第一章 葬列通り
朝、通学路に葬列ができていた。
最初は、どこかの家で不幸があったのだと思った。
駅へ向かう商店街の端に、黒い服の人々が一列に並んでいる。喪服。黒い傘。白い顔。だが、奇妙なことに、誰も傘を開いていなかった。傘は手に持っているだけで、空は晴れている。五月の朝らしく、薄い光がアーケードの古びた看板を照らし、パン屋の換気口からは焼けた小麦の匂いが流れていた。
雨など降っていない。
それなのに、列に並ぶ人々の肩だけが濡れていた。
僕は自転車を押したまま、横断歩道の手前で足を止めた。信号は青だった。車も来ていない。急げば学校には間に合う。そう頭ではわかっていたのに、足が動かなかった。
商店街の名前は、葬列通りではない。
もちろん、正式にはそんな名前ではなかった。古い町名にちなんで、桜町商店街という。春になれば街路樹の桜が一斉に咲くから、というありふれた由来だ。けれど、僕らの学校では、何年も前からそこを葬列通りと呼ぶ生徒がいた。
理由は単純だった。
通りがやけに細く、まっすぐで、駅へ向かう人たちが朝になると一列に並んで歩くからだ。
黒いスーツの会社員。黒い鞄。無言で進む人の列。
誰かが冗談で言ったのだ。
葬式みたいだな、と。
その冗談を、今朝だけは笑えなかった。
列は、駅の方へ進んでいるようで進んでいなかった。足は動いている。肩も揺れている。けれど、列全体の位置はまったく変わらない。まるで古い映像を同じところで繰り返し再生しているようだった。
僕は腕時計を見た。
八時十七分。
スマートフォンを取り出して確認しても、同じ時刻だった。
八時十七分。
普段なら、もう少し焦っている時間だ。昇降口には生徒が溜まり、担任の大野が生活指導の教師と一緒に遅刻ギリギリの連中を睨んでいる頃である。
なのに、周囲には誰もいなかった。
いつもなら僕の横を追い越していく中学生も、駅へ急ぐ会社員も、犬を連れた老人もいない。パン屋の店員だけが窓の奥で動いていたが、その動きもどこかぎこちなかった。トングでパンを挟む手が、何度も同じ場所を往復している。
視線を戻す。
葬列の先頭に、制服姿の少年が立っていた。
うちの高校の制服だった。紺のブレザーに、灰色のスラックス。ネクタイは少し曲がっている。背は僕と同じくらいか、少し低い。髪は雨に濡れたように額へ貼りついていた。
知っている顔だ、と思った。
同じ学年かもしれない。いや、同じクラスだったかもしれない。昨日、廊下ですれ違った気がする。先週、購買で焼きそばパンを買っているところを見た気もする。もっと前、体育館の隅で誰かと笑っていた気がする。
記憶の中に、彼はいる。
けれど名前だけが、どこにもなかった。
喉の奥が乾いた。
僕は昔から、人の名前を覚えるのが得意な方ではない。顔は覚える。声も覚える。どんな言い方をするか、どんなふうに笑うか、そういう細かい癖は覚えている。なのに、名前だけがすぐに抜ける。
だから最初は、自分の記憶力の問題だと思った。
けれど、違った。
忘れたのではない。
抜き取られていた。
そう思った瞬間、背中に冷たいものが這った。
少年は、僕を見ていなかった。目を伏せている。列の先頭に立っているのに、どこへ向かうつもりもないようだった。彼の前には、誰もいない。ただ、踏切へ続く細い道だけが伸びている。
列に並ぶ大人たちは、一様に黒かった。
顔に表情はない。年齢も性別もばらばらのはずなのに、全員が同じ顔に見える。黒い服の襟元から覗く首は、紙のように白い。誰も僕を見ない。誰も喋らない。誰も咳をしない。
足音すらなかった。
ただ、微かに鈴の音がした。
ちりん、と。
どこか遠くで、小さな鈴が鳴ったような音だった。
僕は思わず自転車のハンドルを握りしめた。ブレーキレバーが指に食い込む。痛い。痛みがあることに、少しだけ安心した。
その時だった。
列の最後尾に、僕がいることに気づいた。
いや、僕ではない。
僕によく似た誰かだった。
背は今より少し高い。頬が痩せている。灰色のコートを着て、濡れた黒髪を額に貼りつけている。年齢は二十代後半くらいだろうか。目元だけは、鏡で見る自分と同じだった。
同じというより、嫌になるほど見慣れていた。
寝不足の朝に見る目。言いたいことを飲み込んだ時の目。誰にも気づかれないよう、失敗したことをなかったことにしようとする目。
彼は、僕を見ていた。
僕も彼を見ていた。
時間が止まったようだった。
いや、実際に止まっていたのかもしれない。商店街の時計台は、八時十七分を指していた。デジタル時計の赤い数字も、薬局の店先に置かれた温度計の表示も、すべてがその時刻に貼りついていた。
それなのに、僕の心臓だけがやかましかった。
どくん、どくん、と耳の奥で鳴る。
逃げろ。
そう思った。
普通なら、逃げるべき場面だ。見てはいけないものを見ている。関わってはいけないものに関わろうとしている。朝の通学路に葬列ができていて、その最後尾に未来の自分のような男がいるのだ。まともに考える必要などない。
逃げればいい。
学校へ行けばいい。
担任に怒られ、遼に笑われ、いつもと同じ一日を始めればいい。
そう思った瞬間、ポケットの中でスマートフォンが震えた。
びくりとして、僕は片手で取り出した。
画面に表示されていたのは、北原遼の名前だった。
『お前、今日遅刻?』
いつもの短い文面だった。
僕はそこで、ようやく息を吐いた。
北原遼。僕の親友。高校に入って最初に話しかけてきた男で、僕が購買の列で財布を忘れた時、何のためらいもなくメロンパン代を出してくれた男で、授業中に居眠りしているくせに、教師に当てられると妙に正しい答えを言う男。
遼の名前だけは、はっきり覚えていた。
そのことが、どうしようもなく嬉しかった。
僕は震える指で返信しようとした。
『変なものを見た』
そこまで打って、消した。
何を言っているんだ、と思われるに決まっている。遼はたぶん笑う。いや、笑ってから少し心配する。そういうやつだ。笑いながら人の具合を見る。ふざけた言葉の中に、逃げ道を作ってくれる。
だから僕は、いつも遼といると楽だった。
その時、背後から声がした。
「昨日、遼は笑っていた」
僕はスマートフォンを取り落としそうになった。
声は、近くで聞こえた。
すぐ耳元ではない。けれど、通りの端からでもない。距離がわからない声だった。まるで頭の中で直接響いたようでもあり、商店街のスピーカーから流れたようでもあった。
僕は顔を上げた。
灰色のコートの男が、列の最後尾で口を開いていた。
唇はほとんど動いていない。
それなのに、声だけが届いてくる。
「昨日、遼は笑っていた」
もう一度、同じことを言った。
僕は喉を鳴らした。
「誰だよ」
声が、自分のものではないみたいに掠れた。
男は答えなかった。
ただ、少しだけ目を細めた。哀れんでいるようにも、困っているようにも見えた。その表情があまりに自分に似ていて、ぞっとした。
「誰なんだよ」
今度は少し強く言った。
列の人々は動かない。パン屋の店員も、薬局の温度計も、信号機の青い光も、何も変わらない。世界中で僕とその男だけが、まともに時間を持っているようだった。
男は、ゆっくりと言った。
「お前だよ」
意味がわからなかった。
いや、意味はわかった。わかったから、受け入れられなかった。
「ふざけるな」
「ふざけていない」
「じゃあ、何なんだよ。ドッキリか。誰かが撮ってるのか」
「昨日、遼は購買でカレーパンを買った」
僕は言葉を失った。
遼は昨日、たしかにカレーパンを買っていた。昼休みの終わり際、売れ残りのカレーパンを二つ買い、一つを僕の机に置いた。お前、また弁当忘れただろ、と笑っていた。
僕は弁当を忘れていなかった。
それでも食べた。
遼は、自分が食べたいものを人に押しつけるふりをして、相手が何かを必要としている時にだけ渡してくる。昨日の僕は、朝から何も食べていなかった。理由はない。ただ、食べる気がしなかっただけだ。
そのことを、遼は聞かなかった。
聞かないまま、カレーパンを置いた。
男は続けた。
「昨日、遼は笑っていた。教室で。購買で。昇降口で。お前の前で」
「だから何だよ」
「昨日の話しか、できない」
僕は眉を寄せた。
「何?」
「俺は、昨日までに起きたことしか話せない」
男の声が少し乱れた。
「明日のことを言おうとすると、声が消える」
「明日?」
「そうだ」
「じゃあ、あんたは未来から来たって言いたいのか」
男は答えなかった。
答えないことが答えだった。
僕は笑おうとした。
笑えば、この異様な状況を少しは馬鹿馬鹿しくできると思った。けれど、口元は動かなかった。顔の筋肉が硬くなっている。
「未来の俺が、通学路で葬列に並んでるってことか」
「並んでいるわけじゃない」
「じゃあ何だ」
「見届けている」
「何を」
男は、ほんの一瞬だけ葬列の先頭を見た。
制服姿の少年は、相変わらず目を伏せていた。
「忘れられたものを」
鈴の音がした。
今度はさっきより近かった。
ちりん。
僕は無意識に、列の先頭の少年を見た。名前を思い出そうとした。頭の中に、ぼんやりとした輪郭が浮かぶ。教室。体育館。雨の日。誰かが笑っている。遼が何かを言っている。僕はそれを聞いている。
そこまで出ているのに、名前が出ない。
焦りが胸を締めつけた。
「この先頭のやつ、誰なんだ」
男の顔が、わずかに歪んだ。
「今は思い出すな」
「知ってるのか」
「昨日、お前は知らなかった」
「質問に答えろよ」
「昨日、お前は知らなかった」
男は同じ言葉を繰り返した。
僕は苛立った。怖さよりも先に、怒りが来た。わけのわからない葬列。未来の自分を名乗る男。昨日のことしか話せないという、都合のいい制限。全部が僕をからかっているようだった。
「昨日しか話せないからって、何でも誤魔化せると思うなよ」
「誤魔化しているわけじゃない」
「じゃあ説明しろ」
「説明しようとした」
男は、僕を見た。
その目に、初めてはっきりとした感情が浮かんだ。
後悔だった。
「何度も」
胸の奥が、嫌な音を立てた。
僕は一歩下がった。自転車のスタンドが地面を擦り、金属音が商店街に響いた。列の人々は振り向かない。誰一人として反応しない。
スマートフォンが、また震えた。
遼からだった。
『なあ』
続けて、もう一通。
『変なこと言っていい?』
指先が冷たくなる。
僕は画面を見つめた。
数秒後、新しいメッセージが表示された。
『今朝、俺、自分の葬式見たかもしれない』
息が止まった。
背後で、鈴が鳴った。
ちりん。
今度の音は、はっきりと葬列の中から聞こえた。
僕は顔を上げた。
灰色のコートの男は、もう僕を見ていなかった。視線は、僕のスマートフォンへ落ちていた。画面の文字を読んだわけではないはずなのに、彼はすべてを知っているような顔をしていた。
「遼も、見たって」
僕は言った。
声が小さく震えた。
「自分の葬式を見たって。どういうことだよ」
男は黙っていた。
「昨日の話しかできないんだろ。じゃあ言えよ。昨日、遼に何があった」
男はゆっくりと息を吸った。
吸ったように見えた。
「昨日、遼はまだ生きていた」
僕は、反射的に言い返した。
「今日も生きてる」
「昨日、遼はまだ笑っていた」
「今日も笑う。学校に来れば、どうせ馬鹿みたいな顔で笑う」
「昨日、遼はまだ、名前を呼ばれていた」
その言葉だけが、妙に重かった。
名前。
僕は葬列の先頭の少年を見た。
忘れた名前。
抜き取られた名前。
思い出そうとすると、こめかみが締めつけられる。頭の中のどこかで、警報のようなものが鳴っている。そこに触れてはいけない。触れたら何かが壊れる。そんな感覚があった。
「名前を呼ばれなくなると、どうなる」
僕が聞くと、男は答えなかった。
答えられないのか、答えたくないのか。
どちらにしても、僕には同じだった。
スマートフォンに、また遼からメッセージが来た。
『お前、今どこ』
僕は返信しようとして、指が止まった。
何と送ればいい。
葬列通りにいる。
未来の俺に会った。
お前は昨日まだ生きていたと言われた。
そんな言葉を送れるはずがなかった。
僕は迷った末に、
『商店街』
とだけ打った。
すぐに既読がついた。
遼からの返事は早かった。
『俺も行く』
だめだ。
そう思った。
なぜだめなのかはわからない。けれど、遼をここへ来させてはいけない。葬列を見た者が近づけば、何かが起きる。そんな根拠のない確信があった。
僕は慌てて打った。
『来るな』
送信した瞬間、画面の上に小さな丸が回り続けた。
電波が途切れたのかと思った。
しかし、アンテナは立っている。バッテリーも十分ある。ただ、送信が終わらない。文字だけが、画面の中に閉じこめられている。
男が言った。
「止められない」
「何を」
「昨日、お前は止められなかった」
「今日なら止められるだろ」
男は目を伏せた。
「そう思った」
その声が、あまりにも弱かった。
僕は黙った。
その時、葬列の先頭の少年が一歩進んだ。
ほんの一歩だった。
けれど、その一歩で空気が変わった。商店街全体が、低く唸ったような気がした。パン屋の換気口から流れていた匂いが消え、代わりに濡れた土の匂いがした。
雨の日の匂い。
校庭の隅で、泥を踏んだ時の匂い。
傘の内側にこもる、少し息苦しい匂い。
僕の胸の奥に、何かが引っかかった。
中学三年の、雨の日。
遼。
誰かの笑い声。
水たまり。
手を伸ばす誰か。
そして、思い出せない名前。
「やめろ」
男が低く言った。
僕は我に返った。
「何が」
「今は見るな」
「何を」
「思い出すな」
まただ。
この男は肝心なことになると、いつも止める。昨日のことしか話せないと言いながら、こちらが何かを掴みかけると、それを塞ぐ。
僕は一歩、葬列へ近づいた。
「思い出したら困るのか」
男の顔色が変わった。
未来の僕の顔色が変わるのを見て、僕は初めて勝ったような気がした。
「困るんだな」
「違う」
「じゃあ、何で止める」
「お前が壊れる」
その言葉が、思いのほか鋭く胸に刺さった。
僕が壊れる。
壊れるほどの何かを、僕は忘れているのか。
葬列の先頭の少年が、少しだけ顔を上げた。
目が合った。
その目は、助けを求めていた。
声は聞こえない。
唇だけが動いた。
な、ま、え。
そう言ったように見えた。
僕は喉の奥で、小さく息を呑んだ。
その瞬間、通りの向こうから誰かの足音が聞こえた。
止まっていたはずの世界に、初めて生きた音が混じった。
走る足音だった。
軽く、乱れている。革靴ではない。スニーカーの音だ。アスファルトを蹴るたび、少し滑るような音がする。
僕は振り返った。
商店街の入口に、遼が立っていた。
制服のブレザーを片手に抱え、ネクタイは結ばれていない。髪は寝癖が残っていて、肩で息をしている。いつもの遼だった。遅刻寸前に走ってきて、間に合ったか、と笑う時の遼だった。
けれど、顔だけが違った。
笑っていなかった。
遼は僕を見て、それから葬列を見た。
黒い列。
濡れた肩。
先頭の制服の少年。
そして最後尾の、灰色のコートの男。
遼の唇が、わずかに開いた。
「なんだよ、これ」
僕は答えられなかった。
遼は、僕の隣まで来ると、葬列の先頭を見つめた。眉間に皺が寄っている。何かを思い出そうとしている顔だった。
「なあ、凪人」
遼が言った。
「俺、あいつ知ってる気がする」
心臓が強く跳ねた。
遼も同じなのだ。
顔は知っている。記憶にはある。なのに、名前だけが出てこない。
遼は一歩、前へ出た。
「おい」
僕は慌てて腕を掴んだ。
「行くな」
「でも、あいつ」
「だめだ」
「なんでだよ」
「わからない。でも、だめだ」
遼は僕を見た。
その目に、いつもの軽さはなかった。
「お前も見えてんだな」
僕は頷いた。
「朝から」
「俺もだ」
遼は小さく笑った。
乾いた、無理やり作ったような笑いだった。
「やばいな。二人そろって頭おかしくなったか」
「そうなら、まだいい」
「よくねえだろ」
「でも、その方が説明できる」
遼は黙った。
灰色のコートの男が、こちらを見ていた。
正確には、遼を見ていた。
その目に浮かんだものを、僕はうまく言葉にできなかった。懐かしさ。後悔。怒り。祈り。そういうものが全部混ざって、最後にはただの疲労みたいになっていた。
遼も男に気づいた。
「誰、あれ」
僕は答えるべきか迷った。
未来の僕だ。
そう言えば、遼は笑うだろうか。
いや、笑わない気がした。
今の遼は、たぶん何を聞いても笑わない。
「あれは」
言いかけた時、男が口を開いた。
「昨日、遼はここに来なかった」
遼が眉をひそめた。
「は?」
「昨日、遼はここに来なかった」
男は同じことを繰り返した。
僕はすぐに意味を考えた。
昨日、遼はここに来なかった。なら、今日は来た。つまり、何かが変わっている。昨日の時点での未来では、遼はここに来るはずではなかった。けれど、僕がメッセージを送ったから、遼は来た。
僕が変えたのだ。
その瞬間、葬列の中で鈴が鳴った。
ちりん。
ちりん。
今度は一つではなかった。列の奥の方から、いくつもの鈴の音が重なって聞こえた。黒い服の人々が、ゆっくりと顔を上げる。白い顔が、こちらを向く。
僕は遼の腕を引いた。
「下がれ」
「何だよ」
「下がれって」
遼を引っぱって一歩下がった瞬間、葬列の最後尾に変化が起きた。
灰色のコートの男のさらに後ろ。
さっきまでは誰もいなかった場所に、黒い服を着た誰かが立っていた。
背の低い女か、細い男か、わからない。
顔は俯いていて見えない。
ただ、肩が濡れていた。
僕は全身が冷たくなるのを感じた。
列が、一人増えた。
男が言っていたことが、頭の中で繋がる。
助けようとした。
だから、列ができた。
止められない。
昨日、お前は止められなかった。
僕が遼を呼んだ。いや、正確には来るなと送った。けれど、その言葉が遼をここへ呼んだ。昨日とは違う行動をした。その結果、葬列に一人増えた。
未来を変えると、誰かが列に並ぶ。
そういうことなのか。
「凪人」
遼の声がした。
僕は振り向いた。
遼は、葬列の新しい最後尾を見ていた。顔色が悪い。唇が震えている。
「今、増えたよな」
僕は頷けなかった。
頷けば、その現実を認めることになる。
遼は、小さく息を吐いた。
「俺のせいか」
「違う」
反射的に言った。
「違う。遼のせいじゃない」
「じゃあ、誰のせいだよ」
答えられなかった。
遼は視線を落とした。
その横顔が、いつもの彼より少し遠く見えた。
灰色のコートの男が言った。
「昨日、遼はまだ生きていた」
遼が顔を上げた。
「何だよ、それ」
男は遼に答えなかった。
僕だけを見ていた。
「昨日、遼はまだ名前を呼ばれていた」
「やめろ」
僕は言った。
自分でも驚くほど低い声だった。
「それ以上言うな」
男は口を閉じた。
商店街の時計は、まだ八時十七分を指していた。
だけど、僕にはわかった。
何かが動き始めている。
時計ではない。信号でもない。通りの人々でもない。
僕たちの明日だけが、見えないところで少しずつ形を変え始めている。
遼が僕の袖を掴んだ。
普段なら絶対にしない仕草だった。子どもみたいで、弱さがそのまま出ていて、僕は見てはいけないものを見た気がした。
「凪人」
「何」
「俺、今日学校行った方がいい?」
質問の意味が、一瞬わからなかった。
遼は無理に笑おうとした。
「いや、ほら。こういう時ってさ、普通にしてた方がいいのか、逃げた方がいいのか、わかんねえじゃん」
その言い方が、あまりにも遼らしかった。
怖がっているのに、冗談の形にして差し出す。
僕は答えようとした。
だがその前に、灰色のコートの男が言った。
「昨日、遼は学校にいた」
僕と遼は同時に男を見た。
男は続けた。
「昨日、遼は笑っていた」
それが、未来の彼に許された精一杯の助言なのだとわかった。
今日どうすべきかは言えない。
明日何が起きるかも言えない。
ただ、昨日の遼が学校にいて、笑っていたことだけを伝える。
その言葉から、僕たちが今日を選べということなのだ。
遼はしばらく黙っていた。
やがて、僕の袖から手を離した。
「行くか」
「本当に?」
「遅刻したら大野に怒られるし」
「今、それ気にするのか」
「気にするだろ。あいつ、遅刻理由が葬式でも怒りそうだし」
遼はそこで、ほんの少し笑った。
いつもの笑いではない。薄くて、壊れやすい笑いだった。
それでも、笑った。
僕は自転車を起こした。
葬列はまだそこにあった。先頭の少年も、最後尾の未来の僕も、新しく増えた誰かも、濡れたまま立っていた。
僕は灰色のコートの男を見た。
「また会うのか」
男は答えた。
「昨日、お前はまたここに来た」
つまり、来るのだ。
僕は唇を噛んだ。
遼と並んで商店街を抜ける。葬列の横を通る時、黒い服の人々の間から冷たい空気が流れてきた。雨に濡れた布の匂いがした。線香の匂いはしなかった。花の匂いもしなかった。
これは葬式ではない。
まだ。
そう思った。
踏切の手前まで来たところで、背後から男の声がした。
「佐倉凪人」
名前を呼ばれて、僕は振り返った。
灰色のコートの男が、列の最後尾でこちらを見ていた。
自分の名前を、自分の声で呼ばれるのは、奇妙な感覚だった。鏡の中の自分が勝手に喋り出したような気味の悪さがあった。
「昨日、お前は何も知らなかった」
男は言った。
「今日、お前は知ってしまった」
僕は黙っていた。
「だから、明日は変わる」
その直後、商店街の時計が音を立てた。
かちり。
針が、ひとつ動いた。
八時十八分。
止まっていた時間が、動き出した。
同時に、車の走る音、人の話し声、パン屋の店員の「いらっしゃいませ」という声が、一気に世界へ戻ってきた。信号が点滅し、遠くで電車の警笛が鳴った。
僕と遼だけが、その場に取り残されたように立っていた。
振り返ると、葬列は消えていた。
先頭の少年も、黒い服の人々も、灰色のコートの男もいない。
ただ、商店街の濡れていないアスファルトだけが朝日に照らされていた。
遼が、ぽつりと言った。
「なあ」
「何」
「俺ら、今日から普通じゃなくなるやつ?」
僕は少し考えた。
「たぶん、もうなってる」
「だよな」
遼は笑った。
今度はさっきより、少しだけいつもの笑い方に近かった。
僕たちは踏切を渡った。
学校までは、まだ走れば間に合う距離だった。けれど、僕の足は重かった。遼も走らなかった。二人で自転車を押しながら、いつもより少し遅い速度で坂を上がった。
校門が見えてきた時、スマートフォンが震えた。
遼ではなかった。
差出人不明のメッセージだった。
本文は短かった。
『名前を忘れるな』
僕は立ち止まった。
遼が振り返る。
「どうした?」
僕は画面を見せようとして、やめた。
遼に見せてはいけない気がした。
「何でもない」
「嘘つけ」
「本当に何でもない」
遼は疑わしそうに僕を見たが、それ以上は聞かなかった。
校門の前で、大野が腕時計を見ながら立っていた。
「佐倉、北原。遅刻寸前だぞ」
「すみません」
僕が頭を下げると、遼が横で軽く手を上げた。
「先生、今日はセーフにしてください。世界がちょっと止まってたんで」
大野は眉をひそめた。
「朝からくだらんことを言うな」
「ですよね」
遼は笑った。
その笑顔を見て、僕は思った。
今日、遼はまだ生きている。
今日、遼はまだ笑っている。
今日、遼はまだ名前を呼ばれている。
それがどれほど危ういことなのか、僕はまだ知らなかった。
教室へ向かう廊下で、僕はふと振り返った。
窓ガラスに、校庭が映っていた。青い空。グラウンド。体育倉庫。朝練を終えた生徒たち。
その端に、一瞬だけ灰色のコートの男が映った。
振り返っても、そこには誰もいない。
ただ、ガラスには水滴が一つ、ゆっくりと流れていた。
雨など、降っていないのに。




