第11話 河岸
川の音が、空気の奥から聞こえていた。
流れているのに、動いていない。
止まった世界の中で、水だけが“進もうとする”みたいに、ゆるやかにたゆたっていた。
凪人は堤防を歩いた。足元の草が枯れかけて、靴底にぱらぱらと音を立てる。風はない。空の灰色は昨日と同じ濃さで、太陽は影だけを落としていた。
その川は、沙織が消えた場所だった。
遼は先に立っていた。制服の裾が膝で揺れている。
白い輪の痕が、彼の手首に残っていた。
あの鐘を鳴らしたときの光の焼き跡。
「覚えてるか?」
遼が口を開いた。
「沙織がここで笑った日」
凪人はうなずいた。
「俺たちが、まだ何も知らなかったころだ」
「そうだな」
風のない空気の中で、二人の声だけが流れた。
川面は不思議な光を帯びていた。
風が吹かないのに、水面が小さく波打っている。
空を映しているようで、空とは違う。
底のほうから、光がにじむように揺れていた。
遼はしゃがみこみ、白い輪の痕を水に浸した。
冷たい音が立った。
その瞬間、水面が“逆立ち”するように動いた。
波紋が内側から押し返す。
まるで川が拒んでいるみたいに、遼の手首を押し戻した。
「まだ、拒まれてるな」
遼は笑う。
「沙織は怒ってる」
「怒ってる?」
「俺たちが順番を変えようとしてること。きっと見てる」
凪人は視線を落とした。
「……どうして分かる?」
「分かるさ。あいつ、昔から“最後まで聞かない”タイプだった」
遼の笑いは少しだけ震えていた。
橋の上に、青年が立っていた。
灰色のコートが風の代わりに川の光をはね返す。
彼は言葉を発しなかったが、視線で凪人に合図を送った。
——選べ。
誰の順番を変えるのか。
沙織の順番を、遼の順番を、それとも、自分の順番を。
胸の奥が焼けた。
凪人は立ち尽くす。
選ぶという言葉が、喉の奥でひっかかる。
それでも、口が勝手に動いた。
「選んで、いた」
自分でも驚くほど自然に、その言葉が出た。
気づけば、もうとっくに選んでいたのだ。
毎朝、葬列に混じること。
学校へ行かないこと。
母の目をまっすぐ見られないこと。
その全部が、選ばないふりをした選択だった。
青年の視線が鋭くなる。
遼は振り向かず、水面を見つめていた。
「なあ、凪人」
「……なんだ」
「順番ってさ、結局のところ、誰かが“終わらせる”ためにあるんだろうな」
「終わらせる?」
「そう。終わらせるやつがいなきゃ、世界は止まったままだ。俺たちがそれを繰り返してる」
凪人は何も言えなかった。
その沈黙を、遼が笑いで埋めた。
「俺が、先に行く」
「やめろ」
「もう決めた」
遼は靴を脱ぎ、裸足で川に足を入れた。
冷たいはずの水が、まるで逆流している。
遼の足を包み込み、押し返すように波が立った。
「沙織が呼んでる気がする」
「行くな!」
「いいんだ。俺が行けば、誰かが残れる」
「そんなの違う!」
「違わなくていい。正しいとか間違ってるとか、もうどうでもいい」
凪人は駆け寄って、遼の腕を掴んだ。
水面が強く反発して、二人の足元を濡らす。
凪人の手の中で、遼の体温が熱くなっていく。
「俺だって、怖いよ。でも、これしかない」
遼は振り向かない。
「俺が行く。お前は残れ」
「嫌だ!」
「お前、ちゃんと母さんに“ありがとう”って言えただろ」
凪人の喉が詰まった。
青年が橋の上で首を振っていた。
“止めても無駄だ”という合図だった。
川風が吹いた。
止まり木の方角から。
遠くの枝が揺れ、灰色の羽が舞う。
空の上で、鳩が一羽だけ羽を動かした。
遼の輪の痕が、川の中で光った。
水が逆流して、光を呑み込む。
その瞬間、葬列の音が町の向こうで鳴った。
鐘ではなく、足音のような規則正しい響き。
止まっていた列が、また動き出している。
凪人は全身で遼を引き上げようとした。
「お前が行ったら、誰も残らない!」
「違う。お前が残る」
遼は振り返った。
その瞳は、かつて沙織を見たときと同じ光を宿していた。
「俺が順番を変える。今度こそ、守れる気がする」
「守る?」
「沙織も、お前も」
その言葉を最後に、遼は笑った。
そして、一歩だけ前に出た。
水面が彼の足首を包み込み、沈むのではなく、吸い上げるように彼を押し上げた。
空気が歪む。
光が川底から噴き上がる。
遼の輪郭が白く染まっていく。
「遼!」
凪人の叫びが、空を裂いた。
その声に反応するように、川が一瞬だけ止まった。
水の流れが、息を吸い込むみたいに静止する。
次の瞬間、遼の姿が薄くなった。
青年が橋の上から、静かに見ていた。
「これが選択の代償だ」
凪人は顔を上げる。
「代償?」
「一つの順番を変えれば、一つの存在が消える。順番は場所じゃなく、意味の列だから」
「そんなの、ただの犠牲だ」
「違う。犠牲じゃない。彼が選んだ“歩幅”だ」
遼の足元から光が伸びる。
その光が川の流れを変えていく。
逆流していた水が、ゆっくりと本来の方向へ戻り始めた。
風が生まれた。
止まっていた木々の葉が、一瞬だけ震えた。
時間がまた“三秒”進んだ。
凪人は膝をついた。
水が冷たい。
だがその冷たさの中に、温もりが混ざっている。
遼の残した熱だった。
青年が橋を渡り、凪人の隣に降りてきた。
「お前が次に選ぶ番だ」
「俺は、もう選びたくない」
「それでも選ばされる。誰かが順番を変えようとした時点で、世界は動く。止めるか、進めるか、それも選択だ」
「……どうすればいい?」
青年は、川の流れを見つめたまま言った。
「忘れることを恐れるな。忘れなければ、次を守れない」
凪人は拳を握った。
手の甲の白い輪の痕が、遼と同じ形に輝いていた。
「忘れないよ。絶対に」
青年は首を振る。
「それじゃ、進めない」
風が吹いた。
止まり木の方から、細い羽が舞う。
灰色の羽は川の上を渡り、凪人の掌に落ちた。
それは遼の笑顔の欠片のように見えた。
写真の雨は降らなかった。
空は静かで、透明だった。
ただ、風がひとすじ吹き抜けた。
止まっていた世界が、三秒ぶん呼吸した。
凪人は立ち上がり、川を見下ろした。
水面に映る自分の姿が、ゆらゆらと揺れている。
その揺れの中に、誰かの影が一瞬混ざった。
——沙織。
声にならない名を呼んだ瞬間、影は消えた。
青年が背を向けた。
「次は、誰の順番を変える?」
凪人は答えなかった。
ただ、空を見上げた。
雲の間を縫うように、一羽の鳩が飛んでいく。
翼は動いている。
止まり木の鳥とは違う。
「もう……動いてる」
その言葉は、昨日ではなく、今の形で出た。
風が頬を撫でた。
涙が落ちた。
水面が、それを受け止めた。
川は、静かに流れていた。
沙織の笑い声も、遼の声も、もう聞こえない。
けれど、彼らがいた世界のかけらが、水の奥に確かに揺れている気がした。
凪人は立ち止まり、拳を胸に当てた。
「遼……俺、まだ選べないよ」
声は風に溶けた。
その風が止まり木のほうへ向かい、遠くの鐘を小さく鳴らした。
鐘の音はもう、怖くなかった。
水が流れ、空が明るくなる。
止まっていた世界は、また三秒だけ進んだ。
そのたびに、凪人の胸の中で何かが確かに動いていた。
忘れることと、守ることの境界を、歩きながら探しているように。




