第四章 遼のいない教室
遼の鞄を持った人影が、葬列の最後尾で一歩進んだ。
僕は、その場から動けなかった。
黒い服ではない。うちの高校の制服だった。けれど顔は見えない。濡れた前髪が目元を隠し、肩からは水が滴っている。右手には見覚えのある黒い通学鞄。角のところに、遼がふざけて貼った交通安全の反射シールがついていた。
あれは遼の鞄だ。
見間違えるはずがなかった。
遼はよく、あのシールを指して「夜道で俺だけ助かる仕様」と笑っていた。安っぽい蛍光色のシールで、本人は本気で気に入っているのか、ネタとして貼っているのかわからなかった。
その鞄が、葬列の中にあった。
千紗が僕の袖を掴んだ。
「佐倉、あれ」
「わかってる」
声が掠れた。
わかっている。
わかっているが、認めたくなかった。
葬列の中の人影は、ゆっくりと足を進める。前に並ぶ者との距離を詰め、列の一部になろうとしている。顔は見えない。遼本人なのか、遼の未来なのか、遼が失う何かなのかもわからない。ただ、その存在が遼と繋がっていることだけは、どうしようもなく伝わってきた。
スマートフォンの画面には、遼からのメッセージが残っていた。
『悪い』
『やっぱ帰れない』
帰れない。
たった五文字が、胸の奥で重く沈んでいる。
帰らない、ではない。
帰れない。
その違いが怖かった。
僕は震える指で返信した。
『どこにいる』
送信済みになる。
既読はつかない。
『遼』
送信済み。
既読はつかない。
『頼むから返事してくれ』
送信済み。
既読はつかない。
葬列の中で、鈴が一度だけ鳴った。
ちりん。
まるで、こちらの焦りを笑うような音だった。
灰色のコートの男は、列の中ほどから僕を見ていた。いや、朝は最後尾にいたはずだ。けれど今は、列の伸びた分だけ、彼の位置が前へ押し出されているように見える。彼の背後に、真柴、遼の鞄を持った人影、さらに顔の見えない誰かが並んでいる。
列は、生き物のように伸びていた。
「遼はどこだ」
僕は灰色のコートの男に向かって言った。
男は答えない。
「昨日の話でいい。昨日、遼はどこにいた」
男の唇が動いた。
「昨日、遼は北へ向かった」
「それは聞いた」
「昨日、遼は電話を切った」
「それも聞いた」
「昨日、遼は帰らなかった」
「だから、その後だ!」
声が商店街に響いた。
だが、通りの人々は誰も反応しない。買い物客も、店員も、駅へ急ぐ会社員も、僕たちの横を普通に通り過ぎていく。彼らには葬列が見えていないのか、それとも見えていても認識できないのか。黒い列は、現実の人々の間をすり抜けるように立っていた。
千紗が小さく言った。
「佐倉、声、聞こえない」
「え?」
「その人、何か言ってるんだよね。でも私には聞こえない。口が動いてるのはわかるけど」
僕は千紗を見た。
葬列は見える。
けれど、灰色のコートの男の声は聞こえない。
見える範囲が、人によって違うのかもしれない。
僕には男の声が聞こえる。
千紗には列の姿だけが見える。
遼には、朝、葬列は見えたが、昼の屋上では男が見えなかった。
法則があるのか。
それとも、葬列にどれだけ近づいているかで変わるのか。
男が言った。
「昨日、遼は橋を渡った」
僕は顔を上げた。
「橋?」
「昨日、遼は北の終点まで行かなかった」
「どこで降りた」
男は口を開こうとして、苦しそうに喉元を押さえた。
言えない。
場所そのものは未来に関わる情報なのだろう。
僕は考えた。
北へ向かう快速。途中に橋がある駅。遼が降りそうな場所。家から遠く、けれど電車一本で行ける場所。
「昨日、遼は川を見ていた」
川。
橋。
北へ向かう電車。
頭の中で路線図をたどる。
桜町から北へ三つ目の駅に、大きな川を渡る橋がある。そこを越えた先に、古い工場跡と河川敷が広がっている駅があった。学校の遠足で一度だけ通ったことがある。駅名はたしか、北沢川原。
違うかもしれない。
けれど、今は何かに縋るしかなかった。
「北沢川原か?」
男は答えなかった。
ただ、目を逸らした。
それだけで十分だった。
僕はスマートフォンで乗換案内を開いた。次の北行きの電車まで、十五分。ここから駅へ戻れば間に合う。遼がまだその付近にいる保証はない。けれど、何もしないよりはいい。
「行く」
僕が言うと、千紗がすぐに頷いた。
「私も」
「水瀬は帰った方がいい」
「ここまで聞いて帰れるわけないでしょ」
「危ないかもしれない」
「もう危ないでしょ」
それはそうだった。
僕たちは商店街を抜け、駅へ向かって走った。
背後で鈴が鳴った。
ちりん。
その音が、少しずつ遠ざかっていく。
けれど完全には消えなかった。耳の奥に、小さな棘のように残り続けた。
駅に着いた時、空はすっかり曇っていた。
天気予報では夜まで晴れのはずだった。けれど、北の方角だけが暗い。低い雲が川の方へ垂れ込め、夕方なのに夜のような色をしている。
千紗が切符を買おうとしたので、僕は止めた。
「ICカードは?」
「あるけど、残高が心配」
「チャージしよう」
「佐倉こそ昼に残高不足だったじゃん」
「今は入れた」
そんな普通の会話をしている自分たちが、不思議だった。
遼が消えかけているかもしれない。
葬列に誰かが並んでいる。
未来の自分が昨日のことだけを語っている。
それなのに、僕らは改札前でカードの残高を気にしている。
世界の終わりが来ても、人はたぶん、切符の買い方を間違えたり、財布の小銭を探したりするのだろう。
ホームに降りると、北行きの電車がすぐに入ってきた。
車内は帰宅時間には少し早く、空席がいくつかあった。僕と千紗はドアの近くに立った。座る気にはなれなかった。電車が動き出す。窓の外で、町が後ろへ流れていく。
千紗はつり革を握りしめたまま、ずっと黙っていた。
僕も何も言わなかった。
言うべきことはたくさんあったはずだ。葬列のこと。遼のこと。真柴のこと。けれど、どれも言葉にすると途端に軽くなりそうだった。
二つ目の駅を過ぎると、車内の窓に水滴がつき始めた。
外を見た。
雨が降っている。
こちらの町では降っていなかったのに、川へ近づくにつれて雨が強くなっていた。夕立というには冷たい雨だった。窓の水滴は、まっすぐ下へ落ちず、電車の速度に押されて斜めに流れていく。
千紗が呟いた。
「葬列の人たち、濡れてたよね」
「うん」
「雨の場所にいるってこと?」
「わからない」
「でも、北原がいる場所、雨かも」
僕は窓の外を見た。
川が近づいていた。
鉄橋に入ると、電車の音が変わった。車輪が鉄の上を叩く音が、車内に低く響く。眼下には広い川が流れている。灰色の水面。風に煽られた波。河川敷の草は雨に倒れ、野球場のベンチは無人だった。
橋の真ん中で、僕は見た。
河川敷の端に、黒い列があった。
ほんの一瞬だった。
電車の窓の向こう、川沿いの道に、黒い服の人々が並んでいる。雨に濡れた肩。閉じた傘。先頭に立つ制服姿の少年。
そして、列の脇に、遼がいた。
「遼!」
僕は思わず窓に手をついた。
電車はすぐに橋を抜けた。
視界から河川敷が消える。
千紗が僕の腕を掴んだ。
「いた?」
「いた。川沿い」
「本当に?」
「見えた」
心臓が激しく打っていた。
遼は生きている。
少なくとも、さっきはそこにいた。
次の駅で降りた僕たちは、改札を抜けるなり河川敷へ向かった。雨は思ったより強かった。傘を持っていない僕らは、すぐに濡れた。制服の肩が重くなる。髪から水が落ちる。靴の中に水が入り、走るたびに気持ち悪い音がした。
北沢川原駅の周辺は、桜町とはまるで違っていた。
駅前には古いコンビニが一軒と、小さな不動産屋があるだけで、商店街らしいものはない。線路沿いの道を進むと、すぐに川へ出る。雨のせいで人通りはなかった。
僕たちは息を切らしながら土手を下りた。
河川敷は広かった。
草地、グラウンド、錆びたベンチ、川沿いの舗装路。夕方の雨に煙って、遠くまで見通せない。
「どこ?」
千紗が息を切らして訊いた。
「あっち」
僕は橋の方を指した。
電車の窓から見えた位置を思い出す。川の上流側、古い水門の近く。そこに黒い列があった。
走った。
雨で土がぬかるみ、何度も足を取られた。千紗が滑りそうになり、僕は腕を掴んだ。彼女は礼も言わず、すぐに走り続けた。
水門が見えてきた。
古いコンクリートの壁に、苔が黒く張りついている。立入禁止の看板が傾き、赤い文字が雨で滲んでいるように見えた。
そこに、遼がいた。
水門の脇に立って、川を見ていた。
制服の上着は着ていない。白いシャツが雨で肌に貼りついている。髪から水が滴り、右手にはスマートフォンを持っていた。鞄は足元に置かれている。
葬列は見えなかった。
黒い服の人々も、先頭の少年も、灰色のコートの男もいない。
ただ、遼だけが雨の中に立っていた。
「遼!」
僕が叫ぶと、遼はゆっくり振り返った。
驚いた顔はしなかった。
まるで、僕たちが来ることを知っていたみたいだった。
「何で来るんだよ」
遼の声は、雨に濡れていた。
「連絡返せよ」
「返しただろ」
「場所を言え」
「言ったら来るだろ」
「言わなくても来た」
「最悪だな」
遼は笑った。
その笑い方が、ひどく弱かった。
千紗が一歩前に出た。
「北原、帰ろう」
遼は千紗を見て、少し目を見開いた。
「水瀬まで来たのか」
「来たら悪い?」
「悪いっていうか、何で」
「心配だからに決まってるでしょ」
千紗の声は震えていた。
怒っているのか、怖いのか、泣きそうなのか、たぶん全部だった。
遼は困ったように視線を逸らした。
「そういうの、やめろよ」
「やめない」
「重いって」
「重くていい」
その言葉に、僕は屋上での自分の言葉を思い出した。
重くていい。
千紗も同じことを言った。
遼は笑えなくなった。
「何でだよ」
小さく言った。
「何で、そんな」
遼はそこで言葉を切った。
川の音が聞こえる。
雨で増えた水が、水門の下を濁った色で流れていく。流れは速い。落ちれば、簡単には上がれないだろう。
僕は一歩ずつ遼に近づいた。
「遼、帰ろう」
「帰れないって言っただろ」
「何で」
「家に戻ったら、また同じだから」
「何が」
遼は唇を噛んだ。
雨のせいで、涙を流しているのかどうかはわからなかった。
「昨日、母親と話した」
遼は言った。
「進路のことで」
僕と千紗は黙っていた。
「第一希望を書けって言われた。ちゃんと考えろって。将来のことなんだからって。そんなの、わかってるんだよ。わかってるけど、書けないんだよ」
遼の声は、少しずつ低くなっていった。
「俺、どこに行きたいとか、何になりたいとか、何もない。家にいたいわけでもない。学校が嫌いなわけでもない。でも、どこかへ進めって言われると、足が動かなくなる」
僕は、進路希望調査の裏に書かれた文字を思い出した。
どこにも行きたくない。
遠くに行くなら今日しかない。
誰にも言わない。
「あの紙、見たんだろ」
遼が言った。
僕は頷いた。
「ごめん」
「もういいよ」
遼は力なく笑った。
「見られた時点で終わってる」
「終わってない」
「終わってるよ」
「終わってない」
僕は強く言った。
「進路希望なんか、空欄でもいいだろ。大野に怒られればいい。呼び出されればいい。親と喧嘩してもいい。今すぐ決められなくてもいい。だから、こんなところで」
「こんなところで?」
遼の目が細くなった。
「何だよ。俺が川に飛び込むと思った?」
僕は答えられなかった。
遼は笑った。
乾いた笑いだった。
「思ったんだ」
「違う」
「違わないだろ」
「心配しただけだ」
「同じだよ」
遼は川へ視線を戻した。
「俺、自分の葬式を見たんだぜ。そりゃ、そう思うよな」
「遼」
「でも、違う」
遼は静かに言った。
「俺は、死にに来たんじゃない」
その言葉に、少しだけ力が抜けた。
だが遼の表情は、安心できるものではなかった。
「じゃあ、何しに来た」
僕が訊くと、遼は水門の方を見た。
「思い出しに来た」
「何を」
遼は首を振った。
「わからない」
「わからない?」
「ここ、来たことある気がするんだよ」
雨の音が急に大きく聞こえた。
「いつ?」
「わからない。中学の時か、もっと前か。でも、朝あの葬列を見てから、ずっと頭に引っかかってた。川。雨。橋。誰かの声」
僕は息を止めた。
中学三年の雨の日。
水たまり。
手を伸ばす誰か。
思い出せない名前。
僕の中にも、同じような断片があった。
「遼、お前も」
「何か忘れてる」
遼はそう言った。
「たぶん、俺だけじゃない。凪人も」
頭の奥が痛んだ。
遼の言葉が、封じられた場所に触れたようだった。
千紗が不安そうに僕らを見ていた。
「二人とも、何の話?」
僕は答えられなかった。
遼も答えない。
その時、水門の奥から鈴が鳴った。
ちりん。
雨音の中でも、はっきり聞こえた。
僕と遼は同時に振り向いた。
千紗も息を呑んだ。
水門の影に、制服姿の少年が立っていた。
葬列の先頭にいた、名前の思い出せない少年。
彼は濡れていた。
ずっと雨の中にいたように、髪も制服も靴も濡れきっている。けれど、足元には水たまりがない。顔は白く、目だけがこちらを見ていた。
遼が呟いた。
「あいつ」
僕は一歩前に出た。
「知ってるのか」
「わからない」
遼は頭を押さえた。
「でも、知ってる。絶対、知ってる」
少年は口を開いた。
声は出ない。
唇だけが動く。
な、ま、え。
僕は歯を食いしばった。
また名前だ。
真柴の時と同じ。
名前を思い出さなければ、彼は戻らない。
けれど、この少年の名前に触れようとすると、頭痛が比べ物にならないほど強い。記憶そのものが拒んでいる。
遼が一歩踏み出した。
「おい」
僕は腕を掴んだ。
「近づくな」
「でも、あいつ」
「だめだ」
「何でだよ」
「わからない。でも今近づいたら」
遼は僕の手を振り払った。
「またそれかよ」
雨の中で、遼の声が鋭くなった。
「わからない、でもだめだ。わからない、でも危ない。わからない、でも俺を止める。お前、ずっとそればっかりじゃん」
「遼」
「俺だって知りたいんだよ」
遼の目が赤くなっていた。
「何で自分の葬式なんか見たのか。何でここに来た気がするのか。何であいつの顔を見ると、胸が苦しくなるのか。お前だけが怖いんじゃないんだよ」
言い返せなかった。
遼は少年の方へ向き直った。
「お前、誰だよ」
少年は答えない。
ただ、遼を見ている。
その目に浮かんでいるのは、恨みではなかった。
悲しみでもない。
もっと単純なものだった。
助けを求めている。
遼は唇を震わせた。
「俺、何かしたのか」
少年は動かない。
「俺、お前に何かした?」
雨が強くなった。
川の流れが、さらに激しく音を立てる。
その時、僕の背後から声がした。
「昨日、遼は名前を呼ぼうとした」
振り返る。
灰色のコートの男が、土手の上に立っていた。
雨の中でも、彼の濡れ方だけが違っていた。現実の雨ではなく、別の時間の雨をまとっているようだった。
「昨日、遼は呼べなかった」
男の声は、僕にだけ届いている。
僕は訊いた。
「この少年の名前か」
「昨日、遼は呼べなかった」
「なぜ」
「昨日、遼は忘れていた」
「僕も?」
男は答えない。
「僕も忘れているんだな」
男は目を伏せた。
その沈黙だけで十分だった。
千紗が僕の方を見た。
「また、いるの?」
「うん」
「何て?」
「遼は、この少年の名前を呼ぼうとした。でも呼べなかったって」
遼が振り返った。
「未来のお前が言ったのか」
「うん」
「じゃあ知ってるんだろ。そいつは」
「でも言えない」
「昨日のことしか話せないから?」
「たぶん」
遼は笑った。
今度は怒りの混じった笑いだった。
「便利な設定だな」
「遼」
「悪い。わかってる。お前に怒っても仕方ない」
遼は顔を拭った。
雨なのか涙なのか、わからない。
「でも、腹立つんだよ。全部わかってるやつが近くにいて、肝心なことだけ言わないの」
それは僕も同じだった。
未来の僕は、助けようとしているのか、妨げようとしているのか。
まだわからない。
ただ、彼が何かを隠していることだけは確かだった。
少年が、水門の影から一歩出た。
その瞬間、遼が膝をついた。
「遼!」
僕と千紗が駆け寄る。
遼は頭を押さえていた。
「痛い」
「大丈夫か」
「何か、見えた」
「何が」
「雨」
「今も降ってる」
「違う。昔の雨」
遼の声は震えていた。
「ここにいた。俺と、凪人と、もう一人」
「もう一人?」
「あいつ」
遼は少年を指した。
「たぶん、あいつと一緒にいた」
僕の頭にも、断片が流れ込んできた。
濡れた靴。
川沿いの道。
誰かが笑っている。
遼が何かを叫んでいる。
僕は転んで、膝を擦りむいている。
誰かが手を差し伸べる。
その名前は。
その名前は。
頭痛が激しくなり、視界が揺れた。
千紗が僕の肩を支えた。
「佐倉、顔真っ白」
「大丈夫」
「大丈夫じゃない」
「名前を」
「今は無理しないで」
「名前を思い出さないと」
僕は少年を見た。
彼は口を動かした。
な、ま、え。
わかっている。
でも、出てこない。
真柴の時とは違う。
これは単に忘れているのではない。
忘れることで、何かを守ってきたのだ。
自分を。
遼を。
あるいは、この少年を。
灰色のコートの男が言った。
「今、思い出すな」
僕は顔を上げた。
「またそれか」
「今、思い出すな」
「なぜ」
「お前が壊れる」
「壊れてもいい」
「よくない」
初めて、男の声に感情が乗った。
強い拒絶だった。
「壊れてもいいと思っている人間は、壊れた後のことを知らない」
その言葉は、昨日の話ではなかった。
僕は男を見つめた。
「今の、昨日の話じゃないだろ」
男は口を閉じた。
「言えるんだな。昨日以外のことも」
男は答えない。
「制限があるんじゃない。あんたが選んで話してることもあるんだな」
雨の音が強くなる。
男は沈黙していた。
その沈黙が、肯定に思えた。
遼が立ち上がった。
「凪人」
「何」
「俺、今日は帰る」
僕は遼を見た。
「本当に?」
「うん」
「帰れるのか」
「たぶん」
遼は苦笑した。
「さっきは帰れないと思った。でも、今は帰った方がいいと思う。何か、ここにいたらまずい」
その判断は正しい気がした。
葬列の少年はまだ水門のそばにいる。未来の僕もいる。雨は強くなり、川は濁り、過去の記憶が少しずつ浮かび上がっている。これ以上ここにいれば、何か取り返しのつかないものを思い出してしまうかもしれない。
いや、思い出すこと自体は必要なのだろう。
けれど今ではない。
今は、遼を生きたまま帰すことが先だった。
「一緒に帰ろう」
僕が言うと、遼は少しだけ笑った。
「過保護かよ」
「今日は過保護でいい」
「重いな」
「重くていい」
遼は僕を見て、それから千紗を見た。
「二人してそれ言うの、ずるくね?」
千紗は腕を組んだ。
「ずるくて結構」
遼は困ったように笑った。
その笑顔は、まだ弱かった。
けれど、さっきよりは現実に戻ってきていた。
僕たちは駅へ戻ることにした。
歩き出す前に、僕はもう一度水門の方を見た。
少年はまだ立っていた。
雨に濡れ、声のない口で、こちらを見ている。
名前を。
そう言っている。
僕は心の中で謝った。
今は思い出せない。
でも、忘れたままにはしない。
そう思った時、少年の目がわずかに揺れた。
伝わったのかどうかはわからない。
駅へ向かう途中、遼はほとんど喋らなかった。
千紗も何も言わなかった。
三人で雨の中を歩く。制服はすっかり濡れ、靴は重く、髪から水が落ちる。誰も傘を持っていない。僕たちの姿は、葬列に並ぶ人々と同じように見えたかもしれない。
駅に着くと、ちょうど桜町方面の電車が来た。
車内は空いていた。
遼はドアの横に立ち、窓の外を見ていた。ガラスには雨粒が流れている。その向こうで、北沢川原の町がゆっくり遠ざかっていく。
「凪人」
遼が言った。
「何」
「俺、明日学校行かないかも」
胸が詰まった。
「何で」
「家で話すことになると思う」
「そうか」
「逃げるわけじゃない」
「うん」
「でも、行けないかもしれない」
「わかった」
遼は少しだけ驚いた顔をした。
「止めないんだ」
「止めたい。でも、何でも止めればいいわけじゃないって、今日わかった」
遼は黙った。
千紗が小さく頷いた。
電車の揺れが、足元から伝わってくる。
僕はスマートフォンを握っていた。遼がここにいる。隣に立っている。その事実だけで、さっきより呼吸が楽だった。
けれど、不安は消えない。
葬列の最後尾に現れた、遼の鞄を持つ人影。
あれが消えたかどうか、僕は確認していない。
桜町駅に着いた頃には、雨は止んでいた。
こちらの町では、路面すら濡れていない。まるで北沢川原だけが別の季節だったようだ。僕たちの制服だけが濡れていて、改札を出る人々が不思議そうにこちらを見た。
駅前で、遼は立ち止まった。
「俺、家こっちだから」
「送る」
「いい」
「送る」
「本当に過保護だな」
「今日はそうだって言っただろ」
遼は少し考えたあと、首を振った。
「一人で帰る」
「遼」
「大丈夫。帰るって決めたから」
その声には、昼間より少し力があった。
僕は迷った。
ここで無理に送れば、また遼との距離が開くかもしれない。けれど、一人にするのは怖い。
千紗が静かに言った。
「じゃあ、家に着いたら連絡して」
遼は千紗を見た。
「お前、そういうこと言うタイプだっけ」
「今日から言うタイプになった」
「何それ」
「いいから。着いたら連絡」
遼は、少しだけ笑った。
「了解」
遼は僕らに背を向けて歩き出した。
その背中は濡れていた。
葬列の人々と同じように。
でも、足音がある。
呼吸がある。
生きている人間の背中だった。
角を曲がる直前、遼は振り返った。
「凪人」
「何」
「今日のこと、ありがとな」
僕は驚いた。
遼はすぐに顔を逸らした。
「言っとくけど、重いのは嫌いだからな」
「わかってる」
「でも、たまになら」
そこまで言って、彼は言葉を濁した。
「いや、何でもない」
遼は小さく手を上げ、角を曲がっていった。
僕と千紗はしばらくその場に立っていた。
千紗が息を吐いた。
「疲れた」
「うん」
「風邪ひくね」
「うん」
「でも、帰ってきた」
「うん」
僕はそれしか言えなかった。
遼は帰ってきた。
少なくとも、桜町までは。
その夜、遼からメッセージが届いたのは、二十時を少し過ぎた頃だった。
『家着いた』
僕はすぐに返信した。
『よかった』
既読はついた。
しばらくして、もう一通来た。
『明日、学校休む』
予想していた言葉だった。
それでも、胸の奥が重くなる。
僕は返信した。
『わかった。連絡はして』
『できたらな』
『絶対』
『重い』
『今日は重くていい』
少し間が空いた。
遼から、スタンプが一つ送られてきた。
ふざけた犬のスタンプだった。
僕はそこで、ようやく少し笑った。
その直後、スマートフォンがまた震えた。
遼ではない。
差出人不明。
『名前を忘れるな』
画面の光が、暗い部屋に浮かんでいる。
僕はメッセージを見つめた。
続けて、もう一文が表示された。
『明日、教室から一人減る』
僕は息を止めた。
真柴のことか。
それとも、別の誰かなのか。
あるいは、遼なのか。
返信欄に文字を打とうとしたが、何を打てばいいのかわからなかった。
その時、窓の外で鈴が鳴った。
ちりん。
僕はゆっくりとカーテンを開けた。
外に雨は降っていない。
住宅街の夜は静かだった。街灯の下に、誰もいない。道路は乾いている。車も通らない。
けれど、窓ガラスに一筋の水滴が流れていた。
内側ではない。
外側でもない。
ガラスの中を、雨粒が流れているように見えた。
その水滴の向こうに、一瞬だけ灰色のコートの男が映った。
彼は僕を見ていた。
僕は訊いた。
「明日、誰が消える」
もちろん、声は届かない。
それでも男の唇が動いた。
昨日、遼は学校にいなかった。
そう言ったように見えた。
翌朝、僕はいつもより早く学校へ向かった。
眠れなかった。
夜中に何度も遼へメッセージを送りそうになり、そのたびにやめた。朝になってから一通だけ送った。
『起きてる?』
既読はつかなかった。
遼は学校を休むと言っていた。だから既読がつかなくてもおかしくはない。寝ているのかもしれない。親と話しているのかもしれない。
それでも、不安は消えなかった。
商店街を通る時、僕は自然に足を止めた。
葬列はなかった。
時計台は普通に動いている。
八時三分。
人々が駅へ向かって歩いている。黒いスーツの会社員。自転車の主婦。ランドセルを背負った小学生。誰も濡れていない。誰もこちらを見ない。
普通の朝だった。
僕はその普通さを信用しなかった。
教室に入ると、まだ生徒は半分ほどしか来ていなかった。
遼の席は空いていた。
それはわかっていた。
問題は、後ろの窓際だった。
真柴悠斗の席。
僕はそこを見た。
机はあった。
椅子もある。
そして、真柴が座っていた。
俯いて、シャーペンを分解している。
僕は思わず息を吐いた。
真柴は顔を上げた。
「何?」
声も、表情も、普通だった。
「いや」
「何か用?」
「真柴」
「うん?」
名前を呼べる。
ちゃんと呼べる。
それだけで、胸が熱くなった。
「消しゴム、落とすなよ」
自分でも意味のわからないことを言っていた。
真柴は眉をひそめた。
「落としてないけど」
「これから落とすかもしれない」
「何その予言」
真柴は不審そうに僕を見たが、それ以上は何も言わなかった。
真柴は戻っている。
少なくとも今は。
だが、教室には別の違和感があった。
何かが足りない。
真柴ではない。
遼の空席でもない。
もっと別の、教室全体の形が少しだけ歪んでいるような違和感。
僕は席に鞄を置き、周囲を見回した。
千紗がまだ来ていない。
いつもなら、もう来ている時間だった。
胸が冷えた。
スマートフォンを取り出し、千紗にメッセージを送る。
『今日来る?』
既読はつかない。
僕は教室の前へ行き、座席表を見た。
遼の席。僕の席。真柴の席。
そして、窓際から二列目の席。
そこにあるはずの名前が、滲んでいた。
水瀬千紗。
その文字が、雨に濡れたように崩れ始めていた。
僕はその場に立ち尽くした。
遼を帰した。
真柴の名前を呼んだ。
その代わりに、今度は千紗が列に近づいている。
教室の扉が開いた。
大野が入ってくる。
「席に着け」
生徒たちがざわざわと席に戻る。
僕は座席表から目を離せなかった。
大野が出席簿を開く。
名前を呼んでいく。
僕の名前。
真柴の名前。
遼の名前のところで、大野は少し止まり、「北原は欠席連絡あり」と言った。
そして。
千紗の名前を、飛ばした。
僕は立ち上がった。
椅子が大きな音を立てる。
全員がこちらを見た。
大野が眉をひそめる。
「どうした、佐倉」
「水瀬は?」
教室が静まり返った。
「誰だ?」
大野が言った。
僕は、その言葉の意味を理解するのに数秒かかった。
「水瀬千紗です」
誰かが小さく笑った。
「誰それ」
別の誰かが言った。
「うちのクラスにいたっけ?」
真柴が不思議そうに僕を見ている。
僕は座席表を見た。
さっきまで滲んでいた文字が、さらに薄くなっていた。
水瀬千紗。
その名前が、紙の上で静かに溶けていく。
窓の外で、雨も降っていないのに鈴が鳴った。
ちりん。




