第十章 僕が列に並ぶ日
未来の僕は、雨のやんだ商店街に立っていた。
灰色のコートはまだ濡れている。だが、さっきまでのように全身から水が滴っているわけではなかった。肩に残った雨が、少しずつ布へ沈んでいく。髪も、額に貼りついたままだが、そこから落ちる水滴は減っていた。
葬列は薄れている。
黒い服の人々は、商店街のあちこちで輪郭を取り戻し始めていた。八百屋の田辺修一。薬局の古賀幸江。惣菜屋の三原和夫と礼子。小宮晴美。岡崎進。名前を呼ばれた者から、少しずつ顔が戻る。店先の人々も互いの名を呼び合っている。
それでも、列はまだ消えない。
踏切の手前には、高瀬湊が立っている。
その少し後ろに、現実の遼とは別に、葬列の遼の影が薄く残っている。さっきよりずっと薄い。けれど完全には消えない。遼本人は僕の隣に立っているのに、列の中にも彼の一部が残されている。
そして最後尾。
未来の僕がいる。
彼が残っている限り、この葬列は終わらない。
そんな気がした。
商店街の時計は八時十九分を指したまま、かすかに震えていた。動こうとしているのに、まだ何かに引っかかっている。針が進みたがっているのに、見えない指に押さえられているようだった。
遼は、未来の僕を見ていた。
「未来の俺は、もういないって言ったよな」
その声は低かった。
未来の僕は答えない。
遼は一歩近づいた。
「それ、どういう意味だよ」
未来の僕は、今の遼を見た。
同じ人間を見る目ではなかった。
失った人を見る目だった。
その視線を見ただけで、胸の奥が苦しくなった。
未来の僕にとって、目の前にいる遼は、今ここにいる遼であって、彼の知る遼ではない。似ている。声も同じ。笑い方も同じ。けれど、違う時間を生きている別の遼だ。
それでも彼は、遼を見る。
見ずにはいられない。
「昨日、遼は生きていた」
未来の僕は言った。
また昨日の話だった。
遼が眉を寄せる。
「それ、もう何回も聞いた」
「昨日、遼は笑っていた」
「それも聞いた」
「昨日、遼は俺を許した」
そこで、遼は黙った。
僕も黙った。
未来の僕の声が、雨の残った商店街に落ちる。
「昨日、遼は俺に言った。仕方なかったって。凪人は悪くないって。俺は生きてるからいいって」
未来の僕は、自分の手を見た。
何かを掴んでいた手。
何かを離した手。
何かを救ったつもりで、壊した手。
「それが、一番きつかった」
遼は何も言わなかった。
いつものように軽口を返せなかった。
僕も同じだった。
許されることが、救いになるとは限らない。
許されることで、かえって逃げ場を失うことがある。
未来の僕は、遼に許された。
だから、自分を許せなくなったのだ。
千紗が静かに言った。
「未来の北原は、どうなったんですか」
未来の僕は千紗を見た。
そこに、一瞬だけ痛みが走った。
未来の彼は、千紗を忘れたと言っていた。
そして今、目の前にいる千紗を見ることで、自分が何を失ったのかを改めて突きつけられているのだろう。
「昨日、水瀬は消えていた」
未来の僕は言った。
「昨日、真柴も、大野先生も、商店街の人たちも、みんな消えていた。記録には何かが残っていた。でも、俺と遼以外、誰も名前を呼べなかった」
真柴が青い顔をした。
「俺も?」
「昨日、お前はいなかった」
未来の僕は淡々と言った。
「席はあった。ノートもあった。消しゴムも落ちていた。でも、誰も真柴悠斗を覚えていなかった」
真柴は唇を引き結んだ。
千紗が低く言う。
「最低な未来ですね」
「そうだ」
未来の僕は否定しなかった。
「最低だった」
商店街に、かすかな風が通った。
雨の匂いが薄れ、代わりに焼きたてのパンの匂いと、惣菜屋の油の匂いが戻ってくる。現実が少しずつ戻っている証拠だった。
それでも、僕たちは誰も動けなかった。
真相が近づいている。
そう感じていた。
未来の僕は、高瀬湊の方を見た。
「始まりは、北沢川原だった」
高瀬は、踏切の手前で静かに立っている。
遼が小さく息を吐いた。
「雨の日か」
「そうだ」
未来の僕は頷いた。
「中学三年の五月。あの日も、雨だった」
その瞬間、商店街の景色が揺れた。
目の前のアーケードが薄くなり、代わりに濁った川の色が滲み出す。パン屋の看板が、北沢川原の水門に変わる。薬局のガラス戸が、雨に濡れたコンクリートの壁に変わる。
僕は息を止めた。
記憶だ。
いや、記憶だけではない。
商店街の上に、過去の北沢川原が重なっている。
高瀬湊が、雨の中に立っていた。
中学の制服姿だった。
今より幼い。
遼も、僕もいた。
幼い遼は、今より少し小柄で、髪も短い。だが、笑い方は同じだった。軽くて、雑で、どこか無理をしている笑い。
幼い僕は、雨で濡れた靴を気にしている。何度も足元を見て、泥が跳ねたズボンの裾を払っている。
そして高瀬は、そんな僕らを見て呆れたように笑っていた。
「遼、そこ危ない」
高瀬の声が聞こえた。
初めて聞いたはずなのに、懐かしかった。
「大丈夫だって」
遼が言う。
「お前の大丈夫ほど信用できない言葉ないから」
「ひどくない?」
「事実」
「凪人、こいつ言い方きつくね?」
幼い僕は曖昧に笑うだけだった。
思い出す。
僕はあの頃、遼と高瀬の間にいるのが好きだった。
遼が場を動かし、高瀬がそれを止める。僕はその横で、二人の会話を聞いている。何も言わなくても、そこにいていい気がした。
三人だった。
僕たちは、三人だった。
どうして忘れていた。
雨が強くなる。
記憶の中の水門は、警告灯を点滅させていた。川の水位が上がっている。近づいてはいけない場所だった。なのに、遼はふざけて水門の近くまで行った。
「遼!」
高瀬が叫ぶ。
遼の足が滑った。
その瞬間、景色が遅くなった。
遼の体が傾く。
僕は手を伸ばそうとする。
でも、足が動かない。
恐怖で固まっていた。
高瀬だけが走った。
迷わなかった。
彼は遼の腕を掴んだ。
細い腕だった。
それでも、必死に引っ張った。
遼の体が水門の縁から戻る。
助かった。
そう思った。
けれど、濡れたコンクリートで高瀬の足が滑った。
遼が叫ぶ。
「湊!」
僕も今度こそ動こうとした。
だが間に合わない。
高瀬は、水へ落ちたのではなかった。
雨の向こうに、黒い列が現れた。
濡れた喪服の人々。
閉じた傘。
白い顔。
幼い高瀬は、その列に引き込まれるように足を踏み入れた。
彼は振り返った。
遼を見る。
僕を見る。
助けを求める顔ではなかった。
むしろ、僕たちを安心させようとするように、少し笑った。
大丈夫。
唇がそう動いた。
そして、彼は列の中へ消えた。
その瞬間、世界から高瀬湊が抜け落ちた。
記憶の中の遼が泣き叫んでいる。
僕も泣いている。
けれど、雨音がその声を消していく。
翌日、僕たちは高瀬の名前を思い出せなかった。
事故は、少し危ないことがあっただけの出来事になった。
学校も、親も、教師も、誰も高瀬の不在に気づかなかった。
写真だけが滲んだ。
卒業アルバムだけが傷んだ。
僕と遼の胸の奥に、理由のわからない穴だけが残った。
景色が戻る。
商店街。
八時十九分。
止まった時計。
僕は膝をついていた。
遼も同じように、その場に座り込んでいた。
千紗が遼の肩を支えている。真柴は口元を押さえていた。大野は顔をしかめ、何かを耐えるように目を閉じている。
全員が見たのだ。
雨の日を。
高瀬湊が消えた瞬間を。
遼が震える声で言った。
「俺のせいだ」
高瀬が首を横に振った。
声は聞こえない。
それでも、違うと言っているのがわかった。
遼は顔を上げない。
「俺がふざけたから」
「違う」
僕は言った。
「違わないだろ」
「違う」
「俺が危ないところに行った。湊は俺を助けた。だから」
「じゃあ、僕は?」
遼が僕を見た。
「僕は動けなかった。手を伸ばせなかった。見ているだけだった」
「凪人のせいじゃない」
「それなら、遼のせいでもない」
遼は何も言わなかった。
千紗が静かに言った。
「高瀬くんのせいでもない」
その言葉は、雨の後の空気みたいに澄んでいた。
「誰か一人のせいにしたら、たぶんまた同じことになる」
遼は千紗を見た。
千紗は続けた。
「北原が自分のせいだって思う。佐倉が自分のせいだって思う。高瀬くんも、たぶん自分が助けられなかったって思う。そうやって誰か一人が背負ったら、その人が列に行くんじゃないの」
未来の僕が、千紗を見た。
その表情は、驚きに近かった。
たぶん、未来の僕の世界には、千紗はいなかった。
だから彼は、この言葉を聞けなかったのだ。
千紗がいたから、今の僕たちは違う場所へ進める。
僕は未来の自分を見た。
「そうなんだな」
彼は答えなかった。
「誰か一人が背負うと、その人が列に並ぶ。高瀬は遼を助けた責任を一人で背負った。遼は高瀬を忘れた責任を一人で背負った。僕は遼を助けられなかった責任を一人で背負おうとした。未来のあんたも」
未来の僕は、目を伏せた。
「一人で全部背負おうとした」
葬列の人々が、静かにこちらを見ている。
彼らもそうなのかもしれない。
誰かに忘れられた人。
誰かを救おうとして、誰にも呼ばれなくなった人。
自分だけが背負えばいいと思った人。
誰かの未来から消えた人。
葬列は死者の列ではない。
誰かの未来から消えた人たちの列。
その意味が、ようやくわかった気がした。
高瀬湊は死んだのではなかった。
世界から消えた。
誰にも思い出されない場所へ押し出された。
未来の僕は、遼を生かすためにその穴を無理やり埋めようとした。そのたびに、別の誰かが押し出された。水瀬。真柴。大野。商店街の人々。
そして最後には、自分自身も。
僕は未来の僕に訊いた。
「未来の遼は、どうしていなくなった」
未来の僕は、長い沈黙のあと言った。
「昨日、遼は笑わなくなった」
その声は、今までで一番静かだった。
「生きていた。でも、誰も遼の名前を呼ばなかった。俺だけが呼んだ。俺だけが覚えていた。遼は、俺に向かって笑っていた。毎日、笑っていた。でも、ある日言った」
未来の僕の喉が動いた。
「もう、笑う相手が凪人しかいないって」
遼が黙って聞いている。
「俺はそれでもいいと思った。俺が覚えていればいいと思った。俺が遼の名前を呼び続ければ、遼は消えないと思った」
未来の僕は、苦しそうに息を吸った。
「でも、人は一人にだけ名前を呼ばれて生きられるわけじゃない」
その言葉は、商店街全体に染みるように広がった。
「遼は少しずつ薄くなった。体はあった。声もあった。でも、遼を遼にしていたものが消えていった。水瀬に怒られたこと。真柴をからかったこと。大野先生に叱られたこと。商店街でパンを買ったこと。高瀬に助けられたこと。俺以外の記憶が、全部消えた」
遼は何も言わない。
顔は青ざめている。
「最後に、遼は俺に言った」
未来の僕は、今の遼を見た。
「凪人、俺のこと、ちゃんと忘れてくれ」
遼が息を止めた。
「忘れたくなかった。でも、遼は言った。俺だけが覚えている限り、自分は俺の中に閉じ込められる。もう誰の未来にも行けない。誰にも呼ばれない。だから、忘れてくれって」
未来の僕は、雨の残る地面を見た。
「俺は忘れられなかった」
だから彼はここにいる。
未来の遼を失い、忘れることもできず、過去へ来た。
遼を助けるためではない。
遼を閉じ込める未来を作らないために。
僕は未来の自分を見た。
彼への怒りが、完全に消えたわけではない。
彼は嘘をついた。僕を惑わせた。何人もの名前を危うくした。
でも、その理由がわかってしまった。
わかってしまうと、責めることだけでは終われなかった。
遼が口を開いた。
「未来の俺、最低だな」
全員が遼を見た。
未来の僕も。
遼は少しだけ笑った。
「忘れてくれとか、めちゃくちゃ勝手じゃん」
未来の僕は、驚いたように遼を見た。
「そんなこと言われたら、凪人が忘れられるわけないだろ」
「遼」
「しかも、お前も最低」
遼は未来の僕を指した。
「忘れてくれって言われたからって、忘れないまま過去に来るなよ。面倒くさすぎるだろ」
千紗が小さく言った。
「言い方」
遼は構わず続けた。
「でも、まあ」
彼は雨で濡れた髪をかき上げた。
「どっちも俺っぽいし、どっちも凪人っぽい」
その言葉に、未来の僕の表情が崩れた。
笑うような、泣くような、怒るような顔だった。
遼は高瀬を見た。
「湊」
高瀬が顔を上げる。
「俺、お前を忘れたくない。でも、お前だけを背負うのも違う。凪人だけに背負わせるのも違う」
高瀬は遼を見ている。
「だから、みんなで覚える」
遼は言った。
「それじゃ駄目か」
高瀬は、しばらく遼を見ていた。
やがて、小さく頷いた。
その瞬間、商店街のあちこちから声が上がった。
「高瀬湊」
パン屋の小宮晴美だった。
「高瀬湊」
八百屋の田辺修一。
「北原遼」
薬局の古賀幸江。
「佐倉凪人」
惣菜屋の三原礼子。
「水瀬千紗」
「真柴悠斗」
「大野孝一」
名前がまた流れ始める。
さっきとは違った。
ただ読み上げる声ではない。
誰かが誰かを確かめる声だった。
店先で、商店街の人々が互いの名前を呼び合っている。学校から駆けつけた生徒たちもいた。いつの間にか、クラスの何人かが商店街の入口に立っていた。真柴が呼んだのか、大野が連絡したのか、あるいは葬列が彼らを引き寄せたのかはわからない。
彼らは手に紙を持っていた。
名前の書かれた紙。
北原遼。
高瀬湊。
水瀬千紗。
真柴悠斗。
佐倉凪人。
大野孝一。
そして、自分の名前。
友人の名前。
家族の名前。
名前が、町に満ちていく。
葬列が大きく揺れた。
黒い服の人々が、一人ずつ列から外れていく。喪服はただのスーツに戻り、濡れた肩は乾き、白い顔に色が差す。彼らは自分の名前を呼ばれた方へ歩いていく。
高瀬湊だけが、まだ踏切の手前にいた。
未来の僕も、まだ最後尾にいる。
すべてが戻るには、あと何かが足りない。
僕は写真を取り出した。
雨の日の写真。
さっきまで滲んでいた高瀬の輪郭が、少しずつ戻っている。遼の顔も、はっきりしている。僕もいる。三人が雨の中で並んでいる。
その写真の奥に、もう一人の影があった。
僕は目を凝らした。
灰色のコートの男ではない。
大人の遼でもない。
雨の向こうで、誰かが見ている。
未来の僕の記憶の中にいた遼か。
それとも、葬列そのものか。
写真の端に、小さな文字が浮かび上がった。
明日。
僕は息を呑んだ。
明日。
未来の僕が、昨日のことしか話せない理由。
なぜ未来を直接言えないのか。
それは、未来が固定されていないからではない。
彼自身が明日を失っているからだ。
未来の僕は、昨日までの記憶しか持っていない。
未来から来たのではない。
失敗した昨日に閉じ込められた存在なのだ。
僕は未来の自分を見た。
「あなたは、未来の僕じゃない」
周囲の声が、少し静まった。
未来の僕は僕を見た。
「あなたは、失敗した昨日の僕だ」
灰色のコートの男の目が揺れた。
「だから昨日の話しかできない。明日はもう持っていないから」
遼が未来の僕を見る。
千紗も、真柴も、大野も。
未来の僕は、しばらく何も言わなかった。
やがて、静かに言った。
「昨日、お前はそれに気づかなかった」
僕は小さく息を吐いた。
「今日は気づいた」
その瞬間、時計の針が動いた。
八時二十分。
世界が、一分進んだ。
未来の僕の灰色のコートから、雨が落ちた。
彼の輪郭が薄くなる。
消えようとしているのではない。
解けようとしている。
昨日に閉じ込められた僕が、今日へ流れ込もうとしている。
でも、それは簡単ではなかった。
彼は苦しそうに胸を押さえた。
「やめろ」
「何を」
「俺を戻すな」
「戻す」
「俺が戻れば、お前は全部思い出す」
「もう思い出してる」
「違う」
未来の僕は首を横に振った。
「まだ、最後を思い出していない」
最後。
未来の遼が、僕に忘れてくれと言った日。
その記憶。
それが未来の僕を縛っている。
今の僕がそれを受け取れば、どうなるのか。
たぶん、痛い。
壊れるかもしれない。
未来の僕は何度も言った。
お前が壊れる。
その意味が、ようやくわかった。
でも。
「それでも」
僕は言った。
「一人で持たせない」
遼が僕の隣に立った。
「俺も聞く」
千紗が続く。
「私も」
真柴が、少し怯えた顔で言った。
「俺も、まあ、聞く」
大野が頷く。
「私もだ」
未来の僕は、信じられないものを見るように僕たちを見た。
僕は言った。
「痛い記憶も、名前と同じだ。一人で持つから葬列になる。みんなで持てば、たぶん、記憶になる」
その言葉が正しいかはわからない。
ただ、今の僕にはそう思えた。
未来の僕は、しばらく僕たちを見ていた。
やがて、諦めたように笑った。
「昨日、お前はそんなこと言わなかった」
「今日は言う」
「そうか」
未来の僕は、目を閉じた。
「なら、見ろ」
商店街が消えた。
視界が暗くなる。
次に見えたのは、白い部屋だった。
病室かと思ったが違った。
そこは教室だった。
誰もいない教室。
机が並んでいる。
黒板には何も書かれていない。
窓の外は白く、空も町も見えない。
教室の中央に、未来の遼が座っていた。
今の遼より少し大人びている。頬が痩せ、目元に疲れがある。それでも、笑い方は同じだった。
未来の僕が、その前に立っている。
灰色のコートはまだ着ていない。
普通の服だった。
「凪人」
未来の遼が言う。
「俺のこと、ちゃんと忘れてくれ」
未来の僕は何も言わない。
「もういいんだよ」
未来の遼は笑った。
その笑顔は、今の遼とよく似ていた。
だが、誰かに見せるための笑顔ではなかった。
疲れ切った人が、最後に相手を安心させようとする笑顔だった。
「お前が俺を覚えててくれるのは、嬉しかった。でも、それだけじゃ駄目だった。俺、だんだん、自分が誰だったかわかんなくなった」
未来の僕は、震える声で言う。
「俺が呼ぶ」
「うん」
「毎日呼ぶ」
「うん。呼んでくれたよな」
「なら」
「でも、俺を呼ぶ声が、お前だけになった」
未来の遼は、空っぽの教室を見回した。
「ここ、最初はもっと人がいた気がするんだ。水瀬がいて、真柴がいて、大野先生がいて、高瀬もいた気がする。でも、今は顔が思い出せない」
未来の僕は、何も言えない。
「俺、お前の中にしかいないんだよ」
未来の遼は、静かに言った。
「それって、生きてるって言うのかな」
未来の僕は、声を出せなかった。
未来の遼は立ち上がった。
「俺を忘れてくれ。そしたら、俺は葬列に行ける。誰かの未来に戻れるかもしれない。戻れなくても、少なくとも、お前の中に閉じ込められたままじゃなくなる」
「嫌だ」
未来の僕が初めて言った。
子どものような声だった。
「嫌だ」
未来の遼は笑った。
「だよな」
そして、未来の僕の額を軽く小突いた。
今の遼がよくやる仕草だった。
「でも、頼むわ」
未来の僕は泣いていた。
未来の遼は、最後に言った。
「明日の話、してみたかったな」
その言葉とともに、未来の遼は薄れていった。
未来の僕だけが、空っぽの教室に残された。
彼は忘れなかった。
忘れられなかった。
だから、昨日に閉じ込められた。
白い教室が消える。
商店街へ戻る。
僕は膝をついていた。
隣で遼も泣いていた。
千紗も、真柴も、大野も、それぞれ言葉を失っていた。
僕は未来の自分を見た。
「一人で持つには、重すぎる」
彼は、何も言わなかった。
僕は手を伸ばした。
「佐倉凪人」
名前を呼ぶ。
「戻ろう」
未来の僕は、僕の手を見た。
長い沈黙。
そして、ゆっくりと手を伸ばした。
指先が触れる。
冷たい。
けれど、水ではなかった。
確かな手だった。
その瞬間、葬列の最後尾から灰色のコートがほどけるように消え始めた。
未来の僕の姿が、僕の中へ流れ込んでくる。
記憶が来る。
痛みも、後悔も、未来の遼の笑顔も。
僕は叫びそうになった。
だが、隣で遼が僕の肩を掴んだ。
千紗が手を握った。
真柴が背中を支えた。
大野が低い声で言った。
「佐倉凪人」
名前を呼ばれる。
僕はここにいる。
昨日ではなく、今日にいる。
未来の僕の記憶が、僕一人ではなく、僕たちの間に薄く広がっていくような気がした。
痛みは消えない。
でも、耐えられる形に変わっていく。
時計が動いた。
八時二十一分。
葬列が、さらに薄くなる。
高瀬湊が踏切の手前で微笑んだ。
遼は彼を見て、泣きながら笑った。
「湊」
「遼」
高瀬の声が聞こえた。
確かに聞こえた。
「今度は、忘れないで」
「忘れない」
遼が言った。
「俺だけじゃなくて、みんなで覚える」
高瀬は頷いた。
踏切の遮断機が完全に上がった。
その向こうに、もう黒い列はなかった。
ただ、朝の光が差していた。
商店街の時計は、八時二十一分から、かちりと音を立てて八時二十二分へ進んだ。
世界が、また一分動いた。




