかると言う教師は信用するな」
少しだけ、いつもの大野に戻った声だった。
彼は続けた。
「だが、ひとつだけ言える。未来の自分だろうが、過去の友人だろうが、誰か一人の言葉だけで動くな。複数の証拠を見ろ。複数の人間で確認しろ。推理と同じだ」
その言葉は、妙に腑に落ちた。
推理。
そうだ。
これは怪異ではあるが、同時に謎でもある。
葬列にはルールがある。
名前を呼ぶと戻れる。
嘘をつくと列が増える。
忘れられた順に前へ進む。
未来の僕は昨日のことを語るが、すべてを語るわけではない。
なら、感情だけで走るのではなく、ルールを組み立てなければならない。
遼を助けるために。
「先生」
「何だ」
「高瀬湊について調べたいです」
「中学の同級生だったな」
「はい。でも、僕も遼も忘れていました。記録が消えている可能性があります。でも、完全には消えていない。卒業アルバムには滲んだ形で残っていました」
「中学に問い合わせる」
「お願いします」
「お前は?」
「遼のノートを調べます。それと、スマホのメッセージを全部保存します。消えるかもしれないので」
大野は頷いた。
「水瀬」
「はい」
「君は佐倉を見張っていろ」
千紗が顔を上げた。
「見張る?」
「勝手に走るなと言っても走る。なら、誰かが横にいた方がいい」
「わかりました」
千紗は真面目に頷いた。
僕は少し不満だった。
「僕、そんなに信用ないですか」
大野と千紗が同時に言った。
「ない」
否定できなかった。
学校に戻ると、夕方になっていた。
職員室の一角で、大野は中学への問い合わせを始めた。僕と千紗は空き教室を借り、遼のノートと卒業アルバム、スマートフォンのスクリーンショットを並べた。
真柴も呼んだ。
彼は最初こそ「俺、部活あるんだけど」と言っていたが、遼の鞄が見つかったことを聞くと黙った。そして、机に置かれた紙を見て、眉をひそめた。
「高瀬湊」
「覚えてる?」
僕が訊くと、真柴は首を振った。
「知らない。けど」
「けど?」
「字面が、何か嫌だ」
「嫌?」
「見てると頭が痛くなる」
千紗が僕を見た。
やはり、高瀬の名前には力がある。
記憶の奥に触れる。
僕は真柴に説明した。
高瀬湊が中学の同級生だったらしいこと。雨の日の写真に写っていたこと。遼を助けた可能性があること。そして今、葬列の先頭にいること。
真柴は黙って聞いていた。
全部を信じたわけではないだろう。
でも、自分が一度忘れられかけたという事実がある。真柴はそれを完全には覚えていないが、名前を呼ばれた時の感覚だけは残っているらしい。
「俺さ」
真柴が言った。
「昨日の夜、夢見たんだよ」
「どんな?」
「教室で、誰も俺の名前を呼ばない夢。俺はいるのに、みんな俺の机を避けて通る。佐倉が何か叫んでるんだけど、聞こえない。で、最後に名前を呼ばれて目が覚めた」
「誰に?」
「わからない。でも、声はお前だった気がする」
僕は黙った。
葬列の中の記憶は、夢の形で残るのかもしれない。
千紗も言った。
「私も似た感じだった。教室にいるのに、誰も見ない。名前を呼ばれて戻った」
「じゃあ、遼も」
真柴が言いかけて、止まった。
遼も今、同じ場所にいるのかもしれない。
名前を呼ばれるのを待っている。
だが、ただ北原遼と呼ぶだけでは足りない。
遼自身が、高瀬湊の名前を呼ぶ必要がある。
そしておそらく、高瀬湊もまた、遼を呼ばなければならない。
互いに名前を呼ぶ。
それが、葬列から出る条件なのかもしれない。
僕たちは手がかりを整理した。
紙に書き出す。
北原遼。
高瀬湊。
水瀬千紗。
真柴悠斗。
葬列。
未来の凪人。
雨の日の写真。
北沢川原。
橋の下。
名前。
嘘。
書けば書くほど、見えない中心が浮かび上がってくる。
高瀬湊。
この名前が鍵だ。
しかし、彼を思い出すほど遼が薄くなる。
なぜなのか。
真柴が遼のノートをめくっていて、ふと手を止めた。
「これ」
彼が指したページに、遼の走り書きがあった。
昨日見たページとは別のノートだった。
そこには、短い会話のようなものが書かれている。
高瀬は怒っていない。
高瀬は待っている。
俺が呼べば戻る。
でも、俺が呼ぶと俺が行く。
僕はその文字を見つめた。
俺が呼ぶと俺が行く。
つまり、遼が高瀬の名前を呼ぶことには代償がある。
高瀬を戻す代わりに、遼が葬列へ入る。
橋の下で起きたこと、そのままだった。
千紗が震える声で言った。
「じゃあ、北原はわかってて呼んだの?」
「たぶん」
「馬鹿じゃないの」
彼女は同じ言葉を繰り返した。
でも、その声には怒りより悲しみがあった。
僕はノートの続きを読んだ。
俺だけが戻るのは違う。
あいつを置いていくのは二回目になる。
二回目。
僕の中で何かが引っかかった。
「二回目?」
千紗が言った。
「一回目は、雨の日?」
そうだ。
あの日、僕たちは高瀬を置いてきた。
少なくとも、遼はそう感じている。
高瀬は遼を助けた。
その結果、高瀬が消えた。
遼はそれを忘れた。
忘れたことで生きてきた。
そして今、思い出した。
だから、もう一度置いていくことができなかった。
僕はノートを握りしめた。
「遼は助けられた側なんだ」
誰も何も言わなかった。
「だから、今度は助ける側になろうとしている」
それが遼の選択だった。
自分だけが戻るのは違う。
高瀬を置いていくのは二回目になる。
だから、葬列に入った。
未来の僕は、それを知っていた。
だから「遼は助からない」と嘘をついた。
僕に追わせないために。
これ以上、遼の選択を壊させないために。
でも、それは違う。
遼が自分を犠牲にすることを、正しい選択にしてはいけない。
高瀬を戻す。
遼も戻す。
誰か一人を選ぶのではなく、全員の名前を繋ぐ。
無茶だ。
でも、それ以外に納得できる答えはなかった。
その時、教室の蛍光灯がちらついた。
一度。
二度。
窓の外が暗くなる。
雨が降り始めた。
学校の窓ガラスを、雨粒が叩く。
千紗が窓の外を見た。
「さっきまで晴れてたのに」
真柴が顔をしかめる。
「何か、寒くね?」
僕は立ち上がった。
窓の向こう、校庭の端に黒い列が見えた。
葬列だ。
学校にまで来た。
先頭に高瀬湊。
その後ろに遼。
黒い服の人々。
そして、列の脇に灰色のコートの男。
未来の僕。
彼はこちらを見ていた。
僕は窓を開けた。
雨が吹き込んでくる。
千紗が止めようとしたが、僕は身を乗り出した。
「何を隠してる!」
雨の向こうで、未来の僕が口を開いた。
声は、はっきり届いた。
「昨日、お前は遼を助けた」
「それは聞いた!」
「昨日、お前は高瀬を戻した」
「その結果は?」
未来の僕は、少しだけ目を伏せた。
「昨日、お前は水瀬を忘れた」
千紗が息を呑んだ。
僕は言葉を失った。
未来の僕は続けた。
「昨日、お前は真柴を忘れた」
真柴の顔が青ざめる。
「昨日、お前は大野を忘れた」
廊下の向こうで、大野の声が聞こえた。
こちらへ走ってくる足音。
「昨日、お前は、遼以外の全員を忘れた」
雨の音が強くなる。
「そして遼は、生きていた」
未来の僕は、僕を見た。
「名前を呼ばれない世界で、一人だけ」
その言葉の意味が、少しずつ理解されていく。
未来の僕は、遼を助けた。
高瀬も戻した。
その代償として、周囲の人間を忘れた。
水瀬も、真柴も、大野も、他の誰も。
遼は生きた。
だが、遼を知る人々が消えた。
名前を呼ぶ者のいない世界で、遼だけが残った。
それは、本当に助かったと言えるのか。
未来の僕は、静かに言った。
「遼を生かすことと、遼を遼のまま残すことは違う」
その言葉は、雨より冷たかった。
大野が教室に入ってきた。
「佐倉!」
僕は窓の外を見たまま言った。
「先生、見えますか」
大野は窓の外を見た。
顔が強ばる。
「見える」
千紗も真柴も、窓の外を見ていた。
全員が見ている。
葬列は、もう僕だけのものではなくなっていた。
未来の僕が言った。
「助けるな」
僕は首を横に振った。
「助ける」
「お前はまた失う」
「失わない方法を探す」
「ない」
鈴が鳴った。
ちりん。
未来の僕の背後に、新しい人影が現れた。
黒い服の誰か。
また列が増えた。
僕は叫んだ。
「また嘘をついたな!」
未来の僕は黙っていた。
「ないって言ったから、増えた。つまり、あるんだ」
雨の中で、未来の僕の顔が歪んだ。
それは怒りではなかった。
泣きそうな顔だった。
僕は続けた。
「方法はある。あんたは知ってる。でも失敗した。だから、ないことにしたいんだ」
未来の僕は答えない。
「僕は、あんたと同じにはならない」
その言葉を言った瞬間、未来の僕の姿が大きく揺れた。
葬列の中で、遼が顔を上げる。
遠すぎて表情は見えない。
でも、彼の唇が動いた。
凪人。
そう呼んだ気がした。
僕は窓枠を握った。
「北原遼!」
千紗も叫ぶ。
「北原遼!」
真柴が続く。
「北原遼!」
大野も、少し遅れて叫んだ。
「北原遼!」
雨の向こうで、遼の輪郭がわずかに濃くなる。
高瀬湊が振り返る。
僕は次に彼の名前を呼んだ。
「高瀬湊!」
千紗も、真柴も、大野も続いた。
「高瀬湊!」
「高瀬湊!」
「高瀬湊!」
葬列が揺れた。
黒い服の人々が、顔を上げる。
それぞれの顔には、名前を失った空白があった。
僕は理解した。
遼と高瀬だけではない。
列に並ぶ全員が、名前を待っている。
誰かに呼ばれるのを待っている。
未来の僕は、それを一人でやろうとしたのだ。
一人で遼を助け、一人で高瀬を戻し、一人で全員の名前を背負おうとした。
だから壊れた。
だから灰色のコートを着て、葬列の脇に立つしかなくなった。
僕は一人ではない。
千紗がいる。
真柴がいる。
大野がいる。
遼の母親もいる。
名前を呼ぶ人間を増やせば、誰か一人に記憶の負担が偏らないのではないか。
それが、未来の僕が失敗した場所なのではないか。
僕は振り返った。
「先生」
「何だ」
「クラス全員に、名前を書かせてください」
「名前?」
「忘れたくない人の名前を。自分の名前も。友達の名前も。北原遼と高瀬湊の名前も」
大野は一瞬だけ戸惑い、それから頷いた。
「わかった」
「水瀬、真柴」
「うん」
「手伝って」
千紗はすぐに頷いた。
真柴は少し青い顔のまま、それでも言った。
「やる」
未来の僕が窓の外でこちらを見ている。
その表情は、もう読めなかった。
ただ、彼の背後でまた鈴が鳴った。
ちりん。
列はまだ止まっていない。
でも、僕は初めて、ほんの少しだけ道が見えた気がした。
名前は一人で背負うものではない。
呼び合うものだ。
遼を遼のまま戻すには、遼を知る人間たちが、遼の名前を呼ばなければならない。
高瀬を戻すには、高瀬の名前を誰かが思い出さなければならない。
そして、未来の僕を止めるには。
僕自身が、彼の名前を呼ぶ必要があるのかもしれない。
佐倉凪人。
未来の僕もまた、名前を失いかけているのではないか。
雨が教室に吹き込んでいた。
机の上のノートが濡れる。
そこに書かれた遼の文字が、少しだけ滲んだ。
俺だけが戻るのは違う。
僕はその文字の下に、ペンで書き足した。
違う。
お前だけじゃ戻さない。
窓の外で、未来の僕が目を伏せた。
そして、雨の向こうから遼の声が聞こえた。
微かで、途切れそうで、それでも確かに遼の声だった。
「凪人」
僕は顔を上げた。
遼の姿は見えない。
でも、声だけが届いている。
「俺を、ちゃんと呼べ」
僕は答えた。
「呼ぶ」
雨音の中で、鈴が鳴った。
今度は、遠くではなく、教室の中で。
ちりん。




