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葬列通りの少年――未来の自分がいる列のうしろ  作者: 二条理|アコンプリス


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12/12

第十二章 うしろに誰もいない朝

 その翌日、僕はいつもより早く目を覚ました。

 目覚まし時計は鳴っていなかった。スマートフォンのアラームもまだ沈黙している。部屋のカーテンの隙間から、薄い朝の光が差し込んでいた。

 雨の音はしない。

 天井に滲みはない。

 机の上に置いた写真も、濡れていなかった。

 僕はしばらく布団の中で動けずにいた。

 何かが起きるのを待っていたのかもしれない。鈴の音。濡れた肩の人影。灰色のコートの男。昨日までなら、目を覚ました瞬間から、世界のどこかに葬列の気配があった。

 けれど、部屋は静かだった。

 静かすぎて、不安になった。

 起き上がり、机に向かう。

 写真立てなど使わず、ただ机の上に置いていた一枚の写真を手に取った。

 中学三年の雨の日。

 北沢川原の川沿い。

 僕と遼と、高瀬湊。

 三人が写っている。

 雨で濡れた制服。泥のついたズボン。少し強ばった僕の顔。泣いたあとをごまかすように笑っている遼。そんな遼の横で、高瀬は呆れたように口元を緩めている。

 写真の隅には、まだ雨の筋が残っていた。

 けれど、もう誰も滲んでいない。

 高瀬の顔は、はっきり写っている。

 僕は写真の裏を見た。

 昨日の夜、眠る前に自分で書いた文字がある。

 高瀬湊。

 北原遼。

 佐倉凪人。

 水瀬千紗。

 真柴悠斗。

 大野孝一。

 それから、商店街で呼んだ名前を思い出せる限り書いた。田辺修一、小宮晴美、古賀幸江、三原和夫、三原礼子、岡崎進、岡崎千代子、相馬健二。

 まだ足りない名前がある。

 たぶん、一生わからない名前もある。

 でも、空白のままにはしない。

 わからないものは、わからないものとして覚えておく。朝いちばんにカレーパンを買っていた人。水曜に湿布を買っていたおばあちゃん。夕方にコロッケを三つ買っていた男の子。化学の参考書を枕にして図書室で寝ていた先輩。

 名前がまだ届かなくても、その人がいた形だけは手放さない。

 そう決めた。

 僕は写真を鞄に入れた。

 階下へ降りると、母が台所に立っていた。いつものように味噌汁の匂いがして、炊飯器から白い湯気が上がっている。テレビでは、昨日の雨について天気予報士が首を傾げていた。

『局地的な雨雲が発生したと見られますが、気象レーダーには明確な反応がなく――』

 母はテレビを見ながら言った。

「変な天気だったのね、昨日」

「うん」

「あなたもずぶ濡れで帰ってきたし」

「うん」

「風邪ひいてない?」

「大丈夫」

 母は僕の顔を見た。

 何か言いたそうだった。

 昨日、僕はひどい顔で帰宅した。制服は濡れ、靴は泥だらけで、鞄の中には湿った写真と、知らない名前を書き連ねた紙が入っていた。母が心配しないはずがない。

 でも、僕は詳しい説明をしなかった。

 説明できなかった。

 葬列を見た。

 未来の自分に会った。

 名前を呼ばれなかった人たちが列に並んでいた。

 そう言ったところで、母は困るだけだろう。

 ただ、一つだけ話した。

 中学の同級生だった高瀬湊のことを思い出した、と。

 母は最初、そんな子いたかしら、と首を傾げた。

 けれど僕が写真を見せると、少しだけ表情を変えた。

 ああ、と言った。

 この子、見たことがある気がする、と。

 その程度だった。

 でも、それでよかった。

 高瀬は、少しずつ戻ってくる。

 たぶん一気には戻らない。町の全員が突然すべてを思い出すわけではない。けれど、誰かが写真を見て、誰かが名前を呼び、誰かが「ああ、そんな子がいた気がする」と言う。そのたびに、高瀬湊はこの世界に少しずつ輪郭を取り戻す。

 母は味噌汁をよそいながら言った。

「今日は学校行けるの?」

「行く」

「無理しなくてもいいのよ」

「大丈夫。行くって約束したから」

「誰と?」

 僕は少し迷ってから答えた。

「遼と」

 母は「ああ」と言った。

「北原くんね。昨日、連絡あったの?」

「うん。家に帰ったって」

「よかったわね」

「うん」

 本当に、よかった。

 昨夜、遼からメッセージが来たのは、二十三時を過ぎていた。

『家着いた』

 今度は本物だと、すぐにわかった。

 文面のあとに、ふざけた犬のスタンプがついていたからだ。以前と同じスタンプ。でも、昨日の夜に届いたそれは、妙に生きていた。

 僕は返信した。

『明日学校来る?』

 遼からすぐに返事が来た。

『行く』

 そのあと、少し間があって、

『明日の話するって約束したし』

 と届いた。

 僕は画面を見ながら、しばらく何も打てなかった。

 明日の話。

 未来の遼が言えなかった言葉。

 高瀬が遼に頼んだこと。

 僕たちが葬列の外へ出るために必要だったもの。

 僕は結局、

『じゃあ、明日』

 とだけ送った。

 遼からは、

『普通だな』

 と返ってきた。

 僕は、

『普通が一番むずいんだろ』

 と打った。

 既読がついたあと、遼から長い沈黙があった。

 そして最後に、

『それ俺の台詞っぽい』

 と来た。

 僕は少し笑った。

 朝食を食べ、制服に着替え、鞄を持つ。

 玄関を出る前に、母が言った。

「凪人」

「何?」

「いってらっしゃい」

 いつもの言葉だった。

 でも、その朝だけは少し違って聞こえた。

 名前を呼ばれる。

 それだけで、人はここにいられる。

「行ってきます」

 僕は答えた。

 外は晴れていた。

 道路は少し湿っていたが、昨日の雨の名残というより、夜露に近かった。空は薄い青で、雲は高い。通学路には、いつもの朝があった。

 自転車を押して、商店街へ向かう。

 角を曲がる前に、少しだけ足が止まった。

 葬列通り。

 僕らが冗談でそう呼んでいた商店街。

 昨日、そこに黒い服の人々が並んでいた。未来の僕が立っていた。高瀬が踏切の手前にいた。遼が二人に分かれ、僕自身も列に引き込まれかけた。

 今日は、どうなっているのか。

 心臓が少しだけ速くなる。

 僕は深く息を吸い、角を曲がった。

 商店街は、普通だった。

 パン屋のシャッターは半分開いていて、小宮晴美が店先の看板を出している。八百屋の田辺修一がトマトの箱を並べている。薬局の古賀幸江が店の前を掃いている。惣菜屋の三原和夫は換気扇のスイッチを入れ、三原礼子が揚げ物用のバットを準備していた。

 誰も喪服を着ていない。

 誰の肩も濡れていない。

 閉じた黒い傘もない。

 時計台は、七時五十四分を指していた。

 秒針が動いている。

 僕はそれを見上げ、しばらく立ち止まった。

「おはよう」

 声をかけられた。

 パン屋の小宮だった。

 僕は慌てて頭を下げた。

「おはようございます」

「昨日は大変だったね」

 僕は少し驚いた。

「覚えてるんですか」

 小宮は少し困ったように笑った。

「全部は覚えてないのよ。でも、何だか大勢で名前を呼んだ気がするの。変よね」

「変じゃないです」

「そう?」

「はい」

 小宮は店の奥から紙袋を一つ取ってきた。

「これ、北原くんに」

「遼に?」

「カレーパン。いつも二つ買っていくでしょう。昨日、誰かが言っていたのを思い出したの」

 僕は紙袋を受け取った。

 温かかった。

「ありがとうございます」

「もう一つはあなたに」

「僕ですか」

「佐倉くん、で合ってる?」

 胸の奥が少し熱くなった。

「はい。佐倉凪人です」

「よかった。昨日から、名前を間違えちゃいけない気がして」

 小宮は笑った。

 その笑顔を見て、僕は思った。

 葬列は消えた。

 でも、何かは残っている。

 恐怖ではなく、記憶として。

 僕は紙袋を鞄に入れ、商店街を進んだ。

 八百屋の田辺が僕に向かって手を上げた。

「おう、佐倉くん」

「おはようございます」

「北原くんに言っといてくれ。トマト嫌いでも食えって」

「何でですか」

「昨日、あいつがトマトは未来永劫食べないとか言ってた気がする」

 言いそうだと思った。

 僕は笑った。

「伝えます」

 薬局の古賀も、惣菜屋の三原夫婦も、僕に声をかけた。

 全員がすべてを覚えているわけではない。

 けれど、名前は残っていた。

 商店街は、葬列通りではなく、桜町商店街に戻っていた。

 踏切の手前まで来た時、僕はまた足を止めた。

 そこに高瀬湊がいた。

 そう思った。

 もちろん、誰もいない。

 線路の向こうには朝日が差している。遮断機は上がっていて、電車は来ていない。通勤客が何人か急ぎ足で通り過ぎるだけだ。

 でも、僕には高瀬がいた場所がわかった。

 踏切の手前。

 朝の光の少し手前。

 そこに、彼は立っていた。

 僕は小さく言った。

「高瀬湊」

 風が吹いた。

 返事はない。

 けれど、どこかで誰かが少し笑ったような気がした。

 学校へ着くと、昇降口の前に遼がいた。

 昨日の夜のメッセージ通り、本当に来ていた。

 制服は少しよれ、髪には寝癖が残っている。目の下に薄いクマがあった。たぶん、ほとんど眠れなかったのだろう。それでも、遼はそこに立っていた。

 彼は僕を見るなり、片手を上げた。

「おはよう」

「おはよう」

「普通だな」

「普通だな」

「普通ってすごいな」

「うん」

 僕は鞄から紙袋を取り出した。

「小宮さんから」

「何それ」

「カレーパン」

 遼は袋を受け取り、中を覗いた。

「二つある」

「一つは僕の」

「じゃあ何で俺に渡した」

「お前が分けろよ」

「俺が?」

「いつもそうしてるだろ」

 遼は少し黙った。

 そして、紙袋から一つ取り出し、僕に押しつけた。

「ほら」

「ありがとう」

「別に」

 彼はもう一つを持ったまま、すぐには食べなかった。

「昨日さ」

「うん」

「母親と話した」

 僕は遼を見る。

「どうだった」

「めちゃくちゃ泣かれた」

「おばさんが?」

「うん。俺も泣いた」

「そうか」

「進路のことは、今すぐ決めなくていいって言われた」

「うん」

「でも、いつかは決めろとも言われた」

「それはそうだろ」

「だよな」

 遼は笑った。

 軽い笑いではなかった。

 でも、無理をした笑いでもなかった。

「俺、どこにも行きたくないって書いたんだよな」

「うん」

「今も、正直あんまりどこにも行きたくない」

「うん」

「でも、明日は学校来た」

 僕は頷いた。

「来たな」

「それで十分じゃね?」

「今日のところは」

「採点厳しいな」

「明日も来いよ」

「水瀬みたいなこと言うな」

「言われた方がいい」

 遼は口を尖らせた。

 その時、千紗が昇降口へやってきた。

 彼女は遼を見るなり、足を止めた。

「来たんだ」

「来ました」

「えらい」

「子ども扱い?」

「昨日の北原を見たあとだと、登校できただけでえらい」

「それ、褒めてる?」

「褒めてる」

 千紗は本気だった。

 遼もそれがわかったのか、少しだけ目を逸らした。

「ありがと」

「聞こえない」

「ありがとう」

「よし」

 千紗は頷いた。

 遼は困ったように笑った。

 その横に、真柴がやってきた。

「朝から何の会?」

「北原が学校に来てえらい会」

「何それ。俺も来たけど」

「真柴もえらい」

 千紗が言うと、真柴は少し照れたように頭を掻いた。

「いや、別に」

 遼がすぐに言った。

「真柴は消しゴム落とさなかったらえらい」

「お前、本当にそのネタ引っ張るな」

「覚えやすいから」

「記憶の杭にするな」

 僕たちは少し笑った。

 笑い声が、昇降口に響いた。

 その音が、あまりにも普通で、少し泣きそうになった。

 教室に入ると、クラスメイトたちが一斉にこちらを見た。

 昨日、全員で名前を呼んだ教室。

 机は乾いている。

 床にも水滴はない。

 窓の外にも、葬列は見えない。

 それでも、黒板の端に、まだ名前が残っていた。

 北原遼。

 高瀬湊。

 水瀬千紗。

 真柴悠斗。

 佐倉凪人。

 大野孝一。

 誰も消していなかった。

 遼が黒板を見て、少しだけ目を伏せた。

「まだある」

「消す?」

 僕が訊くと、遼は首を横に振った。

「いや、今日はこのままで」

 千紗も頷いた。

「消さない方がいい」

 真柴が言った。

「俺の名前もあるしな」

「そこ?」

「大事だろ」

 たしかに大事だった。

 名前がある。

 それだけで、人はそこにいられる。

 朝のホームルームで、大野はいつも通り出席を取った。

「佐倉凪人」

「はい」

「北原遼」

「はい」

「水瀬千紗」

「はい」

「真柴悠斗」

「はい」

 一人ずつ名前が呼ばれる。

 誰も飛ばされない。

 誰も滲まない。

 僕はその当たり前に、胸の奥が熱くなるのを感じた。

 出席を取り終えると、大野は黒板の名前を見た。

 そして、チョークを手に取った。

 消すのかと思った。

 違った。

 彼はその横に、もう一つ名前を書いた。

 高瀬湊。

 すでに書かれていた名前の下に、改めて、丁寧に。

 教室が静まった。

 大野は言った。

「この名前について、全員がすべてを覚えているわけではないと思う」

 誰も喋らなかった。

「私も、まだ曖昧だ。記録も確認する。中学にも問い合わせる。何が事実で、何が記憶の混乱なのか、整理しなければならない」

 大野はそこで一度言葉を切った。

「だが、昨日、私たちはこの名前を呼んだ。なら、少なくとも今日、ここで消す必要はない」

 遼が机の下で拳を握っているのが見えた。

 千紗はまっすぐ黒板を見ていた。

 真柴はいつになく真面目な顔をしていた。

 僕は、高瀬湊という文字を見つめた。

 その名前は、もう滲んでいなかった。

 授業は、普通に始まった。

 それが、ひどく奇妙だった。

 現代文の教師が来て、教科書を開かせる。数学の小テストが返され、英語の教師が宿題の未提出者を叱る。昼休みには購買のパンが売り切れ、真柴が本当に消しゴムを落として遼に笑われた。

 普通の日常。

 けれど、完全には元に戻らない日常。

 遼は何度か、何かを言いかけてやめた。

 千紗はそんな遼を見ていた。

 僕も見ていた。

 以前なら、遼が笑えば安心していた。もう大丈夫だと思っていた。

 今は違う。

 笑ったからといって、大丈夫とは限らない。

 大丈夫かどうかは、聞かなければわからない。

 昼休み、僕たちは屋上へ行った。

 立入禁止の屋上。

 昨日までなら、鍵がかかっていたはずの扉は開いていた。大野に見つかれば怒られるだろうが、今日は少しだけ許される気がした。いや、許されなくても、怒られればいいと思った。

 屋上は晴れていた。

 雨の跡はない。

 校庭には体育の授業を受ける生徒たちがいて、遠くには商店街の屋根が見える。踏切も、駅も、北沢川原へ向かう線路も見えた。

 遼はフェンスにもたれた。

「昨日、ここで俺、泣いたんだっけ」

「うん」

「忘れていい?」

「駄目」

 千紗が即答した。

「厳しい」

「忘れなくていいけど、毎日思い出さなくてもいい」

 千紗は少しだけ柔らかい声で言った。

「必要な時に思い出せばいい」

 遼は黙った。

 その言葉は、僕にも響いた。

 忘れないことは、毎日痛み続けることではない。

 必要な時に、名前を呼べるようにしておくこと。

 それがたぶん、覚えているということなのだ。

 真柴がフェンス越しに校庭を見下ろした。

「高瀬って、どんなやつだったんだ」

 遼が答えた。

「字がきれい」

「それは聞いた」

「口が悪い」

「それも何となく聞いた」

「俺より頭がいい」

「それはだいたいの人がそうでは?」

「真柴、今日ちょいちょい刺してくるな」

「事実だろ」

 遼は笑った。

 それから、少し真面目な顔になった。

「あと、危ない時に一番先に動くやつだった」

 僕は頷いた。

「うん」

「だから消えた」

 遼の声が低くなる。

「そういうやつが消えるの、やっぱり納得いかない」

「うん」

「でも、俺が代わりに消えればいいっていうのも、たぶん違う」

「違う」

 千紗が言った。

 遼は彼女を見た。

「強いな、水瀬は」

「強くない」

「強いよ」

「私は、北原みたいに笑って誤魔化すのが下手なだけ」

「それは強いって言うんじゃない?」

「うるさい」

 遼は少し笑った。

 それから、僕を見た。

「凪人」

「何」

「明日の話していい?」

 僕は頷いた。

「いいよ」

「明日も学校来る」

「普通だな」

「普通が一番むずいんだよ」

 プロットの中にあったような台詞を、遼は本当に言った。

 僕は笑った。

 千紗も少し笑った。

 真柴は「それ名言っぽく言うほどか?」と呟いた。

 遼は真柴に向かって、「じゃあお前の明日は?」と訊いた。

「俺?」

「明日の話」

「消しゴムを落とさない」

「小さいな」

「普通が一番むずいんだろ」

「使い方が雑」

 千紗が言った。

「私は、北原が本当に来るか確認する」

「怖い」

「佐倉は?」

 遼が僕を見る。

 僕は少し考えた。

 明日の話。

 未来の遼がしたかった話。

 高瀬が遼に頼んだ話。

 昨日に閉じ込められた未来の僕が、持てなかったもの。

「僕は」

 言葉を探す。

「明日、高瀬のことを調べる」

 遼が真面目な顔になった。

「うん」

「中学の記録とか、写真とか。大野先生も動いてくれると思う。高瀬の家族がどうなっているのかも、わかる範囲で」

「うん」

「それから、商店街の人たちにもお礼を言う」

「うん」

「あと」

 僕は少し迷った。

「未来の僕のことも、忘れない」

 遼は黙った。

 千紗も、真柴も何も言わなかった。

「あの人は、失敗した昨日の僕だった。でも、なかったことにはしたくない。あの人がいたから、僕たちは失敗を避けられた。だから」

 遼が頷いた。

「覚えよう」

「うん」

「名前は?」

 千紗が訊いた。

 僕は答えた。

「佐倉凪人」

「同じじゃん」

 真柴が言う。

「同じでいい」

 僕はフェンスの向こうの空を見た。

「同じ名前だから、忘れやすい。でも、同じ名前だから、覚えていられる」

 風が吹いた。

 屋上の隅に、小さな水滴が一つ残っているのが見えた。

 雨など降っていない。

 僕は近づいた。

 水滴は、コンクリートの上に丸く光っていた。

 その中に、灰色のコートの男が映っているような気がした。

 でも、瞬きをすると、ただの水になった。

 指で触れる。

 冷たくない。

 朝の光で少し温かくなっていた。

 放課後、大野に屋上にいたことがばれて、僕たちはまとめて職員室へ呼ばれた。

 当然、怒られた。

 葬列だの名前だのとは関係なく、屋上は立入禁止だと言われた。遼は「世界を救ったあとなので情状酌量を」と言いかけ、千紗に足を踏まれた。真柴は「俺は巻き込まれただけです」と言って、三人に同時に睨まれた。

 大野はため息をついた。

「まったく」

 それから、少しだけ表情を緩めた。

「全員、明日も来い」

 その言葉だけは、叱責ではなかった。

 僕たちは頷いた。

 学校を出たのは、夕方だった。

 商店街を通って帰る。

 遼と千紗と真柴も一緒だった。途中で真柴は自分の家の方へ曲がり、「明日消しゴム落としたら名前呼んでくれ」と言って帰っていった。

 遼が言った。

「あいつ、何か変な方向に慣れたな」

「真柴らしい」

 千紗が言う。

「佐倉も大概だよ」

「僕?」

「自覚ないんだ」

「何の?」

「何でも背負おうとするところ」

 僕は黙った。

 千紗は続けた。

「また列に並びそうになったら、名前呼ぶから」

「ありがとう」

「ありがとうじゃなくて、並ばないで」

「うん」

 遼が横から言った。

「俺も呼ぶ」

「お前も並ぶな」

「はい」

 遼は素直に頷いた。

 商店街の踏切前で、僕たちは立ち止まった。

 朝、高瀬がいた場所。

 夕方の踏切は普通だった。遮断機が下り、電車が通る。会社員が待ち、自転車の中学生がブレーキに手をかけている。誰も濡れていない。誰も黒い服を着ていない。

 電車が通り過ぎると、遮断機が上がった。

 向こう側には、夕日が差している。

 遼が小さく言った。

「湊」

 僕も続けた。

「高瀬湊」

 千紗も。

「高瀬湊」

 踏切の向こうで、風が吹いた。

 返事はない。

 でも、それでよかった。

 高瀬はもう、返事を求めるために名前を呼ばれる存在ではない。

 僕たちが忘れないために呼ぶ。

 それでいい。

 遼は踏切を渡る前に、僕を見た。

「凪人」

「何」

「昨日までのこと、夢じゃないよな」

「うん」

「でも、そのうち薄れるのかな」

「薄れると思う」

「いいのか、それ」

「薄れても、なくならなければいい」

 遼は少し考え、頷いた。

「そっか」

「必要な時に、呼べばいい」

「名前を?」

「うん」

 遼は夕日の中で笑った。

「じゃあ、凪人」

「何」

「明日な」

 僕は頷いた。

「明日」

 千紗が言った。

「明日、遅刻したら許さない」

「水瀬、明日が強すぎる」

「北原が弱すぎる」

「反論できない」

 二人は並んで歩き出した。

 僕は少し後ろを歩いた。

 葬列の最後尾ではない。

 二人の背中を見ながら、同じ方向へ歩いているだけだった。

 ふと、ショーウィンドウに自分の姿が映った。

 濡れていない制服。

 鞄を肩にかけた高校生。

 その後ろに、灰色のコートの男はいない。

 黒い服の列もない。

 僕は立ち止まり、ガラスの中の自分を見た。

「佐倉凪人」

 小さく名前を呼んだ。

 ガラスの中の僕も、同じ口の形をした。

 そのうしろには、誰もいなかった。

 夜、僕は机に向かい、ノートを開いた。

 今日あったことを全部書こうとした。

 けれど、すべてを書くには言葉が足りなかった。

 だから、まず名前を書いた。

 北原遼。

 高瀬湊。

 水瀬千紗。

 真柴悠斗。

 大野孝一。

 小宮晴美。

 田辺修一。

 古賀幸江。

 三原和夫。

 三原礼子。

 岡崎進。

 岡崎千代子。

 相馬健二。

 そして、佐倉凪人。

 最後に、もう一度同じ名前を書いた。

 佐倉凪人。

 失敗した昨日の僕のために。

 それから、ページの下に短く書いた。

 葬列の最後尾には、もう誰もいなかった。

 書いた瞬間、窓の外で小さな音がした。

 鈴ではない。

 風が、物干し竿に当たっただけだった。

 僕はカーテンを開けた。

 夜の住宅街が見える。

 街灯。

 乾いた道路。

 遠くの踏切の光。

 雨は降っていない。

 窓ガラスにも、水滴はなかった。

 僕は机に戻り、ノートを閉じた。

 明日、学校へ行く。

 遼も来る。

 千紗も来る。

 真柴はたぶん消しゴムを落とす。

 大野は僕たちを叱る。

 高瀬湊の名前は黒板の端に残っているかもしれないし、消されているかもしれない。でも、僕たちの中には残っている。

 未来の僕のことも。

 未来の遼のことも。

 全部を毎日思い出す必要はない。

 でも、忘れない。

 必要な時に名前を呼べるようにしておく。

 それが、葬列の外を歩くということなのだと思った。

 布団に入る前、スマートフォンが震えた。

 遼からだった。

『明日、購買寄る?』

 僕は返信した。

『行く』

『カレーパン?』

『たぶん』

『普通だな』

『普通が一番むずいんだろ』

 少し間が空いた。

『それ、俺の台詞』

 僕は笑った。

『明日、直接言え』

 既読がつく。

 返事。

『了解』

 そのあと、もう一通。

『おやすみ、凪人』

 僕は少しだけ画面を見つめた。

 名前を呼ばれる。

 それだけで、胸の奥が温かくなる。

 僕は返信した。

『おやすみ、遼』

 送信して、スマートフォンを伏せた。

 部屋の電気を消す。

 暗闇の中で、時計の秒針が動いている。

 一秒。

 また一秒。

 時間は止まらない。

 昨日に閉じ込められた僕は、もういない。

 明日は、まだ見えない。

 だからこそ、そこへ行ける。

 僕は目を閉じた。

 どこか遠くで、踏切の音がした。

 カン、カン、カン。

 それは葬列の音ではなかった。

 ただ、電車が夜の町を通り過ぎていく音だった。

 了




 ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました。


 この物語は、「名前を呼ぶ」という、あまりにも当たり前の行為について書いた作品です。


 人は、誰かに名前を呼ばれることで、そこにいることを確かめられるのかもしれません。

 反対に、誰からも呼ばれなくなったとき、その人は生きていても、少しずつ世界の外側へ押し出されてしまうのかもしれません。


 凪人、遼、高瀬、千紗、真柴、大野先生。

 彼らはみんな、誰かを助けたいと思っていました。けれど、誰か一人だけが背負えばいいわけではなく、誰か一人だけが覚えていればいいわけでもありません。


 忘れないことは、ひとりで抱え続けることではなく、必要なときに名前を呼べるようにしておくことなのだと思います。


 もしこの物語の中で、誰か一人でも心に残る人物がいたなら、その名前を少しだけ覚えていていただけると嬉しいです。


 評価、ブックマーク、感想などで応援していただけると、今後の創作の大きな励みになります。


 最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。

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