第2話「昨日しかない声」
止まった時計の下で、匂いだけが時間の続きを持っていた。
湿った紙袋、濡れたダンボール、古い傘の布に吸い込まれた雨粒のにおい。商店街はシャッターの凹凸に薄い水の線を残し、アーケードの蛍光灯は朝の色のまま固まっている。凪人は列から外れて、その静止画みたいな風景の中で、鼻先だけを動かした。雨上がりの空気は、味がした。どこかで砂糖を焦がした匂いがまじっていた。誰かが朝のドーナツを揚げていたはずの、昨日の匂いだった。
商店街の突き当たり、時計台のある広場まで葬列は蛇のように伸びている。黒布の台車、色の抜けた花。列の最後尾——灰色のコートの青年は、今日も電柱の影に立ち、こちらを見ている。目は水たまりの底みたいに深くて、揺れない。凪人は目をそらした。視線が触れると、胸の奥で何かが古びた弦のように鳴り、ほどけていく気がするからだ。
背中を叩く手があった。
「おはよ」
振り向く前に、声の主が誰かはわかっていた。ひと呼吸遅れて笑う癖のある、夏の匂いのする声。遼が、肩に顎を乗せるみたいな近さで立っていた。
「なんで列から外れてんの。遅刻するって、昨日も言っただろ」
冗談半分の叱り方。
凪人は口を開いた。言葉の方向を一瞬で選ぶ。いま起きたことを言おうとすると、喉が空気に引っかかって塞がる。
「昨日、君はきっと笑った」
「は? ああ、俺はいつも笑ってるよ。今日も」
遼はそう言って笑ってみせ——それから、笑いが途中で止まった。
「いや、待て。昨日は笑ってなかったな」
遼の目が曇る。思い出すように視線が泳ぐ。
「保健室で、寝てたから。笑う気になれなかった」
「眠っていた」
凪人は反射で応じた。遼は首を傾げる。
「なんでわかるの」
凪人は答えられなかった。答えようとすると、喉が未来形を選ばされる。言えない。言えるのは、もう起きてしまったことだけだ。
「知っていた、だけだった」
「お前、詩人か」
遼はからかうように笑い、ポケットから折りたたんだハンカチを取り出して凪人の髪の雫を拭いた。
「髪、濡れてる。列、霧みたいだからな。お前、朝から霊感少年コスでもしてんの?」
「していなかった」
「過去形。やっぱ詩人だわ」
通りの端、電柱の影で、灰色のコートの青年がゆっくりと唇を動かした。音は届かない。輪郭だけが、雨上がりの空気に濡れていた。その形は、短い言葉を繰り返しているように見えた。
追いつくな。
凪人はそう読んだ。知らないはずの口の癖。自分の口元と同じ歪み。読めてしまったことが、もう既に手遅れである合図のように思えた。
「行くぞ。ホームルーム、今日もあるって昨日の配布物に」
遼は凪人の腕を引っ張った。力は強くない。でも、引かれると、凪人はつい一歩出てしまう。遼の歩幅はいつも少し大きく、凪人はその半歩後ろを歩くことに慣れている。
商店街を抜けると、朝の学校がある。校門の脇で、掲示板の日付が白い数字のまま固まっている。張り紙は「今週の目標」と書き出され、箇条書きの二つ目で止まっていた。三つ目は書かれていない。空白は埋まらないまま固定されている。
保健室の窓に白いカーテンがかかり、光は朝の色のままだ。少しも傾かない。看板のクローバーの絵が色褪せる速度だけが、ゆっくり進んでいる気がした。
「健康観察の紙、昨日のまんまだな」
遼がぼやく。
「昨日、先生に出してなかったのかも」
凪人が言うと、遼は立ち止まった。
「お前、さっきから昨日昨日って、わざとなの?」
凪人は肩をすくめた。
「わざとでは、なかった」
言い終えて、自分の声が薄く震えていたことに気づく。遼がそれに気づかないふりをしているのもわかる。遼は昔から、相手の弱いところに目を落とすのが上手い。落としたふりをするのも、同じだけ上手い。
教室に入ると、全員の視線が窓の外に吸い寄せられていた。誰かが立ち上がってカーテンを開けている。
「今日も来た」
誰かが言った。
校庭の手前、フェンスの向こうを、葬列が横切っていた。白い粉を撒くみたいに、歩いたあとに灰が残る。運動場の白線が、列の足で少しずつ擦れて消えていく。
教師は黒板にチョークを当てたまま、静止したように動かない。チョークの先が黒板に白い粉の傷をひとつ付けたままで止まっている。
クラスの誰もが窓辺に寄って、言葉を失っていた。毎朝のことなのに、見続けずにいられないのは、そこに名前のない位牌が揺れているからだ。読めない名前ほど、目を凝らしてしまう。
遼が、凪人の耳元で囁いた。
「お前、死ぬ顔してるぞ」
台詞は軽い。けれど声は軽くなかった。
凪人は笑おうとした。笑いかたを探す。
「ありがとう、と言えた」
瞬間、遼の目がきょとんとした形になる。
「お礼を言ってるの? 俺、何した?」
「肩を、押してくれていた」
遼は耳たぶをかいた。照れ隠しをするときの癖だ。
「屋上、行くか。風、止まってるのに、上はなんか気持ちいいだろ」
凪人はうなずいた。うなずくことは、時制に関係ない。
階段を上る。踊り場に貼られたポスターは文化祭のままで、開催日は白いテープで剥がされ、下に何も書かれていない。遼がポケットからペンを出して書こうとして——やめた。
「先生に怒られてただろ」
凪人が言うと、遼は肩をすくめ、ペンをくるくる回した。
「怒られる昨日は、昨日に置いてきた」
「置いてきてしまっていた」
ふたりは少し笑った。笑うという行為が、まだどこかに残っていた。
屋上の扉は、重かったが開いた。風は止まったまま、だけど髪は動いた。凪人はそれが不思議だと思った。風が吹いていないのに、髪が微かに揺れる。世界のいくつかの法則だけが、まだ働いている。
柵に手を添える。鉄の冷たさは確かで、指先の温度が奪われる感覚もある。遼はその横で、空になったペットボトルを逆さにした。最後の一滴が、瓶の口に長い時間ぶら下がって、それから重力に気づいたみたいに落ちた。
「さっきのさ」
遼が言った。
「“昨日、君はきっと笑った”ってやつ。なんで“きっと”なんだよ。見てたなら“笑ってた”でいいじゃん」
凪人は空を見た。雲の切れ目に、薄く青が残っている。
「見ていなかった、かもしれないから」
「お前」
遼は苦笑して、凪人の背中を軽く叩いた。
「嘘つくとき、ちょっと顎が上がる。小二から変わってねえな」
凪人は頷いた。顎がまた上がりそうになるのを、意識して下げた。
「俺たち、いつから友達、だった?」
「なんだその面接みたいな質問」
「忘れていた、から」
沈黙が風の形をして二人の間に立った。遼は柵に額をつけ、下を覗いた。校庭に並ぶ白い線が、葬列の足跡に削られている。
「小五。転校してきたお前が、掃除の時間、バケツをこぼした俺を拭いた。雑巾が真っ黒になって、先生に“絵の具じゃない”って説明してた。俺は笑ってた。お前も笑ってた。そこから」
「思い出していた」
凪人は目を閉じた。濡れた雑巾の匂いと、薄い絵の具の匂いが鼻の奥に蘇る。
「昨日のことみたいだな」
遼が言って、すぐに言い直した。
「いや、お前的には昨日か」
冗談のつもりの言葉が、どこか痛い場所を撫でた。凪人は「うん」とだけ言った。言えた。肯定は時制を選ばない。
校庭の遠く、葬列が直角に曲がった。曲がる角度が、毎回ほんのすこしずれている。今日は昨日よりも、校舎に近い。列の最後尾ーー灰色のコートの青年が、屋上を見上げている気配がした。
遼はそれに気づかないふりをした。ふりは、もう癖だ。
「腹減った」
「食べていなかった」
「そう。朝、なんか胃がむかむかしてさ、保健室のベッドで二限まで寝てた。看護の先生、ずっと机に突っ伏してたけど。腕、だるそうだった」
「腕が、重かったのか」
「そう。重そうだった。お前、なんでわかるんだよ、いちいち」
凪人は答えない。代わりに柵越しに、保健室の窓の方角を見た。白いカーテンが、朝の色のまま揺れずにいる。もし手で触れたら、石みたいに硬いのかもしれない。光のくせに硬さを持つのは、世界が少しずつ後ろに巻き戻され、あらゆる運動が保存の向きに縛られているから。
列は、世界をゆっくり後ろへ引き戻すレールなのだと、唐突に理解が落ちてきた。
毎朝の儀式じゃない。軌道だ。あの黒い流れの上だけ、時間が逆向きに進んでいる。列が通った場所から、昨日がしみ出して広がる。
気づいた瞬間、脚のどこかが冷たくなった。膝から下の感覚が遅れる。遅れた感覚が追いつくまで、身体が自分のものじゃない感じがする。
「おい、顔色悪いぞ」
遼が覗き込む。
「大丈夫だった」
「過去形やめろ。今を言えよ」
遼は苛立ちと心配の間で声を揺らした。
凪人はうなずく。けれど、言葉は出ない。今を言おうとするたび、喉が固まってしまう。
遼は舌打ちしかけて、やめた。深呼吸して、肩で凪人を押した。
「ほら、しゃんとしろ」
その押す力に、凪人は救われた。押される未来が、いまここに生まれた気がしたからだ。
「ありがとう、と言えていた」
「だから誰に礼を言ってんの。俺?」
「うん、と言えた」
遼は少しだけ笑い、柵にもたれた。空は青くならない。けれど、遠くの雲が薄く裂けて、光が筋になって降りる。筋は途中で途切れ、地面に届かない。途中でやめた祈りの手紙みたいに。
屋上の扉の陰、コンクリートの上に小さな紙片が落ちていた。風は止まっているのに、紙片は端をめくろうとしている。凪人は拾い上げた。鉛筆の走り書きが、ところどころ消えかけている。
「読める?」
遼がのぞき込む。
紙には、短い文があった。
——追いつくな。
凪人は唇の内側を噛んだ。電柱の影の青年の口の動きと、まったく同じ言葉。
誰が書いたのか。わかっていた。わかっているからこそ、口に出せない。言葉にしてしまうと、未来の重さがいまに落ちてきて、屋上のコンクリートが割れそうだ。
「なんだ、これ」
遼が言った。
「落書きだった、かもしれない」
凪人の声は、自分でも頼りない。
遼は紙を取り上げ、くしゃっと握りつぶした。
「ビビらせやがって。行くぞ。三限、数学、出るだろ。俺、ノート借りるから」
「貸していた」
「お前のノートは永遠に白いな。図だけは綺麗に描くくせに。はい、動け、動け」
遼は軽口で空気を戻しながら、凪人の背中を押した。押されるたび、未来というものに指がかかる感じがした。手の届かない棚の上に載っている箱に、ほんの少しだけ指先が触れる。
階段を降りる途中、下から生徒指導の先生が上がってきて、ふたりを見て眉を吊り上げた——まま固まった。怒鳴り声の前の、息を吸い込む顔。時間が呼吸の途中で止まっている。
遼が手を振る。
「先生、こんにちは」
返事は来ない。来るはずの返事は、昨日のものとしてしか想像できない。
ふたりはすれ違い、廊下へ出た。窓の外を葬列が横切る角度が、また少し変わっている。体育館の影に、黒い流れが引っかかって、速度が落ちていた。遅くなればなるほど、列の輪郭がはっきりする。名前のない位牌の木目まで見える。
木目に一瞬、文字が浮かんだ気がした。凪人は足を止めた。
「どうした」
遼が振り返る。
「名前が、あった、気がした」
「誰の」
「読めなかった」
そのとき、スピーカーがひとつ、砂を噛むような音を立てた。放送室から、録音されたチャイムが遅れて流れ出す。いつもの開始のメロディー。けれど音の粒が角ばっている。メロディーの最後の音が出ないまま、廊下に切れ端がぶら下がる。
教室に戻ると、机の上に一枚ずつ配られていた白紙のプリントが、白紙のまま重なっていた。タイトルは印刷されているが、問一以降が抜けている。
「今日も白紙テストかよ」
誰かが笑い、誰かが本気で困っている声で「点、どうやって付けるの」と言った。
黒板の隅、先生がチョークで「連絡事項」と書きかけてやめた跡が残る。チョークは途中で折れて、下に白い欠片が転がっていた。欠片は落ちたのに、粉塵が舞い上がらない。空気が吸い込まないのだ。
遼は席に深く腰を下ろし、机の端を指の関節で叩いた。コツコツという音が、廊下の向こう側まで長く伸びていく。
「なあ、今日、どこまで戻ると思う」
「どこまで、だった?」
「質問も過去形か。めんどくさい仕様だな」
「仕様では、なかった」
遼は片頬を上げ、窓の外の列を見た。列は校庭の真ん中にさしかかり、直線をゆっくりと斜めに横切っている。二人三脚の白線、リレーのコース、サッカーのゴール。昨日の運動会の残骸が、列の足で擦れて消えていく。
「お前が言ってた“未来の自分”、見せてよ」
「見えて、いた」
「どこ」
凪人は窓を指差さず、黒板の上を指でなぞった。そこにあるはずの時間を、指先で探るように。
「電柱の影で、見ていた。追いつくな、と言っていた」
「口の動きで読んだのか。お前、天才かよ」
「天才では、なかった」
遼は笑い、でもすぐに顔を戻した。
「追いついたら、どうなるんだろ」
凪人は答えられない。代わりに胸の奥で、からん、と金属音が鳴った気がした。朝から聞こえていた、風鈴みたいな音。あれは風のせいじゃない。時間の継ぎ目が鳴っているのだと、いまなら言えた。けれど言葉にすると、継ぎ目が音をやめる気がして、凪人は黙った。
昼前、雲が窓の下まで降りてきた。運動場が海みたいに白くなり、列はその中に沈んでいく。
「昼、パン買いに行く?」
遼が言う。
「行っていた」
「またそれ。……でも、行くか。売店、パンが時間止まってても硬くならないの、奇跡だよな」
廊下を歩くと、掲示板の下に千切れたポスターが落ちていた。「献血のお知らせ」と赤い文字。日付は空欄のまま、ペンで薄く「いつでも」と書き足されている。誰が書いたかはわからない。優しさは匿名にする人ほど、擦り切れやすい。
売店前の廊下で、凪人は足を止めた。保健室の扉が少し開いていて、中から薬品の匂いがした。白衣の袖が椅子の背もたれに掛けられている。中は誰もいないのに、椅子の背もたれは、さっきまで誰かが座っていた形に温度を持っている。
「寄る?」
遼が聞く。
「寄って、いた」
ふたりで保健室に入る。
ベッドはきちんと整えられ、掛け布の角が折り返されている。窓際のカーテンは、やはり朝の光で染まったまま、硬い。
机の上に、リンゴがひとつ置かれていた。赤い。皮に、薄く刃物の線が入っている。剥こうとして、やめた跡。
「先生、どこ行ったんだ」
遼が呟く。
凪人はリンゴを手に持ってみた。重い。重心が少しずれている。
「昨日、先生はここにいた」
「だからお前、見てたの?」
「見えていなかった。でも、知っていた」
遼はため息をひとつつき、リンゴを取り返して、机の上に戻した。
「お前さ、自分のこと、怖くねえの?」
凪人は考えた。
「怖がって、いた」
遼は笑わなかった。
「俺は怖いよ。お前が遠くに行くのが。追いつくなって言われたなら、なおさら。追いつかれたら、お前、こっち側にいなくなる気がする」
その声の低さが、凪人の胸に沈んだ。重しになって、内側から支える。
「追いつかなかった」
「そうしろ」
遼は言いながら、扉の方に目をやった。誰かの気配が、廊下の向こうにあった気がしたからだ。
扉の隙間に、灰色のコートの裾が一瞬見えた。見えたと気づいた時には、もう何もなかった。
「なあ、もう、ついてくんなよ」
遼が廊下に向かって言った。誰に向かって、なのか、自分でもわかっていない顔で。
返事はない。けれど、空気がほんの少しだけやわらいだ気がした。
昼休み、屋上に戻ると、校庭を再び葬列が横切っていた。午前中に横切ったのよりも、角度がきつい。列の頭が、校舎に向かって斜めに寄ってくる。
「近いな」
遼が言う。
「近づいていた」
「世界、ほんとに戻ってんのかもな。時計、進まないし」
遼は両手を空に掲げて、何かをつかむ真似をした。空は掴めない。けれど、掴もうとする手は、未来に似ていた。
凪人はその手を見る。遼の手の甲に、薄く傷跡がある。小五のとき、ガラスで切った傷だ。いまだに線が残っている。
「直っていなかった」
「当たり前だ。俺の戦利品」
遼は笑った。
「お前の戦利品は?」
凪人は考えた。持っているもの。昨日から持って来てしまったもの。
ポケットを探ると、紙片が指に触れた。さっきの「追いつくな」。もう一枚、畳まれた小さな紙が出てきた。
——明日を持って逃げろ。
昨日、線路の向こうで握り潰したはずの文字が、別の紙に写されたみたいに現れる。逃げた明日は、逃げた先から声を上げるらしい。
遼が覗き込む。
「なにそれ。誰の字」
「俺、だった」
声にした瞬間、胸の内側で何かがきしんだ。自分の未来が、自分の手紙を自分に渡している。この循環の上を、列が通っている。レールの上に立てば、誰でも同じ方向に運ばれる。
「逃げるの?」
遼の声が、少し低くなる。
凪人は紙を折りたたみ、ポケットに戻した。
「逃げていた」
「どこへ」
「踏切の、向こうへ」
遼はしばらく黙っていたが、やがて息を吐いて、頷いた。
「なら、今日の最後まで一緒にいろ」
「最後まで、いた」
「それ、約束?」
凪人は遼の目を見た。遼の目は、いつも思っていることの半分しか言わない。その半分が、いつも身体のどこかで温度になっている。
「約束していた」
遼は笑い、それをよしとした。
午後、授業の代わりに体育館に集合することになった。校内放送が上手くいかないので、口伝えで広がっていく。体育館の床はワックスがけの途中で止まっていて、ツヤとマットの境界で光が立っていた。
全校生徒がバラバラに集まり、先生たちは前に立って何かを話している。けれどマイクはハウリングして、言葉がところどころ欠ける。
「本日……通学……安全のため……」
欠けた言葉の間を、皆のざわめきが埋める。そこでまた欠ける。
凪人は遼と並んで、列の端に立っていた。体育館の窓の向こう、グラウンドを葬列が再び横切っている。さっきよりも、もっと校舎寄りだ。
「何回、回るんだろ」
遼は指を折って数えた。
「朝で一周。午前で一周。今で三周目。次があれば四周目。四ってさ、縁起悪いって言うじゃん。死に音が近いから」
「縁起は、信じていなかった」
「俺も。けど、今はちょっと」
遼が言葉を切ったとき、体育館の扉が音を立てずに開いた。風はない。なのにカーテンがわずかに膨らみ、その形のまま止まる。
灰色のコートの青年が、扉の外にいた。
遠目にも口元がわかる。
追いつくな。
その形は、もう祈りの形をしていた。祈りは、叶うためにあるとは限らない。叶わないように祈ることも、ときどきある。
遼は凪人の手首を掴んだ。
「帰るぞ」
「どこへ、だった」
「俺の家。うち、母ちゃん昼までだし。見張りが少ない」
母という単語の出し方に、遼の慎重さがにじむ。凪人は頷いた。
下駄箱で靴を履き替え、校門を出る。通り雨の匂いはまだ残っていて、路面は薄く光っている。商店街を抜けると、遼の家のある住宅街に入る。庭の紫陽花が、咲きかけのまま止まっている。花びらの端が、紙の角みたいに鋭い。
遼の家の前、ポストに新聞が二日分重なって入っていた。上のやつは日付が薄い。インクの濃ささえ、時間に縛られる。
「ただいま」
遼が小さく言い、鍵を開ける。家の中は、炒め物の匂いが冷めた形のまま残っていた。
「座れよ。水、出す。氷、溶けねえけど」
遼は台所に行き、コップに水を入れて戻ってきた。氷は角が取れない。音も鳴らない。
「お前の母ちゃんは?」
「病院。しばらく帰ってこない」
遼はさらりと言って、テレビをつけた。ニュースキャスターの口が動いているのに、言葉が画面の下に字幕だけで現れる。音声は欠けた世界の外に置いてきたらしい。
字幕には、こう出ていた。
——葬列、今日も市内を巡回。時間に関する問い合わせが多数。市役所は……
そこから先が、画面の外に切れた。
「問い合わせ先がわからん」
遼が笑った。笑いながら、笑いの最後の音を飲んだ。
「お前、今日、泊まる?」
凪人は、答えようとして、喉が固まった。今を言うのは難しい。でも、答えは心の中で揺れていた。
「泊まって、いた」
遼はそれでよしとした。
「寝袋ある。俺が地震のときに買って、使ってないやつ」
「ありがとう、と言えた」
「だから礼、やめろって」
遼は笑って、廊下の奥へ寝袋を取りに行った。凪人は座ったまま、居間の時計を見上げた。針は六時で止まっている。秒針は、わずかに震えているように見えた。気のせいかもしれない。気のせいじゃないかもしれない。
窓の外、通りに影が流れた。葬列が、住宅街の道を通っている。こんなところまで来るのは、珍しい。
列の最後尾が、遼の家の前でほんの少しだけ速度を落とした。灰色のコートの青年が、こちらを見た。
追いつくな。
唇が形をつくる。それが、もはや警告ではなく、願いのように見えた。
「なに見てんの」
遼が寝袋を抱えて戻り、窓の外に目をやって、顔をしかめた。
「まただよ。あいつ、しつこい」
「俺、追いつかれて、いた」
「追いつかれてねえよ。ここにいるだろ」
遼は寝袋を投げ、凪人の頭を軽く小突いた。
「うちのルール。飯の前に、風呂。汗流せ。列の灰、家の中に落とすな」
灰——。
凪人は自分の袖を見た。袖口に細かい灰が付いている。はらうと、灰は舞わず、手の平で重くなる。
「風呂、借りて、いた」
「はいはい。シャンプーは左。俺の髪いい匂いすんだろ。俺の匂いにしてください、っていつも言ってんのはどこの誰でしたかね」
「言っていなかった」
「言ってたわ。昨日」
遼は笑い、背中で扉を押して洗面所に凪人を押し込んだ。扉が閉まる瞬間、遼の笑い声が薄くほどけて、代わりに短い息の音が混じった。笑いながら泣く直前のひと呼吸。凪人は聞かなかったふりをした。
シャワーの水は、出た。温度は変わらない。熱くも冷たくもない、一定の温度で、水だけが時間の外を流れてくる。髪に指を入れると、昨夜の灰が落ちた。排水口の金属が鈍く光っている。
鏡は曇らない。曇るという未来が、鏡には与えられていない。
鏡の中の自分は、昨日より少し痩せて見えた。頬の線が影になっている。
目を凝らすと、自分の背後に灰色のコートの裾が揺れた。振り向いても、誰もいない。
鏡の向こうだけに、未来が映る。
凪人は鏡を見据え、ゆっくりと口を動かした。
「追いつかなかった」
鏡の中の口は、たしかにそう言った。言い終えると胸の奥の弦が、少しだけ張りを取り戻した。
風呂から上がると、遼が焼きそばを作っていた。キャベツが半分の色で固まり、麺は湯気を途中まで上げたところで止まっている。フライパンからは匂いだけが正確に流れてくる。
「味はする。多分」
遼は割り箸を渡した。
「いただいて、いた」
「うん、まあ、いただけ」
ふたりで箸を動かす。麺は噛めた。噛むたび、口の中で昨日の塩分がほどける。
「さっきの、列がレールって話。お前の仮説、面白いな」
遼が唐突に言った。
凪人は驚いた。口に出していないと思っていたからだ。
「顔に書いてある。俺には読める。凪人フォント。世界が後ろへ行く。俺たちが前に出る。ぶつかる。ぶつかったら——」
「何かを、失っていた」
「そう。何を」
凪人は答えられない。答えのいくつかは胸の中に形を持っているのに、言葉が今を通らない。
窓の外を、列が横切った。四周目。葬列の先頭が、路地の角を曲がるとき、遼の家の表札が一瞬だけ黒布に隠れた。隠れた時間に、表札の木がわずかに若返ったように見えた。
列が去ると、表札はいつもより白く、すべすべになっていた。
夜が始まらないまま、時計は六時を指している。空は曇りの明るさを保ち続ける。凪人と遼は床に寝袋を広げ、向かい合って横になった。
「眠くなる?」
遼が囁く。
「眠って、いた」
「そっか。じゃあ、寝ろ」
遼の目は、天井の端を見ている。
「俺さ。昨日、笑ってなかったって言ったろ。保健室で、寝てたって。……あれ、寝てたのかな」
凪人は黙っている。
「夢を見てた。白い廊下。向こうから歩いてくるのが、お前で。お前が手に白い紙持ってて、俺にくれようとするんだけど、途中で紙が灰になって崩れる。俺、拾おうとして……拾えない。夢の中で、拾えないって、こんなに怖いんだって思った」
遼は笑おうとして、笑わなかった。
「お前は何見た?」
凪人は目を閉じた。
列の最後尾。灰色のコートの青年。鏡みたいな目。
追いつくな。
「何も、見ていなかった」
嘘を言うとき、顎が上がる。遼はそれを見て、何も言わなかった。
沈黙は長くならない。長くなる前に、外から音がした。鐘の音。葬列の鐘。
遼が跳ね起き、窓に駆け寄る。
「また来たのかよ。何周目だ」
凪人も起き上がった。
列は、今度は道を外れていた。歩道を越え、庭木の間を抜け、芝生を踏んで、まっすぐこの家の前庭へ入ってくる。
「嘘だろ」
遼の声が薄くなった。
列の先頭が門扉をくぐる。黒布の台車の車輪がわずかに止まり、押す人影の肩が無人のまま沈む。そして、ゆっくりと玄関の前で方向を変えた。
凪人は扉へ駆けよった。鍵がかかっている。鍵穴に手をかけると、金属が冷たい。
「開けるな」
遼が言った。
凪人は頷いた。開けない。開けられない。開けたら、今を言う必要が生まれる。これ以上、今を増やすのが怖い。
玄関の向こうで、何かが軋む音がした。台車の車輪が方向を変える音。
「帰れ」
遼が小さく叫んだ。
返事はない。
灰色のコートの青年が、ガラスの向こうに立っている。
遼は凪人の前に出て、両手を広げた。
「帰れ」
口の形だけで言う。その形が、朝の体育館の青年の形と重なる。
追いつくな、の反対。
——追いつけ。
誰に?
未来に。
遼は未来に追いつけと言っている。未来が、凪人から離れていかないように。
青年の口が動く。
追いつくな。
言葉がぶつかって、玄関のガラスが細かく震えた。
ガラスは割れない。割れるという未来が、まだ与えられていない。
列は、しばらく玄関の前で止まっていたが、やがて何事もなかったように方向を変え、門扉から出て行った。黒い流れが通り過ぎ、匂いだけが残った。香の煙の気配。
遼はその場に座り込んだ。
「怖かった」
凪人はうなずいた。
「怖がって、いた」
遼は笑って、額の汗を拭った。汗は乾かない。乾くという未来が足りない。
「なあ、明日って、ほんとにあるのかな」
凪人はポケットの紙を握った。
——明日を持って逃げろ。
「あった」
遼が顔を上げる。
「今、言えたじゃん」
凪人は、自分でも驚いた。
「あった、は過去形じゃない」
遼が笑う。
「でも、信じる。お前が言ったから」
遼は立ち上がり、窓の外を見た。列は遠くで角を曲がった。角は、昨日と同じ角度ではない。今日という言葉が、ほんの少しだけ、口に近づいてきた。
床に戻り、寝袋に滑り込む。天井の模様が、見慣れない星座のように見える。
「お前」
遼が寝袋の中から言う。
「俺が笑ってなかったこと、どうしてわかったのか、いつか教えろ」
凪人は目を閉じた。
「教えて、いた」
遼は「約束」とだけ言い、その言葉を枕にして目を閉じた。
凪人はしばらく起きていた。玄関の方から、微かな足音が聞こえた気がした。葬列ではない、誰かの一人分の足音。
電柱の影に佇む青年の、靴底の音。
追いつくな。
その声が、もう自分自身の声であることに、凪人は気づいていた。気づいてしまったことは、昨日になる。昨日は、たしかに積もる。
まぶたの裏で、列が校庭を横切る光景が繰り返し再生された。斜めの角度。白線の消失。世界がゆっくりと後ろへ引かれていく。
列は儀式ではない。レールだ。
そして俺たちは、その上を歩いていた。
歩きながら、手を伸ばせば、未来に触れるかもしれない距離に。
凪人は寝息の手前で、過去形と現在が触れる薄い瞬間を掴んだ気がした。
「ありがとう」
言えて、いた。
その言葉が、昨日に流れずに、ここに留まっている気がした。
紙の向こうの誰かへ。電柱の影の自分へ。柵の上で笑う遼へ。
ありがとう。
それだけは、時制を選ばない。
玄関のガラスが、夜でもないのに、外の影をうっすら映した。影はひとつ。灰色のコート。
追いつくな。
凪人は目を閉じた。
追いつかなかった。
そして、追いついていた。
矛盾は、明日への切符みたいに、ポケットの中で角張っていた。
まだ、眠れた。
眠りは、昨日の中にも、あったから。
そして——明日にも。




