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葬列通りの少年―未来の自分がいる列のうしろ  作者: 妙原奇天


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第6話 順番を変える

 朝は来なかったけれど、集まる時間は来た。

 凪人と遼は、学校の正門の前に立っていた。白い柱は薄い光を吸い、表面に細いひびが走っている。運動場の白線は、昨日よりも少し薄く、土は足跡の形で固まっている。体育館の屋根に止まった鳩は翼を半分上げた姿勢で固まり、風見鶏は同じ角度で空を突いていた。


 チャイムは鳴らないが、気配だけが変わる。

 通りの角から、葬列が現れた。黒い布を被せた台車、その脇を歩く影たち。誰のものでもない位牌は、今日も読めない名前を抱えている。列の先頭にいるのは背の高い男で、歩幅を変えない。列の最後尾には、灰色のコートの青年がいた。凪人に似た肩の線、同じ癖の髪の跳ね方。彼は顔を上げず、靴の先だけを見ている。


 遼は深呼吸を一度して、白い柱から足を踏み出した。

 「俺が行く」

 声は、静かに出た。大声ではないのに、空気がそこだけ揺れた気がする。凪人の喉は固くなり、呼び止める言葉が出ない。今を言う音は、まだ苦手だ。


 正門の外、道路に白い横断歩道が固まって残っている。ペンキは剥げ、ところどころ土が覗く。遼はその真ん中に立ち、両腕を広げた。真っ直ぐ前を見て、列の先頭を見据える。

 「順番を変えろ」

 遼は言った。叫びではない。けれど、それは命令の形で世界に突き刺さった。

 「せめて、子どもを先に歩かせるな」


 葬列は止まった。誰も怒らなかった。

 先頭の男がゆっくりと顔を上げ、遼を見下ろす。周りの人々も、遼の前で立ち止まり、視線の重さだけを向けてくる。怒りの代わりに置かれるのは、静かな圧。音のない場所にだけ生まれる種類の重み。

 「どいてください」と誰かが言う未来は、ここにはない。言葉の多くは昨日に吸い込まれて、残った声は、視線になっていた。


 凪人は列の端まで駆け寄り、遼の腕を掴んだ。

 「やめて、いた」

 遼は踏ん張る。足の裏で地面を掴み、凪人を振りほどかず、しかし一歩も引かない。

 「お前の未来がそこにあるなら、俺が奪ってやる」

 遼の顔は笑っていなかった。声には震えがなかった。言ったことを、本気でやるつもりの顔だった。


 灰色のコートの青年が、最後尾から一歩だけ進んだ。

 遼の前へは出ない。触れない距離で止まる。

 その瞬間、塔の時計が音もなく、一秒だけ進んだ。

 カチ、と聞こえた気がした。止まっていた世界の歯車が、ほんの少し噛み合ったみたいに。体育館の上の鳩が翼を下ろしかけ、羽音を立てかけて、その姿勢で固まった。空に薄い波紋が広がる。

 世界が、わずかに軋んだ。


 凪人は理解した。

 ——誰かが順番を違えると、時間の止まり方がゆるむ。

 列は決まった順序で世界を後ろへ運んでいる。その順を乱すことで、ほんの少しだけ前へ送られる何かがある。時計は、反射で一秒動いた。息が入った。けれど、それはただのゆるみではない。


 遼の手の甲に、白い輪が浮かんだ。

 最初は、光のいたずらみたいな薄さだった。すぐに輪郭がくっきりし、肌の色がそこだけ抜ける。水に長く浸けた指にできる冷たい跡。遼の指先は少し青く、手の甲には白い輪。

 川の冷たさ。

 沙織の事故の、別の結果。時間がねじれて、遼の体に流れ込んだのだと凪人は直感した。


 「遼」

 やっと出た声は、小さかった。

 遼は手の甲を見下ろし、眉を寄せた。痛くはなかったのだろう。指を開いて閉じ、感触を確かめる。

 「これでいい」

 遼は笑った。笑いは短かったが、嘘ではなかった。

 「俺が払う。順番を変える代償なら、俺でいい」


 凪人は泣けなかった。涙は、今を選ぶ行為だ。喉は今を通れない。代わりに、昨日の言葉で「ごめん」を言う。

 「ごめん、と言っていた」

 遼は首を振った。

 「謝るな。俺が決めた」

 そのやり取りの間にも、列の重みはそこにあった。世界は簡単には変わらない。けれど、ほんの少し、鳩の羽の角度が違って見える。柱の白さが、わずかに新しい。


 遠くから、青年が首を振った。

 奪うな、奪わせるな。

 声にはしなかったが、顔にそう書いてあった。

 凪人はそれを読めた。電柱の影の口元を読み取るのと同じように。

 それでも、凪人の足は、列のリズムに合わせて前へ出てしまう。

 足元の地面が、列の通った軌道に向けてわずかに傾く。体は、自分の意志より先に、世界の傾きを選ぶ。


 「来るな」

 遼が言った。

 「俺が立つ。お前は、名前を呼べ」


 凪人は喉の奥で名前を用意した。

 遼、と言うために。

 けれど、喉の壁はやっぱり厚く、音は横道へ逃げる。

 「りょう、と言えていた」

 遼は片手を上げ、頷いた。

 「それでいい。言えてる」


 列の先頭が、歩幅をわずかに変えた。

 遼の前で止まったまま、台車の車輪が軋み、左右に重心を移す。押している影の肩が沈んだり上がったりする。そのたびに香の匂いが濃くなり、空気の薄い層に溜まっていった。

 世界は、遼の言葉を確かめるように、遅れを引き摺っていた。


 凪人は、遼の手の甲の白い輪をもう一度見た。輪はじきに二重になり、輪と輪の間が薄青く見える。川の輪郭が手の中に閉じ込められたみたいだった。沙織の夜の冷たさが、遼の皮膚の上で生きている。

 「痛む?」

 「痛むってほどじゃない。重い。冷たい石を乗せたみたいだ」

 「外そう」

 「外れねえよ。こういうのは、祈りでしか変わらない」

 遼は仏間の煙を思い出したように目を伏せ、また顔を上げた。

 「だから、やる」


 遼は一歩、列に近づき、もう一度言った。

 「順番を変えろ。俺が先に歩く。子どもを最後にしろ。読めない名前は、読めるまで待て」

 誰も答えない。

 けれど、列の最後尾の青年がまた一歩、遼のほうへ進んだ。触れない距離は保つ。それでも、視界の中で存在が大きくなる。

 塔の時計が、もう一秒、進んだ。

 そのたった一秒の音が、真昼の花火のように胸で響いた。

 体育館の鳩は、翼を下ろしきれずに、細く震えた。

 世界の軋みは、今度は少し大きかった。


 「代償は増える」

 青年の口が、そう動いた。

 遼は見ていた。口の動きだけで意味を読み取り、笑って答える。

 「上等だ」

 その笑い方は、怖いものの正体を見切った人の笑い方だった。臆病なのに勇敢。矛盾の上に立つ足に、しっかり体重を乗せる。


 列の中から、小さな女の子の影が一歩前に出た。

 短い髪。膝の擦り傷。制服のスカートはよく走る子がつける斜めの折り目。誰かに似ていた。凪人にはわからない。遼が息を呑む音だけが、凪人の耳に強く届いた。

 「姉ちゃんじゃない」

 遼が自分に言い聞かせるように低く言い、すぐに首を振った。

 「姉ちゃんじゃない。でも、子どもだ」


 凪人は女の子の足元を見た。

 靴は、泥を薄く纏っている。泥は乾かない。泥の水分は、空気と同じ温度で止まっている。彼女の指先は細く、アスファルトの粒を数えるように下を見ていた。

 読めない位牌に、今日に限って、薄い線が浮かびかける。名前を名乗りたいのだ。名乗ることは、生きる側の作法だ。世界がそれを許すかどうかは、順番が握っている。


 「遼」

 凪人は思い切って、はっきり言った。

 「りょう」

 遼は振り向かない。けれど耳は確かに動き、背筋がほんの少し伸びた。

 「凪人」

 遼は返した。

 名前と名前が、正門の前で橋になる。

 その橋を、視線だけが何度も渡った。影も、香の匂いも、渡ろうとするたび足を止める。渡りきるには、もう一人の声がいる。


 「ナギト」

 誰かが言った。

 凪人は肩を震わせた。

 今の声は、昨日の声ではなかった。

 体育館のほうから、先生が閉じた口で出したはずの、出せなかった呼び名が、風の層で遅れて届いたのだ。

 世界のどこかでは、まだ、音が動いている。


 遼の手の甲の白い輪が、少しだけ広がった。

 凪人は思わず、その手を掴んだ。冷たかった。寒い水に手を入れた直後の感触が、遼から凪人に移る。共有された冷たさは、痛みというより、覚悟の温度を下げる作用を持っていた。


 「俺が先に歩く」

 遼は、もう一度、列に言う。

 「台車の前、俺に譲れ」

 先頭の男が、わずかに顎を上げた。

 否定でも、賛成でもない仕草。判断を誰かに投げる動き。

 投げられた先は、最後尾の青年だった。

 青年は目を閉じ、開いた。

 たったそれだけで、塔の時計が、また一秒進んだ。

 鳩が羽を打った。今度は明確な一拍の音。空気は震え、列の足元の灰がふわりと浮いた。

 世界は、ゆるむことを受け入れている。


 しかし、代償はまた刻まれた。

 遼の左耳の下に、薄い赤い線が現れた。

 刃物の痕ではない。冷たい水が皮膚を通り過ぎ、そこだけ血の巡りが遅れたような細い痕。沙織の夜の川が、また違う場所に痕跡を残した。

 「遼」

 凪人は呼ぶ。

 「わかってる」

 遼は頷いた。

 「大丈夫。これで、少し動いた」


 列が、ごくわずかに形を変えた。

 台車の前で、影たちの足が半歩ずれる。小さな女の子の影が、二歩だけ下がる。彼女の足に付いた泥が、コンクリートに薄い形を残し、すぐに消えた。

 順番が、変わる。

 完全ではない。けれど、確かに一部が入れ替わる。

 世界の軋みは、甘い痛みに似ていた。骨が伸びるときの熱に似ていた。


 「これでいい」

 遼が繰り返す。

 彼の声に、仏間で学んだ祈りの形が混ざっていた。頼むのでも、謝るのでもない。宣言だ。

 「俺は、ここに立つ。お前は、そこにいろ。お前の影と、あいつの影を、重ねさせない」


 灰色のコートの青年が、凪人を見た。

 目は深く、光を吸う。

 追いつくな。

 口がそう動く。

 凪人は頷いた。今日だけは、頷けた。

 ところが足は、また前に出る。

 列のリズムに合わせて。

 足元の地面は、線路みたいに見えた。止まり木の根元で覚えた傾きが、ここにも来ている。世界の軸が、自分の足の骨と合わせにかかっている。


 「止まれ」

 遼の声が、いつもより強かった。

凪人は、足の指に力を入れた。爪が靴の中で軋む。

 止まることは、動くこと以上に力が要る。

 指先の白い痛みが、今だけをはっきりさせる。


 女の子の影が、凪人を見た。

 目は真っすぐで、怖がっていなかった。

 彼女は位牌を抱え、胸のところでぎゅっと握る。読めない名前は、今日だけは薄く輪郭を見せた。

 「読めるまで待て」

 遼の言葉が、風の中で生きていた。

 女の子は小さく頷いたように見え、半歩下がる。

 列の先頭の男は、右足を半歩だけ後ろに引いた。台車の車輪が、ほんの少し回る。

 世界は、さらに一秒、進んだ。

 鳩が二度、羽を鳴らす。

 その音は、祝福の拍に似ていた。


 だが、代償はまた一つ。

 遼の目の下に、薄い隈が落ちた。

 眠っていない夜の痕に似ているが、これは眠れなかった時間ではない。川の冷たさが目の奥についた影。

 遼は片手で目の下をこすり、笑った。

 「全然痛くない。大丈夫」

 大丈夫という言葉は、ときどき祈りと同じ働きをする。

 凪人は頷いた。

 「だいじょうぶ、だった」

 「そう。だった、でいい。それを積み上げろ」


 遠くで救急車のサイレンが鳴り出し、途中で止まった。

 音は進み切れず、空中で折りたたまれる。

 時刻表のない列が、町のすべての音を握っている。

 握る手を少し緩めたのは、遼だ。

 握り直すのも、遼なのだろう。

 そのことが、凪人には少し怖くて、同時に誇らしかった。


 列の中ほどで、年配の女性が一歩踏み出した。

 白髪を後ろで束ね、手に小さな鐘を持っている。

 カラン、と鳴らしかけて、鳴らさずに止めた。

 彼女は遼を見て、口を動かす。

 「ありがとう」

 声は届かない。

 けれど、唇の形はわかる。

 遼は首を振った。

 「俺じゃない。名前が待ってるだけだ」


 順番は、完全には入れ替わらない。

 台車は、なおも正門を通ろうとする。

 遼は両手を広げ、胸を張る。

 「俺を押してみろ」

 誰も押さない。

 押せば、世界が動きすぎることを、列は知っている。

 だから、待つ。

 待つことは、列のもっとも得意な仕事だ。

 待つことで、昨日がしみ出す。

 しみ出した昨日は、凪人の喉に優しい。


 「遼」

 凪人はまた呼んだ。

 今度は、前より少し強く。

 「りょう」

 遼は振り向かない。その代わり、左手を高く上げ、指を一本立てた。

 一本。

 一本は一本だ。

 それ以上でも、それ以下でもない。

 一本は、数えられる。

 数えられるうちは、大丈夫だ。


 灰色のコートの青年が、ようやく目を上げた。

 凪人と目が合う。

 合ったとき、凪人の胸の奥で金属音が鳴った。

 風鈴のような、レールのつなぎ目のような音。

 追いつくな。

 口がそう動いた。

 凪人は、ゆっくりと首を横に振った。

 わからない、ではない。

 できない、でもない。

 ——今は、しない。

 それだけを、首の角度で伝える。


 列の足並みが、ふたたびそろった。

 先頭の男が手を上げ、台車の前で静止の合図をする。

 小さな女の子の影は、列の外側に回り、最後尾の青年の少し手前へ移った。

 順番が変わった。

 世界の軋みは、もう痛みではなかった。

 伸びをする筋の、心地よい張りになった。


 塔の時計は、ちょうど三秒進んで止まった。

 鳩は翼を下ろし、首をすくめて、また動かなくなった。

 空の灰色は、ほんの少し薄い。

 それだけで、町の色が違って見えた。


 遼の手の甲の白い輪は、輪郭が柔らいだ。

 代償は消えない。

 けれど、凪人が握ると、冷たさは少し和らぐ。

 人肌が、まるで正しい温度を思い出させるみたいに。


 「終わりじゃない」

 遼は言った。

 「始まりでもない。途中にしただけだ」

 凪人はうなずく。

 「途中に、していた」

 「それでいい。俺たち、中間が得意だろ」

 遼は笑って、白い柱にもたれた。

 足が小刻みに震え始めている。

 緊張が、やっと出口を見つけた。


 列は、遼の横をゆっくりと通り過ぎた。

 台車の車輪は音を立てない。

 香の匂いだけが濃くなり、そして薄れていく。

 凪人は、最後尾が自分の横を通る瞬間、青年の気配に震えた。

 青年は一瞬だけ凪人の肩の高さまで顔を上げ、目を細めた。

 追いつくな。

 今度は、祈りではなく、約束の形に見えた。


 列が角を曲がり、商店街のほうへ遠ざかる。

 白い柱の影が、数ミリだけ伸びる。

 計ってはいないのに、わかる。

 世界は、確かに少し動いたのだ。


 凪人は遼の横に並び、肩を貸した。

 遼は体重を半分預け、深く息を吐いた。

 息は、ちゃんと出た。

 止まっていた呼吸が、ここだけ戻ってくる。


 「なあ」

 遼が笑いながら言う。

 「俺、今、ちょっとだけかっこよかったな」

 「かっこよかった、と言えていた」

 「よし、それ録音しとけ」

 遼は冗談めかして言い、すぐに真面目な声に戻った。

 「明日もやる。……いや、次の朝も。順番を、少しずつ変える。俺の代償が増えても、やる」

 凪人は、口を開き、閉じ、また開いた。

 「やらせて、いた」

 それは許可ではなく、祈りの形だった。

 遼は頷き、空を見上げる。

 空は、まだ灰色だ。

 でも、鳩はちゃんと翼を下げている。

 それだけで、十分だった。


 正門の影から、教師が二人、そっと顔を出した。

 目が合うと、逃げた。

 逃げたのに、逃げ切れていない足取り。

 クラスメイトたちが植え込みの陰で囁き、すぐに口を押さえる。

 彼らの視線にも、非難はない。

 あるのは、押し殺した期待だけだ。

 誰かが動かした一秒は、見ていた人の胸に残る。


 「帰るか」

 遼が言う。

 「うちの仏間、今日も煙が揺れてるかもしれない」

 「揺れて、いた」

 「よし。姉ちゃんにも、自慢しとかないと」

 遼はポケットからスマホを出し、画面を光らせた。

 電波は、来ない。

 けれど、メモは書ける。

 遼は一行、打った。

 ——順番を変えた。

 それだけ。送る相手のいない短い報告。

 それでも、記すことに意味がある。

 残すほうを選ぶのが、遼のやり方だ。


 凪人は、白い柱に刻まれた小さな傷を指でなぞった。

 誰かが鉛筆で書いた落書きが、雨で消えかけ、線だけが残っている。

 その上に、凪人は爪で小さな跡を付けた。

 見えない。

 けれど、そこにある。

 紙に押し当てた「あ り が と う」と同じやり方で。


 帰り道、商店街のシャッターに貼られた「本日休業」の紙が少しだけずれ、テープの端がわずかに剝がれていた。

 世界が、ほんの少しだけ前へ進んだ印。

 止まっていたもののいくつかが、位置をずらしはじめている。


 角を曲がると、止まり木が見えた。

 枝の先で、鳥が一羽、首を振った。

 飛ばない。

 でも、見ている。

 選ぶ側の目をして。


 遼は手の甲の白い輪を見て、笑った。

 「このままでいい」

 凪人は、遼の横顔を見た。

 かっこいいと、心の中で言った。

 言葉は声にならず、胸の奥で灯りになった。

 その灯りは、今日の三秒ぶんの熱で燃えている。


 葬列の角度は、もう昨日と同じではない。

 列の最後尾の青年は、通りの向こうで振り返らず、肩だけで合図した。

 追いつくな。

 それは、禁止ではなく、保存の手順だった。

 守れば、次に進める。

 破れば、終わる。

 どちらも、選びだ。


 凪人は歩幅を、遼に合わせた。

 半歩後ろ。

 けれど、離れすぎない距離。

 彼らの影は二本で、時々重なった。

 重なって、すぐに離れた。

 重なるたび、世界がかすかに明るくなる。

 離れるたび、次の朝の名前が、少し読みやすくなる。


 順番は、変えられる。

 ただし、少しずつ。

 代償は、消えない。

 けれど、持ち運べる重さにできる。

 それを教えてくれたのは、遼の祈りと、今日の三秒だった。


 家の角を曲がると、仏間の窓に薄い影が揺れた。

 線香の煙が、一本にまとまり、天井に向かって真っすぐ伸びている。

 遼は靴を脱ぎながら、小さく言った。

 「ただいま」

 凪人は、その後ろで、言った。

 「ただいま、と言えていた」

 その言葉は、昨日には戻らなかった。

 ここに、留まった。

 それで、十分だった。


 夜は来ない。

 けれど、眠りは来る。

 それは、世界の優しさの残りかすだ。

 凪人は寝袋に潜り、遼の呼吸を聞いた。

 遼の呼吸は、生きている側の音だ。

 その音に合わせて、凪人は目を閉じた。

 列のリズムから、半歩、外に出る練習をしながら。


 明日を言えない喉でも、歩幅は選べる。

 順番を変えることは、歩幅を変えることから始まる。

 今日、三秒。

 次の朝、また三秒。

 それでいい。

 それで、たぶん、いいのだ。


 止まり木の上の鳥が、もう一度、羽を震わせた。

 飛ばない。

 でも、見ている。

 見ていることは、動くことの手前にある。

 凪人は、その目線の先に自分たちがいることを、心強く思った。

 そして、眠りの縁で、はっきりともう一度だけ言えた。

 「ありがとう」

 声は小さく、けれど、ここに留まった。

 昨日へ流れず、明日を呼びに行かず、今日を少しだけ縫いとめる糸になった。

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