第二章 昨日しか話せない声
教室に入った瞬間、いつもの朝が戻ってきたように見えた。
黒板には日直が書いた日付があり、窓際の席では女子が英単語の小テストについて文句を言っていた。前の方では野球部の男子が机に突っ伏して寝ている。廊下からは一年生の笑い声が流れ込んでくる。教室の蛍光灯は一本だけわずかにちらついていて、その下に座っている生徒が「またかよ」と舌打ちした。
何も変わっていない。
そう思いたかった。
だが、一度見てしまったものは、見なかったことにできない。
黒い服の列。濡れた肩。名前の思い出せない少年。灰色のコートの男。
そして、その男が言った言葉。
昨日、遼はまだ生きていた。
それは、今日の遼が生きていることを否定する言葉ではない。けれど、明日の遼について何も保証しない言葉でもあった。
僕は自分の席に鞄を置いた。
遼は隣の席に座って、平然と机の中を漁っていた。朝の商店街であんなものを見た人間とは思えないほど、動作がいつも通りだった。
「やべえ」
遼が言った。
「英語のプリント、家に置いてきた」
「今日提出だっけ」
「いや、昨日提出」
「終わってるじゃん」
「終わってるって言うな。まだ先生が回収を忘れている可能性がある」
「ないと思う」
「希望を捨てるなよ、佐倉」
遼は僕の姓をわざと大げさに呼んで、机の中からくしゃくしゃのプリントを引っぱり出した。端が折れ、真ん中に変な線が入っている。たぶん一度丸めて、思い直して広げたのだろう。
「ほら、あった」
「それ、数学」
「英語っぽいだろ」
「一文字もアルファベットないけど」
「数字は世界共通語だ」
遼はそう言って笑った。
その笑顔を見て、僕は安心しかけた。
朝の出来事は何だったのだろう。二人で同じ幻覚を見たのかもしれない。寝不足。ストレス。そういう言葉を並べれば、いくらでも説明できる。中間試験が近い。遼は最近、寝ていないようだった。僕だって昨日は遅くまで起きていた。
人間は、思っているより簡単に変なものを見る。
そう考えた瞬間、遼が言った。
「で、凪人」
「何」
「商店街のあれ、どうする?」
僕は、机に教科書を入れる手を止めた。
遼は笑っていなかった。
さっきまでと同じ顔をしている。口元だけは軽い。けれど目が違う。教室の騒がしさの中で、遼の声だけが少し低く沈んでいた。
「どうするって」
「警察に言う?」
「何て?」
「通学路に葬列が出ました。しかも最後尾に未来の佐倉凪人らしき人がいました」
「警察じゃなくて病院に回されると思う」
「だよな」
遼は机に頬杖をついた。
「じゃあ、先生?」
「同じだろ」
「だよな」
遼は窓の外を見た。
校庭では、遅れてきた陸上部の男子が教師に注意されていた。体育倉庫の横に、朝の光が落ちている。どこにも雨の気配はない。
「俺さ」
遼が言った。
「朝、駅前で見たんだよ」
「何を」
「俺の葬式」
言葉にされると、想像していたより重かった。
遼はまだ窓の外を見ていた。
「変な言い方だけどさ、そうとしか言いようがないんだ。駅の改札の前に、黒い服の人が並んでて。みんな濡れてた。雨なんか降ってないのに。先頭に、俺がいた」
僕は遼の横顔を見た。
「お前が?」
「たぶん」
「たぶんって何だよ」
「顔が見えたわけじゃない。でも、わかるだろ。あれ、自分だって」
わかる。
僕は灰色のコートの男を思い出した。
あれが自分だと認めたくなかった。だが、認めない方が不自然だった。顔の造りではない。目の奥の動き。立ち方。黙り方。そういう細部が、逃げ場を塞いでくる。
遼も同じものを見たのだ。
自分にしかわからない、自分の気配。
「それで?」
「怖くなって逃げた。そしたら、お前からメッセージが来た。商店街って書いてあった」
「来るなって送った」
「来るなって言われたら行くだろ」
「普通は行かない」
「俺は普通じゃないからな」
遼は軽く笑った。
その笑いが、また不自然だった。
僕は訊くべきか迷った。遼が自分から話すのを待つべきか。だが、今日それを待っていていいのかどうか、僕にはわからなかった。
葬列は増えた。
僕が未来を変えたからかもしれない。
何かを選ぶたび、誰かが列に並ぶのだとしたら、黙っていることもまた選択になる。
「遼」
「ん?」
「お前、最近何かあった?」
遼は、少しだけ目を細めた。
「何かって?」
「家とか、進路とか」
「急に重いな」
「真面目に聞いてる」
「それがもう重いんだよ」
遼は机に伏せるようにして、腕の間に顔を埋めた。話を終わらせる時の仕草だった。遼は困ると、すぐ笑う。笑えないほど困ると、こうやって顔を隠す。
「別に何もないよ」
「本当に?」
「本当」
即答だった。
即答する時の遼は、たいてい嘘をついている。
「昨日、何してた」
そう訊いた瞬間、遼の肩がわずかに動いた。
彼は顔を上げなかった。
「昨日?」
「うん」
「学校行って、帰った」
「それだけ?」
「それだけ」
「屋上に行った?」
遼が顔を上げた。
表情が消えていた。
「何で知ってんの」
教室の空気が、少しだけ遠くなった。
周りでは相変わらず誰かが喋っている。椅子の脚が床を擦る音も、ロッカーを閉める音も聞こえる。けれど、その全部が薄い膜の向こうにあるようだった。
僕は返事に詰まった。
未来の僕が言ったわけではない。まだそこまでは聞いていない。だが、遼の反応が答えだった。
「勘」
「勘で屋上って出るか?」
「出る時もある」
「ねえよ」
遼は低く言った。
僕の知っている遼の声ではなかった。
「なあ、凪人。お前、何か知ってる?」
「知ってるわけじゃない」
「じゃあ何」
「わからない。でも」
「でも?」
遼の目が僕を見る。
僕は、その目を正面から受け止められなかった。
「朝、あの男が言ったんだ。昨日の話しかできないって」
「未来のお前?」
「たぶん」
「そいつが、俺の昨日を知ってるってこと?」
「そうだと思う」
遼は、しばらく何も言わなかった。
やがて、小さく笑った。
「何それ。気持ち悪」
その言い方には怒りが混じっていた。
当然だと思った。
自分の知らないところで、自分の昨日を誰かが語っている。しかも、それが友人の未来の姿かもしれない男だという。気味が悪いに決まっている。
「俺のこと、どこまで言ってた?」
「まだ、ほとんど」
「ほとんど?」
「カレーパンのこととか」
「そんなのどうでもいいだろ」
「それと、昨日は笑ってたって」
遼は口を閉じた。
その表情を見た瞬間、僕は失敗したと思った。
遼は昨日笑っていた。けれど、その言葉は、遼にとって褒め言葉ではなかったのかもしれない。笑っていたという事実が、かえって彼を追い詰めることもある。僕はそれを考えなかった。
遼は窓の外へ視線を戻した。
「そっか」
「ごめん」
「何で謝んの」
「いや」
「別にいいよ。俺、昨日笑ってたし」
遼はそう言った。
けれど、その声は笑っていなかった。
チャイムが鳴った。
担任の大野が入ってきて、朝のホームルームが始まった。出席確認。連絡事項。中間試験の日程。進路希望調査の再提出。大野の声はいつもと同じだった。少し鼻にかかった、淡々とした声。
「進路希望調査をまだ出していない者は、今日中に出すこと。三年になってから慌てても遅いからな」
その言葉の時、遼が一瞬だけ机の中を見た。
ほんの一瞬だった。
だが、僕は見逃さなかった。
遼の右手が、机の奥にある何かを押さえた。紙のようだった。折り畳まれた、白い紙。
ホームルームが終わると、遼はすぐ立ち上がった。
「トイレ」
それだけ言って、教室を出ていった。
僕は追いかけなかった。
追いかけるべきだったのかもしれない。けれど、朝の会話の後で、これ以上踏み込めば何かが壊れる気がした。
一時間目の現代文が始まっても、遼は戻ってこなかった。
教師は最初だけ「北原は?」と訊いたが、誰かが「トイレです」と答えると、それ以上追及しなかった。遼は普段から、そういう扱いをされている。少しくらい遅れても、最終的には戻ってくるやつ。怒られても笑って済ませるやつ。教師も生徒も、遼をそう見ている。
僕もそう見ていた。
つい今朝までは。
授業中、僕は何度も廊下の方を見た。
遼は戻ってこない。
教科書の文字が頭に入らなかった。教師が黒板に書く解釈も、隣の席の女子がノートをめくる音も、すべてが遠い。
頭の中で繰り返し鳴っていたのは、未来の僕の声だった。
昨日、遼はまだ生きていた。
昨日、遼はまだ笑っていた。
昨日、遼はまだ名前を呼ばれていた。
それは全部、過去形だった。
昼休みになっても、遼は教室に戻らなかった。
僕は購買へ行くふりをして、廊下へ出た。トイレ、階段、昇降口、渡り廊下。どこにもいない。屋上へ続く階段の前で、一度足を止めた。
扉には鍵がかかっているはずだった。
うちの学校では、屋上は原則立入禁止だ。昔、生徒が騒いで近所から苦情が来たとか、落下事故があったとか、理由はいくつか聞いたことがある。真偽は知らない。ただ、屋上へ続く鉄扉にはいつも南京錠がかかっている。
だが、今日は違った。
扉が、少しだけ開いていた。
風が隙間から降りてくる。
僕は階段を上がった。
踏み出すたび、靴音が妙に大きく響いた。誰かに見つかったら面倒だ。そう思いながらも、足は止まらなかった。
扉を押すと、乾いた金属音がした。
屋上には、遼がいた。
フェンスにもたれて、空を見上げている。昼の光の中で見ると、朝よりも顔色が悪かった。頬が少しこけている。目の下には薄い影があった。
「やっぱ来た」
遼が言った。
「何してるんだよ」
「サボり」
「一時間目から?」
「効率いいだろ」
「よくない」
僕は遼の隣に立った。
風が強かった。校庭から部活の掛け声が聞こえる。昼休みなのに、どこかの運動部が練習しているらしい。フェンスの向こうには、駅へ続く道と、商店街の屋根が見えた。
葬列通り。
今はただの商店街だった。
「朝のやつ、夢じゃないよな」
遼が言った。
「たぶん」
「二人で同じ夢を見るほど仲良くないしな」
「そこは仲良いって言えよ」
「気持ち悪いだろ」
遼は笑った。
少しだけ、いつもの遼に戻ったように見えた。
でも、それは表面だけだった。
僕はフェンスを掴んだ。
「進路希望調査」
遼の横顔が固まった。
「まだ出してないんだろ」
「大野が言ってたからな」
「机の中にある?」
「見たのかよ」
「見てない」
「じゃあ、何で」
「お前が押さえてた」
「よく見てんな」
「隣だから」
遼は小さく舌打ちした。
それは本気で苛立っている時の音だった。
「別に、出すよ。今日中に」
「何て書くんだ」
「進学」
「本当に?」
「何だよ、その聞き方」
「本当にそう思ってるのかって聞いてる」
遼はフェンスから体を離した。
「なあ、凪人」
「何」
「朝から何なの、お前」
その声には、はっきりと棘があった。
「急に俺の昨日がどうとか、進路がどうとか、屋上がどうとか。未来のお前が何か言ったからって、俺の中に勝手に入ってくんなよ」
何も言えなかった。
遼の言葉は正しかった。
僕は心配しているつもりだった。助けたいと思っていた。だが、遼から見れば、突然踏み込まれただけだ。自分でもまだ言葉にしていない不安を、外側から暴かれようとしている。
それがどれほど嫌なことか、僕は考えていなかった。
「ごめん」
「謝ればいいってもんじゃない」
「うん」
「……そこで素直に頷くなよ」
遼は困ったように笑った。
怒りきれなくなった時の顔だった。
僕は言った。
「でも、放っておけない」
「何を」
「お前を」
遼は黙った。
風が吹いた。
屋上の隅に溜まった落ち葉が、かさかさと音を立てて動いた。どこから飛んできたのか、薄いビニール袋がフェンスに引っかかっている。
「俺さ」
遼が口を開いた。
「たぶん、長くないのかもな」
冗談のような口調だった。
だからこそ、僕はすぐに反応できなかった。
「何だよ、それ」
「いや、朝見たやつの話。自分の葬式とか見たら、そう思うだろ」
「冗談でも言うな」
「冗談にしないと重いだろ」
「重くていい」
僕が言うと、遼は少し驚いたようにこちらを見た。
僕も、自分で言って驚いていた。
重くていい。
そんなことを、僕は普段なら言わない。面倒な空気になりそうな時は、遼の軽口に乗ってやり過ごす。真面目な話を避けるのは、遼だけではない。僕も同じだった。
遼はまた空を見た。
「家、ちょっと面倒でさ」
唐突だった。
それでも僕は黙って聞いた。
「母親と、最近あんまりうまくいってない。いや、最近っていうか、ずっとかな。進路のことになると、特に」
「進学しろって?」
「そう。できれば地元の国立。無理なら私立でもいいけど、金のことは考えろって。で、父親の方は仕事でほとんど家にいない。たまに帰ってきても、母親の言うことに頷くだけ」
遼は笑った。
「俺、家だと結構優等生なんだよ」
「そうなの?」
「意外そうにすんな」
「いや、学校では」
「学校では何だよ」
「うるさい」
「正解」
遼は軽く肩をすくめた。
「家で静かにしてる分、学校でうるさいんだよ。バランス取ってんの」
「そんなバランスあるか」
「あるんだよ、俺には」
その言葉は軽かったが、嘘ではなさそうだった。
僕は初めて、遼の笑い方を少し理解した気がした。
学校でふざける遼。教師に怒られても笑っている遼。友人の間で馬鹿なことを言って、場の空気を軽くする遼。
それは、彼の明るさではなく、彼の逃げ方だったのかもしれない。
「進路希望、何て書いたんだ」
僕は訊いた。
遼は答えなかった。
「出してないんじゃなくて、書けなかった?」
「……しつこいな」
「ごめん」
「また謝る」
遼はフェンスの向こうを見たまま、低く言った。
「どこにも行きたくない」
僕は息を止めた。
「そう書いたのか」
「書いてない」
「じゃあ」
「書きそうになった」
遼は笑った。
「さすがに大野に怒られるだろ。進路希望に『どこにも行きたくない』は」
「怒られるというか、呼び出されると思う」
「だよな」
遼はポケットから折り畳まれた紙を出した。
進路希望調査だった。
広げると、そこには途中まで書かれた文字があった。第一希望、未記入。第二希望、未記入。保護者欄には、まだ何もない。備考欄にだけ、薄く消しゴムの跡が残っていた。
何度も書いて、消した跡。
完全には消えていない。
目を凝らすと、かすかに読めた。
どこにも行きたくない。
僕はその文字を見て、胸の奥が痛んだ。
未来の僕が言っていたわけではない。
それでも、僕は知っていた気がした。
遼が昨日、何かを捨てようとしていたこと。笑いながら、誰にも見せない場所で、静かに何かを諦めようとしていたこと。
遼は紙を畳み直した。
「見るなよ」
「もう見た」
「最悪」
「ごめん」
「謝るなって」
遼は紙をポケットに戻した。
その時、屋上の扉が音を立てた。
僕と遼は同時に振り向いた。
誰もいなかった。
扉は閉まったままだった。
風かと思った。
けれど、次の瞬間、僕は見てしまった。
屋上の貯水槽の影に、灰色のコートの男が立っていた。
心臓が跳ねる。
男は朝と同じように濡れていた。屋上には日が差しているのに、コートの肩だけが黒く湿っている。髪も額に貼りつき、目だけが乾いていた。
遼には見えていないようだった。
「凪人?」
遼が怪訝そうに僕を見た。
僕は男から目を離せなかった。
男は、静かに口を開いた。
「昨日、遼はここにいた」
声が聞こえた。
やはり、距離がない声だった。
「昨日、遼はフェンスを見ていた」
背筋が冷えた。
遼は僕の反応に気づき、ゆっくりと周囲を見回した。
「いるのか」
「うん」
「未来のお前?」
「たぶん」
「俺には見えない」
「朝は見えてた」
「今は見えない」
遼の声が少し震えた。
見えないことの方が怖い場合もある。
そこにいるとわかっているのに、自分だけが見えない。僕が逆の立場なら、たぶん耐えられない。
男は続けた。
「昨日、遼は進路希望調査を捨てた」
僕は遼を見た。
遼は眉をひそめた。
「何て?」
「昨日、お前は進路希望調査を捨てたって」
「捨ててない」
遼は即答した。
しかし、次の瞬間、少しだけ視線が揺れた。
「いや、捨てようとはしたけど」
男は言った。
「昨日、遼は誰にも見られていないと思っていた」
僕は黙った。
「昨日、遼は泣いていた」
遼の顔から、血の気が引いた。
「何で」
声が掠れた。
「何で知ってんだよ」
僕は何も答えられなかった。
遼は、僕ではなく、見えない男に向かって怒鳴った。
「何で知ってんだよ!」
その声は屋上に響いた。
校庭の方から、誰かが一瞬こちらを見上げた気がした。
男は表情を変えなかった。
いや、変えられなかったのかもしれない。
遼は肩で息をしていた。
「見たのかよ。お前が。未来の凪人だか何だか知らないけど、俺のこと見てたのかよ」
男は答えない。
答えられない。
昨日の話しかできないのだから。
僕は遼に手を伸ばしかけた。
だが、遼は一歩下がった。
「触んな」
その一言で、僕は動けなくなった。
遼は笑おうとした。
でも失敗した。
「最悪だな」
「遼」
「最悪だよ、ほんと」
遼は屋上の扉へ向かった。
「待て」
「待たない」
「一人になるな」
遼は振り返った。
「何で?」
「わからない。でも」
「またそれかよ」
遼の声が荒くなった。
「わからないなら黙ってろよ。何もわかってないのに、俺の昨日だけ勝手に覗いて、勝手に心配して、勝手に助けようとすんな」
言葉が刺さった。
正しい。
全部、正しい。
「お前は悪くない」
僕は、それだけ言った。
遼は顔を歪めた。
「そういうのが一番きついんだよ」
扉が開き、遼は階段へ消えた。
屋上に、僕と未来の僕だけが残された。
風が吹いている。
僕は灰色のコートの男を睨んだ。
「何で言った」
男は答えない。
「言わなくていいことだろ。あんな言い方したら、遼が傷つくだけだ」
男は静かに言った。
「昨日、お前は何も聞かなかった」
「だから?」
「昨日、お前は遼を笑わせた」
「それが悪いのか」
「昨日、お前は遼の泣いた理由を知らなかった」
腹の底に怒りが溜まっていく。
「だから何だよ」
男は、僕を見た。
「知らないまま、明日を迎えた」
その言葉で、怒りが少しだけ形を変えた。
怖さに変わった。
「明日、何がある」
男の口がわずかに動いた。
声は出なかった。
唇だけが、何かを言おうとしている。
遼が。
そこまでは読めた。
その先がわからない。
男の喉元で、音が潰れた。
苦しそうだった。息ができない人のように、胸を押さえている。彼は未来を話そうとしている。だが、見えない何かがそれを塞いでいる。
僕は一歩近づいた。
「明日、遼はどうなる」
男は答えられない。
「死ぬのか」
言葉にした瞬間、自分でぞっとした。
男は首を横に振らなかった。
縦にも振らなかった。
ただ、目を閉じた。
その反応が何より怖かった。
「助け方を教えろ」
僕は言った。
「昨日の話でいい。何か手がかりがあるんだろ」
男は、しばらく沈黙していた。
やがて、ゆっくりと言った。
「昨日、遼は屋上で一人だった」
「それは聞いた」
「昨日、遼は破れた進路希望調査をゴミ箱に捨てた」
「紙は持ってた」
「昨日、遼はそれを拾い直した」
僕は眉をひそめた。
「どこのゴミ箱」
「教室」
「教室の?」
「後ろの、窓側」
男は続けた。
「昨日、遼は誰にも見られていないと思っていた」
「泣いてたことか」
「違う」
初めて、男が昨日以外の反応をしたように見えた。
「違う?」
「昨日、遼は紙の裏に書いた」
「何を」
男は苦しそうに口を開いた。
「遠くに行くなら」
そこで声が途切れた。
男は喉を押さえた。
だが、諦めずにもう一度言った。
「昨日、遼は紙の裏に書いた」
「遠くに行くなら?」
「今日しかない」
風が止まった気がした。
遠くに行くなら、今日しかない。
その言葉だけで、何かが見えた。
遼はどこかへ行くつもりなのかもしれない。学校を抜け出す。家へ帰らない。駅へ向かう。どこか遠くへ。
いや、それだけならまだいい。
自分の葬式を見た遼が、遠くへ行くと言った時、その意味はひとつに限られない。
僕は背中に汗が滲むのを感じた。
「いつ」
男は答えない。
「今日か」
答えない。
「放課後?」
答えない。
「駅?」
男の表情がわずかに動いた。
それだけで十分だった。
僕は屋上の扉へ向かった。
「佐倉凪人」
背後から名前を呼ばれた。
振り返ると、男がこちらを見ていた。
「昨日、お前は助けようとした」
胸が嫌な音を立てた。
「そして?」
男は言った。
「だから、列ができた」
僕は言葉を失った。
助けようとしたから、列ができた。
それは朝にも聞いた。
けれど、今は意味が違って響いた。
遼を助けようとすること自体が、誰かを葬列に並ばせるのだとしたら。
何もしなければ遼が危ない。
助けようとすれば、誰かが消える。
どうしろというのか。
男は、それ以上何も言わなかった。
僕は階段を駆け下りた。
昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴る。廊下に生徒たちが戻ってくる。僕はその流れに逆らって、教室へ戻った。
遼はいなかった。
席にも、廊下にも、トイレにもいない。
僕は教室の後ろへ向かった。
窓側のゴミ箱。
中には、菓子パンの袋、丸められたプリント、紙パック、折れたシャーペンの芯。僕は周囲の目を気にする余裕もなく、それを漁った。
「佐倉、何してんの」
クラスメイトの声がした。
「落とし物」
適当に答えた。
手に触れた紙を片っ端から広げる。
数学の小テスト。文化祭のアンケート。英単語の練習プリント。
そして、破れた進路希望調査。
真ん中から二つに裂かれ、さらに何度も丸められた跡があった。名前欄には、北原遼と書かれている。
僕は息を呑んだ。
表には、何も書かれていない。
いや、書いては消した跡がある。第一希望も、第二希望も、備考欄も、薄い黒鉛の汚れで曇っていた。
僕は紙を裏返した。
そこに、遼の字があった。
強く書きつけたせいで、紙の繊維が少し破れている。
遠くに行くなら今日しかない。
その下に、もう一行。
誰にも言わない。
僕は紙を握りしめた。
その瞬間、スマートフォンが震えた。
遼からのメッセージだった。
『悪い。午後、出ない』
続けて、もう一通。
『大野には適当に言っといて』
僕はすぐに返信した。
『どこにいる』
既読はつかなかった。
『遼』
送っても、既読はつかない。
教室の空気が、急に薄くなった。
僕は立ち上がった。
教師が入ってくる。午後の授業が始まる。誰かが席に着けと言う。僕の名前を呼ぶ声がする。
だが、僕は動けなかった。
進路希望調査の裏に書かれた文字を見ているうちに、朝の葬列が脳裏に蘇った。
濡れた肩。
名前のない少年。
未来の僕。
そして、最後尾に一人増えた誰か。
助けようとした。
だから、列ができた。
僕は紙を鞄に押し込んだ。
「先生」
自分でも驚くほど、声がはっきり出た。
教室に入ってきた数学教師が、眉をひそめる。
「何だ、佐倉」
「保健室に行ってきます」
「顔色は悪くなさそうだが」
「気分が悪いです」
嘘ではなかった。
教師が何か言う前に、僕は教室を出た。
廊下を走るな、と誰かが言った。
僕は走った。
昇降口で靴を履き替え、校門を抜ける。昼の光が眩しかった。世界は普通に動いている。車が走り、信号が変わり、近所の主婦が買い物袋を提げて歩いている。
その普通さが、怖かった。
誰も知らない。
葬列のことも、未来の僕のことも、遼がどこかへ行こうとしていることも。
僕だけが知ってしまった。
いや、僕だけではない。
未来の僕も知っている。
だからこそ、あの男は何度も昨日の話をする。直接未来を教えることができないから、過去の断片を置いていく。僕に推理させるために。
僕は駅へ向かった。
商店街を通るかどうか、一瞬迷った。
葬列通り。
朝、すべてが始まった場所。
遠回りすれば、見ずに済む。だが、遼が駅へ向かったなら、商店街を通る可能性が高い。
僕は息を吸い、商店街へ入った。
昼の商店街は、朝とは別の場所のようだった。
八百屋の店先にはトマトが並び、惣菜屋から揚げ物の匂いがしている。パン屋では昼食を買う客が列を作っていた。黒い服の葬列など、どこにもない。
それでも、僕の足は自然に遅くなった。
時計台を見る。
十二時四十六分。
時間は進んでいる。
止まっていない。
そのことに安心した瞬間、視界の端に灰色が映った。
薬局の前。
灰色のコートの男が立っていた。
通行人は誰も気づかない。男の肩だけが濡れている。濡れた靴の下には、水たまりがない。
僕は駆け寄った。
「遼はどこだ」
男は答えない。
「昨日の話でいい。手がかりを言え」
男は僕を見た。
「昨日、遼は駅の時刻表を撮っていた」
「どの駅」
「桜町駅」
「何時の電車」
男は口を開きかけ、声を失った。
未来に関わることなのだろう。
僕は自分で考えた。
遼は遠くへ行くなら今日しかないと書いた。桜町駅の時刻表を撮った。学校を午後から抜けた。家に帰るか、駅へ行くか。駅なら、遠くへ行ける電車。快速。特急。あるいは、乗り換えでどこまでも行ける線。
「昨日、遼は財布の中の小銭を数えていた」
男が言った。
「小銭?」
「昨日、遼は足りないと言った」
「何が」
「昨日、遼は千円札を一枚、机の奥に隠した」
僕は考えた。
切符代。
遠くへ行くには、金がいる。遼は財布の中の小銭を数え、足りないと言った。千円札を隠した。駅の時刻表を撮った。
つまり、本気でどこかへ行くつもりだ。
「行き先は?」
男は黙った。
「そこは言えないのか」
男は小さく頷いた。
「じゃあ、昨日の遼は何を見ていた」
「昨日、遼は北へ向かう電車を見ていた」
北。
桜町駅から北へ向かう路線。
頭の中に路線図を思い浮かべる。北へ向かう快速は、一時間に二本。次の便はたしか十三時過ぎだった。
間に合うか。
僕は走り出そうとした。
その時、男が言った。
「昨日、お前は追いかけた」
足が止まった。
「昨日、お前は間に合った」
心臓が跳ねた。
「それなら」
「昨日、お前は間に合った」
男は繰り返した。
その表情を見て、僕は理解した。
間に合ったことが、よい結果に繋がるとは限らない。
「そのあと、どうなった」
男の口が動いた。
声は出ない。
代わりに、鈴の音がした。
ちりん。
背後で。
僕は振り返った。
商店街の入口に、黒い服を着た人が一人立っていた。
朝の葬列ではない。
列ではない。
ただ、一人だけ。
顔は俯いていて見えない。肩が濡れている。手には閉じた黒い傘を持っている。
僕の喉が鳴った。
その人物はゆっくりと顔を上げた。
見覚えがあった。
クラスメイトだ。
名前は、わかる。
いや、わかるはずだった。
同じクラスで、後ろの席の方に座っていて、よく消しゴムを落とす男子。文化祭の係決めで、遼がからかっていた相手。昨日もたぶん教室にいた。
顔は浮かぶ。
声も浮かぶ。
名前だけが、出てこない。
ぞっとした。
葬列に一人増えた誰か。
あれが、この生徒なのか。
僕が遼を追いかけることで、彼が消えかけているのか。
「おい」
僕は声をかけた。
黒い服の生徒は答えない。
「名前、何だ」
口にした瞬間、頭痛が走った。
こめかみを内側から針で刺されたようだった。僕は思わず額を押さえた。
男の声がした。
「思い出せなくなったら、終わりだ」
「どうすればいい」
「昨日、お前は選んだ」
「何を」
「遼を」
僕は歯を食いしばった。
残酷な言い方だった。
だが、男は責めているのではない。
事実を置いているだけだ。
昨日の僕は、遼を選んだ。
その結果、誰かが列に並んだ。
今日の僕も、今まさに同じ場所に立っている。
遼を追いかけるか。
名前の思い出せないクラスメイトを助けるか。
しかし、僕に選べるはずがない。
名前も思い出せない誰かと、遼。
そんな選択を迫られたら、僕は遼を選んでしまう。
そういう自分が、たまらなく嫌だった。
スマートフォンが震えた。
遼からではない。
差出人不明。
『名前を忘れるな』
朝と同じ文面だった。
その下に、新しい一文が表示された。
『でも、今は走れ』
僕は顔を上げた。
灰色のコートの男は、何も言わなかった。
メッセージの送り主が彼なのか、それとも別の何かなのかはわからない。
でも、今は考える時間がない。
僕は駅へ向かって走った。
商店街を抜ける直前、背後で鈴が鳴った。
ちりん。
振り返りたい衝動を、必死にこらえた。
駅までは、走れば五分もかからない。だが、その五分がやけに長かった。信号に引っかかり、横断歩道の向こうで足踏みをする。車が途切れるのを待っている間にも、遼が改札を通り、ホームへ向かい、電車に乗ってしまう光景が頭に浮かぶ。
信号が青に変わる。
僕は走った。
駅前の広場に着くと、遼の姿を探した。
人が多い。昼過ぎの駅は、高校生よりも買い物客や会社員が目立つ。改札前には、旅行用のキャリーケースを引いた女が立っている。券売機の前には老人が二人。コンビニの前では、大学生らしき男たちが笑っていた。
遼はいない。
僕は改札へ向かった。
その時、ホームへ続く階段の上で、紺色のブレザーが見えた。
遼だった。
片手にスマートフォンを持ち、もう片方の手で鞄の肩紐を握っている。彼は改札の中にいた。
僕は切符を買う余裕もなく、ICカードを叩きつけるように改札へかざした。
残高不足。
赤い表示が出た。
「くそ」
チャージ機へ向かう時間が惜しい。
僕は駅員に声をかけようとした。その前に、改札の向こうで遼がこちらに気づいた。
目が合う。
遼は驚いた顔をした。
そして、少し笑った。
その笑い方が、屋上での笑いよりもさらに遠かった。
僕は叫んだ。
「遼!」
周囲の人が振り返る。
遼は何かを言った。
声は届かない。
ホームに電車が入ってくる音がした。
北へ向かう快速。
僕は改札を越えようとして、駅員に止められた。
「お客さん、残高が」
「友達が」
「チャージしてください」
「すぐ戻ります」
「困ります」
駅員の手が僕の前に出る。
その間に、遼は階段を下りていく。
僕は叫んだ。
「行くな!」
遼の足が、一瞬止まった。
だが、振り返らなかった。
電車のドアが開く音がした。
人が流れ込む。
人が流れ出る。
階段の途中で、遼の姿が人波に紛れた。
僕は改札の外で、ただ立っているしかなかった。
未来の僕は言った。
昨日、お前は間に合った。
今の僕は、間に合っていない。
なら、明日は変わるのか。
それとも、もっと悪くなるのか。
スマートフォンが震えた。
遼からのメッセージだった。
『ごめん』
それだけだった。
僕は画面を握りしめた。
駅の時計は、十三時十七分を示していた。
朝、商店街の時計が止まっていた時刻から、ちょうど五時間後だった。
電車の発車ベルが鳴る。
その音に重なるように、どこかで小さな鈴が鳴った。
ちりん。
人混みの向こう。
ホームの端。
黒い服の誰かが、一人、遼の後ろに立っているのが見えた。
僕は叫んだ。
だが、その声は発車ベルにかき消された。




