第三章 一人増えた列
発車ベルが鳴り終わったあとも、僕はしばらく改札の前に立ち尽くしていた。
駅員が何かを言っていた。たぶん、残高不足のまま改札に突っ込もうとしたことを注意していたのだと思う。けれど、言葉は耳に入らなかった。ホームから快速電車が滑り出していく。銀色の車体が昼の光を反射し、窓に映った人々の顔が一瞬ずつ流れていく。
その中に、遼の顔は見えなかった。
見えなかったことに安堵すればいいのか、不安になるべきなのか、判断できなかった。
電車が完全にホームを離れる直前、僕は確かに見た。
遼の後ろに、黒い服の誰かが立っていた。
喪服のような服。濡れた肩。閉じた傘。
朝、商店街で見た葬列の人々と同じだった。
その人物が遼の背後にいたということは、何を意味するのか。
遼が列に連れていかれるのか。
それとも、僕が遼を追ったせいで、別の誰かがまた列に並んだのか。
考えようとすると、頭の中で鈴が鳴った。
ちりん。
実際に鳴ったわけではない。耳の奥で、記憶だけが勝手に音を立てている。朝から何度も聞いた、小さくて冷たい音だった。
「君、大丈夫?」
駅員の声で我に返った。
僕は改札機に手をついたまま、息を切らしていた。周囲の何人かが、こちらを見ている。制服姿の高校生が平日の昼間に駅で取り乱していれば、目立つのは当然だった。
「すみません」
僕は財布から千円札を出し、チャージ機へ向かった。
動作がひどく遅かった。画面の指示を読み、カードを置き、紙幣を入れる。その一つ一つに、妙な距離があった。ほんの数十秒のことなのに、その間にも遼を乗せた電車は遠ざかっていく。
チャージを終えると、僕は改札を通った。
もう間に合わないことはわかっていた。それでも、ホームへ降りずにはいられなかった。
北へ向かうホームには、電車を見送ったあとの空白が残っていた。数人の乗客がベンチに座り、次の電車を待っている。線路の向こうには住宅街が広がり、昼の空は信じられないほど明るい。
ホームの端へ走った。
黒い服の人物は、もういなかった。
遼もいない。
ただ、黄色い点字ブロックの上に、水滴が一つ落ちていた。
雨など降っていない。
僕はしゃがみ込んで、その水滴を見た。透明な水ではなかった。わずかに灰色がかっている。指で触れると冷たかった。五月の昼の日差しの中にあるものとは思えない冷たさだった。
スマートフォンを取り出す。
遼からのメッセージは、さっきの一通だけだった。
『ごめん』
僕は何度も電話をかけた。
一度目、呼び出し音が鳴る前に切れた。
二度目、圏外を知らせる無機質な声が返ってきた。
三度目、電源が入っていないか、電波の届かない場所にあるという案内が流れた。
耳元の声が遠ざかる。
僕はスマートフォンを下ろした。
何をすればいいのか、わからなかった。
遼の行き先は北だ。けれど北へ向かう電車など、いくつもある。途中で降りることもできる。乗り換えることもできる。遼が本当に遠くへ行くつもりなら、僕一人で追いつける保証はない。
駅員に事情を話すか。
学校に戻って教師に言うか。
遼の家に連絡するか。
頭の中に選択肢が浮かんでは消える。
どれも正しく見えた。
どれも間違っているように思えた。
未来の僕が言っていた。
昨日、お前は間に合った。
そして、昨日、お前は助けようとした。
だから、列ができた。
つまり、僕が遼を追って何かをすれば、また誰かが消えるのかもしれない。そう考えると、足がすくんだ。
だが、何もしなければ遼が消えるかもしれない。
その時、スマートフォンが震えた。
差出人は遼ではなかった。
学校からだった。クラスの連絡用グループに、担任の大野が投稿している。
『佐倉、北原を見かけた者は職員室まで。二人とも授業に戻るように』
僕は画面を見つめた。
学校には、まだ事情が伝わっていない。遼はただ授業を抜けた生徒で、僕もそれを追った生徒にすぎない。世界は何も知らないまま、普通の規則で僕らを捉えている。
その普通さが、ひどく頼りなかった。
ホームのベンチに座っていた老人が、こちらをちらりと見た。僕はその視線から逃れるように階段を上がり、改札を出た。
駅前のロータリーにはタクシーが並んでいた。バス停の屋根の下では、買い物袋を提げた女性が時刻表を見ている。コンビニの入口では大学生らしき二人がアイスを食べながら笑っていた。
世界は何も失っていない顔をしている。
けれど、僕の中では何かが確実に削れていた。
名前だ。
商店街で見た、黒い服のクラスメイトの名前。
どうしても思い出せない。
顔は浮かぶ。教室の後ろの方で、いつもシャーペンを分解している。授業中、消しゴムをよく落とす。遼が何度かからかっていた。たしか文化祭の時、看板の文字を書いていた。
名前だけがない。
名字の最初の音すら、出てこない。
その不自然さが怖かった。
僕は学校へ戻ることにした。
遼を追えないなら、せめてあのクラスメイトの名前を確かめるべきだと思った。名簿を見ればいい。席次表を見ればいい。誰かに聞けばいい。名前を忘れるなというメッセージが本当なら、今僕がすべきことは、遼を追うことだけではない。
名前を取り戻すこと。
それが、葬列を止める手がかりになるかもしれない。
そう考えながらも、足取りは重かった。
学校へ戻る途中、商店街の入口で一度立ち止まった。
葬列通り。
昼の商店街はまだ普通だった。人々は買い物をし、店員は声を張り、惣菜屋の油は音を立てている。薬局の前に灰色のコートの男はいない。黒い服のクラスメイトもいない。
何もいない。
そのはずだった。
けれど、商店街の時計台は十二時五十九分を指したまま止まっていた。
僕は足を止めた。
秒針が動いていない。
通りの音は聞こえている。人も動いている。時間が完全に止まったわけではない。それなのに、時計だけが止まっている。
八時十七分ではない。
十二時五十九分。
遼の乗った電車が出た、少しあとの時刻。
何かが、そこに刻まれているようだった。
その時、背後で鈴が鳴った。
ちりん。
僕は振り返った。
誰もいない。
でも、足元に水滴が落ちていた。
一つ、二つ、三つ。
雨は降っていない。
それなのに、僕の靴の先だけが濡れていた。
走った。
学校までの坂道を、一気に駆け上がる。途中で何度も息が切れた。心臓が痛い。制服のシャツが背中に貼りつく。けれど止まれなかった。
校門に着くと、生活指導の教師が僕を見つけた。
「佐倉、どこへ行っていた」
「すみません。保健室へ」
「保健室は校内だ」
当たり前の指摘だった。
僕は返事をしなかった。教師はさらに何かを言いかけたが、僕の顔色を見て眉をひそめた。
「本当に具合が悪いのか」
「少し」
「北原と一緒だったのか」
僕は一瞬だけ迷った。
遼のことを話せば、大人が動くかもしれない。駅へ行ったこと、電車に乗ったこと、家や進路のことで悩んでいること。全部話せばいい。そうすれば、少なくとも僕一人よりは何とかなるかもしれない。
だが、その時、頭の中でまた鈴が鳴った。
助けようとした。
だから、列ができた。
僕は唇を噛んだ。
「駅で見ました」
「駅?」
「でも、追いつけませんでした」
「どこへ行った」
「わかりません」
教師の表情が厳しくなった。
「職員室へ来い」
「その前に、教室に鞄を」
「佐倉」
「お願いします。すぐ行きます」
教師はしばらく僕を見ていたが、ため息をついた。
「五分だ。逃げるなよ」
「はい」
逃げるつもりはなかった。
ただ、確認したいことがあった。
教室へ向かう廊下は、授業中で静かだった。各教室から教師の声が漏れてくる。チョークが黒板を叩く音。生徒がノートをめくる音。普段なら眠気を誘う音が、今は妙に不気味だった。
僕は自分の教室の後ろの扉をそっと開けた。
数学の授業中だった。
教師が黒板に二次関数のグラフを書いている。生徒たちはノートを取っている。遼の席は空いていた。僕の席も空いている。
そして、後ろの窓際にあるはずの席に、誰もいなかった。
席はある。
机も椅子もある。
教科書も置かれている。
けれど、そこに座る生徒はいない。
僕は教室の中を見回した。
誰も気にしていない。
まるで最初から空席だったかのように、誰もその机を見ない。教師も出席を取らない。近くの生徒も、そこに人がいないことを不自然に思っていない。
僕の背中に冷たい汗が流れた。
授業中の教師が気づいた。
「佐倉。どこに行っていた」
「すみません」
「北原は?」
「わかりません」
教室が少しざわついた。
遼の名前には反応がある。
遼はまだ、ここにいる。
少なくとも、名前は残っている。
僕は席へ向かうふりをしながら、後ろの空席を見た。
机の上には教科書が一冊置かれていた。数学の教科書。表紙の右下に名前が書かれているはずだった。だが、その部分だけが水に濡れたように滲んでいた。
僕はそれを見た瞬間、息を呑んだ。
「佐倉、座れ」
教師に言われ、僕は仕方なく席に着いた。
授業の内容など一文字も頭に入らなかった。
僕の意識はずっと、後ろの空席に向いていた。
誰だ。
あそこに座っていたのは誰だ。
顔は浮かぶ。
けれど名前が出ない。
思い出そうとすると、頭の奥で激しい痛みが走る。まるで脳のどこかに触れてはいけない箇所があり、そこに近づくたび警告が鳴るようだった。
授業が終わると同時に、僕は立ち上がった。
数学教師が何か言ったが、聞かなかった。後ろの机へ向かい、教科書を手に取る。
名前欄は、やはり読めない。
水で滲んだように、黒い文字が広がっている。だが、教科書自体は乾いている。指で触れても濡れていない。
「佐倉、何してんの」
近くにいた女子が言った。
水瀬千紗だった。
遼と同じ中学出身で、最近はあまり話しているところを見ないが、時々遼の方を目で追っているのを僕は知っていた。明るいというよりは、はっきりした性格で、クラスの中では浮きすぎず沈みすぎず、ちょうどいい場所にいる。
「この席のやつ、今日休み?」
僕が訊くと、千紗は首を傾げた。
「この席?」
「うん」
「誰の席?」
胃のあたりが重くなった。
「誰のって」
「そこ、誰かいたっけ」
千紗は本気で言っているようだった。
僕は周囲を見回した。
「みんな、ここ誰の席か覚えてる?」
何人かがこちらを見た。
「空席じゃね?」
「転校生用とか?」
「いや、うちのクラス人数ぴったりじゃなかった?」
「知らね」
ざわめきが広がる。
誰も確信を持っていない。
奇妙だった。
人が一人消えかけているというのに、彼らの反応は薄い。空席があることには気づく。けれど、そこに誰かがいたという記憶へ手を伸ばそうとしない。
いや、伸ばせないのかもしれない。
僕は教科書を握りしめた。
千紗だけが、少し不安そうな顔をしていた。
「佐倉」
「何」
「何か変じゃない?」
僕は千紗を見た。
「変って?」
「わかんない。でも、何か一人足りない気がする」
その言葉に、僕は救われたような気がした。
僕だけではない。
千紗も、完全には忘れていない。
「水瀬、名前わかる?」
「名前?」
「この席のやつ」
千紗は眉を寄せた。
考えようとしている。
その表情を見て、僕は息を止めた。
千紗の唇が何かを形作る。
「たしか、ま……」
そこで彼女は顔をしかめた。
「痛っ」
「どうした」
「頭、痛い」
千紗は額を押さえた。
同じだ。
名前に近づくと痛む。
僕は教科書を鞄に入れた。
「ちょっと借りる」
「誰のかわからないのに?」
「だから確かめる」
「佐倉、北原は?」
千紗の声が少し低くなった。
僕は答えに詰まった。
「駅にいた」
「駅?」
「電車に乗った」
「どこ行ったの」
「わからない」
千紗の顔色が変わった。
「何で止めなかったの」
その言葉は、僕が自分に何度も投げつけていたものだった。
「止めようとした」
「でも、止められなかったんでしょ」
「うん」
「北原、最近変だった」
千紗は小さく言った。
「やっぱり、何かあったんだ」
「知ってることがあるのか」
「あるっていうか」
千紗は周りを気にして声を落とした。
「昨日、校舎裏で電話してた。すごく普通の声で喋ってたけど、切ったあと、笑ってなかった」
「相手は?」
「わからない。でも、家族っぽかった。北原、最後に『わかったから』って言ってた。何回も」
胸が締めつけられた。
遼は僕に言った。
家が面倒だと。
進路のことになると、特に。
僕はそこから先を聞かなかった。いや、聞けなかった。聞く資格がない気がしたからだ。
その結果、遼は電車に乗った。
「佐倉」
千紗が言った。
「北原、本当に大丈夫なの?」
答えられなかった。
大丈夫だと言えば嘘になる。
大丈夫ではないと言えば、世界が少しだけ本当に傾く気がした。
その時、教室の前の扉が開き、大野が入ってきた。
「佐倉。職員室に来いと言っただろう」
「すみません」
「北原とは連絡が取れたか」
「いえ」
「北原の保護者に連絡を入れる。お前も事情を説明しろ」
大野の声は厳しかったが、怒っているだけではなかった。心配も混じっている。大人がやっと、これはただのサボりではないと気づき始めている。
僕は頷いた。
教室を出る直前、もう一度後ろの空席を見た。
机の上には、うっすらと水滴が浮かんでいた。
雨など降っていない。
職員室での説明は、ひどく難しかった。
遼が駅から北へ向かう電車に乗ったこと。家や進路のことで悩んでいたらしいこと。進路希望調査に妙なことを書いていたこと。僕がそれを見つけたこと。
そこまでは話せた。
葬列のことは話せなかった。
未来の自分のことも。
名前を忘れられたクラスメイトのことも。
大野は僕の話を聞きながら、何度も眉をひそめた。遼の保護者に電話をかけたが、母親とはすぐに繋がらなかった。父親の連絡先にも電話したが、留守番電話になった。
大野は低く舌打ちした。
「北原のスマホは?」
「繋がりません」
「行き先に心当たりは」
「ありません」
本当は、北という手がかりがある。
だが、それ以上はわからない。
大野は学年主任と話し、駅に連絡を入れ、警察への相談も検討すると言った。大人たちがようやく動き出した。
それなのに、僕の不安は少しも軽くならなかった。
助けようとするほど、列が増える。
その言葉が、ずっと頭から離れなかった。
放課後まで、僕は学校に残された。
事情を聞かれ、保健室で休めと言われ、結局どこにも行けなかった。遼からの連絡はない。大野も何度か電話をかけていたが、繋がらないようだった。
教室に戻ると、空席はまだあった。
誰も気にしていない。
僕はその机の中を調べた。
ノート、プリント、古いガムの包み紙、短くなった鉛筆。どれも乾いているのに、名前のあるはずの部分だけが滲んでいる。
僕は席次表を探した。
教卓の上にあるファイルを開き、座席表を見る。
後ろの窓際。
その席だけが空欄だった。
いや、違う。
白く抜けているのではない。
文字があった跡はある。インクが水に溶け、広がり、紙の繊維に染み込んでいる。そこだけが灰色に曇っている。
僕は指でなぞった。
頭痛がした。
ま。
千紗が言いかけた音。
ま、から始まる名前。
真田。松井。前田。町田。
違う。
どれも違う。
顔は浮かぶのに、名前が出ない。
僕は机に拳を置いた。
「くそ」
小さく呟いた時、背後から声がした。
「佐倉」
振り返ると、千紗が立っていた。
鞄を肩にかけている。放課後になっても帰らず、僕を待っていたようだった。
「北原、連絡あった?」
「ない」
「そっか」
千紗は後ろの空席を見た。
「その席、やっぱり変だよ」
「覚えてる?」
「覚えてるってほどじゃない。でも、何か、いた気がする」
「名前は?」
千紗は唇を噛んだ。
「ま……」
またそこで止まる。
「無理しなくていい」
「でも、気持ち悪い。喉まで出てるのに」
「僕も同じ」
千紗は僕を見た。
「北原のことと関係あるの?」
僕は迷った。
葬列のことを話すべきか。
千紗は何かに気づいている。完全には忘れていない。なら、話せば協力してくれるかもしれない。
だが、話すことで千紗まで巻き込むかもしれない。
いや、もう巻き込まれているのかもしれない。
僕が黙っていても、誰かが消えかけている。
僕は深く息を吸った。
「水瀬、変な話をしてもいい?」
「内容による」
「朝、葬列を見た」
千紗は笑わなかった。
驚きもしなかった。
ただ、目を細めた。
「黒い服の人たち?」
僕は息を呑んだ。
「見たのか」
「見た、っていうか」
千紗は言葉を選ぶように視線を落とした。
「今朝、学校に来る途中、踏切の近くで黒い傘を持った人を見た。晴れてるのに濡れてて、変だなって思った。でも、次に見た時にはいなかった」
「一人?」
「うん。一人だけ」
「顔は?」
「見てない。というか、見ちゃいけない気がした」
同じだ。
葬列の気配は、僕と遼だけに見えているわけではない。
千紗にも一部が見えている。
「北原も見たの?」
「自分の葬式を見たって言ってた」
千紗の顔が白くなった。
「それで、電車に?」
「たぶん」
「たぶんって」
「わからないことが多すぎるんだ」
僕は話した。
灰色のコートの男のこと。
彼が未来の僕に見えること。
昨日のことしか話せないこと。
遼の進路希望調査。
駅へ向かったこと。
黒い服の誰かが遼の後ろに立っていたこと。
そして、名前の思い出せないクラスメイトのこと。
千紗は途中で一度も笑わなかった。
茶化しもしなかった。
ただ、黙って聞いていた。
話し終えると、彼女は後ろの空席へ目を向けた。
「未来を変えると、誰かが消えるってこと?」
「まだわからない。でも、そうかもしれない」
「じゃあ、北原を助けたら」
「誰かが列に並ぶかもしれない」
「助けなかったら?」
僕は答えられなかった。
千紗は静かに言った。
「それでも、助けるしかないでしょ」
その言葉は強かった。
単純で、乱暴で、正しかった。
僕は少し驚いて千紗を見た。
「怖くないのか」
「怖いよ」
「なら」
「でも、北原が消える方が嫌」
千紗はそう言って、少しだけ目を逸らした。
その表情を見て、僕は気づいた。
千紗は遼のことを、僕が思っているよりずっと見ていたのだ。
遼が笑っている時も、笑っていない時も。
「水瀬」
「何」
「遼のこと、好きなの?」
言ってから、こんな状況で何を訊いているのだと思った。
千紗は一瞬だけ固まり、それから僕を睨んだ。
「今それ聞く?」
「ごめん」
「ほんと最低」
「ごめん」
「好きとかじゃない」
千紗は窓の外を見た。
「ただ、あいつ、いつも笑ってるから。何か、腹立つんだよ。笑ってれば大丈夫みたいな顔してるのが」
その言い方に、僕は返す言葉を持たなかった。
僕も同じだった。
遼の笑顔に、何度も助けられてきた。だからこそ、笑っていれば大丈夫だと思いたかった。
けれど、違った。
笑っている人間ほど、誰にも助けを求められないことがある。
夕方になると、空が少し曇り始めた。
天気予報では雨の予定はなかったはずだ。
大野から、遼の母親と連絡が取れたと聞かされた。遼は家に戻っていない。母親は最初、友達の家ではないかと言ったらしい。大野が駅で目撃されたことを伝えると、電話口で黙り込んだという。
警察への相談も始まった。
それでも、遼の居場所はわからない。
僕は学校を出る頃には、体がひどく重くなっていた。
千紗は一緒に校門を出た。
「商店街、行くんでしょ」
「何でわかる」
「顔に書いてある」
「危ないかもしれない」
「今さら」
千紗はそう言って、僕の横を歩いた。
止めても無駄だと思った。
夕方の商店街は、朝とも昼とも違っていた。
店じまいの準備をする店があり、会社帰りの人々が駅から流れてくる。夕焼けは雲に隠れ、通り全体が少し灰色に沈んでいた。
時計台は動いていた。
十七時二十二分。
そのことに少し安堵した直後、通りの空気が変わった。
人の声が遠ざかる。
車の音が薄くなる。
商店街の照明だけが、ぼんやりと白く浮かび上がる。
千紗が僕の袖を掴んだ。
「佐倉」
「見える?」
「うん」
商店街の端に、葬列があった。
朝よりも長くなっていた。
黒い服の人々が、駅へ向かって一列に並んでいる。誰も傘を差していない。全員の肩が濡れている。先頭には、名前の思い出せない制服姿の少年が立っている。
そして、最後尾。
灰色のコートの男がいた。
その後ろに、黒い服の人影が一つ。
さらに、その後ろにもう一つ。
列が増えている。
朝より、確実に。
僕は足がすくんだ。
千紗は息を呑んだ。
「何、あれ」
「わからない」
「佐倉、あの最後の方」
「見えてる?」
「うん。誰か、制服着てる」
僕は目を凝らした。
最後尾近くの一人。
黒い服ではない。
うちの制服だった。
顔は俯いている。肩が濡れている。髪から水滴が落ちている。手には閉じた傘を持っていない。代わりに、何か白いものを握っている。
紙だ。
教科書か、プリントか。
僕は一歩近づいた。
頭痛がした。
ま。
名前の最初の音が、また浮かぶ。
ま、から始まる。
その生徒が少しだけ顔を上げた。
僕は息を止めた。
教室の後ろの空席に座っていた男子だった。
名前の思い出せないクラスメイト。
彼は口を開いた。
声は出ない。
唇だけが動いた。
な、ま、え。
朝、先頭の少年がそうしたように。
僕は叫びそうになった。
その時、灰色のコートの男がこちらを見た。
「昨日、お前は遼を追った」
声が届いた。
千紗には聞こえていないようだった。彼女はただ、葬列を見つめている。
「昨日、お前は間に合った」
「今日、僕は間に合わなかった」
僕は言った。
「そのせいで、列が増えたのか」
男は答えなかった。
「遼はどこにいる」
沈黙。
「昨日の話でいい。遼はどこに行った」
男はゆっくりと口を開いた。
「昨日、遼は北へ向かった」
「そのあと」
「昨日、遼は降りなかった」
「どこまで」
男は苦しそうに眉を寄せた。
言えないのか。
それとも、昨日の自分も知らなかったのか。
「昨日、遼は電話を切った」
「誰から」
「母親」
千紗がこちらを見た。
「何て?」
「遼の母親から電話があったって」
千紗の顔が強ばる。
男は続けた。
「昨日、遼は笑った」
僕は拳を握った。
「またそれか」
「昨日、遼は誰もいない場所で笑った」
男の声は低かった。
「昨日、遼は泣かなかった」
僕は、その違いに気づいた。
泣いたのではない。
笑った。
誰もいない場所で。
それは、僕の知っている遼の一番危ない状態だった。
泣けない時、人は笑う。
少なくとも遼は、そうする。
僕は列の中の制服姿のクラスメイトを見た。
彼の名前を思い出せない。
でも、遼を放っておくこともできない。
「どうすればいい」
僕は未来の自分に訊いた。
「遼も、この人も助けたい。どうすればいい」
灰色のコートの男は、僕を見た。
その目には、朝と同じ後悔があった。
「昨日、お前は選ばなかった」
「どういう意味だ」
「昨日、お前は選んだふりをした」
「だから、何を」
男は答えない。
かわりに、鈴が鳴った。
ちりん。
葬列の先頭の少年が、一歩進んだ。
その瞬間、列に並ぶ人々が一斉に顔を上げた。
白い顔。
濡れた目。
名前をなくした人々。
千紗が僕の袖を強く掴む。
「佐倉、やばい」
「下がって」
「でも、あの人」
千紗も見ている。
制服姿のクラスメイトを。
完全には忘れていない。
なら、まだ間に合うのかもしれない。
僕は必死に名前を探した。
ま。
まつ。
まさ。
まき。
違う。
顔を見る。
教室の後ろ。落とした消しゴム。文化祭の看板。遼がからかっていた。
遼が何と言っていた。
おい、また消しゴム落としてんぞ。
違う。
名前で呼んでいたか。
呼んでいたはずだ。
思い出せ。
思い出せ。
頭の奥で激痛が走る。
視界が白くなる。
「佐倉!」
千紗の声が遠くなる。
その時、スマートフォンが震えた。
僕は反射的に画面を見た。
遼からだった。
『今、どこ』
たった四文字。
僕はその場で崩れそうになった。
生きている。
遼はまだ、メッセージを送れる場所にいる。
僕は震える指で返信した。
『商店街』
すぐに既読がついた。
遼からの返事は、少し間を置いて届いた。
『何でそこなんだよ』
僕は笑いそうになった。
こんな時でも、遼はそういう言い方をする。
続けて、もう一通。
『俺、帰る』
千紗が画面を覗き込んだ。
「北原?」
「帰るって」
「どこから?」
僕は打った。
『どこにいる』
しかし、その返事はすぐには来なかった。
代わりに、葬列の中で鈴が鳴った。
ちりん。
灰色のコートの男が言った。
「昨日、遼は帰らなかった」
血の気が引いた。
僕は画面を見つめた。
既読はついている。
だが返信はない。
男の言葉が、今度ははっきりと意味を持った。
昨日、遼は帰らなかった。
なら、今日帰ると言ったことは、未来が変わったのか。
それとも、帰るという言葉自体が嘘なのか。
遼が僕を安心させるためについた嘘なのか。
考える間もなく、葬列の制服姿のクラスメイトが一歩進んだ。
先頭の少年に近づいていく。
忘れられた順に、前へ進む。
未来の僕の言葉が蘇る。
思い出せなくなったら、終わりだ。
僕は叫んだ。
「待ってくれ!」
声は葬列の中へ吸い込まれた。
誰も止まらない。
制服姿のクラスメイトは、また一歩進む。
その手に握られている白い紙が、風に揺れた。
紙の端に、薄く文字が見えた。
文化祭実行委員。
その下に、名前があった。
滲んでいる。
けれど、すべては消えていない。
まつ。
違う。
まえ。
違う。
まし。
僕は目を凝らした。
千紗が隣で小さく呟いた。
「真柴」
その瞬間、頭痛が弾けた。
記憶が戻る。
真柴悠斗。
後ろの窓際の席。
いつも消しゴムを落とす。
文化祭の看板の文字がやけに上手かった。
遼が「真柴、お前字だけはイケメンだな」と言って、真柴が「だけって何だよ」と笑っていた。
僕は叫んだ。
「真柴悠斗!」
葬列が止まった。
制服姿のクラスメイトが、ゆっくりと顔を上げた。
白かった顔に、わずかに色が戻る。
千紗が息を呑んだ。
「思い出した」
真柴は、声のない口で何かを言った。
ありがとう。
そう見えた。
だが、次の瞬間、列の奥で鈴が激しく鳴った。
ちりん、ちりん、ちりん。
葬列の最後尾に、また新しい人影が現れた。
僕は凍りついた。
真柴の名前を呼んだことで、彼は少し戻った。
しかし、その代わりに誰かが増えた。
救えば、別の誰かが列に並ぶ。
そんな仕組みなのか。
千紗が震える声で言った。
「今、増えた」
「見えてるのか」
「見えてる」
新しく現れた人影は、顔が見えなかった。
だが、制服を着ている。
うちの学校の制服。
そして、肩にかけた鞄に、見覚えがあった。
遼の鞄だった。
僕は息を忘れた。
「嘘だろ」
灰色のコートの男が、こちらを見ていた。
その目は、何も言っていないのに、すべてを知っているようだった。
スマートフォンが震えた。
遼からのメッセージ。
『悪い』
続けて、もう一通。
『やっぱ帰れない』
葬列の最後尾で、遼の鞄を持った人影が一歩、前へ進んだ。




