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葬列通りの少年―未来の自分がいる列のうしろ  作者: 妙原奇天


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第3話 未来の自分

 夜は来なかった。

 夕方の手前で止まった空が、窓の外で薄い光を貼りつけたまま動かない。壁の時計は六時を指して沈黙し、秒針は相変わらず震えるだけだ。遼の家で一晩を明かした翌日、凪人は自室に戻ってきた。母の座る椅子は、昨日の座り方のまま。テーブルには飲みかけの麦茶が薄く汗をかき、それ以上も以下も起きない。テレビは砂嵐に移る寸前で踏みとどまり、リモコンの赤い点だけが生き物みたいに見えた。


 玄関の戸は鍵を回さなくても開いた。金属の感触がたしかにあるのに、回していないのに、開いた。戻ってきた、というより、戻ってこさせられたみたいな感じがした。靴を脱いで上がる。廊下の床は少し冷たく、畳の縁の縫い目が指の腹に残る。台所では、誰も触っていない鍋が小さく鳴った気がした。音はすぐにやんだ。


 部屋に入って、凪人は息を整えた。机の上にはノート、一冊。表紙の角が丸くなっている。鉛筆は転がらず、消しゴムの欠片だけが黒く汚れていた。壁に貼ったポスターは好きなバンドのもので、ライブの日付が色あせている。窓辺のカーテンはさわらなければ動かない。触っても、やっぱり動かない。夕方の前の風だけが、世界に残っている。


 それから、足音がした。


 廊下の木が軽く鳴り、玄関のたたきに砂が落ちる気配があった。凪人は立ち上がり、振り向いた。戸は閉まっている。鍵は掛けていない。掛けられない。眼球の奥を冷たいものが撫でていく。嫌な予感ではなかった。名前のつけにくい、覚悟に似た気配だった。


 扉が、少しだけ開いた。音はない。


 灰色のコートの青年が、そこにいた。列の最後尾でいつも目を合わせず歩いていた“未来の自分”。電柱の影に立って口を動かしていた人。凪人は一歩だけ退いた。逃げるというより、空ける。自分の部屋に、未来の自分の居場所を空ける。


 青年は何も言わなかった。靴を脱いだ。靴底に付いた灰を、指で静かにはたいた。玄関のマットに灰が落ちたが、舞い上がらない。重い粉のまま、そこに留まる。青年は台所の冷蔵庫の前に立ち、開いたドアをそっと閉じた。閉めたあとに、また少し開いて、もう一度閉じた。帰宅の手順を、逆向きになぞっている。鍵をかける真似をし、郵便受けの口を持ち上げ、そっと下ろす。手ぶり足ぶりが丁寧で、少し祈りに似ていた。


 凪人は声を出そうとした。喉が反射で過去形を探す。言いたい言葉は、今ここにあるのに、形にしようとすると昨日に逃げていく。彼は口を閉じた。黙っていると、時間が少しだけ楽になる。


 青年は部屋に入り、壁のポスターを見た。近づき、角を爪でなぞり、紙の縁の傷を確かめる。好きだったという事実に、少しだけ頷くみたいに目を細める。それから机に向かい、開いてあったノートを、反対側からめくり始めた。最後のページに鉛筆の跡が残っている。書きかけの作文。題名は「ぼくの将来の夢」。あの日、授業で配られた課題用紙をまねて、家で自主練のつもりで書き始めたやつだ。凪人は覚えている。覚えていたはずだ。覚えていなかった、のかもしれない。ぼやけている。


 青年は最後の行を指でなぞって、逆から読んだ。声に出さない。口の形だけで、黙読する。鉛筆の灰色の線は途中で薄く、そこで文字が切れている。切れた先が、消えている。紙は破られていない。そこに文字があったのか、それとも最初からなかったのか。凪人の胸がぎゅっと締めつけられる。空腹の痛みと、よく似ていた。


 この人は喋らない。喋らないから、動作で全部を語る。冷蔵庫のドアを閉めるのは、帰ってきたという合図。靴を脱ぐのは、この家にいるよという宣言。逆順でやるのは、これから起こることを、先回りして体に叩きこんでいるから。予習。凪人はそう理解した。


 予習。

 やがて自分がやることの、予習。


 自分の死を、他人として毎朝見てきた。列の最後尾で、自分に似た背中を遠くから見送ってきた。あれは遠い観測じゃなかった。近づくための練習だったのだ。追いついたときに戸惑わないように。間違えないように。手順通りに、静かに消えるために。


 青年は筆箱から鉛筆を抜き、ノートの端に短い線を引いた。引いた線を、すぐに消しゴムで擦る。消しゴムの粉は机の上で止まり、そのまま固まったみたいになる。文字は消える。消える速さは、書く速さよりも早い。凪人はそれを見て、喉の奥で音にならない音を出した。


 「昨日、ぼくは、あなたを——」


 言葉の先が、舌でほどけた。出ない。今を言えない喉が、ここでも壁になる。凪人は一度、唇を結び直した。形を変える。こぼれそうな言葉を押し戻し、違う形で取り出す。


 「きのう、ぼくは、あなたを見失う」


 青年の瞼が揺れた。目の奥の水が、ほとんど動かないまま光った。悲しそうに、笑った。音のない笑い方だった。誰にも聞こえないのに、たしかに笑っているとわかる。笑いは、諦めに似ていた。自分がどこへ向かうか、もう知っている人の笑いだ。


 時計は止まったままなのに、二人の間だけ時間が流れている気がした。逆さの川。上流へ向かって泳いでいる。ぶつかって合流すれば、おしまい。それまでの間だけ、川面は光り、魚影が見える。終わりを先に知っているから、始まりがやけに鮮やかに見える。そんな皮肉な流れ。


 青年は立ち上がり、ドレッサーの前に立った。鏡は曇らないはずなのに、指でなぞると白く曇った。世界の規則が、彼の指にだけ少し譲る。彼はゆっくり、ひらがなを一文字ずつ置くように書いた。


 あ し た


 明日。


 書き終えた瞬間、曇りは消えた。文字はどこへも残らない。ガラスは何もなかった顔に戻る。消えるのが早すぎて、目で追えなかった。残るのは、書いた手の感触だけだ。人差し指の腹に、すべらかで薄い冷たさが貼りつく。


 凪人は喉を押さえた。出してはいけない音を、喉が勝手に選んでしまいそうで怖かった。明日という言葉を言ったら、何かが動く気がした。動いたら、列が知る。列が知ったら、角度が変わる。


 「明日を……」


 声が勝手に立ち上がり、すぐに崩れた。昨日しかない語彙が、明日の形を知らない。彼は吸って、吐いた。吐くほうは、まだできる。


 青年は部屋の隅を歩いた。床に置かれたランドセル。小四のころまで使っていたやつ。肩ベルトの穴の位置が浅く、背中に当たる部分に細かい傷が残っている。青年はそれに手を触れ、ポケットを探り、底まで指を伸ばして何も入っていないことを確かめる。確かめ終わってから、ふたを閉める。閉め方は昔のままだった。


 クローゼットの引き戸を少し開け、閉める。ベッドのシーツを引き、戻す。カーテンを掴み、はなす。順番は全部、逆。その逆向きの順番が、凪人の心に正しい順番として刻みつけられていく。未来の手順が、昨日として染み込む。


 机の上のノートを、青年がまた開いた。凪人は隣に座った。二人の肩が、紙の上で並んだ。肩の高さはほぼ同じ。息遣いは、少し違う。未来のほうが浅い。浅くて、途切れる。そこに、薄い怖さが乗っていた。


 ノートの最初のページ。そこにも「ぼくの将来の夢」があった。黒い鉛筆で太く書いた文字。はじめの一文は勇気があって、二文目から迷っている。消しゴムのあとがくっきり残っている。夢はひとつに決まらない。凪人はずっとそうだった。何かになりたい、は言える。何になりたい、は言えない。言い切ると、引き返せない気がして。


 青年はページの下から上へ、指でたどった。最後の段落から読み、さかのぼっていく。凪人はその指を目で追った。読みあげる声はないのに、脳の中で文が逆に再生される。不思議と意味が消えない。意味は順番を持たないのかもしれない。持たないから、消えるときも、順番を選ばないのかもしれない。


 ポケットの中の紙が、指先に当たった。白くて小さい紙。昨日、線路の向こうで握り潰したはずの文字。それが別の紙に移って、自分のポケットで生きている。凪人は紙を広げた。


 明日を持って逃げろ。


 文字はやはり自分の字だった。乱暴に見えるのに、ところどころ丁寧な癖が出る。青年はそれを見て、首をわずかに横に振った。否定じゃなく、確認に近い動きだった。わかっている。わかっているけど、それでも、と言いたいときの動き。


 「逃げて、いた」


 凪人が言うと、青年は目を閉じた。ひとつ、息を吸い、吐いた。その動きの間に、部屋の空気が少しだけ揺れた。揺れたあと、元どおりになる。川に小石を投げたら、波紋が広がって、それでもしばらくすると水面が元の顔に戻るみたいに。


 外で、かすかに鐘が鳴った。葬列の鐘。遠いと思っていたのに、実際はすぐそばを通っているのかもしれない。音は近いのに、匂いは来ない。香の煙の匂いは、部屋の中までは届かない。届かないから、ここはまだ大丈夫。そんなふうに思いたくなる。


 青年は立ち上がり、窓に近づいた。カーテンをつまみ、少しだけ隙間を作り、外を見る。凪人も立って、一緒に覗いた。通りを、黒い列が滑っていた。角度は、昨日よりきつい。家々の間を縫うみたいに曲がり、そのたび、電柱や表札の木目が少し若くなる。時間が剝がれていく。剝がれて、昨日の色が顔を出す。


 「追いつくな」


 凪人は、口で言わずに、心で言った。青年は、こちらに顔を戻して、頷いた。声のいらない合図。合図は、言葉よりも早い。未来と昨日の間に、細い橋がかかって、それを二人で渡る。真ん中で会ってしまえば、橋は用済みになり、取り外される。取り外されたあとは、川になる。落ちたら、もう戻れない。


 机の引き出しが、少し出ていた。青年が手をかけ、押し込んだ。押し込んだ指先の関節に、白い跡が残る。凪人の指でも、同じ跡が残る。骨の形まで似ていることに、いまさら驚く。自分が自分に似ていることに、遅れて驚くのは、滑稽なのに、涙が出そうだった。


 携帯が震えた。机の隅に置きっぱなしのスマホ。画面に通知が浮かぶ。遼からだ。短い文。


 今どこ


 続けて、もう一通。


 お前の家の前、今、列が角曲がった。家の方、向いてる。大丈夫か


 凪人は画面を握りしめた。打とうとする。指が止まる。今を言う文字が、キーボードの上で跳ねて、どこにも載らない。彼は代わりに、ひらがなを二つだけ打った。


 いた


 送ってから、胸がきゅっとした。遼がどう受け取るか、わからない。返事はすぐに来た。


 いるならよかった すぐ行く


 「来なくて、よかった」


 凪人が呟くと、青年がこちらを見た。目は静かだった。遼が来れば、角度がまた変わる。たぶん、悪いほうへ。列は知っている。誰が誰に近づくと、何がどれだけ動くか。知っているから、あの角度で曲がる。


 足音が、外で増えた。鳴り方でわかる。列の中の台車の車輪ではない、軽い靴の音。遼の足音だ。凪人はドアに手をかけた。開けたら、いけない。開けなければ、もっといけない。どちらも、いけない気がする。喉の奥で音がぶつかる。


 「追いつくな」


 今度は口にした。過去形ではない。命令形は、時制から少し外側に浮いている。青年は頷いた。頷いて、凪人の手から静かにドアノブを外した。触っていないのに、ドアは開かなかった。見えない錠が、内側から下りたみたいだった。


 遼の声がした。外で、玄関から。ドアの向こうで、短く、低い声。


 「凪人」


 返事をしたかった。したくて、喉が痛くなった。返事は今だ。今を言えない自分の、いちばんの弱点が、ここで露わになる。凪人は拳を握り、胸の前でゆっくりひらいた。ひらいた手の中には、何もない。何もないことが、今の形をしている。青年が目で「待て」と言った。待つ。待つしかない。


 「凪人、いるなら、いるって言え」


 遼の声は、いつもより少し掠れていた。走ってきたのだろう。息の上がりを、ドアが拾う。凪人は、喉を叩いた。叩いても鍵は開かない。声は鍵ではない。頭の中に浮かんだ文は、全部、昨日に滑っていく。


 「いた」


 それでも、出した。遼に届くかどうか、わからないくらい小さい声だった。ドアは開かない。遼は、しばらく黙って、それから言った。


 「わかった。ここにいる。俺はここにいる。動かない」


 凪人は目を閉じた。遼が動かないと言うなら、動かないだろう。彼はそういうやつだ。言ったことに責任をかける。軽口でも、核心でも。


 青年が、鏡の前に戻った。今度は曇らない鏡に、指で何も書かない。書かないという動作が、妙にはっきり見えた。書かない、と決めている指の動き。書かなければ、消えるものも、生まれない。生まれないなら、消える場所もない。未来の自分は、何も起こさないことで、何かを守ろうとしている。そんなふうに見えた。


 机のノートに、凪人は手を伸ばした。新しいページを開く。鉛筆を握る。先は尖っていない。尖っていないなら、折れない。折れないなら、書けない。彼はナイフを探した。見当たらない。削るという手順が、いまの世界に含まれていない。含まれていないなら、書くのは諦めるしかない。


 それでも、凪人は鉛筆の鈍い先で、紙に押し当てるように文字を刻んだ。凹みだけの文字。色はないが、形は残る。


 き の う


 そのとなりに、もうひとつ。


 み ら い


 さらに、もうひとつ。


 な ぎ と


 紙の上に、薄い跡が並ぶ。青年はそれを見ていた。目は動かないのに、見ているとわかる。見ているから、凪人の心臓の音が、少し穏やかになった。見られていると、人は落ち着く。監視されるのではなく、見守られると、落ち着く。


 外の足音が、少し離れた。遼が玄関の段に座ったのだろう。ポケットから取り出したガムの包み紙の音が小さくして、じきにやんだ。座り込む気配が伝わってくる。ここにいる、と言ったから、本当にいる。遼がそこにいるあいだ、この家は少しだけ強くなる。そんな気がした。


 青年が、ポケットから小さな紙を取り出した。凪人の紙と同じ大きさ。折り目の位置も、同じ。彼はそれを机の上に置いた。凪人はひらく。


 追いつくな。


 見慣れた文字。何度も聞いた形。形にされた言葉。凪人は、紙に息を吹きかけた。動かない風の中で、紙は揺れない。揺れない紙は、変わらない現実みたいに重い。


 「追いつかなかった」


 凪人がはっきり言った。命令形でも、過去形でもない。否定の形。否定は、今に似ている。青年は目を伏せ、頷いた。頷き方が少しぎこちなくて、そこが人間らしかった。


 そのとき、部屋の空気がふっと軽くなった。窓の外の光が、ほんの一瞬だけ薄く明るくなった気がした。秒針が震える角度が変わる。針は進まない。進まないが、震えかたが違う。違いは、小さすぎて、気のせいと言われたら、うまく反論できない。


 青年は、凪人のほうへ歩いてきた。距離が縮まる。肩の幅が重なりそうになる。近い。近いと、匂いがわかる。灰の匂いと、少しの汗と、貧血の朝の匂い。自分と同じ匂い。同じなのに、違う。違うのに、同じ。


 手が伸びる。伸びた手の先を、凪人は見た。触れたら、おしまい。触れなければ、続く。続くことが、正しいかどうかはわからない。正しさなんて、誰も配ってくれない。配布物はいつも途中で止まる。


 凪人は首を振った。わずかに。青年は、わずかに手を止めた。止めて、下ろした。下ろした手は、膝の横で握りしめられ、小さく震えた。震えは、秒針よりも静かだった。


 「昨日、君は、ぼくに紙を渡した」


 凪人が言うと、青年は少しだけ口角を上げた。肯定の形。肯定は、未来に似ている。未来に似ているから、言うのは難しい。難しいのに、青年は笑えた。笑えたことが、救いだった。


 外で、遼の咳払いがした。わざとらしい音。大丈夫、と言っている。お前はひとりじゃない、と言っている。ガラス越しの合図。凪人は机のノートを閉じ、青年に向き直った。


 「明日を、持って逃げていた」


 過去形に逃げる。逃げながら、言う。青年は頷かない。頷かず、代わりに指を一本立てた。一本。一本だけ。一本は一本だ。それ以上でも、それ以下でもない。一本の指は、まだ数えられる。数えられるうちは、だいじょうぶ。数えられなくなったら、危ない。凪人はその指を目で追って、ゆっくり息を吐いた。


 玄関のほうから、低い音がした。金属が触れ合う音。鍵が、誰の手でも回らないはずの鍵が、内側で少しだけ鳴った。青年が目を細めた。凪人は立ち上がった。ドアの前まで行く。ドアは開かない。開かないまま、外の遼に向けて言う。


 「待って、いた」


 遼の返事はすぐだった。


 「待ってる」


 ドアの向こうに座る人と、ドアのこちらで立つ人。その間に、灰がうっすら積もっていく。灰は軽いのに、重い。積もる速度だけが、本当の時間みたいに正確だ。凪人は振り返った。青年はそこにいる。距離は、さっきと同じ。近いようで、遠い。


 机の端に置きっぱなしの消しゴムを、凪人はつまんだ。指で二つに割れるほど小さくはない。けれど、角はもうない。角のないものは、転がりやすい。転がりやすいから、なくしやすい。なくしたくないから、握る。握ると、手の中の熱で形が変わる。形が変わると、戻らない。戻らないのは、嫌いじゃない。


 「きのう、ぼくは、あなたを見失う」


 もう一度、言った。今度は、はっきり。青年は、はっきり笑った。笑いの最後の音が、部屋の空気に溶け、薄く残った。それが合図みたいに、青年は一歩下がった。下がったまま、扉のほうを見た。帰る、という動作。帰るふりではなく、帰る。帰る先は、列の最後尾。通りの角。電柱の影。


 靴を履くとき、青年は紐を結ばなかった。結ばないのは、帰り道が短いから。そんな気がした。結ばなければ、あとでほどく手間がない。ほどく手間がないなら、楽だ。楽にしたいところまで、未来の自分は考えている。考えることに、疲れている。


 扉が開く。音はない。青年は振り返った。凪人と目が合う。合ったまま、口が少しだけ動く。形は、知っている。


 追いつくな。


 凪人は頷いた。頷きは、約束の形。約束は、時制を選ばない。青年はうなずき返し、出ていった。灰は舞わない。靴音は、廊下で一度だけ鳴って、消えた。


 静かになった。

 窓の外の光は、相変わらず夕方の手前で固まったまま。秒針は震える。針の影が、文字盤の上でほんのわずかに濃くなった気がする。濃くなるのが、進むことだと、誰が決めたのだろう。進まないのに、濃くなるのは、反則だ。


 スマホが震えた。遼から。


 今の、人? 気配した。変な言い方だけど


 凪人は、迷ってから打った。


 いた


 送って、すぐにもう一通。


 いま、帰った


 遼の返事は、少し間があってから来た。


 じゃあ、俺も帰る。今日、屋上


 凪人は短く返した。


 いた


 返事を打ちながら、胸の奥に小さい灯りがともるのを感じた。灯りはすぐに消える。消える前に、形を覚える。丸くて、弱くて、持ち運べそうな大きさ。持って逃げるなら、これくらいがちょうどいい。


 窓の外、通りを列が曲がった。角度が、少し戻った。昨日の角度に、近い。近づいたからといって、安心はできない。けれど、息を整える時間はもらえた。整える時間があるうちは、大丈夫。そう自分に言って、机に座り直した。


 ノートを開く。鉛筆を握る。削れない鉛筆でも、押し当てれば跡は残る。残る跡は、昨日のようで、明日のようだ。凪人はひとつだけ、言葉を刻んだ。


 あ り が と う


 声に出して言えば、過去形になる。だから、紙に押し当てる。刻む。見えなくても、そこにある。触れれば、わかる。指先の腹が、凹みに気づく。気づいた感触は、心に移る。移った感触が、眠りの手前で灯りになる。


 玄関のほうで、遼が立ち上がる音がした。階段を下りる足音。外へ出る靴底の音。遠ざかるスニーカーのリズム。列と逆の向きへ。凪人は目を閉じた。


 追いつくな。

 追いつかなかった。

 そして、いつか、追いついてしまうかもしれない。


 その矛盾を、ポケットの紙に畳んでしまう。指先で角を合わせる。折り目が増えるたび、紙は小さくなり、重くなる。重さは、持てる。持つ場所を決めれば、落としにくい。


 窓の外で、鳩が一羽だけ羽ばたいた。羽ばたいたように見えた。見間違いかもしれない。秒針の震えかもしれない。どちらにしても、凪人は息を吸って、吐いた。吸って、吐けた。それだけで、今日は充分だった。


 明日を言えない喉でも、誓いはできる。

 今日を、昨日にしない。

 それだけは、ここで決める。


 凪人は机に突っ伏した。鉛筆の匂いと、紙の冷たさが頬に伝わる。目を閉じる。眠らない世界で、眠るふりをする。眠るふりのやり方は、昔から変わらない。息の長さを決めて、肩を少し落とす。落とした肩に、見えない毛布がかかる。


 外の光は変わらない。変わらないまま、ほんの少し、やさしくなった気がした。気のせいでも、いい。気のせいにして、胸の中の灯りを一つ守る。守れたなら、朝を持って逃げる練習が、またひとつできたことになる。


 逆さの川は、今日も静かに流れていた。

 上流へ泳ぐ手と手が、まだ触れ合わない距離で、同じ水の冷たさを知っている。

 その冷たさの名前を、凪人は覚えた。

 未来、と呼ぶのだと。

 いつか、ちゃんと。

 昨日の言葉じゃなく、ここで。

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