第六章 名前を呼ばれた者
雨の日の写真の中で、遼の顔が少しだけ流れていた。
紙の表面が濡れているわけではない。指で触れても乾いている。けれど、写真の中の遼だけが、雨に打たれた水彩画のように輪郭を失い始めていた。頬の線が薄くなり、目元が滲み、笑っているのか泣いているのかわからない顔になっている。
その横で、名前の思い出せない少年の輪郭は、逆に少し濃くなっていた。
遼が薄くなり、少年が濃くなる。
まるで、誰かの存在が誰かの存在を押しのけているようだった。
僕は写真を机の上に置いたまま、しばらく動けなかった。
北原家の二階。遼の部屋。整えられた本棚。机の上の古いスマートフォン。壁に貼られたライブのポスター。昨日までなら、そこにあるものは全部、遼の気配そのものだった。
今は違う。
この部屋の中に、遼はいない。
遼のものばかりが残っているのに、肝心の遼だけが抜け落ちている。
母親は部屋の入口に立ったまま、両手を胸の前で握りしめていた。僕が写真に向かって水瀬千紗の名前を繰り返し呼んだ時も、古いスマートフォンから遼の声が再生された時も、彼女は何も言わなかった。
信じていないわけではない。
信じたくないのだと思った。
大人は、不思議なことを簡単には信じない。信じないことで日常を守っている。子どもよりずっと多くの現実を知っているから、現実から外れたものを見た時、まず現実の側へ引き戻そうとする。
でも、それができないものもある。
目の前の写真は、もうそういうものだった。
「佐倉くん」
母親が、掠れた声で言った。
「遼は、どこにいるの」
答えられなかった。
僕のところに遼からメッセージは届いている。けれど、それを送っているのが本当に遼なのか、もうわからない。遼の古いスマートフォンには、本人の声で水瀬千紗の名を呼ぶ音声が残っていた。だが、それがいつ録られたものなのかもわからない。
わかっているのは、遼が昨夜家に帰っていないこと。
そして、葬列の中に遼の鞄を持った人影が現れたこと。
それだけだった。
「探します」
僕は言った。
母親は僕を見た。
「どこを」
「まだ、わかりません。でも、手がかりはあります」
「手がかり?」
僕は写真を見た。
川沿いの道。雨。僕と遼。そして、滲んだ少年。
「この写真に写っていた人の名前を思い出せば、何かがわかると思います」
「名前……」
母親は小さく繰り返した。
「おばさんは、この子を覚えていませんか」
写真を向ける。
彼女はしばらく見つめていた。
滲んだ部分に、目を凝らしている。眉間に皺が寄る。何かが喉元まで出かかっているような顔だった。
「わからない」
「本当に?」
「でも」
母親は唇を押さえた。
「ここに、誰かがいた気はする」
またそれだ。
誰もが同じところで止まる。
顔はある。気配はある。思い出の輪郭はある。なのに、名前だけが抜け落ちている。
名前を奪われた者は、現実から消えていく。
未来の僕が言ったわけではない。
でも、もう疑いようがなかった。
「遼は、この人のことを話したことがありますか」
「わからないわ」
「中学の時、川で事故があったんですよね」
母親の顔が強ばった。
「誰から聞いたの」
「昨日、遼が北沢川原にいました。あの場所に来たことがある気がすると言っていました。水門の近くで、僕も少し思い出しかけました」
母親は椅子に腰を下ろした。
立っていられなくなったようだった。
「詳しいことは、私も知らないの」
「遼は話さなかった?」
「ええ。学校からも、たいした事故ではなかったと聞いたわ。川沿いでふざけていて、少し危ないことがあった。でも誰も怪我はしていない。そう説明された」
「誰も怪我をしていない?」
「少なくとも、そう聞いた」
ありえない。
僕の中に残る断片は、そんな軽いものではなかった。
雨。川。遼の叫び声。僕の擦りむいた膝。誰かの手。
あの日、何かが起きた。
でも、学校も、親も、本人たちも、それを「たいしたことではなかった」と処理した。
いや、処理させられたのかもしれない。
誰かの名前が抜き取られ、その存在が周囲の記憶から消えたなら、事故そのものも薄まる。誰かが助けたという事実も、誰かがそこにいたという記録も、全部が曖昧になる。
残るのは、僕と遼の写真。
そこに写る、雨で滲んだ空白だけ。
「中学の卒業アルバムはありますか」
僕が訊くと、母親は少し考えてから頷いた。
「たぶん、この棚に」
遼の本棚の下から、厚いアルバムが出てきた。
表紙には学校名と年度が金色で印字されている。僕の家にも同じものがあるはずだが、ここ数年開いた覚えがない。
アルバムを机の上に置き、ページをめくった。
教師の集合写真。
校舎の写真。
行事の写真。
クラス写真。
僕たちのクラスのページで、手が止まった。
遼が写っている。
僕もいる。
名前の一覧が下に並んでいる。
だが、一箇所だけ、灰色に滲んでいた。
顔写真の一つが、水に濡れたように崩れている。
その下の名前も読めない。
僕は息を呑んだ。
母親も、はっとしたようにアルバムに顔を近づけた。
「これ、前からこうだったかしら」
「違うと思います」
「でも、こんな」
「おばさん」
僕は滲んだ顔写真を指した。
「この人を、見たことがありますか」
母親は答えない。
目を凝らしている。
しかし、やがて力なく首を横に振った。
「わからない。でも、胸がざわざわする」
それだけでも十分だった。
アルバムには、痕跡がある。
この少年は同じ中学にいた。
僕と遼の近くにいた。
それなのに、名前も顔も消えかけている。
僕はスマートフォンで滲んだページを撮影した。
画面に保存された瞬間、写真アプリのサムネイルが揺れたように見えた。滲みはそのままだ。データにしても消えない。
僕はページの下に並ぶ名前を見た。
クラス全員の名前が五十音順で並んでいる。
しかし、顔写真の配置とは一致していない。滲んだ生徒の名前がどれなのかは、すぐにはわからない。
それでも、一覧に名前が残っているなら、候補はある。
「おばさん、このアルバム、借りてもいいですか」
母親は迷った。
「警察に見せた方が」
「もちろん見せてください。でも、僕にも調べさせてください」
「佐倉くん、あなたまで危ないことを」
「もう危ないんです」
母親は言葉を失った。
「遼は、たぶん誰かの名前を忘れています。僕も忘れています。そのせいで、あの子が戻れない。水瀬も消えかけた。真柴も一度、みんなから忘れられました」
「真柴くん?」
母親は聞き返した。
真柴の名前は覚えている。
当然だ。真柴はまだ戻っている。
「名前を呼ぶと、少し戻るんです。でも、間違えると危ないかもしれない。だから、確かめたい」
母親は僕をじっと見た。
大人にそんな話を信じろという方が無理だ。
それでも、彼女はアルバムを閉じ、僕に差し出した。
「遼を見つけて」
その声は、母親の声だった。
理屈も疑いも全部削ぎ落とした、ただ子どもを探す親の声だった。
「お願いします」
僕はアルバムを受け取った。
胸の奥が重くなった。
この人は僕に頼んでいる。
本来なら、僕などに背負えることではない。警察でも教師でもない、高校生の僕に。けれど、葬列を見ているのは僕だ。未来の自分の声を聞けるのも僕だ。
なら、僕が動くしかない。
北原家を出る時、母親は玄関で僕を呼び止めた。
「佐倉くん」
「はい」
「もし遼に会えたら、言ってほしいの」
「何を」
母親は迷った末に言った。
「進路のことは、もういいって」
僕は何も言えなかった。
「そんなつもりじゃなかったの。あの子のためだと思っていた。でも、たぶん追い詰めていたのね」
母親は小さく笑おうとして、失敗した。
「親なのに、あの子が笑ってないことに気づかなかった」
その言葉を聞いて、千紗を思い出した。
北原は、笑ってない。
彼女だけが気づいていた。
僕も、遼の母親も、大野も、クラスメイトも、遼の笑顔に安心していた。笑っているから大丈夫だと思っていた。
でも、千紗は違った。
彼女は遼の笑顔の奥にあるものを見ていた。
「伝えます」
僕は言った。
そして家を出た。
外は晴れていた。
北沢川原では雨だったのに、桜町の住宅街には午後の光が降っている。道路は乾き、植え込みの葉も濡れていない。けれど、僕の鞄の中のアルバムだけが、ずしりと湿った重さを持っているようだった。
学校へ戻るか、商店街へ行くか。
迷った末に、僕は学校へ向かった。
千紗が戻ったなら、彼女に話を聞かなければならない。遼が彼女の名を覚えていたこと、古いスマートフォンに音声を残していたこと。そして、先頭の少年の名前を探すために卒業アルバムを手に入れたこと。
校門の前に着くと、大野が立っていた。
腕を組み、明らかに僕を待っていた顔だった。
逃げるべきか一瞬考えた。
しかし、もう遅い。
「佐倉」
「すみません」
「何度目だ」
「数えてません」
「ふざけている場合か」
「ふざけてません」
大野は深く息を吐いた。
怒鳴られると思った。
だが、彼は意外にも声を抑えた。
「北原の母親から連絡があった。お前が家に来たと」
「はい」
「アルバムを持っているな」
「借りました」
「勝手なことをするなと言いたいところだが」
大野はそこで言葉を切った。
「水瀬千紗という生徒が、さっき教室に現れた」
僕は顔を上げた。
「本当に?」
「本人は、朝から学校にいたと言っている」
「みんなは?」
「誰も疑っていない」
「先生は?」
大野は苦い顔をした。
「私は、朝の時点では覚えていなかった」
「今は?」
「覚えている」
大野の声は低かった。
「それが気持ち悪い。最初から知っていたはずなのに、朝だけ完全に抜けていた。出席簿を見ても何も感じなかった。だが今は、なぜ忘れていたのかわからない」
僕は少しだけ息を吐いた。
千紗は戻った。
名前を呼び、遼の音声を聞いたことに意味があったのだ。
「先生、僕の話を信じますか」
「全部は信じられない」
大野は正直に言った。
「だが、何かが起きていることは認める」
「それで十分です」
「十分ではない。北原はまだ見つかっていない」
「はい」
「水瀬はお前に会いたがっている。職員室の隣の面談室にいる」
「わかりました」
僕が校舎へ入ろうとすると、大野が言った。
「佐倉」
「はい」
「もう勝手に消えるな」
「でも」
「必要なら、私に言え」
僕は驚いて振り返った。
大野は目を逸らさなかった。
「高校生だけで抱えるな。信じられることは少ないが、動くことはできる」
その言葉に、胸の奥が少しだけ熱くなった。
大人は役に立たないと、どこかで決めつけていた。
でも、そうではないのかもしれない。
全部を理解できなくても、動いてくれる大人はいる。
「ありがとうございます」
僕は頭を下げた。
面談室に入ると、千紗が椅子に座っていた。
制服姿。髪は少し乱れている。顔色は悪いが、確かにそこにいる。朝、教室から消えかけていた少女が、当たり前みたいに椅子に座り、僕を見るなり眉を吊り上げた。
「遅い」
それが第一声だった。
僕は思わず笑いそうになった。
「戻ってよかった」
「何それ」
「いや」
「先生から聞いた。私、朝いなかったことになってたって」
「うん」
「最悪」
「ごめん」
「何で佐倉が謝るの」
「たぶん、僕のせいでもある」
千紗は少し黙った。
「北原は?」
「まだ見つかってない」
「そう」
彼女の指が膝の上でぎゅっと握られた。
僕は椅子に座り、アルバムを机に置いた。
「遼の家に行ってきた」
「は?」
「遼は昨夜、家に帰ってない」
「でも、メッセージ」
「本人が送ったかわからない」
千紗の顔から血の気が引いた。
「じゃあ、今スマホを持ってるのは」
「わからない」
「北原じゃないかもしれない?」
「うん」
千紗は唇を噛んだ。
「私、何か覚えてる」
「何を」
「消えかけてた時のこと」
僕は身を乗り出した。
「教えて」
「変な感じだった。夢みたいで、でも夢じゃない。教室にいたのに、誰も私を見てなかった。声を出しても届かない。机も椅子もあるのに、私だけが薄くなっていく感じがした」
「怖かった?」
「怖いに決まってるでしょ」
「ごめん」
「だから何で謝るの」
千紗は少しだけ息を吐いた。
「でも、途中で声が聞こえた」
「声?」
「北原の声」
心臓が跳ねた。
「何て?」
「私の名前を呼んでた。水瀬千紗って、何度も」
遼の古いスマートフォンに残っていた音声。
あれが千紗に届いたのだ。
「それで、佐倉の声も聞こえた。名前を呼んでる声。そしたら、教室の床が戻ってきた。机の手触りが戻って、周りの音が聞こえて、気づいたら普通に座ってた」
「周りは?」
「みんな普通。私が朝からいたみたいに話しかけてきた」
千紗は自分の手を見つめた。
「正直、まだ自分が本当に戻ってるのかわからない」
「戻ってる」
「ほんとに?」
「うん」
「名前、言って」
僕は少し驚いた。
千紗は真剣な顔をしていた。
「私の名前」
僕は頷いた。
「水瀬千紗」
千紗は目を閉じた。
「もう一回」
「水瀬千紗」
「もう一回」
「水瀬千紗」
彼女は小さく息を吐いた。
「よかった。聞こえる」
僕は言葉に詰まった。
名前を呼ばれることが、こんなに重い意味を持つとは思わなかった。
普段、名前なんて何気なく呼んでいる。出席確認で、友人を呼ぶ時に、メッセージの宛名に、書類の欄に。けれど名前は、ただの記号ではない。その人がここにいると、世界へ打ち込む杭のようなものなのだ。
千紗はアルバムを見た。
「それは?」
「中学の卒業アルバム。僕と遼と、葬列の先頭の少年が同じクラスだった可能性がある」
「見せて」
僕はアルバムを開いた。
滲んだ顔写真を見せる。
千紗はしばらくそれを見ていた。
「この人が、先頭にいた少年?」
「たぶん」
「名前は?」
「まだわからない」
「一覧は?」
「ある。でも、どれが彼の名前かわからない」
千紗はページ下の名前一覧を見た。
「候補を全部呼ぶのは?」
「危ないかもしれない」
「何で」
「未来の僕が、名前には順番があるって言った。間違った名前を呼ぶと、何が起きるかわからない」
「順番」
千紗は考え込んだ。
「葬列って、並んでるんだよね」
「うん」
「忘れられた順に前へ進むって言ってたんだっけ」
「そう」
「じゃあ、先頭の少年が一番最初に忘れられた?」
「たぶん」
「でも、真柴くんや私は途中から列に近づいた。名前を呼ぶと戻れる。でも順番を間違えると、別の誰かが押し出される」
「そうだと思う」
千紗はアルバムをじっと見つめた。
「だったら、先頭の名前を呼ぶ前に、列に途中から入った人を戻す必要があるんじゃない?」
「真柴と水瀬は戻った」
「北原は?」
その一言で、部屋の空気が冷えた。
そうだ。
遼の鞄を持った人影が列にいた。
遼はまだ完全には消えていない。名前も覚えられている。母親も大野も僕も千紗も真柴も、遼を覚えている。だが、写真の中の遼は滲み始めている。
先頭の少年の名前を呼ぶ前に、遼を戻さなければならない。
そうしなければ、遼が押し出される。
「遼の名前は呼んでる」
「それだけじゃ足りないんじゃない?」
「どういう意味?」
「名前だけじゃなくて、誰が呼ぶかが大事なのかも」
千紗は自分の胸元に手を当てた。
「私を戻したのは、佐倉の声だけじゃない。北原の声も聞こえた。たぶん、私にとって北原が大事だったから」
「じゃあ、遼を戻すには」
「北原にとって大事な人が、北原を呼ぶ必要がある」
僕は黙った。
遼にとって大事な人。
母親。
僕。
千紗。
そして、写真から消えた少年。
誰の声が届くのか。
その時、面談室の扉が開いた。
大野が顔を出した。
「佐倉、水瀬。北原から連絡は?」
「まだです」
「そうか。警察から、北沢川原周辺の防犯カメラに北原らしき人物が映っていたと連絡があった」
僕と千紗は同時に立ち上がった。
「どこですか」
「駅から河川敷へ向かう道だ。昨日の夕方。その後の足取りはまだ確認中らしい」
「昨日の夕方」
僕たちが会った時刻だ。
大野は続けた。
「ただ、妙なことを言っていた」
「何ですか」
「映像では、北原は一人ではなかったらしい」
僕は息を止めた。
「誰と?」
「はっきりしないそうだ。映像が乱れていて、隣に誰かいるように見えるが、顔も服装も判別できない」
滲んだ誰か。
葬列の先頭の少年か。
それとも、黒い服の何かか。
「映像を見られますか」
僕が訊くと、大野は首を振った。
「警察のものだ。すぐには無理だ」
「そうですか」
「ただ、北原の足取りは少しずつ追えている。お前たちは勝手に動くな」
大野は強い口調で言った。
僕は頷いた。
だが、心の中では別のことを考えていた。
映像に誰かがいる。
遼は一人ではなかった。
なら、遼はまだ完全には葬列に呑まれていない。誰かと一緒にいる。あるいは、誰かに連れていかれている。
その誰かの名前を思い出せば、遼まで辿れるかもしれない。
大野が出ていったあと、千紗はアルバムの名前一覧を指でなぞった。
「佐倉、このクラスの人たち、全員覚えてる?」
「全部は無理」
「じゃあ、同窓会のグループとかないの?」
「中学の?」
「そう」
「遼なら入ってたかもしれない」
「佐倉は?」
「僕はそういうの苦手で」
「でしょうね」
「今、それ言う?」
「言う」
千紗は真剣な顔に戻った。
「北原の古いスマホに、連絡先とか残ってなかった?」
「見てない」
「見に戻る?」
「遼の家に?」
「うん」
「大野に止められる」
「先生に言って行けばいい」
千紗の方が現実的だった。
僕一人なら、また勝手に走り出していたかもしれない。だが、今は大野が少しだけ信じてくれている。なら、彼を使うべきだ。
その時、僕のスマートフォンが震えた。
遼からだった。
いや、遼の番号から。
『名前を探すな』
僕と千紗は画面を見た。
続けて、もう一通。
『思い出せば、遼が消える』
千紗が小さく息を呑んだ。
さらに一通。
『先頭は、まだ呼ぶな』
僕は返信した。
『お前は誰だ』
既読。
返事はすぐ来た。
『昨日、お前は俺を疑った』
未来の僕だ。
少なくとも、この文章は彼のものだ。
『遼のスマホを持っているのか』
既読。
『昨日、遼はスマホを落とした』
僕は千紗と顔を見合わせた。
遼はスマホを落とした。
なら、このメッセージを送っているのは、遼のスマホを拾った誰かか、あるいはスマホそのものに残された何か。
『どこで落とした』
既読。
『昨日、遼は橋の下で振り返った』
橋の下。
北沢川原の鉄橋か。
水門の近くか。
『そこにいるのか』
既読。
『昨日、遼はそこにいなかった』
意味がわからない。
昨日、遼は橋の下で振り返った。だが、そこにはいなかった。
つまり、振り返った先に、誰かがいたのか。
スマートフォンが続けて震える。
『水瀬千紗』
千紗の名前だった。
彼女が息を止める。
次の一文。
『北原遼を呼べ』
千紗は画面を見つめた。
僕は彼女を見た。
「水瀬」
「わかってる」
「無理しなくていい」
「無理するところでしょ」
千紗はスマートフォンに向かって、はっきりと言った。
「北原遼」
画面が一瞬ちらついた。
千紗はもう一度言った。
「北原遼」
僕も続けた。
「北原遼」
面談室の空気が冷たくなる。
窓ガラスに、水滴が浮かんだ。
雨など降っていないのに。
千紗は震えながらも、声を止めなかった。
「北原遼。北原遼。北原遼」
スマートフォンの画面に、文字が浮かぶ。
『聞こえた』
僕は息を呑んだ。
「遼か?」
返信はない。
ただ、画面に次の文字が表示された。
『でも、足りない』
足りない。
遼に届く声が、まだ足りない。
誰の声が必要なのか。
母親か。
僕か。
千紗か。
それとも、先頭の少年か。
その時、面談室の窓の向こうに、黒い傘を持った人影が立っているのが見えた。
ここは二階だ。
窓の外に人が立てる場所はない。
千紗も気づいた。
「佐倉」
人影は、窓の外からこちらを見ていた。
顔は見えない。
ただ、手に白い紙を持っている。
その紙を、窓に押し当てた。
水で滲んだ文字が、少しずつ浮かび上がる。
たすけて。
なまえを。
千紗が震えた。
「先頭の少年?」
「たぶん」
少年の口が動いた。
声は聞こえない。
でも、唇ははっきりと動いていた。
りょうを。
僕は目を見開いた。
少年は、遼を求めている。
自分の名前ではなく、まず遼を。
つまり、遼が彼の名前を呼ぶ必要がある。
だから足りないのだ。
僕や千紗が遼を呼んでも、遼は完全には戻らない。
遼が先頭の少年を思い出さなければ、遼自身も戻れない。
その時、窓の外の人影がふっと消えた。
水滴だけがガラスに残る。
スマートフォンが震えた。
『橋の下』
続けて。
『昨日、遼はそこで名前を聞いた』
僕は立ち上がった。
千紗も同時に立つ。
「行くんでしょ」
「うん」
「先生に言う?」
「言う」
今度は、勝手に行かない。
大野に話す。
大人を巻き込む。
それでも、僕たちも行く。
面談室を出ると、大野は廊下にいた。
まるで、僕たちが飛び出してくるのを予想していたようだった。
「どこへ行くつもりだ」
「北沢川原です」
僕は言った。
「橋の下に手がかりがあります」
「なぜわかる」
「遼のスマホからメッセージが来ました」
大野は険しい顔をした。
「見せろ」
画面を見せる。
大野はしばらく黙って読んだ。
そして、短く言った。
「私も行く」
予想外だった。
「先生が?」
「生徒二人をこれ以上勝手に行かせるわけにはいかない」
「でも」
「警察にも連絡する。北沢川原駅周辺を確認してもらう。お前たちは私の車に乗れ」
千紗が僕を見た。
僕も千紗を見た。
大野は本気だった。
そして、その本気が今はありがたかった。
校舎を出る時、真柴が廊下の向こうから走ってきた。
「佐倉!」
「真柴」
「これ」
彼は折り畳んだ紙を差し出した。
そこには、大きな字で名前が書かれていた。
水瀬千紗。
北原遼。
真柴悠斗。
佐倉凪人。
そして、最後に空欄が一つ。
「忘れそうになったら書けって言っただろ」
真柴は少し照れたように言った。
「だから書いた。あと、空欄はその先頭のやつ用。名前わかったら書け」
僕は紙を受け取った。
「ありがとう」
「北原、見つけろよ」
「うん」
「水瀬も、消えんなよ」
千紗が少し驚いた顔をした。
真柴は慌てて目を逸らした。
「いや、何か、そういう話なんだろ」
千紗は小さく笑った。
「消えない」
その笑顔を見て、僕は少しだけ救われた。
大野の車で北沢川原へ向かう道中、空は急速に暗くなっていった。
桜町ではまだ雨は降っていない。だが、北へ進むにつれて雲が厚くなる。車のフロントガラスに、ぽつりと水滴が落ちた。
ワイパーが一度だけ動く。
大野はハンドルを握りながら言った。
「佐倉、水瀬」
「はい」
「現地に着いたら、勝手に動くな。私の指示に従え」
「わかりました」
千紗も頷いた。
「それと」
大野は少し間を置いた。
「私が今から見るものを、私が信じきれなくても、二人は怒るな」
僕は大野の横顔を見た。
「先生」
「教師も万能じゃない。怖いものは怖い」
その言葉は、妙に人間らしかった。
僕は頷いた。
「僕も怖いです」
「だろうな」
「でも、行きます」
「それも、わかっている」
車は鉄橋の近くの道へ入った。
雨が強くなる。
北沢川原駅を過ぎ、河川敷へ続く細い道へ入る。昨日歩いた道だ。水門。橋。川の匂い。記憶の奥に沈んでいたものが、少しずつ浮かび上がってくる。
大野は橋の手前に車を停めた。
雨がフロントガラスを叩いている。
外には誰もいない。
しかし、僕には見えた。
橋の下。
薄暗いコンクリートの影に、黒い服の人々が一列に並んでいる。
葬列だ。
先頭には、制服姿の少年。
そして、そのすぐ後ろに、遼の鞄を持った人影が立っていた。
いや、違う。
今度は顔が見えた。
遼だった。
遼は濡れたまま、葬列の中に立っていた。
目を閉じている。
まだ完全には呑まれていない。
でも、列に並んでいる。
「先生」
僕は言った。
「見えますか」
大野はフロントガラスの向こうを見つめていた。
顔色が変わっている。
「あれは」
声が震えていた。
「何だ」
見えている。
大野にも、見えている。
千紗がドアを開けようとした。
「北原!」
「待て!」
大野が制したが、千紗は止まらなかった。
僕も飛び出した。
雨が全身を打つ。
橋の下へ走る。
葬列の人々は動かない。黒い服。濡れた肩。白い顔。閉じた傘。
遼の目が、ゆっくりと開いた。
僕は叫んだ。
「北原遼!」
千紗も叫ぶ。
「北原遼!」
大野の声が後ろから聞こえた。
「北原!」
遼の体がわずかに揺れた。
届いている。
しかし、列からは出てこない。
先頭の少年が、遼の方を見た。
その唇が動く。
な、ま、え。
遼の口も動いた。
だが、声は出ない。
呼べない。
昨日、遼は名前を呼ぼうとした。
昨日、遼は呼べなかった。
同じことが起きている。
僕は卒業アルバムを濡れないように鞄から取り出し、コートの中で開いた。滲んだ顔写真。名前一覧。候補は何十人もいる。
間違えれば危ない。
でも、このままでは遼が列に沈む。
千紗が僕の隣で言った。
「佐倉、見て」
「何」
「先頭の子、遼を見てる」
「うん」
「怒ってない」
「わかる」
「待ってるんだよ。北原が呼ぶのを」
その通りだった。
少年は、遼を責めていない。
ただ待っている。
名前を呼ばれるのを。
自分がここにいたと、遼に認められるのを。
遼がかすれた声を出した。
「ごめん」
僕は遼を見た。
遼は泣いていた。
雨ではない。
確かに涙だった。
「ごめん。俺、覚えてない。お前のこと、知ってるのに。絶対知ってるのに」
少年は静かに遼を見ている。
「助けてもらった気がする。俺、お前に助けてもらったんだろ。でも、名前が出てこない」
遼の声が崩れる。
「ごめん」
その瞬間、葬列が揺れた。
黒い服の人々が一斉に遼の方を向く。
謝罪だけでは足りない。
名前が必要なのだ。
僕は必死にアルバムを見た。
滲んだ顔写真の周囲にいた生徒。
僕。
遼。
同じ班だった生徒。
行事写真。
川沿いの写真。
遼を助けた手。
頭の中に、雨の日の断片が蘇る。
誰かが遼を呼んでいる。
危ない、と叫んでいる。
僕は転んでいる。
川へ足を滑らせたのは遼だったのか。
それとも僕か。
少年が手を伸ばす。
その時、遼は何と叫んだ。
名前だ。
遼はその時、名前を叫んだはずだ。
なのに、今は出てこない。
「遼!」
僕は叫んだ。
「その時、何て呼んだ? 思い出せ!」
「無理だ!」
「無理じゃない!」
「出てこないんだよ!」
「名前を呼ばなきゃ戻れない!」
「わかってる!」
遼の声が橋の下に響く。
「わかってるけど、出てこないんだよ!」
その瞬間、僕の頭の中で何かが割れた。
雨。
川。
遼の叫び声。
僕の擦りむいた膝。
少年の手。
そして、遼の声。
――湊!
みなと。
僕は息を止めた。
湊。
名前の断片が浮かんだ。
でも、名字は?
湊は名字か、名前か。
間違えれば。
頭痛が激しくなる。
葬列の先頭の少年が、こちらを見た。
目が合った。
彼の目は、僕にも訴えていた。
なまえを。
僕はアルバムの名前一覧を見た。
湊。
ない。
いや、名字ではないのか。
名前の欄を探す。
生徒名の中に、一つあった。
高瀬湊。
高瀬。
湊。
その文字を見た瞬間、視界が白く弾けた。
思い出が流れ込む。
中学の教室。
遼の隣で笑う少年。
真面目そうに見えて、意外と口が悪い。
字がきれいで、文化祭の看板を書いたのは真柴ではなく、真柴に教えていたこの少年だった。
雨の日、川沿いで遼が足を滑らせた。
僕は手を伸ばせなかった。
高瀬湊が先に飛び出した。
遼の腕を掴んだ。
そして。
そこで記憶が途切れた。
僕は叫んだ。
「高瀬湊!」
葬列が止まった。
少年の目が、大きく開いた。
遼が、震える声で繰り返した。
「高瀬……湊」
その瞬間、橋の下で鳴っていた雨音が消えた。
葬列の人々が、一斉に顔を伏せる。
先頭の少年――高瀬湊の輪郭が、雨の中で少しだけ濃くなった。
だが同時に、遼の体が大きく揺れた。
彼の足元が、黒い列の中へ沈み込むように見えた。
千紗が叫んだ。
「北原!」
大野も走った。
僕は遼の腕を掴もうとした。
しかし、指先は空を掴んだ。
遼の体はそこにあるのに、触れない。
まるで雨の向こうにいるようだった。
高瀬湊が遼へ手を伸ばした。
その手は、写真の中と同じだった。
遼を助けた手。
遼はその手を見て、泣きそうな顔で笑った。
「思い出した」
遼が言った。
「俺、お前に助けられてた」
高瀬湊の唇が動いた。
声は聞こえない。
でも、何と言ったかはわかった。
おそいよ。
遼が笑った。
涙を流しながら、笑った。
「ごめん」
その瞬間、灰色のコートの男が葬列の後ろに現れた。
彼は僕を見ていた。
その目に浮かんでいたのは、安堵ではない。
絶望だった。
「昨日、お前は名前を呼んだ」
男の声が雨の中に落ちた。
「そして、遼の死の未来が戻った」
僕は息を忘れた。
高瀬湊の名前を呼んだ。
少年は戻りかけた。
遼も思い出した。
それなのに。
いや、だからこそ。
葬列の中で、鈴が鳴った。
ちりん。
ちりん。
ちりん。
遼の足元に、黒い影が広がっていく。
千紗が何度も遼の名前を呼ぶ。
大野が叫ぶ。
僕も叫ぶ。
「北原遼!」
声は届いている。
でも、遼は列の中から動けない。
高瀬湊が、遼の手を握っていた。
助けるためではない。
今度は、離さないために。
遼が僕を見た。
雨の中で、いつもの困ったような笑みを浮かべた。
「凪人」
「喋るな!」
「思い出した」
「いいから出てこい!」
「俺、あいつのこと忘れてた」
「今思い出しただろ!」
「うん」
遼は頷いた。
「だから、たぶんまだ間に合う」
何が間に合うのか。
聞く前に、遼の姿が雨に滲んだ。
僕は手を伸ばした。
今度は、指先が遼の袖に触れた。
確かに触れた。
だが、その布の感触は水のように冷たかった。
遼が言った。
「俺を、ちゃんと呼べ」
「呼んでる!」
「違う」
遼は首を横に振った。
「俺だけじゃない」
その言葉の意味を考える間もなく、葬列が動き出した。
先頭に高瀬湊。
その後ろに遼。
黒い服の人々が、橋の下から川沿いの道へ進んでいく。
僕たちは追いかけようとした。
しかし、足が動かなかった。
地面に縫い止められたように、膝から下が動かない。
未来の僕だけが、列の脇に立っている。
彼は僕を見て、静かに言った。
「次に選ぶのは、お前だ」
雨音が戻ってきた。
葬列は消えた。
橋の下には、僕と千紗と大野だけが残されていた。
遼はいない。
高瀬湊もいない。
ただ、地面に落ちた黒い鞄だけがあった。
遼の鞄だった。
反射シールが、雨の中で鈍く光っていた。




