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葬列通りの少年――未来の自分がいる列のうしろ  作者: 二条理|アコンプリス


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第四章 遼のいない教室

 遼の鞄を持った人影が、葬列の最後尾で一歩進んだ。

 僕は、その場から動けなかった。

 黒い服ではない。うちの高校の制服だった。けれど顔は見えない。濡れた前髪が目元を隠し、肩からは水が滴っている。右手には見覚えのある黒い通学鞄。角のところに、遼がふざけて貼った交通安全の反射シールがついていた。

 あれは遼の鞄だ。

 見間違えるはずがなかった。

 遼はよく、あのシールを指して「夜道で俺だけ助かる仕様」と笑っていた。安っぽい蛍光色のシールで、本人は本気で気に入っているのか、ネタとして貼っているのかわからなかった。

 その鞄が、葬列の中にあった。

 千紗が僕の袖を掴んだ。

「佐倉、あれ」

「わかってる」

 声が掠れた。

 わかっている。

 わかっているが、認めたくなかった。

 葬列の中の人影は、ゆっくりと足を進める。前に並ぶ者との距離を詰め、列の一部になろうとしている。顔は見えない。遼本人なのか、遼の未来なのか、遼が失う何かなのかもわからない。ただ、その存在が遼と繋がっていることだけは、どうしようもなく伝わってきた。

 スマートフォンの画面には、遼からのメッセージが残っていた。

『悪い』

『やっぱ帰れない』

 帰れない。

 たった五文字が、胸の奥で重く沈んでいる。

 帰らない、ではない。

 帰れない。

 その違いが怖かった。

 僕は震える指で返信した。

『どこにいる』

 送信済みになる。

 既読はつかない。

『遼』

 送信済み。

 既読はつかない。

『頼むから返事してくれ』

 送信済み。

 既読はつかない。

 葬列の中で、鈴が一度だけ鳴った。

 ちりん。

 まるで、こちらの焦りを笑うような音だった。

 灰色のコートの男は、列の中ほどから僕を見ていた。いや、朝は最後尾にいたはずだ。けれど今は、列の伸びた分だけ、彼の位置が前へ押し出されているように見える。彼の背後に、真柴、遼の鞄を持った人影、さらに顔の見えない誰かが並んでいる。

 列は、生き物のように伸びていた。

「遼はどこだ」

 僕は灰色のコートの男に向かって言った。

 男は答えない。

「昨日の話でいい。昨日、遼はどこにいた」

 男の唇が動いた。

「昨日、遼は北へ向かった」

「それは聞いた」

「昨日、遼は電話を切った」

「それも聞いた」

「昨日、遼は帰らなかった」

「だから、その後だ!」

 声が商店街に響いた。

 だが、通りの人々は誰も反応しない。買い物客も、店員も、駅へ急ぐ会社員も、僕たちの横を普通に通り過ぎていく。彼らには葬列が見えていないのか、それとも見えていても認識できないのか。黒い列は、現実の人々の間をすり抜けるように立っていた。

 千紗が小さく言った。

「佐倉、声、聞こえない」

「え?」

「その人、何か言ってるんだよね。でも私には聞こえない。口が動いてるのはわかるけど」

 僕は千紗を見た。

 葬列は見える。

 けれど、灰色のコートの男の声は聞こえない。

 見える範囲が、人によって違うのかもしれない。

 僕には男の声が聞こえる。

 千紗には列の姿だけが見える。

 遼には、朝、葬列は見えたが、昼の屋上では男が見えなかった。

 法則があるのか。

 それとも、葬列にどれだけ近づいているかで変わるのか。

 男が言った。

「昨日、遼は橋を渡った」

 僕は顔を上げた。

「橋?」

「昨日、遼は北の終点まで行かなかった」

「どこで降りた」

 男は口を開こうとして、苦しそうに喉元を押さえた。

 言えない。

 場所そのものは未来に関わる情報なのだろう。

 僕は考えた。

 北へ向かう快速。途中に橋がある駅。遼が降りそうな場所。家から遠く、けれど電車一本で行ける場所。

「昨日、遼は川を見ていた」

 川。

 橋。

 北へ向かう電車。

 頭の中で路線図をたどる。

 桜町から北へ三つ目の駅に、大きな川を渡る橋がある。そこを越えた先に、古い工場跡と河川敷が広がっている駅があった。学校の遠足で一度だけ通ったことがある。駅名はたしか、北沢川原。

 違うかもしれない。

 けれど、今は何かに縋るしかなかった。

「北沢川原か?」

 男は答えなかった。

 ただ、目を逸らした。

 それだけで十分だった。

 僕はスマートフォンで乗換案内を開いた。次の北行きの電車まで、十五分。ここから駅へ戻れば間に合う。遼がまだその付近にいる保証はない。けれど、何もしないよりはいい。

「行く」

 僕が言うと、千紗がすぐに頷いた。

「私も」

「水瀬は帰った方がいい」

「ここまで聞いて帰れるわけないでしょ」

「危ないかもしれない」

「もう危ないでしょ」

 それはそうだった。

 僕たちは商店街を抜け、駅へ向かって走った。

 背後で鈴が鳴った。

 ちりん。

 その音が、少しずつ遠ざかっていく。

 けれど完全には消えなかった。耳の奥に、小さな棘のように残り続けた。

 駅に着いた時、空はすっかり曇っていた。

 天気予報では夜まで晴れのはずだった。けれど、北の方角だけが暗い。低い雲が川の方へ垂れ込め、夕方なのに夜のような色をしている。

 千紗が切符を買おうとしたので、僕は止めた。

「ICカードは?」

「あるけど、残高が心配」

「チャージしよう」

「佐倉こそ昼に残高不足だったじゃん」

「今は入れた」

 そんな普通の会話をしている自分たちが、不思議だった。

 遼が消えかけているかもしれない。

 葬列に誰かが並んでいる。

 未来の自分が昨日のことだけを語っている。

 それなのに、僕らは改札前でカードの残高を気にしている。

 世界の終わりが来ても、人はたぶん、切符の買い方を間違えたり、財布の小銭を探したりするのだろう。

 ホームに降りると、北行きの電車がすぐに入ってきた。

 車内は帰宅時間には少し早く、空席がいくつかあった。僕と千紗はドアの近くに立った。座る気にはなれなかった。電車が動き出す。窓の外で、町が後ろへ流れていく。

 千紗はつり革を握りしめたまま、ずっと黙っていた。

 僕も何も言わなかった。

 言うべきことはたくさんあったはずだ。葬列のこと。遼のこと。真柴のこと。けれど、どれも言葉にすると途端に軽くなりそうだった。

 二つ目の駅を過ぎると、車内の窓に水滴がつき始めた。

 外を見た。

 雨が降っている。

 こちらの町では降っていなかったのに、川へ近づくにつれて雨が強くなっていた。夕立というには冷たい雨だった。窓の水滴は、まっすぐ下へ落ちず、電車の速度に押されて斜めに流れていく。

 千紗が呟いた。

「葬列の人たち、濡れてたよね」

「うん」

「雨の場所にいるってこと?」

「わからない」

「でも、北原がいる場所、雨かも」

 僕は窓の外を見た。

 川が近づいていた。

 鉄橋に入ると、電車の音が変わった。車輪が鉄の上を叩く音が、車内に低く響く。眼下には広い川が流れている。灰色の水面。風に煽られた波。河川敷の草は雨に倒れ、野球場のベンチは無人だった。

 橋の真ん中で、僕は見た。

 河川敷の端に、黒い列があった。

 ほんの一瞬だった。

 電車の窓の向こう、川沿いの道に、黒い服の人々が並んでいる。雨に濡れた肩。閉じた傘。先頭に立つ制服姿の少年。

 そして、列の脇に、遼がいた。

「遼!」

 僕は思わず窓に手をついた。

 電車はすぐに橋を抜けた。

 視界から河川敷が消える。

 千紗が僕の腕を掴んだ。

「いた?」

「いた。川沿い」

「本当に?」

「見えた」

 心臓が激しく打っていた。

 遼は生きている。

 少なくとも、さっきはそこにいた。

 次の駅で降りた僕たちは、改札を抜けるなり河川敷へ向かった。雨は思ったより強かった。傘を持っていない僕らは、すぐに濡れた。制服の肩が重くなる。髪から水が落ちる。靴の中に水が入り、走るたびに気持ち悪い音がした。

 北沢川原駅の周辺は、桜町とはまるで違っていた。

 駅前には古いコンビニが一軒と、小さな不動産屋があるだけで、商店街らしいものはない。線路沿いの道を進むと、すぐに川へ出る。雨のせいで人通りはなかった。

 僕たちは息を切らしながら土手を下りた。

 河川敷は広かった。

 草地、グラウンド、錆びたベンチ、川沿いの舗装路。夕方の雨に煙って、遠くまで見通せない。

「どこ?」

 千紗が息を切らして訊いた。

「あっち」

 僕は橋の方を指した。

 電車の窓から見えた位置を思い出す。川の上流側、古い水門の近く。そこに黒い列があった。

 走った。

 雨で土がぬかるみ、何度も足を取られた。千紗が滑りそうになり、僕は腕を掴んだ。彼女は礼も言わず、すぐに走り続けた。

 水門が見えてきた。

 古いコンクリートの壁に、苔が黒く張りついている。立入禁止の看板が傾き、赤い文字が雨で滲んでいるように見えた。

 そこに、遼がいた。

 水門の脇に立って、川を見ていた。

 制服の上着は着ていない。白いシャツが雨で肌に貼りついている。髪から水が滴り、右手にはスマートフォンを持っていた。鞄は足元に置かれている。

 葬列は見えなかった。

 黒い服の人々も、先頭の少年も、灰色のコートの男もいない。

 ただ、遼だけが雨の中に立っていた。

「遼!」

 僕が叫ぶと、遼はゆっくり振り返った。

 驚いた顔はしなかった。

 まるで、僕たちが来ることを知っていたみたいだった。

「何で来るんだよ」

 遼の声は、雨に濡れていた。

「連絡返せよ」

「返しただろ」

「場所を言え」

「言ったら来るだろ」

「言わなくても来た」

「最悪だな」

 遼は笑った。

 その笑い方が、ひどく弱かった。

 千紗が一歩前に出た。

「北原、帰ろう」

 遼は千紗を見て、少し目を見開いた。

「水瀬まで来たのか」

「来たら悪い?」

「悪いっていうか、何で」

「心配だからに決まってるでしょ」

 千紗の声は震えていた。

 怒っているのか、怖いのか、泣きそうなのか、たぶん全部だった。

 遼は困ったように視線を逸らした。

「そういうの、やめろよ」

「やめない」

「重いって」

「重くていい」

 その言葉に、僕は屋上での自分の言葉を思い出した。

 重くていい。

 千紗も同じことを言った。

 遼は笑えなくなった。

「何でだよ」

 小さく言った。

「何で、そんな」

 遼はそこで言葉を切った。

 川の音が聞こえる。

 雨で増えた水が、水門の下を濁った色で流れていく。流れは速い。落ちれば、簡単には上がれないだろう。

 僕は一歩ずつ遼に近づいた。

「遼、帰ろう」

「帰れないって言っただろ」

「何で」

「家に戻ったら、また同じだから」

「何が」

 遼は唇を噛んだ。

 雨のせいで、涙を流しているのかどうかはわからなかった。

「昨日、母親と話した」

 遼は言った。

「進路のことで」

 僕と千紗は黙っていた。

「第一希望を書けって言われた。ちゃんと考えろって。将来のことなんだからって。そんなの、わかってるんだよ。わかってるけど、書けないんだよ」

 遼の声は、少しずつ低くなっていった。

「俺、どこに行きたいとか、何になりたいとか、何もない。家にいたいわけでもない。学校が嫌いなわけでもない。でも、どこかへ進めって言われると、足が動かなくなる」

 僕は、進路希望調査の裏に書かれた文字を思い出した。

 どこにも行きたくない。

 遠くに行くなら今日しかない。

 誰にも言わない。

「あの紙、見たんだろ」

 遼が言った。

 僕は頷いた。

「ごめん」

「もういいよ」

 遼は力なく笑った。

「見られた時点で終わってる」

「終わってない」

「終わってるよ」

「終わってない」

 僕は強く言った。

「進路希望なんか、空欄でもいいだろ。大野に怒られればいい。呼び出されればいい。親と喧嘩してもいい。今すぐ決められなくてもいい。だから、こんなところで」

「こんなところで?」

 遼の目が細くなった。

「何だよ。俺が川に飛び込むと思った?」

 僕は答えられなかった。

 遼は笑った。

 乾いた笑いだった。

「思ったんだ」

「違う」

「違わないだろ」

「心配しただけだ」

「同じだよ」

 遼は川へ視線を戻した。

「俺、自分の葬式を見たんだぜ。そりゃ、そう思うよな」

「遼」

「でも、違う」

 遼は静かに言った。

「俺は、死にに来たんじゃない」

 その言葉に、少しだけ力が抜けた。

 だが遼の表情は、安心できるものではなかった。

「じゃあ、何しに来た」

 僕が訊くと、遼は水門の方を見た。

「思い出しに来た」

「何を」

 遼は首を振った。

「わからない」

「わからない?」

「ここ、来たことある気がするんだよ」

 雨の音が急に大きく聞こえた。

「いつ?」

「わからない。中学の時か、もっと前か。でも、朝あの葬列を見てから、ずっと頭に引っかかってた。川。雨。橋。誰かの声」

 僕は息を止めた。

 中学三年の雨の日。

 水たまり。

 手を伸ばす誰か。

 思い出せない名前。

 僕の中にも、同じような断片があった。

「遼、お前も」

「何か忘れてる」

 遼はそう言った。

「たぶん、俺だけじゃない。凪人も」

 頭の奥が痛んだ。

 遼の言葉が、封じられた場所に触れたようだった。

 千紗が不安そうに僕らを見ていた。

「二人とも、何の話?」

 僕は答えられなかった。

 遼も答えない。

 その時、水門の奥から鈴が鳴った。

 ちりん。

 雨音の中でも、はっきり聞こえた。

 僕と遼は同時に振り向いた。

 千紗も息を呑んだ。

 水門の影に、制服姿の少年が立っていた。

 葬列の先頭にいた、名前の思い出せない少年。

 彼は濡れていた。

 ずっと雨の中にいたように、髪も制服も靴も濡れきっている。けれど、足元には水たまりがない。顔は白く、目だけがこちらを見ていた。

 遼が呟いた。

「あいつ」

 僕は一歩前に出た。

「知ってるのか」

「わからない」

 遼は頭を押さえた。

「でも、知ってる。絶対、知ってる」

 少年は口を開いた。

 声は出ない。

 唇だけが動く。

 な、ま、え。

 僕は歯を食いしばった。

 また名前だ。

 真柴の時と同じ。

 名前を思い出さなければ、彼は戻らない。

 けれど、この少年の名前に触れようとすると、頭痛が比べ物にならないほど強い。記憶そのものが拒んでいる。

 遼が一歩踏み出した。

「おい」

 僕は腕を掴んだ。

「近づくな」

「でも、あいつ」

「だめだ」

「何でだよ」

「わからない。でも今近づいたら」

 遼は僕の手を振り払った。

「またそれかよ」

 雨の中で、遼の声が鋭くなった。

「わからない、でもだめだ。わからない、でも危ない。わからない、でも俺を止める。お前、ずっとそればっかりじゃん」

「遼」

「俺だって知りたいんだよ」

 遼の目が赤くなっていた。

「何で自分の葬式なんか見たのか。何でここに来た気がするのか。何であいつの顔を見ると、胸が苦しくなるのか。お前だけが怖いんじゃないんだよ」

 言い返せなかった。

 遼は少年の方へ向き直った。

「お前、誰だよ」

 少年は答えない。

 ただ、遼を見ている。

 その目に浮かんでいるのは、恨みではなかった。

 悲しみでもない。

 もっと単純なものだった。

 助けを求めている。

 遼は唇を震わせた。

「俺、何かしたのか」

 少年は動かない。

「俺、お前に何かした?」

 雨が強くなった。

 川の流れが、さらに激しく音を立てる。

 その時、僕の背後から声がした。

「昨日、遼は名前を呼ぼうとした」

 振り返る。

 灰色のコートの男が、土手の上に立っていた。

 雨の中でも、彼の濡れ方だけが違っていた。現実の雨ではなく、別の時間の雨をまとっているようだった。

「昨日、遼は呼べなかった」

 男の声は、僕にだけ届いている。

 僕は訊いた。

「この少年の名前か」

「昨日、遼は呼べなかった」

「なぜ」

「昨日、遼は忘れていた」

「僕も?」

 男は答えない。

「僕も忘れているんだな」

 男は目を伏せた。

 その沈黙だけで十分だった。

 千紗が僕の方を見た。

「また、いるの?」

「うん」

「何て?」

「遼は、この少年の名前を呼ぼうとした。でも呼べなかったって」

 遼が振り返った。

「未来のお前が言ったのか」

「うん」

「じゃあ知ってるんだろ。そいつは」

「でも言えない」

「昨日のことしか話せないから?」

「たぶん」

 遼は笑った。

 今度は怒りの混じった笑いだった。

「便利な設定だな」

「遼」

「悪い。わかってる。お前に怒っても仕方ない」

 遼は顔を拭った。

 雨なのか涙なのか、わからない。

「でも、腹立つんだよ。全部わかってるやつが近くにいて、肝心なことだけ言わないの」

 それは僕も同じだった。

 未来の僕は、助けようとしているのか、妨げようとしているのか。

 まだわからない。

 ただ、彼が何かを隠していることだけは確かだった。

 少年が、水門の影から一歩出た。

 その瞬間、遼が膝をついた。

「遼!」

 僕と千紗が駆け寄る。

 遼は頭を押さえていた。

「痛い」

「大丈夫か」

「何か、見えた」

「何が」

「雨」

「今も降ってる」

「違う。昔の雨」

 遼の声は震えていた。

「ここにいた。俺と、凪人と、もう一人」

「もう一人?」

「あいつ」

 遼は少年を指した。

「たぶん、あいつと一緒にいた」

 僕の頭にも、断片が流れ込んできた。

 濡れた靴。

 川沿いの道。

 誰かが笑っている。

 遼が何かを叫んでいる。

 僕は転んで、膝を擦りむいている。

 誰かが手を差し伸べる。

 その名前は。

 その名前は。

 頭痛が激しくなり、視界が揺れた。

 千紗が僕の肩を支えた。

「佐倉、顔真っ白」

「大丈夫」

「大丈夫じゃない」

「名前を」

「今は無理しないで」

「名前を思い出さないと」

 僕は少年を見た。

 彼は口を動かした。

 な、ま、え。

 わかっている。

 でも、出てこない。

 真柴の時とは違う。

 これは単に忘れているのではない。

 忘れることで、何かを守ってきたのだ。

 自分を。

 遼を。

 あるいは、この少年を。

 灰色のコートの男が言った。

「今、思い出すな」

 僕は顔を上げた。

「またそれか」

「今、思い出すな」

「なぜ」

「お前が壊れる」

「壊れてもいい」

「よくない」

 初めて、男の声に感情が乗った。

 強い拒絶だった。

「壊れてもいいと思っている人間は、壊れた後のことを知らない」

 その言葉は、昨日の話ではなかった。

 僕は男を見つめた。

「今の、昨日の話じゃないだろ」

 男は口を閉じた。

「言えるんだな。昨日以外のことも」

 男は答えない。

「制限があるんじゃない。あんたが選んで話してることもあるんだな」

 雨の音が強くなる。

 男は沈黙していた。

 その沈黙が、肯定に思えた。

 遼が立ち上がった。

「凪人」

「何」

「俺、今日は帰る」

 僕は遼を見た。

「本当に?」

「うん」

「帰れるのか」

「たぶん」

 遼は苦笑した。

「さっきは帰れないと思った。でも、今は帰った方がいいと思う。何か、ここにいたらまずい」

 その判断は正しい気がした。

 葬列の少年はまだ水門のそばにいる。未来の僕もいる。雨は強くなり、川は濁り、過去の記憶が少しずつ浮かび上がっている。これ以上ここにいれば、何か取り返しのつかないものを思い出してしまうかもしれない。

 いや、思い出すこと自体は必要なのだろう。

 けれど今ではない。

 今は、遼を生きたまま帰すことが先だった。

「一緒に帰ろう」

 僕が言うと、遼は少しだけ笑った。

「過保護かよ」

「今日は過保護でいい」

「重いな」

「重くていい」

 遼は僕を見て、それから千紗を見た。

「二人してそれ言うの、ずるくね?」

 千紗は腕を組んだ。

「ずるくて結構」

 遼は困ったように笑った。

 その笑顔は、まだ弱かった。

 けれど、さっきよりは現実に戻ってきていた。

 僕たちは駅へ戻ることにした。

 歩き出す前に、僕はもう一度水門の方を見た。

 少年はまだ立っていた。

 雨に濡れ、声のない口で、こちらを見ている。

 名前を。

 そう言っている。

 僕は心の中で謝った。

 今は思い出せない。

 でも、忘れたままにはしない。

 そう思った時、少年の目がわずかに揺れた。

 伝わったのかどうかはわからない。

 駅へ向かう途中、遼はほとんど喋らなかった。

 千紗も何も言わなかった。

 三人で雨の中を歩く。制服はすっかり濡れ、靴は重く、髪から水が落ちる。誰も傘を持っていない。僕たちの姿は、葬列に並ぶ人々と同じように見えたかもしれない。

 駅に着くと、ちょうど桜町方面の電車が来た。

 車内は空いていた。

 遼はドアの横に立ち、窓の外を見ていた。ガラスには雨粒が流れている。その向こうで、北沢川原の町がゆっくり遠ざかっていく。

「凪人」

 遼が言った。

「何」

「俺、明日学校行かないかも」

 胸が詰まった。

「何で」

「家で話すことになると思う」

「そうか」

「逃げるわけじゃない」

「うん」

「でも、行けないかもしれない」

「わかった」

 遼は少しだけ驚いた顔をした。

「止めないんだ」

「止めたい。でも、何でも止めればいいわけじゃないって、今日わかった」

 遼は黙った。

 千紗が小さく頷いた。

 電車の揺れが、足元から伝わってくる。

 僕はスマートフォンを握っていた。遼がここにいる。隣に立っている。その事実だけで、さっきより呼吸が楽だった。

 けれど、不安は消えない。

 葬列の最後尾に現れた、遼の鞄を持つ人影。

 あれが消えたかどうか、僕は確認していない。

 桜町駅に着いた頃には、雨は止んでいた。

 こちらの町では、路面すら濡れていない。まるで北沢川原だけが別の季節だったようだ。僕たちの制服だけが濡れていて、改札を出る人々が不思議そうにこちらを見た。

 駅前で、遼は立ち止まった。

「俺、家こっちだから」

「送る」

「いい」

「送る」

「本当に過保護だな」

「今日はそうだって言っただろ」

 遼は少し考えたあと、首を振った。

「一人で帰る」

「遼」

「大丈夫。帰るって決めたから」

 その声には、昼間より少し力があった。

 僕は迷った。

 ここで無理に送れば、また遼との距離が開くかもしれない。けれど、一人にするのは怖い。

 千紗が静かに言った。

「じゃあ、家に着いたら連絡して」

 遼は千紗を見た。

「お前、そういうこと言うタイプだっけ」

「今日から言うタイプになった」

「何それ」

「いいから。着いたら連絡」

 遼は、少しだけ笑った。

「了解」

 遼は僕らに背を向けて歩き出した。

 その背中は濡れていた。

 葬列の人々と同じように。

 でも、足音がある。

 呼吸がある。

 生きている人間の背中だった。

 角を曲がる直前、遼は振り返った。

「凪人」

「何」

「今日のこと、ありがとな」

 僕は驚いた。

 遼はすぐに顔を逸らした。

「言っとくけど、重いのは嫌いだからな」

「わかってる」

「でも、たまになら」

 そこまで言って、彼は言葉を濁した。

「いや、何でもない」

 遼は小さく手を上げ、角を曲がっていった。

 僕と千紗はしばらくその場に立っていた。

 千紗が息を吐いた。

「疲れた」

「うん」

「風邪ひくね」

「うん」

「でも、帰ってきた」

「うん」

 僕はそれしか言えなかった。

 遼は帰ってきた。

 少なくとも、桜町までは。

 その夜、遼からメッセージが届いたのは、二十時を少し過ぎた頃だった。

『家着いた』

 僕はすぐに返信した。

『よかった』

 既読はついた。

 しばらくして、もう一通来た。

『明日、学校休む』

 予想していた言葉だった。

 それでも、胸の奥が重くなる。

 僕は返信した。

『わかった。連絡はして』

『できたらな』

『絶対』

『重い』

『今日は重くていい』

 少し間が空いた。

 遼から、スタンプが一つ送られてきた。

 ふざけた犬のスタンプだった。

 僕はそこで、ようやく少し笑った。

 その直後、スマートフォンがまた震えた。

 遼ではない。

 差出人不明。

『名前を忘れるな』

 画面の光が、暗い部屋に浮かんでいる。

 僕はメッセージを見つめた。

 続けて、もう一文が表示された。

『明日、教室から一人減る』

 僕は息を止めた。

 真柴のことか。

 それとも、別の誰かなのか。

 あるいは、遼なのか。

 返信欄に文字を打とうとしたが、何を打てばいいのかわからなかった。

 その時、窓の外で鈴が鳴った。

 ちりん。

 僕はゆっくりとカーテンを開けた。

 外に雨は降っていない。

 住宅街の夜は静かだった。街灯の下に、誰もいない。道路は乾いている。車も通らない。

 けれど、窓ガラスに一筋の水滴が流れていた。

 内側ではない。

 外側でもない。

 ガラスの中を、雨粒が流れているように見えた。

 その水滴の向こうに、一瞬だけ灰色のコートの男が映った。

 彼は僕を見ていた。

 僕は訊いた。

「明日、誰が消える」

 もちろん、声は届かない。

 それでも男の唇が動いた。

 昨日、遼は学校にいなかった。

 そう言ったように見えた。

 翌朝、僕はいつもより早く学校へ向かった。

 眠れなかった。

 夜中に何度も遼へメッセージを送りそうになり、そのたびにやめた。朝になってから一通だけ送った。

『起きてる?』

 既読はつかなかった。

 遼は学校を休むと言っていた。だから既読がつかなくてもおかしくはない。寝ているのかもしれない。親と話しているのかもしれない。

 それでも、不安は消えなかった。

 商店街を通る時、僕は自然に足を止めた。

 葬列はなかった。

 時計台は普通に動いている。

 八時三分。

 人々が駅へ向かって歩いている。黒いスーツの会社員。自転車の主婦。ランドセルを背負った小学生。誰も濡れていない。誰もこちらを見ない。

 普通の朝だった。

 僕はその普通さを信用しなかった。

 教室に入ると、まだ生徒は半分ほどしか来ていなかった。

 遼の席は空いていた。

 それはわかっていた。

 問題は、後ろの窓際だった。

 真柴悠斗の席。

 僕はそこを見た。

 机はあった。

 椅子もある。

 そして、真柴が座っていた。

 俯いて、シャーペンを分解している。

 僕は思わず息を吐いた。

 真柴は顔を上げた。

「何?」

 声も、表情も、普通だった。

「いや」

「何か用?」

「真柴」

「うん?」

 名前を呼べる。

 ちゃんと呼べる。

 それだけで、胸が熱くなった。

「消しゴム、落とすなよ」

 自分でも意味のわからないことを言っていた。

 真柴は眉をひそめた。

「落としてないけど」

「これから落とすかもしれない」

「何その予言」

 真柴は不審そうに僕を見たが、それ以上は何も言わなかった。

 真柴は戻っている。

 少なくとも今は。

 だが、教室には別の違和感があった。

 何かが足りない。

 真柴ではない。

 遼の空席でもない。

 もっと別の、教室全体の形が少しだけ歪んでいるような違和感。

 僕は席に鞄を置き、周囲を見回した。

 千紗がまだ来ていない。

 いつもなら、もう来ている時間だった。

 胸が冷えた。

 スマートフォンを取り出し、千紗にメッセージを送る。

『今日来る?』

 既読はつかない。

 僕は教室の前へ行き、座席表を見た。

 遼の席。僕の席。真柴の席。

 そして、窓際から二列目の席。

 そこにあるはずの名前が、滲んでいた。

 水瀬千紗。

 その文字が、雨に濡れたように崩れ始めていた。

 僕はその場に立ち尽くした。

 遼を帰した。

 真柴の名前を呼んだ。

 その代わりに、今度は千紗が列に近づいている。

 教室の扉が開いた。

 大野が入ってくる。

「席に着け」

 生徒たちがざわざわと席に戻る。

 僕は座席表から目を離せなかった。

 大野が出席簿を開く。

 名前を呼んでいく。

 僕の名前。

 真柴の名前。

 遼の名前のところで、大野は少し止まり、「北原は欠席連絡あり」と言った。

 そして。

 千紗の名前を、飛ばした。

 僕は立ち上がった。

 椅子が大きな音を立てる。

 全員がこちらを見た。

 大野が眉をひそめる。

「どうした、佐倉」

「水瀬は?」

 教室が静まり返った。

「誰だ?」

 大野が言った。

 僕は、その言葉の意味を理解するのに数秒かかった。

「水瀬千紗です」

 誰かが小さく笑った。

「誰それ」

 別の誰かが言った。

「うちのクラスにいたっけ?」

 真柴が不思議そうに僕を見ている。

 僕は座席表を見た。

 さっきまで滲んでいた文字が、さらに薄くなっていた。

 水瀬千紗。

 その名前が、紙の上で静かに溶けていく。

 窓の外で、雨も降っていないのに鈴が鳴った。

 ちりん。



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