第五章 写真に降る雨
教室の空気が、一瞬で変わった。
いや、変わったのは僕の方かもしれない。
生徒たちは、いつもの朝の顔をしていた。眠そうに欠伸をする者、机の下でスマートフォンを見ている者、英単語帳をぎりぎりまでめくっている者。窓際では真柴悠斗がシャーペンの芯を詰め替えていて、前の席の女子がそれを見て「また分解してる」と呆れている。
普通の教室だった。
遼がいないことを除けば。
千紗の名前がないことを除けば。
僕だけが、そこに穴が空いているのを見ていた。
「水瀬千紗です」
僕はもう一度言った。
担任の大野は、出席簿を手にしたまま眉をひそめている。
「水瀬?」
「はい。水瀬千紗。うちのクラスの」
大野は出席簿に目を落とした。
ページをめくる。
もう一度、名簿を見る。
その動作がひどく遅く感じられた。
「佐倉」
「はい」
「お前、寝不足か」
教室の何人かが小さく笑った。
僕は笑わなかった。
「名簿に載っているはずです」
「載っていない」
「座席表には」
「座席表にもない」
「さっきまでありました」
大野の顔に、苛立ちと困惑が混じった。
「さっきまで、とはどういう意味だ」
答えられなかった。
名前が紙の上で溶けていた。
そんなことを言って、信じてもらえるはずがない。
教室の後ろから、真柴が小さく言った。
「佐倉、大丈夫か」
その声に、少しだけ現実へ引き戻された。
真柴は覚えている。
戻っている。
昨日、葬列の中で名前を呼んだ真柴悠斗は、今ここにいる。消しゴムを落とし、シャーペンを分解し、僕のことを変な目で見ている。
そのことは、確かに救いだった。
でも、救いの代わりに別の誰かが失われようとしている。
大野は出席簿を閉じた。
「とにかく座れ。北原のこともある。あとで話を聞く」
「水瀬は」
「その話もあとだ」
「あとじゃ遅いかもしれないんです」
声が大きくなった。
教室が静まる。
大野の表情が険しくなった。
「佐倉」
その一言で、僕はそれ以上言えなくなった。
大人に正面から止められると、僕は昔から弱い。反論する言葉が喉元まで来ていても、そこで引っかかる。遼なら、たぶんうまく冗談にして場を逃げる。千紗なら、真っすぐ怒れる。
けれど僕は、そのどちらもできない。
僕は席に戻った。
椅子に座ると、遼の空席が目に入った。
遼は欠席連絡あり。
大野はそう言った。
つまり遼の存在は、まだ学校に残っている。教師も生徒も、北原遼という名前を知っている。彼の机も、鞄をかけるフックも、落書きだらけの教科書も残っている。
千紗は違う。
最初からいなかったことになりつつある。
僕はスマートフォンを机の下で開いた。
千紗とのメッセージ履歴を探す。
あった。
昨日の夜、確かにやり取りしている。
『家着いたら連絡させて』
『北原に?』
『そう』
『佐倉もちゃんと寝なよ』
『無理かも』
『倒れたら面倒だから寝て』
それは千紗の言い方だった。
やや冷たく、でも心配していることがわかる言葉。
画面に残っている。
まだ消えていない。
僕はその履歴をスクリーンショットで保存した。
保存した瞬間、画面がわずかにちらついた。
千紗の名前の表示が、一瞬だけ滲んだように見えた。
心臓が強く打った。
僕はすぐに連絡先を開いた。
水瀬千紗。
登録は残っている。
電話番号も、アイコンもある。アイコンは、たしか文化祭の時に撮ったクラスの飾りを背景にした写真だった。千紗本人は写っていない。彼女らしいと思った。自分の顔をアイコンにするタイプではない。
僕は電話をかけた。
呼び出し音は鳴らなかった。
この番号は現在使われておりません。
無機質な音声が流れた。
僕は慌てて切った。
使われていないはずがない。
昨日、確かにメッセージを送ってきた。
僕はもう一度かけた。
同じだった。
この番号は現在使われておりません。
手が震えた。
授業の声が遠のく。
黒板に書かれる文字が、ただの線に見える。教師は何かを説明している。誰かがノートをめくる。真柴が消しゴムを落とし、小さく「あ」と言う。
その全部の中で、千紗だけが抜け落ちている。
僕は席を立った。
教師が振り向く。
「佐倉、またか」
「保健室に行きます」
「さっきから落ち着きがないぞ」
「本当に気分が悪いです」
嘘ではなかった。
吐き気がした。
教師が止める前に、僕は教室を出た。
廊下に出ると、空気が少し冷たかった。窓の外は晴れている。雨の気配はない。なのに、廊下の床に小さな水滴が落ちていた。
一滴。
二滴。
それは教室の前から、階段の方へ続いている。
僕は水滴を辿った。
保健室へ向かうふりをして、階段を下りる。二階の踊り場で、水滴は一度途切れた。そこには掲示板がある。進路関係のポスター、模試の案内、文化祭の写真。
文化祭の写真。
僕は足を止めた。
掲示板の端に、去年の文化祭の写真が何枚か貼られていた。クラス展示の様子、準備中の風景、校門前のアーチ。僕たちのクラスが写っている写真もあった。
真柴が看板に文字を書いている。
遼がその横でふざけてピースをしている。
僕は、画面の端で何かを持たされている。
その少し後ろ。
千紗がいたはずの場所。
そこだけが、雨に濡れたように滲んでいた。
写真そのものは乾いている。掲示板のガラスも濡れていない。けれど、写真の中だけ雨が降ったように、人物の輪郭が流れている。
僕はガラスに手をついた。
「水瀬」
名前を呼ぶ。
頭痛はない。
まだ呼べる。
でも、写真の中の彼女は戻らない。
廊下の向こうから、足音が近づいてきた。
大野だった。
「佐倉」
僕は振り返った。
「保健室は反対だ」
「すみません」
「お前、何を見ている」
「文化祭の写真です」
大野は僕の横に立ち、掲示板を見た。
同じ写真を見ているはずだった。
でも、彼は何も感じていない顔をしていた。
「それがどうかしたか」
「ここに、水瀬が写っていたはずです」
「またその話か」
「見てください。ここだけ滲んでます」
僕は写真の端を指した。
大野は目を細めた。
「古い写真だからだろう」
「ここだけです」
「湿気で傷んだんじゃないか」
「そんな都合よく一人分だけ?」
大野は黙った。
僕を疑っている顔だった。
生徒が奇妙なことを言い続けている。友人の欠席、無断外出、昨日の騒動。その上で、存在しない生徒の名を口にしている。教師としては、僕の精神状態を疑う方が自然だ。
「佐倉」
大野の声が少し柔らかくなった。
「北原のことで動揺しているのはわかる。だが、今のお前は少し普通じゃない」
「普通じゃないことが起きてるんです」
「そうかもしれない。だが、まず落ち着け」
「落ち着いていたら、水瀬が消えます」
大野は眉を寄せた。
「消える?」
しまったと思った。
言いすぎた。
だが、もう取り消せない。
「水瀬千紗という生徒がいたんです」
「うちのクラスに、そんな生徒はいない」
「います」
「佐倉」
「昨日、僕と一緒に北沢川原まで行きました。北原を探しに行ったんです。先生に聞かれた時、僕は一人で駅に行ったように話しました。でも本当は水瀬も一緒でした」
大野の表情が変わった。
「北沢川原?」
「はい」
「お前、昨日そこまで行ったのか」
別のところに食いつかれた。
でも当然だった。昨日、学校を抜け出して駅へ行き、さらに別の駅まで行ったなど、教師からすれば大問題だ。
「北原がそこにいたんです」
「なぜ報告しなかった」
「言えませんでした」
「どうして」
どうして。
理由はある。
葬列が見えたから。未来の自分がいたから。誰かを助けるたびに別の誰かが消える気がしたから。
でも、そのどれも大人に説明できる言葉ではなかった。
「すみません」
僕は頭を下げた。
大野は息を吐いた。
「あとで詳しく聞く。今は職員室へ来い」
「その前に、確認したいことがあります」
「何だ」
「去年の文化祭の写真、データは残っていますか」
「写真部か、生徒会のフォルダにあるかもしれない」
「見せてください」
「今すぐ?」
「今すぐです」
大野は厳しい顔をした。
けれど、僕の必死さが伝わったのかもしれない。しばらく黙ったあと、短く言った。
「五分だけだ」
職員室に入ると、何人かの教師がこちらを見た。
僕は濡れてもいないのに、濡れた犬みたいな気持ちになった。大野は自分の席に座り、学校用のパソコンを開いた。共有フォルダにアクセスし、去年の文化祭写真を探す。
画面に、たくさんのサムネイルが並んだ。
準備中の教室。
段ボール。
ペンキ。
笑う遼。
真柴の看板。
僕は身を乗り出した。
「これです」
掲示板に貼られていたものと同じ写真だった。
大野が開く。
画面いっぱいに写真が表示される。
やはり、そこに千紗はいなかった。
いや、違う。
いるはずの場所が、滲んでいる。
データなのに。
紙が湿気で傷んだのではない。元のデータの中で、そこだけ雨が降ったように崩れていた。
大野も、今度は言葉を失った。
「何だ、これは」
「水瀬です」
「いや、画像の破損だろう」
「一枚だけじゃありません」
僕は他の写真を開いてもらった。
クラスの集合写真。
遼がふざけて真柴の肩に手を置き、僕が少し離れて立っている。後ろの列に、千紗がいたはずだった。そこだけが、灰色に滲んでいる。
模擬店の写真。
千紗が受付をしていたはずの場所に、水の筋が走っている。
校門前で撮った集合写真。
名前を知らない生徒たちの中に、ひとつだけ空白がある。
大野の顔から、少しずつ余裕が消えていった。
理屈では説明できないものを見た時、人はすぐに認めるわけではない。最初は別の理由を探す。画像が破損している。保存の形式がおかしい。誰かが加工した。そういう可能性を必死に拾い集める。
大野も同じだった。
「ファイルが壊れているのかもしれない」
「全部ですか」
「共有フォルダの問題かもしれない」
「先生」
「佐倉、まだ決めつけるな」
「先生は、水瀬を覚えていないんですか」
大野は答えなかった。
その沈黙で、僕は少しだけ希望を持った。
「本当に覚えていないなら、すぐ否定しますよね」
「……名前には覚えがない」
「名前には?」
大野は苦い顔をした。
「だが、写真を見ると、妙な感じはする」
「どんな」
「誰かが足りないような」
やはり、完全に消えたわけではない。
千紗の存在は、まだどこかに引っかかっている。
「先生、水瀬の住所や連絡先は」
「名簿に載っていない生徒の連絡先はない」
「でも、去年のデータには」
僕が言いかけた時、職員室の電話が鳴った。
近くの教師が受話器を取り、少し話したあと、大野に視線を向けた。
「大野先生、北原くんのお母さんからです」
僕の心臓が跳ねた。
大野はすぐに受話器を受け取った。
「お電話代わりました。大野です。はい。はい、北原くんは本日欠席で……え?」
大野の表情が変わった。
「今、何とおっしゃいましたか」
職員室の音が遠ざかる。
僕は大野の横顔を見つめた。
「昨夜は帰宅していない?」
血の気が引いた。
遼は昨日、家に着いたとメッセージを送ってきた。
僕はそれを見た。
返信もした。
ふざけた犬のスタンプも来た。
それなのに。
「わかりました。警察にも相談を。こちらでも確認します。はい、昨日の夕方以降の足取りをもう一度」
大野が受話器を置いた。
僕はすぐに訊いた。
「遼は?」
大野は僕を見た。
「北原は昨夜、帰っていないそうだ」
「嘘です」
「母親はそう言っている」
「僕にメッセージが来ました。家に着いたって」
スマートフォンを取り出し、遼との履歴を開く。
あった。
『家着いた』
確かにある。
その下に、僕の『よかった』。
さらに遼の『明日、学校休む』。
犬のスタンプ。
全部残っている。
大野に見せると、彼は眉をひそめた。
「これは昨日の二十時過ぎか」
「はい」
「本人が送ったとは限らない」
その言葉は冷静だった。
そして、怖かった。
僕は考えていなかった。
遼のスマートフォンを誰かが持っている可能性。
いや、誰かではない。
葬列の中の、遼の鞄を持った人影。
あれが遼ではないのだとしたら。
あれが遼の持ち物だけを持って、遼の言葉を送ってきたのだとしたら。
胃の奥が冷たくなった。
「佐倉」
大野が言った。
「昨日、北原とどこで別れた」
「桜町駅前です」
「その前は」
「北沢川原の河川敷です」
「なぜそこに」
「北原がそこにいたからです」
「誰と行った」
僕は答えた。
「水瀬千紗と」
大野は目を閉じた。
信じたいのか、信じたくないのか。
そのどちらでもある顔だった。
「その生徒のことは、あとで確認する。まず北原の足取りだ」
「僕も探します」
「だめだ」
「でも」
「昨日、お前は無断で学校を出た。今日も授業を抜けた。これ以上、勝手に動かせるわけがない」
「遼が危ないんです」
「だから大人が動く」
「間に合わなかったら?」
大野は黙った。
僕は続けた。
「先生、昨日、僕は間に合ったんです」
言ってから、自分でもおかしいと思った。
昨日の僕。
未来の僕。
間に合ったのに列ができた。
大野に通じるはずがない。
案の定、大野は困惑した顔をした。
「佐倉、お前は少し休め」
「休んでいる時間はありません」
「北原を心配する気持ちはわかる」
「わかってません」
きつい言い方になった。
でも止められなかった。
「先生は、水瀬を覚えていない。写真から消えているのも、まだ画像の破損だと思ってる。遼が昨夜帰っていないのに、僕には遼からメッセージが来てる。それでも普通の行方不明として扱うんですか」
「普通ではないからこそ、慎重に動くんだ」
大野の声が低くなった。
「お前が見たものを、今ここで全部信じるとは言えない。だが、北原が危ない可能性はある。なら、警察と保護者に任せるしかない。高校生のお前が走り回って解決できることではない」
正論だった。
正論は、ときどき一番役に立たない。
「すみません」
僕はそう言って、スマートフォンを握ったまま職員室を出た。
背後で大野が名前を呼んだ。
立ち止まらなかった。
廊下を走る。
階段を下りる。
昇降口へ向かう。
その途中で、誰かとぶつかりそうになった。
真柴だった。
「佐倉」
「ごめん」
「待てって」
真柴は僕の腕を掴んだ。
「何なんだよ。朝から変だぞ」
「あとで」
「北原のこと?」
足が止まった。
真柴は真面目な顔をしていた。
「北原、何かあったのか」
「行方がわからない」
「は?」
「昨日から家に帰ってない」
真柴の表情が変わった。
「まじかよ」
「真柴」
「何」
「水瀬を覚えてる?」
真柴は眉を寄せた。
「水瀬?」
「水瀬千紗」
「誰?」
胸が痛んだ。
昨日、真柴の名前を呼び戻した。けれど、真柴は千紗を覚えていない。
「昨日、商店街で」
言いかけて、やめた。
葬列の話をしても混乱させるだけだ。
真柴は僕をじっと見ていた。
「佐倉」
「何」
「俺、今日、変なんだよ」
「変?」
「朝起きたら、机の上に知らないメモがあった」
僕は息を呑んだ。
「どんな」
「俺の字だった。でも書いた覚えがない」
「何て」
真柴はポケットから折り畳まれた紙を出した。
ルーズリーフの端を破ったものだった。
そこに、真柴の字で短く書かれている。
名前を呼ばれたら戻れる。
その下に、もう一行。
次は水瀬。
僕は紙を握りしめそうになった。
「真柴、これをどこで」
「だから、机の上だって」
「誰かに見せた?」
「いや。意味わかんなくて」
「水瀬って名前、これで見たのに覚えてないのか」
「覚えてない。でも」
真柴は言葉を切った。
「何か、気持ち悪い。見たことある気がする。名前じゃなくて、雰囲気っていうか」
「写真を見れば?」
「写真?」
「文化祭の」
僕は真柴を連れて、二階の掲示板へ向かった。
写真の前に立たせる。
真柴はしばらく眺めていた。
そして、ある一枚の前で眉をひそめた。
「ここ、変じゃね?」
「そこに水瀬がいた」
「この滲んでるとこ?」
「うん」
「……いや、わかんねえけど」
真柴は頭を掻いた。
「でも、誰かいた方が自然な気はする」
少しずつでもいい。
痕跡に触れれば、思い出せる可能性がある。
僕は真柴に言った。
「水瀬の名前を覚えておいて」
「何で」
「忘れたら、たぶん本当に消える」
真柴は冗談だと思ったように笑いかけたが、僕の顔を見てやめた。
「お前、今、めちゃくちゃやばい顔してる」
「真柴」
「わかった。覚えとく。水瀬千紗だな」
真柴が名前を口にした瞬間、掲示板の写真がわずかに揺れた。
滲んだ部分の輪郭が、ほんの少しだけ濃くなったように見えた。
効果がある。
名前を呼ぶことに、意味がある。
その時、スマートフォンが震えた。
遼からだった。
『まだ水瀬を覚えてる?』
僕は息を止めた。
遼は水瀬を覚えている。
少なくとも、その名前を知っている。
僕はすぐに返信した。
『覚えてる。お前どこにいる』
既読がついた。
返事は来ない。
『遼、昨日家に帰ってないって聞いた』
既読。
返事なし。
『今誰がそのスマホを持ってる』
既読。
沈黙。
真柴が僕の顔を覗き込んだ。
「北原?」
「たぶん」
「たぶんって何だよ」
画面に文字が表示された。
『昨日、俺は帰らなかった』
僕は指先が冷たくなるのを感じた。
その文体は、遼ではなかった。
未来の僕の言い方だった。
昨日、遼は帰らなかった。
昨日、遼は学校にいなかった。
昨日。
昨日。
僕は打った。
『誰だ』
すぐに既読がつく。
返事。
『昨日、遼は水瀬を覚えていた』
僕は息を呑んだ。
『遼は今どこにいる』
既読。
『昨日、遼は写真を見ていた』
写真。
僕は掲示板を見た。
文化祭の写真。
千紗の消えた写真。
遼が見ていた写真とは何だ。
『どの写真』
既読。
『雨の日の写真』
頭の奥で鈍い痛みが走った。
雨の日の写真。
中学三年。
川沿い。
僕と遼と、もう一人。
名前の思い出せない少年。
僕は顔を上げた。
「真柴、僕の鞄取ってきて」
「は?」
「教室にある。急いで」
「何で俺が」
「頼む」
真柴は文句を言いかけたが、僕の顔を見て走っていった。
雨の日の写真。
僕はそれを持っている。
たぶん、家に。
中学の頃の写真をまとめた古いアルバム。スマートフォンを変えた時に移したデータ。夏祭り、体育祭、放課後のコンビニ。その中に、雨の日の写真があったはずだ。
でも、なぜ遼がそれを見ている。
遼のスマホにも残っているのか。
それとも、別の誰かが遼に見せたのか。
真柴が鞄を持って戻ってきた。
「ほら」
「ありがとう」
「どこ行くんだよ」
「家」
「授業は?」
「出てる場合じゃない」
「いや、それは先生に怒られるだろ」
「真柴」
「何だよ」
「水瀬千紗」
僕が名前を言うと、真柴は一瞬だけ戸惑い、それから頷いた。
「水瀬千紗。覚えとけばいいんだな」
「何度も言って。忘れそうになったら、書いて」
「わかったよ」
「遼から連絡が来たら、僕に教えて」
「俺に来るわけないだろ」
「わからない」
もう何が起きても不思議ではなかった。
僕は昇降口へ向かった。
大野に見つかる前に出るつもりだった。だが、校門を抜ける直前、背後から声がした。
「佐倉!」
大野だった。
見つかった。
僕は振り返らなかった。
「佐倉、止まれ!」
走った。
教師に追われて校門を出るなんて、人生で初めてだった。普段の僕なら絶対にしない。遼なら笑いながらやりそうだと思い、その遼が今どこにいるかわからないことを思い出して、胸が詰まった。
商店街を抜け、自宅へ向かう。
昼前の町は静かだった。家に帰る途中、何度もスマートフォンを確認した。遼からの返事はない。千紗の連絡先は、表示がさらに薄くなっていた。
水瀬千紗。
僕は歩きながら名前を口にした。
「水瀬千紗」
通りすがりの老人が怪訝そうに見た。
構わなかった。
「水瀬千紗。水瀬千紗。水瀬千紗」
忘れない。
名前を呼ばれたら戻れる。
真柴のメモが本当なら、千紗をこの世界に引き止めるには、名前を呼び続けるしかない。
家に着くと、母は仕事でいなかった。
靴を脱ぎ捨て、階段を駆け上がる。自室の本棚の下段に、古いアルバムを押し込んでいた。中学時代の写真を印刷したものと、データを保存した古いSDカード。
まずアルバムを開いた。
中学一年の入学式。
遼が変な顔をしている。
僕は距離を取って立っている。
中学二年の夏祭り。
遼がかき氷を二つ持ち、僕に片方を押しつけている。
体育祭。
遼がリレーで転び、僕が隣で笑っている。
そして、中学三年の雨の日。
写真があった。
川沿いの道。
僕と遼が写っている。
どちらもずぶ濡れだった。傘はない。遼は笑っているように見えるが、目元が強ばっている。僕は膝を擦りむいているのか、制服のズボンの膝が汚れている。
その横。
もう一人が写っているはずの場所。
そこに、雨が降っていた。
写真の中だけ、縦に水の筋が走っている。背景の川も、橋も、僕と遼も写っているのに、その一人分の場所だけが流れている。人の輪郭があったようにも見える。けれど顔は見えない。
僕は写真を取り出した。
指先が冷たくなった。
この写真を、僕は何度も見たはずだ。
なのに、この滲みに気づかなかった。
いや、気づかないようにしていたのか。
頭痛がした。
中学三年。
雨。
川沿い。
遼が叫んでいる。
僕は転んでいる。
もう一人の少年が、川の方へ手を伸ばしている。
誰かが泣いている。
それは遼か。
僕か。
それとも、写真から消えた少年か。
スマートフォンが震えた。
遼から。
『見つけた?』
僕は画面を見つめた。
やはり遼ではない。
この言い方は、誰かが僕を誘導している。
未来の僕か。
葬列そのものか。
あるいは、遼の中に残った何かか。
僕は返信した。
『この写真に写っていたのは誰だ』
既読。
返事はすぐには来ない。
僕は写真を見つめ続けた。
滲んだ部分に目を凝らす。
そこにいる少年の輪郭を、少しでも掴もうとする。
頭痛が強くなった。
視界が揺れる。
それでも目を逸らさなかった。
スマートフォンが震えた。
『昨日、遼はその名前を呼べなかった』
僕は打った。
『僕は?』
返事。
『昨日、お前は呼ばなかった』
胸を殴られたようだった。
呼べなかった、ではない。
呼ばなかった。
僕は、知っていて呼ばなかったのか。
なぜ。
その時、写真の表面に水滴が浮かんだ。
部屋の中なのに。
雨など降っていないのに。
写真の中の川沿いの道から、水が染み出してきたように、一滴、また一滴と濡れていく。
僕は写真を机に置いた。
水滴が滲んだ部分から広がり、僕と遼の足元へ伸びていく。
そして、写真の中の遼の顔が、少しだけ滲んだ。
「やめろ」
思わず声が出た。
写真の遼の輪郭が揺れる。
まるで、雨に溶けていくようだった。
遼まで消え始めている。
僕は写真を両手で押さえた。
「北原遼」
名前を呼んだ。
「北原遼」
もう一度。
「北原遼」
写真の滲みが、わずかに止まった。
効果はある。
名前を呼ぶことには、意味がある。
僕は続けた。
「水瀬千紗。真柴悠斗。北原遼」
名前を並べる。
消えかけた者。
戻った者。
失いたくない者。
けれど、写真の中のもう一人だけは呼べない。
名前が出てこない。
頭の奥で何かが必死に暴れている。思い出せ。思い出すな。二つの声が同時に響いている。
その時、部屋の窓に人影が映った。
灰色のコートの男だった。
僕は振り返った。
誰もいない。
窓の外は住宅街で、二階の高さだ。人が立てる場所などない。
だが、ガラスには彼が映っている。
濡れた髪。
痩せた頬。
僕の目。
「入ってくるな」
僕は言った。
男は窓の中で、静かにこちらを見ている。
「この写真の少年は誰だ」
男の唇が動いた。
声は、部屋の中に落ちた。
「昨日、お前は知っていた」
「名前を言え」
「昨日、お前は知っていた」
「今は知らない」
「昨日、お前は呼ばなかった」
「なぜ」
男は黙った。
「僕が見捨てたのか」
その問いに、男の表情がわずかに変わった。
「遼が見捨てたのか」
男は目を閉じた。
「誰が、この少年を消した」
男は答えない。
僕は机の上の写真を掴んだ。
「水瀬が消えかけてる。遼も危ない。真柴も一度列に並んだ。この少年の名前を思い出せば、何か変わるんだろ」
男は言った。
「今、思い出すな」
「またそれか」
「今、思い出せば、水瀬は戻らない」
僕は息を止めた。
初めて、男が明確に警告した。
水瀬は戻らない。
「どういう意味だ」
「昨日、お前は順番を間違えた」
「順番?」
「名前には順番がある」
男は苦しそうに眉を寄せた。
それ以上は言えないのか。
僕は考えた。
真柴の名前を呼んだら、真柴は戻った。だが、その代わりに千紗が消えかけた。つまり、ただ名前を呼べばいいわけではない。誰を、いつ、どの順で思い出すか。それが重要なのかもしれない。
葬列は、忘れられた順に前へ進む。
未来の僕はそう言った。
なら、順番を間違えれば、誰かを押し出してしまう。
真柴を戻したことで、千紗が列へ近づいた。
ここで先頭の少年を思い出せば、千紗は完全に消えるのかもしれない。
「じゃあ、まず水瀬を戻せばいいんだな」
男は答えない。
だが否定もしなかった。
「水瀬はどこにいる」
男の口が動く。
「昨日、水瀬は学校にいた」
「それは知ってる」
「昨日、水瀬は写真を見た」
「どの写真」
「昨日、水瀬は遼の写真を見た」
遼の写真。
千紗は遼を見ていた。
文化祭の写真。
あるいは、彼女自身のスマートフォンにある写真か。
「昨日、水瀬は言った」
男の声が少し遠くなる。
「北原は、笑ってない」
僕は顔を上げた。
それは千紗らしい言葉だった。
遼の笑顔を見て、笑っていないと気づけるのは、たぶん彼女だ。
「昨日、水瀬は、遼のことを」
男の声が途切れた。
続きを言えない。
けれど、わかった。
千紗は遼のことを見ていた。
なら、千紗を戻す鍵は、遼の記憶にある。
遼が千紗を覚えているなら、まだ間に合う。
僕はスマートフォンを見た。
遼からの謎のメッセージに返信する。
『水瀬千紗を覚えているか』
既読。
少し間が空く。
『昨日、遼は覚えていた』
遼本人ではない。
それでも、その答えは重要だった。
昨日の遼は覚えていた。
なら、今日の遼がどこかで忘れかけている。
僕は打った。
『遼に水瀬の名前を呼ばせれば戻るのか』
既読。
返事。
『昨日、お前はそれをしなかった』
また、昨日。
未来の僕は、昨日の失敗をなぞっている。
僕に同じ失敗をさせないために。
あるいは、同じ場所へ導くために。
どちらかわからない。
だが今は、従うしかなかった。
僕は写真を鞄に入れ、家を飛び出した。
向かう場所は一つだった。
遼の家。
昨日、彼は帰っていないと母親は言った。けれど、遼に関するものが一番多く残っているのは家だ。千紗を思い出す手がかりも、遼の部屋にあるかもしれない。
家の前に着く頃には、息が切れていた。
北原家は、学校から少し離れた住宅街にある二階建ての家だった。以前、遼にノートを届けに来たことがある。表札は北原。庭はよく手入れされている。自転車置き場には、遼の自転車がなかった。
インターホンを押す。
しばらくして、遼の母親が出てきた。
やつれていた。
昨日、電話で大野と話したという母親は、僕を見るなり緊張した顔をした。
「佐倉くん?」
「はい。遼くんのことで」
「学校から聞いたわ。あなた、昨日遼と会ったの?」
「会いました」
「どこで」
「北沢川原の河川敷です」
母親は目を見開いた。
「どうしてそんなところに」
「遼がそこにいました」
「何をしていたの」
「川を見ていました」
母親は唇を押さえた。
その反応が引っかかった。
「北沢川原に、心当たりがあるんですか」
母親は答えなかった。
「遼は、あの場所に前にも行ったことがあるんですか」
「……小さい頃に」
「小さい頃?」
「いえ、詳しくは」
「教えてください」
母親は僕から目を逸らした。
「ごめんなさい。今は警察にも話しているところで、私も混乱していて」
「遼は昨日、家に帰ってないんですよね」
「ええ」
「でも、僕には家に着いたとメッセージが来ました」
スマートフォンを見せる。
母親の顔が青ざめた。
「これ、遼の番号ね」
「はい」
「でも、あの子のスマホ、昨夜から繋がらないの」
「誰かが持っているかもしれません」
母親は小さく震えた。
僕は続けた。
「遼の部屋を見せてもらえませんか」
「部屋?」
「手がかりがあるかもしれません」
「警察にはもう」
「写真を探したいんです」
母親の動きが止まった。
「写真?」
「雨の日の写真です。北沢川原の川沿いで撮ったものかもしれません」
母親は、明らかに動揺した。
やはり知っている。
「その写真を、知っているんですね」
母親はしばらく黙っていた。
やがて、玄関の扉を少し大きく開けた。
「入って」
遼の部屋は二階にあった。
意外なほど片づいていた。学校では机の中がぐちゃぐちゃなのに、自室には余計なものが少ない。ベッド、本棚、机、ギターケース、壁に貼られた古いライブのポスター。参考書はきれいに並び、机の上には空のペットボトルが一本だけ置かれている。
僕は部屋に入った瞬間、胸が苦しくなった。
ここに遼がいた。
笑っていない遼が。
進路希望調査を書けず、財布の中の小銭を数え、遠くへ行くなら今日しかないと考えた遼が。
「写真は、たぶんこの辺に」
母親は本棚の下段から古い箱を取り出した。
中には、小学生から中学生の頃の写真が入っていた。家族旅行、運動会、修学旅行、友達と撮った写真。
僕は一枚ずつめくった。
遼がいる。
幼い遼。
少し背が伸びた遼。
笑っている遼。
その中に、僕も時々写っている。
そして。
あった。
中学三年の雨の日。
僕の家にあったものと同じ写真。
川沿いの道。
僕と遼。
滲んだ一人分の空白。
けれど、遼の家の写真は少し違っていた。
滲んだ場所の端に、手が写っていた。
誰かの手。
その手が、遼の腕を掴んでいる。
僕の家の写真では見えなかった部分だった。
遼はその手に引っ張られるようにして、川から離れている。
つまり、この少年は。
遼を助けたのか。
母親が背後で息を呑んだ。
「その写真」
「知っているんですね」
「遼が、ずっと持っていたの」
「ずっと?」
「その日からしばらく、夜中に泣いていたわ。でも、何があったのか聞いても答えなかった。ある日から、急に何も言わなくなった」
「その日、何があったんですか」
母親は首を振った。
「川で事故があったと聞いたわ。でも、詳しいことは」
「誰かが亡くなった?」
「いいえ」
「消えた?」
母親が僕を見た。
「どうして、そんな言い方をするの」
僕は答えなかった。
写真の中の手を見つめる。
遼を掴んでいる手。
助けようとしている手。
その手の持ち主の名前を、僕はまだ思い出せない。
けれど、ひとつわかった。
葬列の先頭の少年は、遼を恨んでいるのではない。
助けを求めている。
自分が助けた相手に、名前を呼んでほしいのだ。
その時、遼の机の上に置かれていたスマートフォンが震えた。
僕は目を見開いた。
そこにあるのは、遼の古いスマートフォンだった。今使っているものではない。機種変更前の、画面の端が割れた端末。
電源が入っている。
母親も驚いていた。
「それ、もう使っていないはずなのに」
画面が光る。
通知が表示されていた。
差出人不明。
『水瀬千紗を呼べ』
僕は端末を手に取った。
ロックはかかっていなかった。
メッセージアプリを開くと、そこには大量の未送信メモのような文章が残っていた。
遼の字ではない。
いや、文字ではない。音声入力の変換ミス混じりの文章だった。
その中に、同じ名前が何度も出てきた。
水瀬千紗。
水瀬千紗。
水瀬千紗。
遼は、この古いスマートフォンに彼女の名前を何度も残していた。
忘れないように。
消えないように。
僕のスマートフォンが震えた。
遼からだった。
『思い出せ』
続けて、もう一通。
『水瀬は、俺を見てた』
さらに。
『俺が笑ってないことを、知ってた』
僕は遼の古いスマートフォンを握りしめた。
言うべき名前はわかっている。
でも、誰が呼ぶべきなのか。
遼本人がいない。
だから、僕が呼ぶしかない。
僕は写真を机に置いた。
川沿いの雨。
滲んだ少年。
遼を掴む手。
そして、消えかけている千紗。
僕は息を吸った。
「水瀬千紗」
部屋の空気が揺れた。
母親が不安そうにこちらを見る。
僕は続けた。
「水瀬千紗。水瀬千紗。水瀬千紗」
遼の古いスマートフォンが震える。
画面に、保存されていた音声メモが勝手に再生された。
遼の声だった。
少しノイズが混じっている。
『水瀬千紗』
遼の声。
『水瀬千紗。水瀬。覚えてる。俺、覚えてるから』
僕は息を止めた。
これはいつ録られたものだ。
昨日か。
それとも、もっと前か。
遼の声は続いた。
『お前、俺が笑ってないって言ったよな。腹立ったけど、嬉しかった。たぶん』
そこでノイズが入る。
『だから、忘れない。水瀬千紗』
その瞬間、部屋の窓が曇った。
外は晴れている。
なのに、ガラスの向こうを雨が流れ始めた。
窓に、教室が映った。
今いる遼の部屋ではない。
学校の教室。
窓際から二列目の席。
そこに、千紗が座っていた。
俯いている。
肩が濡れている。
机の上には、開いたノートがある。
彼女はゆっくりと顔を上げた。
僕は叫んだ。
「水瀬千紗!」
窓の中の千紗が、こちらを見た。
目が合った。
その瞬間、彼女の唇が動いた。
北原は?
声は聞こえなかった。
でも、そう言ったのがわかった。
僕は答えた。
「探す。絶対に探す」
窓に映った教室が揺れた。
雨が強くなる。
千紗の輪郭が一瞬濃くなり、それから霧のように散った。
スマートフォンが震えた。
真柴からだった。
『おい、今、水瀬ってやつが教室に来た』
僕は膝から崩れそうになった。
戻った。
千紗は戻った。
少なくとも、学校には。
だが安心する間もなく、遼の古いスマートフォンが再び震えた。
画面に、遼の声ではない文字が表示される。
『順番を戻した』
その下に、もう一文。
『次は、先頭の名前』
机の上の雨の日の写真を見る。
滲んだ少年の輪郭が、さっきより少しだけ濃くなっていた。
その代わりに。
写真の中の遼の顔が、また少し雨に流れていた。




