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葬列通りの少年――未来の自分がいる列のうしろ  作者: 二条理|アコンプリス


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第五章 写真に降る雨

 教室の空気が、一瞬で変わった。

 いや、変わったのは僕の方かもしれない。

 生徒たちは、いつもの朝の顔をしていた。眠そうに欠伸をする者、机の下でスマートフォンを見ている者、英単語帳をぎりぎりまでめくっている者。窓際では真柴悠斗がシャーペンの芯を詰め替えていて、前の席の女子がそれを見て「また分解してる」と呆れている。

 普通の教室だった。

 遼がいないことを除けば。

 千紗の名前がないことを除けば。

 僕だけが、そこに穴が空いているのを見ていた。

「水瀬千紗です」

 僕はもう一度言った。

 担任の大野は、出席簿を手にしたまま眉をひそめている。

「水瀬?」

「はい。水瀬千紗。うちのクラスの」

 大野は出席簿に目を落とした。

 ページをめくる。

 もう一度、名簿を見る。

 その動作がひどく遅く感じられた。

「佐倉」

「はい」

「お前、寝不足か」

 教室の何人かが小さく笑った。

 僕は笑わなかった。

「名簿に載っているはずです」

「載っていない」

「座席表には」

「座席表にもない」

「さっきまでありました」

 大野の顔に、苛立ちと困惑が混じった。

「さっきまで、とはどういう意味だ」

 答えられなかった。

 名前が紙の上で溶けていた。

 そんなことを言って、信じてもらえるはずがない。

 教室の後ろから、真柴が小さく言った。

「佐倉、大丈夫か」

 その声に、少しだけ現実へ引き戻された。

 真柴は覚えている。

 戻っている。

 昨日、葬列の中で名前を呼んだ真柴悠斗は、今ここにいる。消しゴムを落とし、シャーペンを分解し、僕のことを変な目で見ている。

 そのことは、確かに救いだった。

 でも、救いの代わりに別の誰かが失われようとしている。

 大野は出席簿を閉じた。

「とにかく座れ。北原のこともある。あとで話を聞く」

「水瀬は」

「その話もあとだ」

「あとじゃ遅いかもしれないんです」

 声が大きくなった。

 教室が静まる。

 大野の表情が険しくなった。

「佐倉」

 その一言で、僕はそれ以上言えなくなった。

 大人に正面から止められると、僕は昔から弱い。反論する言葉が喉元まで来ていても、そこで引っかかる。遼なら、たぶんうまく冗談にして場を逃げる。千紗なら、真っすぐ怒れる。

 けれど僕は、そのどちらもできない。

 僕は席に戻った。

 椅子に座ると、遼の空席が目に入った。

 遼は欠席連絡あり。

 大野はそう言った。

 つまり遼の存在は、まだ学校に残っている。教師も生徒も、北原遼という名前を知っている。彼の机も、鞄をかけるフックも、落書きだらけの教科書も残っている。

 千紗は違う。

 最初からいなかったことになりつつある。

 僕はスマートフォンを机の下で開いた。

 千紗とのメッセージ履歴を探す。

 あった。

 昨日の夜、確かにやり取りしている。

『家着いたら連絡させて』

『北原に?』

『そう』

『佐倉もちゃんと寝なよ』

『無理かも』

『倒れたら面倒だから寝て』

 それは千紗の言い方だった。

 やや冷たく、でも心配していることがわかる言葉。

 画面に残っている。

 まだ消えていない。

 僕はその履歴をスクリーンショットで保存した。

 保存した瞬間、画面がわずかにちらついた。

 千紗の名前の表示が、一瞬だけ滲んだように見えた。

 心臓が強く打った。

 僕はすぐに連絡先を開いた。

 水瀬千紗。

 登録は残っている。

 電話番号も、アイコンもある。アイコンは、たしか文化祭の時に撮ったクラスの飾りを背景にした写真だった。千紗本人は写っていない。彼女らしいと思った。自分の顔をアイコンにするタイプではない。

 僕は電話をかけた。

 呼び出し音は鳴らなかった。

 この番号は現在使われておりません。

 無機質な音声が流れた。

 僕は慌てて切った。

 使われていないはずがない。

 昨日、確かにメッセージを送ってきた。

 僕はもう一度かけた。

 同じだった。

 この番号は現在使われておりません。

 手が震えた。

 授業の声が遠のく。

 黒板に書かれる文字が、ただの線に見える。教師は何かを説明している。誰かがノートをめくる。真柴が消しゴムを落とし、小さく「あ」と言う。

 その全部の中で、千紗だけが抜け落ちている。

 僕は席を立った。

 教師が振り向く。

「佐倉、またか」

「保健室に行きます」

「さっきから落ち着きがないぞ」

「本当に気分が悪いです」

 嘘ではなかった。

 吐き気がした。

 教師が止める前に、僕は教室を出た。

 廊下に出ると、空気が少し冷たかった。窓の外は晴れている。雨の気配はない。なのに、廊下の床に小さな水滴が落ちていた。

 一滴。

 二滴。

 それは教室の前から、階段の方へ続いている。

 僕は水滴を辿った。

 保健室へ向かうふりをして、階段を下りる。二階の踊り場で、水滴は一度途切れた。そこには掲示板がある。進路関係のポスター、模試の案内、文化祭の写真。

 文化祭の写真。

 僕は足を止めた。

 掲示板の端に、去年の文化祭の写真が何枚か貼られていた。クラス展示の様子、準備中の風景、校門前のアーチ。僕たちのクラスが写っている写真もあった。

 真柴が看板に文字を書いている。

 遼がその横でふざけてピースをしている。

 僕は、画面の端で何かを持たされている。

 その少し後ろ。

 千紗がいたはずの場所。

 そこだけが、雨に濡れたように滲んでいた。

 写真そのものは乾いている。掲示板のガラスも濡れていない。けれど、写真の中だけ雨が降ったように、人物の輪郭が流れている。

 僕はガラスに手をついた。

「水瀬」

 名前を呼ぶ。

 頭痛はない。

 まだ呼べる。

 でも、写真の中の彼女は戻らない。

 廊下の向こうから、足音が近づいてきた。

 大野だった。

「佐倉」

 僕は振り返った。

「保健室は反対だ」

「すみません」

「お前、何を見ている」

「文化祭の写真です」

 大野は僕の横に立ち、掲示板を見た。

 同じ写真を見ているはずだった。

 でも、彼は何も感じていない顔をしていた。

「それがどうかしたか」

「ここに、水瀬が写っていたはずです」

「またその話か」

「見てください。ここだけ滲んでます」

 僕は写真の端を指した。

 大野は目を細めた。

「古い写真だからだろう」

「ここだけです」

「湿気で傷んだんじゃないか」

「そんな都合よく一人分だけ?」

 大野は黙った。

 僕を疑っている顔だった。

 生徒が奇妙なことを言い続けている。友人の欠席、無断外出、昨日の騒動。その上で、存在しない生徒の名を口にしている。教師としては、僕の精神状態を疑う方が自然だ。

「佐倉」

 大野の声が少し柔らかくなった。

「北原のことで動揺しているのはわかる。だが、今のお前は少し普通じゃない」

「普通じゃないことが起きてるんです」

「そうかもしれない。だが、まず落ち着け」

「落ち着いていたら、水瀬が消えます」

 大野は眉を寄せた。

「消える?」

 しまったと思った。

 言いすぎた。

 だが、もう取り消せない。

「水瀬千紗という生徒がいたんです」

「うちのクラスに、そんな生徒はいない」

「います」

「佐倉」

「昨日、僕と一緒に北沢川原まで行きました。北原を探しに行ったんです。先生に聞かれた時、僕は一人で駅に行ったように話しました。でも本当は水瀬も一緒でした」

 大野の表情が変わった。

「北沢川原?」

「はい」

「お前、昨日そこまで行ったのか」

 別のところに食いつかれた。

 でも当然だった。昨日、学校を抜け出して駅へ行き、さらに別の駅まで行ったなど、教師からすれば大問題だ。

「北原がそこにいたんです」

「なぜ報告しなかった」

「言えませんでした」

「どうして」

 どうして。

 理由はある。

 葬列が見えたから。未来の自分がいたから。誰かを助けるたびに別の誰かが消える気がしたから。

 でも、そのどれも大人に説明できる言葉ではなかった。

「すみません」

 僕は頭を下げた。

 大野は息を吐いた。

「あとで詳しく聞く。今は職員室へ来い」

「その前に、確認したいことがあります」

「何だ」

「去年の文化祭の写真、データは残っていますか」

「写真部か、生徒会のフォルダにあるかもしれない」

「見せてください」

「今すぐ?」

「今すぐです」

 大野は厳しい顔をした。

 けれど、僕の必死さが伝わったのかもしれない。しばらく黙ったあと、短く言った。

「五分だけだ」

 職員室に入ると、何人かの教師がこちらを見た。

 僕は濡れてもいないのに、濡れた犬みたいな気持ちになった。大野は自分の席に座り、学校用のパソコンを開いた。共有フォルダにアクセスし、去年の文化祭写真を探す。

 画面に、たくさんのサムネイルが並んだ。

 準備中の教室。

 段ボール。

 ペンキ。

 笑う遼。

 真柴の看板。

 僕は身を乗り出した。

「これです」

 掲示板に貼られていたものと同じ写真だった。

 大野が開く。

 画面いっぱいに写真が表示される。

 やはり、そこに千紗はいなかった。

 いや、違う。

 いるはずの場所が、滲んでいる。

 データなのに。

 紙が湿気で傷んだのではない。元のデータの中で、そこだけ雨が降ったように崩れていた。

 大野も、今度は言葉を失った。

「何だ、これは」

「水瀬です」

「いや、画像の破損だろう」

「一枚だけじゃありません」

 僕は他の写真を開いてもらった。

 クラスの集合写真。

 遼がふざけて真柴の肩に手を置き、僕が少し離れて立っている。後ろの列に、千紗がいたはずだった。そこだけが、灰色に滲んでいる。

 模擬店の写真。

 千紗が受付をしていたはずの場所に、水の筋が走っている。

 校門前で撮った集合写真。

 名前を知らない生徒たちの中に、ひとつだけ空白がある。

 大野の顔から、少しずつ余裕が消えていった。

 理屈では説明できないものを見た時、人はすぐに認めるわけではない。最初は別の理由を探す。画像が破損している。保存の形式がおかしい。誰かが加工した。そういう可能性を必死に拾い集める。

 大野も同じだった。

「ファイルが壊れているのかもしれない」

「全部ですか」

「共有フォルダの問題かもしれない」

「先生」

「佐倉、まだ決めつけるな」

「先生は、水瀬を覚えていないんですか」

 大野は答えなかった。

 その沈黙で、僕は少しだけ希望を持った。

「本当に覚えていないなら、すぐ否定しますよね」

「……名前には覚えがない」

「名前には?」

 大野は苦い顔をした。

「だが、写真を見ると、妙な感じはする」

「どんな」

「誰かが足りないような」

 やはり、完全に消えたわけではない。

 千紗の存在は、まだどこかに引っかかっている。

「先生、水瀬の住所や連絡先は」

「名簿に載っていない生徒の連絡先はない」

「でも、去年のデータには」

 僕が言いかけた時、職員室の電話が鳴った。

 近くの教師が受話器を取り、少し話したあと、大野に視線を向けた。

「大野先生、北原くんのお母さんからです」

 僕の心臓が跳ねた。

 大野はすぐに受話器を受け取った。

「お電話代わりました。大野です。はい。はい、北原くんは本日欠席で……え?」

 大野の表情が変わった。

「今、何とおっしゃいましたか」

 職員室の音が遠ざかる。

 僕は大野の横顔を見つめた。

「昨夜は帰宅していない?」

 血の気が引いた。

 遼は昨日、家に着いたとメッセージを送ってきた。

 僕はそれを見た。

 返信もした。

 ふざけた犬のスタンプも来た。

 それなのに。

「わかりました。警察にも相談を。こちらでも確認します。はい、昨日の夕方以降の足取りをもう一度」

 大野が受話器を置いた。

 僕はすぐに訊いた。

「遼は?」

 大野は僕を見た。

「北原は昨夜、帰っていないそうだ」

「嘘です」

「母親はそう言っている」

「僕にメッセージが来ました。家に着いたって」

 スマートフォンを取り出し、遼との履歴を開く。

 あった。

『家着いた』

 確かにある。

 その下に、僕の『よかった』。

 さらに遼の『明日、学校休む』。

 犬のスタンプ。

 全部残っている。

 大野に見せると、彼は眉をひそめた。

「これは昨日の二十時過ぎか」

「はい」

「本人が送ったとは限らない」

 その言葉は冷静だった。

 そして、怖かった。

 僕は考えていなかった。

 遼のスマートフォンを誰かが持っている可能性。

 いや、誰かではない。

 葬列の中の、遼の鞄を持った人影。

 あれが遼ではないのだとしたら。

 あれが遼の持ち物だけを持って、遼の言葉を送ってきたのだとしたら。

 胃の奥が冷たくなった。

「佐倉」

 大野が言った。

「昨日、北原とどこで別れた」

「桜町駅前です」

「その前は」

「北沢川原の河川敷です」

「なぜそこに」

「北原がそこにいたからです」

「誰と行った」

 僕は答えた。

「水瀬千紗と」

 大野は目を閉じた。

 信じたいのか、信じたくないのか。

 そのどちらでもある顔だった。

「その生徒のことは、あとで確認する。まず北原の足取りだ」

「僕も探します」

「だめだ」

「でも」

「昨日、お前は無断で学校を出た。今日も授業を抜けた。これ以上、勝手に動かせるわけがない」

「遼が危ないんです」

「だから大人が動く」

「間に合わなかったら?」

 大野は黙った。

 僕は続けた。

「先生、昨日、僕は間に合ったんです」

 言ってから、自分でもおかしいと思った。

 昨日の僕。

 未来の僕。

 間に合ったのに列ができた。

 大野に通じるはずがない。

 案の定、大野は困惑した顔をした。

「佐倉、お前は少し休め」

「休んでいる時間はありません」

「北原を心配する気持ちはわかる」

「わかってません」

 きつい言い方になった。

 でも止められなかった。

「先生は、水瀬を覚えていない。写真から消えているのも、まだ画像の破損だと思ってる。遼が昨夜帰っていないのに、僕には遼からメッセージが来てる。それでも普通の行方不明として扱うんですか」

「普通ではないからこそ、慎重に動くんだ」

 大野の声が低くなった。

「お前が見たものを、今ここで全部信じるとは言えない。だが、北原が危ない可能性はある。なら、警察と保護者に任せるしかない。高校生のお前が走り回って解決できることではない」

 正論だった。

 正論は、ときどき一番役に立たない。

「すみません」

 僕はそう言って、スマートフォンを握ったまま職員室を出た。

 背後で大野が名前を呼んだ。

 立ち止まらなかった。

 廊下を走る。

 階段を下りる。

 昇降口へ向かう。

 その途中で、誰かとぶつかりそうになった。

 真柴だった。

「佐倉」

「ごめん」

「待てって」

 真柴は僕の腕を掴んだ。

「何なんだよ。朝から変だぞ」

「あとで」

「北原のこと?」

 足が止まった。

 真柴は真面目な顔をしていた。

「北原、何かあったのか」

「行方がわからない」

「は?」

「昨日から家に帰ってない」

 真柴の表情が変わった。

「まじかよ」

「真柴」

「何」

「水瀬を覚えてる?」

 真柴は眉を寄せた。

「水瀬?」

「水瀬千紗」

「誰?」

 胸が痛んだ。

 昨日、真柴の名前を呼び戻した。けれど、真柴は千紗を覚えていない。

「昨日、商店街で」

 言いかけて、やめた。

 葬列の話をしても混乱させるだけだ。

 真柴は僕をじっと見ていた。

「佐倉」

「何」

「俺、今日、変なんだよ」

「変?」

「朝起きたら、机の上に知らないメモがあった」

 僕は息を呑んだ。

「どんな」

「俺の字だった。でも書いた覚えがない」

「何て」

 真柴はポケットから折り畳まれた紙を出した。

 ルーズリーフの端を破ったものだった。

 そこに、真柴の字で短く書かれている。

 名前を呼ばれたら戻れる。

 その下に、もう一行。

 次は水瀬。

 僕は紙を握りしめそうになった。

「真柴、これをどこで」

「だから、机の上だって」

「誰かに見せた?」

「いや。意味わかんなくて」

「水瀬って名前、これで見たのに覚えてないのか」

「覚えてない。でも」

 真柴は言葉を切った。

「何か、気持ち悪い。見たことある気がする。名前じゃなくて、雰囲気っていうか」

「写真を見れば?」

「写真?」

「文化祭の」

 僕は真柴を連れて、二階の掲示板へ向かった。

 写真の前に立たせる。

 真柴はしばらく眺めていた。

 そして、ある一枚の前で眉をひそめた。

「ここ、変じゃね?」

「そこに水瀬がいた」

「この滲んでるとこ?」

「うん」

「……いや、わかんねえけど」

 真柴は頭を掻いた。

「でも、誰かいた方が自然な気はする」

 少しずつでもいい。

 痕跡に触れれば、思い出せる可能性がある。

 僕は真柴に言った。

「水瀬の名前を覚えておいて」

「何で」

「忘れたら、たぶん本当に消える」

 真柴は冗談だと思ったように笑いかけたが、僕の顔を見てやめた。

「お前、今、めちゃくちゃやばい顔してる」

「真柴」

「わかった。覚えとく。水瀬千紗だな」

 真柴が名前を口にした瞬間、掲示板の写真がわずかに揺れた。

 滲んだ部分の輪郭が、ほんの少しだけ濃くなったように見えた。

 効果がある。

 名前を呼ぶことに、意味がある。

 その時、スマートフォンが震えた。

 遼からだった。

『まだ水瀬を覚えてる?』

 僕は息を止めた。

 遼は水瀬を覚えている。

 少なくとも、その名前を知っている。

 僕はすぐに返信した。

『覚えてる。お前どこにいる』

 既読がついた。

 返事は来ない。

『遼、昨日家に帰ってないって聞いた』

 既読。

 返事なし。

『今誰がそのスマホを持ってる』

 既読。

 沈黙。

 真柴が僕の顔を覗き込んだ。

「北原?」

「たぶん」

「たぶんって何だよ」

 画面に文字が表示された。

『昨日、俺は帰らなかった』

 僕は指先が冷たくなるのを感じた。

 その文体は、遼ではなかった。

 未来の僕の言い方だった。

 昨日、遼は帰らなかった。

 昨日、遼は学校にいなかった。

 昨日。

 昨日。

 僕は打った。

『誰だ』

 すぐに既読がつく。

 返事。

『昨日、遼は水瀬を覚えていた』

 僕は息を呑んだ。

『遼は今どこにいる』

 既読。

『昨日、遼は写真を見ていた』

 写真。

 僕は掲示板を見た。

 文化祭の写真。

 千紗の消えた写真。

 遼が見ていた写真とは何だ。

『どの写真』

 既読。

『雨の日の写真』

 頭の奥で鈍い痛みが走った。

 雨の日の写真。

 中学三年。

 川沿い。

 僕と遼と、もう一人。

 名前の思い出せない少年。

 僕は顔を上げた。

「真柴、僕の鞄取ってきて」

「は?」

「教室にある。急いで」

「何で俺が」

「頼む」

 真柴は文句を言いかけたが、僕の顔を見て走っていった。

 雨の日の写真。

 僕はそれを持っている。

 たぶん、家に。

 中学の頃の写真をまとめた古いアルバム。スマートフォンを変えた時に移したデータ。夏祭り、体育祭、放課後のコンビニ。その中に、雨の日の写真があったはずだ。

 でも、なぜ遼がそれを見ている。

 遼のスマホにも残っているのか。

 それとも、別の誰かが遼に見せたのか。

 真柴が鞄を持って戻ってきた。

「ほら」

「ありがとう」

「どこ行くんだよ」

「家」

「授業は?」

「出てる場合じゃない」

「いや、それは先生に怒られるだろ」

「真柴」

「何だよ」

「水瀬千紗」

 僕が名前を言うと、真柴は一瞬だけ戸惑い、それから頷いた。

「水瀬千紗。覚えとけばいいんだな」

「何度も言って。忘れそうになったら、書いて」

「わかったよ」

「遼から連絡が来たら、僕に教えて」

「俺に来るわけないだろ」

「わからない」

 もう何が起きても不思議ではなかった。

 僕は昇降口へ向かった。

 大野に見つかる前に出るつもりだった。だが、校門を抜ける直前、背後から声がした。

「佐倉!」

 大野だった。

 見つかった。

 僕は振り返らなかった。

「佐倉、止まれ!」

 走った。

 教師に追われて校門を出るなんて、人生で初めてだった。普段の僕なら絶対にしない。遼なら笑いながらやりそうだと思い、その遼が今どこにいるかわからないことを思い出して、胸が詰まった。

 商店街を抜け、自宅へ向かう。

 昼前の町は静かだった。家に帰る途中、何度もスマートフォンを確認した。遼からの返事はない。千紗の連絡先は、表示がさらに薄くなっていた。

 水瀬千紗。

 僕は歩きながら名前を口にした。

「水瀬千紗」

 通りすがりの老人が怪訝そうに見た。

 構わなかった。

「水瀬千紗。水瀬千紗。水瀬千紗」

 忘れない。

 名前を呼ばれたら戻れる。

 真柴のメモが本当なら、千紗をこの世界に引き止めるには、名前を呼び続けるしかない。

 家に着くと、母は仕事でいなかった。

 靴を脱ぎ捨て、階段を駆け上がる。自室の本棚の下段に、古いアルバムを押し込んでいた。中学時代の写真を印刷したものと、データを保存した古いSDカード。

 まずアルバムを開いた。

 中学一年の入学式。

 遼が変な顔をしている。

 僕は距離を取って立っている。

 中学二年の夏祭り。

 遼がかき氷を二つ持ち、僕に片方を押しつけている。

 体育祭。

 遼がリレーで転び、僕が隣で笑っている。

 そして、中学三年の雨の日。

 写真があった。

 川沿いの道。

 僕と遼が写っている。

 どちらもずぶ濡れだった。傘はない。遼は笑っているように見えるが、目元が強ばっている。僕は膝を擦りむいているのか、制服のズボンの膝が汚れている。

 その横。

 もう一人が写っているはずの場所。

 そこに、雨が降っていた。

 写真の中だけ、縦に水の筋が走っている。背景の川も、橋も、僕と遼も写っているのに、その一人分の場所だけが流れている。人の輪郭があったようにも見える。けれど顔は見えない。

 僕は写真を取り出した。

 指先が冷たくなった。

 この写真を、僕は何度も見たはずだ。

 なのに、この滲みに気づかなかった。

 いや、気づかないようにしていたのか。

 頭痛がした。

 中学三年。

 雨。

 川沿い。

 遼が叫んでいる。

 僕は転んでいる。

 もう一人の少年が、川の方へ手を伸ばしている。

 誰かが泣いている。

 それは遼か。

 僕か。

 それとも、写真から消えた少年か。

 スマートフォンが震えた。

 遼から。

『見つけた?』

 僕は画面を見つめた。

 やはり遼ではない。

 この言い方は、誰かが僕を誘導している。

 未来の僕か。

 葬列そのものか。

 あるいは、遼の中に残った何かか。

 僕は返信した。

『この写真に写っていたのは誰だ』

 既読。

 返事はすぐには来ない。

 僕は写真を見つめ続けた。

 滲んだ部分に目を凝らす。

 そこにいる少年の輪郭を、少しでも掴もうとする。

 頭痛が強くなった。

 視界が揺れる。

 それでも目を逸らさなかった。

 スマートフォンが震えた。

『昨日、遼はその名前を呼べなかった』

 僕は打った。

『僕は?』

 返事。

『昨日、お前は呼ばなかった』

 胸を殴られたようだった。

 呼べなかった、ではない。

 呼ばなかった。

 僕は、知っていて呼ばなかったのか。

 なぜ。

 その時、写真の表面に水滴が浮かんだ。

 部屋の中なのに。

 雨など降っていないのに。

 写真の中の川沿いの道から、水が染み出してきたように、一滴、また一滴と濡れていく。

 僕は写真を机に置いた。

 水滴が滲んだ部分から広がり、僕と遼の足元へ伸びていく。

 そして、写真の中の遼の顔が、少しだけ滲んだ。

「やめろ」

 思わず声が出た。

 写真の遼の輪郭が揺れる。

 まるで、雨に溶けていくようだった。

 遼まで消え始めている。

 僕は写真を両手で押さえた。

「北原遼」

 名前を呼んだ。

「北原遼」

 もう一度。

「北原遼」

 写真の滲みが、わずかに止まった。

 効果はある。

 名前を呼ぶことには、意味がある。

 僕は続けた。

「水瀬千紗。真柴悠斗。北原遼」

 名前を並べる。

 消えかけた者。

 戻った者。

 失いたくない者。

 けれど、写真の中のもう一人だけは呼べない。

 名前が出てこない。

 頭の奥で何かが必死に暴れている。思い出せ。思い出すな。二つの声が同時に響いている。

 その時、部屋の窓に人影が映った。

 灰色のコートの男だった。

 僕は振り返った。

 誰もいない。

 窓の外は住宅街で、二階の高さだ。人が立てる場所などない。

 だが、ガラスには彼が映っている。

 濡れた髪。

 痩せた頬。

 僕の目。

「入ってくるな」

 僕は言った。

 男は窓の中で、静かにこちらを見ている。

「この写真の少年は誰だ」

 男の唇が動いた。

 声は、部屋の中に落ちた。

「昨日、お前は知っていた」

「名前を言え」

「昨日、お前は知っていた」

「今は知らない」

「昨日、お前は呼ばなかった」

「なぜ」

 男は黙った。

「僕が見捨てたのか」

 その問いに、男の表情がわずかに変わった。

「遼が見捨てたのか」

 男は目を閉じた。

「誰が、この少年を消した」

 男は答えない。

 僕は机の上の写真を掴んだ。

「水瀬が消えかけてる。遼も危ない。真柴も一度列に並んだ。この少年の名前を思い出せば、何か変わるんだろ」

 男は言った。

「今、思い出すな」

「またそれか」

「今、思い出せば、水瀬は戻らない」

 僕は息を止めた。

 初めて、男が明確に警告した。

 水瀬は戻らない。

「どういう意味だ」

「昨日、お前は順番を間違えた」

「順番?」

「名前には順番がある」

 男は苦しそうに眉を寄せた。

 それ以上は言えないのか。

 僕は考えた。

 真柴の名前を呼んだら、真柴は戻った。だが、その代わりに千紗が消えかけた。つまり、ただ名前を呼べばいいわけではない。誰を、いつ、どの順で思い出すか。それが重要なのかもしれない。

 葬列は、忘れられた順に前へ進む。

 未来の僕はそう言った。

 なら、順番を間違えれば、誰かを押し出してしまう。

 真柴を戻したことで、千紗が列へ近づいた。

 ここで先頭の少年を思い出せば、千紗は完全に消えるのかもしれない。

「じゃあ、まず水瀬を戻せばいいんだな」

 男は答えない。

 だが否定もしなかった。

「水瀬はどこにいる」

 男の口が動く。

「昨日、水瀬は学校にいた」

「それは知ってる」

「昨日、水瀬は写真を見た」

「どの写真」

「昨日、水瀬は遼の写真を見た」

 遼の写真。

 千紗は遼を見ていた。

 文化祭の写真。

 あるいは、彼女自身のスマートフォンにある写真か。

「昨日、水瀬は言った」

 男の声が少し遠くなる。

「北原は、笑ってない」

 僕は顔を上げた。

 それは千紗らしい言葉だった。

 遼の笑顔を見て、笑っていないと気づけるのは、たぶん彼女だ。

「昨日、水瀬は、遼のことを」

 男の声が途切れた。

 続きを言えない。

 けれど、わかった。

 千紗は遼のことを見ていた。

 なら、千紗を戻す鍵は、遼の記憶にある。

 遼が千紗を覚えているなら、まだ間に合う。

 僕はスマートフォンを見た。

 遼からの謎のメッセージに返信する。

『水瀬千紗を覚えているか』

 既読。

 少し間が空く。

『昨日、遼は覚えていた』

 遼本人ではない。

 それでも、その答えは重要だった。

 昨日の遼は覚えていた。

 なら、今日の遼がどこかで忘れかけている。

 僕は打った。

『遼に水瀬の名前を呼ばせれば戻るのか』

 既読。

 返事。

『昨日、お前はそれをしなかった』

 また、昨日。

 未来の僕は、昨日の失敗をなぞっている。

 僕に同じ失敗をさせないために。

 あるいは、同じ場所へ導くために。

 どちらかわからない。

 だが今は、従うしかなかった。

 僕は写真を鞄に入れ、家を飛び出した。

 向かう場所は一つだった。

 遼の家。

 昨日、彼は帰っていないと母親は言った。けれど、遼に関するものが一番多く残っているのは家だ。千紗を思い出す手がかりも、遼の部屋にあるかもしれない。

 家の前に着く頃には、息が切れていた。

 北原家は、学校から少し離れた住宅街にある二階建ての家だった。以前、遼にノートを届けに来たことがある。表札は北原。庭はよく手入れされている。自転車置き場には、遼の自転車がなかった。

 インターホンを押す。

 しばらくして、遼の母親が出てきた。

 やつれていた。

 昨日、電話で大野と話したという母親は、僕を見るなり緊張した顔をした。

「佐倉くん?」

「はい。遼くんのことで」

「学校から聞いたわ。あなた、昨日遼と会ったの?」

「会いました」

「どこで」

「北沢川原の河川敷です」

 母親は目を見開いた。

「どうしてそんなところに」

「遼がそこにいました」

「何をしていたの」

「川を見ていました」

 母親は唇を押さえた。

 その反応が引っかかった。

「北沢川原に、心当たりがあるんですか」

 母親は答えなかった。

「遼は、あの場所に前にも行ったことがあるんですか」

「……小さい頃に」

「小さい頃?」

「いえ、詳しくは」

「教えてください」

 母親は僕から目を逸らした。

「ごめんなさい。今は警察にも話しているところで、私も混乱していて」

「遼は昨日、家に帰ってないんですよね」

「ええ」

「でも、僕には家に着いたとメッセージが来ました」

 スマートフォンを見せる。

 母親の顔が青ざめた。

「これ、遼の番号ね」

「はい」

「でも、あの子のスマホ、昨夜から繋がらないの」

「誰かが持っているかもしれません」

 母親は小さく震えた。

 僕は続けた。

「遼の部屋を見せてもらえませんか」

「部屋?」

「手がかりがあるかもしれません」

「警察にはもう」

「写真を探したいんです」

 母親の動きが止まった。

「写真?」

「雨の日の写真です。北沢川原の川沿いで撮ったものかもしれません」

 母親は、明らかに動揺した。

 やはり知っている。

「その写真を、知っているんですね」

 母親はしばらく黙っていた。

 やがて、玄関の扉を少し大きく開けた。

「入って」

 遼の部屋は二階にあった。

 意外なほど片づいていた。学校では机の中がぐちゃぐちゃなのに、自室には余計なものが少ない。ベッド、本棚、机、ギターケース、壁に貼られた古いライブのポスター。参考書はきれいに並び、机の上には空のペットボトルが一本だけ置かれている。

 僕は部屋に入った瞬間、胸が苦しくなった。

 ここに遼がいた。

 笑っていない遼が。

 進路希望調査を書けず、財布の中の小銭を数え、遠くへ行くなら今日しかないと考えた遼が。

「写真は、たぶんこの辺に」

 母親は本棚の下段から古い箱を取り出した。

 中には、小学生から中学生の頃の写真が入っていた。家族旅行、運動会、修学旅行、友達と撮った写真。

 僕は一枚ずつめくった。

 遼がいる。

 幼い遼。

 少し背が伸びた遼。

 笑っている遼。

 その中に、僕も時々写っている。

 そして。

 あった。

 中学三年の雨の日。

 僕の家にあったものと同じ写真。

 川沿いの道。

 僕と遼。

 滲んだ一人分の空白。

 けれど、遼の家の写真は少し違っていた。

 滲んだ場所の端に、手が写っていた。

 誰かの手。

 その手が、遼の腕を掴んでいる。

 僕の家の写真では見えなかった部分だった。

 遼はその手に引っ張られるようにして、川から離れている。

 つまり、この少年は。

 遼を助けたのか。

 母親が背後で息を呑んだ。

「その写真」

「知っているんですね」

「遼が、ずっと持っていたの」

「ずっと?」

「その日からしばらく、夜中に泣いていたわ。でも、何があったのか聞いても答えなかった。ある日から、急に何も言わなくなった」

「その日、何があったんですか」

 母親は首を振った。

「川で事故があったと聞いたわ。でも、詳しいことは」

「誰かが亡くなった?」

「いいえ」

「消えた?」

 母親が僕を見た。

「どうして、そんな言い方をするの」

 僕は答えなかった。

 写真の中の手を見つめる。

 遼を掴んでいる手。

 助けようとしている手。

 その手の持ち主の名前を、僕はまだ思い出せない。

 けれど、ひとつわかった。

 葬列の先頭の少年は、遼を恨んでいるのではない。

 助けを求めている。

 自分が助けた相手に、名前を呼んでほしいのだ。

 その時、遼の机の上に置かれていたスマートフォンが震えた。

 僕は目を見開いた。

 そこにあるのは、遼の古いスマートフォンだった。今使っているものではない。機種変更前の、画面の端が割れた端末。

 電源が入っている。

 母親も驚いていた。

「それ、もう使っていないはずなのに」

 画面が光る。

 通知が表示されていた。

 差出人不明。

『水瀬千紗を呼べ』

 僕は端末を手に取った。

 ロックはかかっていなかった。

 メッセージアプリを開くと、そこには大量の未送信メモのような文章が残っていた。

 遼の字ではない。

 いや、文字ではない。音声入力の変換ミス混じりの文章だった。

 その中に、同じ名前が何度も出てきた。

 水瀬千紗。

 水瀬千紗。

 水瀬千紗。

 遼は、この古いスマートフォンに彼女の名前を何度も残していた。

 忘れないように。

 消えないように。

 僕のスマートフォンが震えた。

 遼からだった。

『思い出せ』

 続けて、もう一通。

『水瀬は、俺を見てた』

 さらに。

『俺が笑ってないことを、知ってた』

 僕は遼の古いスマートフォンを握りしめた。

 言うべき名前はわかっている。

 でも、誰が呼ぶべきなのか。

 遼本人がいない。

 だから、僕が呼ぶしかない。

 僕は写真を机に置いた。

 川沿いの雨。

 滲んだ少年。

 遼を掴む手。

 そして、消えかけている千紗。

 僕は息を吸った。

「水瀬千紗」

 部屋の空気が揺れた。

 母親が不安そうにこちらを見る。

 僕は続けた。

「水瀬千紗。水瀬千紗。水瀬千紗」

 遼の古いスマートフォンが震える。

 画面に、保存されていた音声メモが勝手に再生された。

 遼の声だった。

 少しノイズが混じっている。

『水瀬千紗』

 遼の声。

『水瀬千紗。水瀬。覚えてる。俺、覚えてるから』

 僕は息を止めた。

 これはいつ録られたものだ。

 昨日か。

 それとも、もっと前か。

 遼の声は続いた。

『お前、俺が笑ってないって言ったよな。腹立ったけど、嬉しかった。たぶん』

 そこでノイズが入る。

『だから、忘れない。水瀬千紗』

 その瞬間、部屋の窓が曇った。

 外は晴れている。

 なのに、ガラスの向こうを雨が流れ始めた。

 窓に、教室が映った。

 今いる遼の部屋ではない。

 学校の教室。

 窓際から二列目の席。

 そこに、千紗が座っていた。

 俯いている。

 肩が濡れている。

 机の上には、開いたノートがある。

 彼女はゆっくりと顔を上げた。

 僕は叫んだ。

「水瀬千紗!」

 窓の中の千紗が、こちらを見た。

 目が合った。

 その瞬間、彼女の唇が動いた。

 北原は?

 声は聞こえなかった。

 でも、そう言ったのがわかった。

 僕は答えた。

「探す。絶対に探す」

 窓に映った教室が揺れた。

 雨が強くなる。

 千紗の輪郭が一瞬濃くなり、それから霧のように散った。

 スマートフォンが震えた。

 真柴からだった。

『おい、今、水瀬ってやつが教室に来た』

 僕は膝から崩れそうになった。

 戻った。

 千紗は戻った。

 少なくとも、学校には。

 だが安心する間もなく、遼の古いスマートフォンが再び震えた。

 画面に、遼の声ではない文字が表示される。

『順番を戻した』

 その下に、もう一文。

『次は、先頭の名前』

 机の上の雨の日の写真を見る。

 滲んだ少年の輪郭が、さっきより少しだけ濃くなっていた。

 その代わりに。

 写真の中の遼の顔が、また少し雨に流れていた。



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