第十二章 うしろに誰もいない朝
その翌日、僕はいつもより早く目を覚ました。
目覚まし時計は鳴っていなかった。スマートフォンのアラームもまだ沈黙している。部屋のカーテンの隙間から、薄い朝の光が差し込んでいた。
雨の音はしない。
天井に滲みはない。
机の上に置いた写真も、濡れていなかった。
僕はしばらく布団の中で動けずにいた。
何かが起きるのを待っていたのかもしれない。鈴の音。濡れた肩の人影。灰色のコートの男。昨日までなら、目を覚ました瞬間から、世界のどこかに葬列の気配があった。
けれど、部屋は静かだった。
静かすぎて、不安になった。
起き上がり、机に向かう。
写真立てなど使わず、ただ机の上に置いていた一枚の写真を手に取った。
中学三年の雨の日。
北沢川原の川沿い。
僕と遼と、高瀬湊。
三人が写っている。
雨で濡れた制服。泥のついたズボン。少し強ばった僕の顔。泣いたあとをごまかすように笑っている遼。そんな遼の横で、高瀬は呆れたように口元を緩めている。
写真の隅には、まだ雨の筋が残っていた。
けれど、もう誰も滲んでいない。
高瀬の顔は、はっきり写っている。
僕は写真の裏を見た。
昨日の夜、眠る前に自分で書いた文字がある。
高瀬湊。
北原遼。
佐倉凪人。
水瀬千紗。
真柴悠斗。
大野孝一。
それから、商店街で呼んだ名前を思い出せる限り書いた。田辺修一、小宮晴美、古賀幸江、三原和夫、三原礼子、岡崎進、岡崎千代子、相馬健二。
まだ足りない名前がある。
たぶん、一生わからない名前もある。
でも、空白のままにはしない。
わからないものは、わからないものとして覚えておく。朝いちばんにカレーパンを買っていた人。水曜に湿布を買っていたおばあちゃん。夕方にコロッケを三つ買っていた男の子。化学の参考書を枕にして図書室で寝ていた先輩。
名前がまだ届かなくても、その人がいた形だけは手放さない。
そう決めた。
僕は写真を鞄に入れた。
階下へ降りると、母が台所に立っていた。いつものように味噌汁の匂いがして、炊飯器から白い湯気が上がっている。テレビでは、昨日の雨について天気予報士が首を傾げていた。
『局地的な雨雲が発生したと見られますが、気象レーダーには明確な反応がなく――』
母はテレビを見ながら言った。
「変な天気だったのね、昨日」
「うん」
「あなたもずぶ濡れで帰ってきたし」
「うん」
「風邪ひいてない?」
「大丈夫」
母は僕の顔を見た。
何か言いたそうだった。
昨日、僕はひどい顔で帰宅した。制服は濡れ、靴は泥だらけで、鞄の中には湿った写真と、知らない名前を書き連ねた紙が入っていた。母が心配しないはずがない。
でも、僕は詳しい説明をしなかった。
説明できなかった。
葬列を見た。
未来の自分に会った。
名前を呼ばれなかった人たちが列に並んでいた。
そう言ったところで、母は困るだけだろう。
ただ、一つだけ話した。
中学の同級生だった高瀬湊のことを思い出した、と。
母は最初、そんな子いたかしら、と首を傾げた。
けれど僕が写真を見せると、少しだけ表情を変えた。
ああ、と言った。
この子、見たことがある気がする、と。
その程度だった。
でも、それでよかった。
高瀬は、少しずつ戻ってくる。
たぶん一気には戻らない。町の全員が突然すべてを思い出すわけではない。けれど、誰かが写真を見て、誰かが名前を呼び、誰かが「ああ、そんな子がいた気がする」と言う。そのたびに、高瀬湊はこの世界に少しずつ輪郭を取り戻す。
母は味噌汁をよそいながら言った。
「今日は学校行けるの?」
「行く」
「無理しなくてもいいのよ」
「大丈夫。行くって約束したから」
「誰と?」
僕は少し迷ってから答えた。
「遼と」
母は「ああ」と言った。
「北原くんね。昨日、連絡あったの?」
「うん。家に帰ったって」
「よかったわね」
「うん」
本当に、よかった。
昨夜、遼からメッセージが来たのは、二十三時を過ぎていた。
『家着いた』
今度は本物だと、すぐにわかった。
文面のあとに、ふざけた犬のスタンプがついていたからだ。以前と同じスタンプ。でも、昨日の夜に届いたそれは、妙に生きていた。
僕は返信した。
『明日学校来る?』
遼からすぐに返事が来た。
『行く』
そのあと、少し間があって、
『明日の話するって約束したし』
と届いた。
僕は画面を見ながら、しばらく何も打てなかった。
明日の話。
未来の遼が言えなかった言葉。
高瀬が遼に頼んだこと。
僕たちが葬列の外へ出るために必要だったもの。
僕は結局、
『じゃあ、明日』
とだけ送った。
遼からは、
『普通だな』
と返ってきた。
僕は、
『普通が一番むずいんだろ』
と打った。
既読がついたあと、遼から長い沈黙があった。
そして最後に、
『それ俺の台詞っぽい』
と来た。
僕は少し笑った。
朝食を食べ、制服に着替え、鞄を持つ。
玄関を出る前に、母が言った。
「凪人」
「何?」
「いってらっしゃい」
いつもの言葉だった。
でも、その朝だけは少し違って聞こえた。
名前を呼ばれる。
それだけで、人はここにいられる。
「行ってきます」
僕は答えた。
外は晴れていた。
道路は少し湿っていたが、昨日の雨の名残というより、夜露に近かった。空は薄い青で、雲は高い。通学路には、いつもの朝があった。
自転車を押して、商店街へ向かう。
角を曲がる前に、少しだけ足が止まった。
葬列通り。
僕らが冗談でそう呼んでいた商店街。
昨日、そこに黒い服の人々が並んでいた。未来の僕が立っていた。高瀬が踏切の手前にいた。遼が二人に分かれ、僕自身も列に引き込まれかけた。
今日は、どうなっているのか。
心臓が少しだけ速くなる。
僕は深く息を吸い、角を曲がった。
商店街は、普通だった。
パン屋のシャッターは半分開いていて、小宮晴美が店先の看板を出している。八百屋の田辺修一がトマトの箱を並べている。薬局の古賀幸江が店の前を掃いている。惣菜屋の三原和夫は換気扇のスイッチを入れ、三原礼子が揚げ物用のバットを準備していた。
誰も喪服を着ていない。
誰の肩も濡れていない。
閉じた黒い傘もない。
時計台は、七時五十四分を指していた。
秒針が動いている。
僕はそれを見上げ、しばらく立ち止まった。
「おはよう」
声をかけられた。
パン屋の小宮だった。
僕は慌てて頭を下げた。
「おはようございます」
「昨日は大変だったね」
僕は少し驚いた。
「覚えてるんですか」
小宮は少し困ったように笑った。
「全部は覚えてないのよ。でも、何だか大勢で名前を呼んだ気がするの。変よね」
「変じゃないです」
「そう?」
「はい」
小宮は店の奥から紙袋を一つ取ってきた。
「これ、北原くんに」
「遼に?」
「カレーパン。いつも二つ買っていくでしょう。昨日、誰かが言っていたのを思い出したの」
僕は紙袋を受け取った。
温かかった。
「ありがとうございます」
「もう一つはあなたに」
「僕ですか」
「佐倉くん、で合ってる?」
胸の奥が少し熱くなった。
「はい。佐倉凪人です」
「よかった。昨日から、名前を間違えちゃいけない気がして」
小宮は笑った。
その笑顔を見て、僕は思った。
葬列は消えた。
でも、何かは残っている。
恐怖ではなく、記憶として。
僕は紙袋を鞄に入れ、商店街を進んだ。
八百屋の田辺が僕に向かって手を上げた。
「おう、佐倉くん」
「おはようございます」
「北原くんに言っといてくれ。トマト嫌いでも食えって」
「何でですか」
「昨日、あいつがトマトは未来永劫食べないとか言ってた気がする」
言いそうだと思った。
僕は笑った。
「伝えます」
薬局の古賀も、惣菜屋の三原夫婦も、僕に声をかけた。
全員がすべてを覚えているわけではない。
けれど、名前は残っていた。
商店街は、葬列通りではなく、桜町商店街に戻っていた。
踏切の手前まで来た時、僕はまた足を止めた。
そこに高瀬湊がいた。
そう思った。
もちろん、誰もいない。
線路の向こうには朝日が差している。遮断機は上がっていて、電車は来ていない。通勤客が何人か急ぎ足で通り過ぎるだけだ。
でも、僕には高瀬がいた場所がわかった。
踏切の手前。
朝の光の少し手前。
そこに、彼は立っていた。
僕は小さく言った。
「高瀬湊」
風が吹いた。
返事はない。
けれど、どこかで誰かが少し笑ったような気がした。
学校へ着くと、昇降口の前に遼がいた。
昨日の夜のメッセージ通り、本当に来ていた。
制服は少しよれ、髪には寝癖が残っている。目の下に薄いクマがあった。たぶん、ほとんど眠れなかったのだろう。それでも、遼はそこに立っていた。
彼は僕を見るなり、片手を上げた。
「おはよう」
「おはよう」
「普通だな」
「普通だな」
「普通ってすごいな」
「うん」
僕は鞄から紙袋を取り出した。
「小宮さんから」
「何それ」
「カレーパン」
遼は袋を受け取り、中を覗いた。
「二つある」
「一つは僕の」
「じゃあ何で俺に渡した」
「お前が分けろよ」
「俺が?」
「いつもそうしてるだろ」
遼は少し黙った。
そして、紙袋から一つ取り出し、僕に押しつけた。
「ほら」
「ありがとう」
「別に」
彼はもう一つを持ったまま、すぐには食べなかった。
「昨日さ」
「うん」
「母親と話した」
僕は遼を見る。
「どうだった」
「めちゃくちゃ泣かれた」
「おばさんが?」
「うん。俺も泣いた」
「そうか」
「進路のことは、今すぐ決めなくていいって言われた」
「うん」
「でも、いつかは決めろとも言われた」
「それはそうだろ」
「だよな」
遼は笑った。
軽い笑いではなかった。
でも、無理をした笑いでもなかった。
「俺、どこにも行きたくないって書いたんだよな」
「うん」
「今も、正直あんまりどこにも行きたくない」
「うん」
「でも、明日は学校来た」
僕は頷いた。
「来たな」
「それで十分じゃね?」
「今日のところは」
「採点厳しいな」
「明日も来いよ」
「水瀬みたいなこと言うな」
「言われた方がいい」
遼は口を尖らせた。
その時、千紗が昇降口へやってきた。
彼女は遼を見るなり、足を止めた。
「来たんだ」
「来ました」
「えらい」
「子ども扱い?」
「昨日の北原を見たあとだと、登校できただけでえらい」
「それ、褒めてる?」
「褒めてる」
千紗は本気だった。
遼もそれがわかったのか、少しだけ目を逸らした。
「ありがと」
「聞こえない」
「ありがとう」
「よし」
千紗は頷いた。
遼は困ったように笑った。
その横に、真柴がやってきた。
「朝から何の会?」
「北原が学校に来てえらい会」
「何それ。俺も来たけど」
「真柴もえらい」
千紗が言うと、真柴は少し照れたように頭を掻いた。
「いや、別に」
遼がすぐに言った。
「真柴は消しゴム落とさなかったらえらい」
「お前、本当にそのネタ引っ張るな」
「覚えやすいから」
「記憶の杭にするな」
僕たちは少し笑った。
笑い声が、昇降口に響いた。
その音が、あまりにも普通で、少し泣きそうになった。
教室に入ると、クラスメイトたちが一斉にこちらを見た。
昨日、全員で名前を呼んだ教室。
机は乾いている。
床にも水滴はない。
窓の外にも、葬列は見えない。
それでも、黒板の端に、まだ名前が残っていた。
北原遼。
高瀬湊。
水瀬千紗。
真柴悠斗。
佐倉凪人。
大野孝一。
誰も消していなかった。
遼が黒板を見て、少しだけ目を伏せた。
「まだある」
「消す?」
僕が訊くと、遼は首を横に振った。
「いや、今日はこのままで」
千紗も頷いた。
「消さない方がいい」
真柴が言った。
「俺の名前もあるしな」
「そこ?」
「大事だろ」
たしかに大事だった。
名前がある。
それだけで、人はそこにいられる。
朝のホームルームで、大野はいつも通り出席を取った。
「佐倉凪人」
「はい」
「北原遼」
「はい」
「水瀬千紗」
「はい」
「真柴悠斗」
「はい」
一人ずつ名前が呼ばれる。
誰も飛ばされない。
誰も滲まない。
僕はその当たり前に、胸の奥が熱くなるのを感じた。
出席を取り終えると、大野は黒板の名前を見た。
そして、チョークを手に取った。
消すのかと思った。
違った。
彼はその横に、もう一つ名前を書いた。
高瀬湊。
すでに書かれていた名前の下に、改めて、丁寧に。
教室が静まった。
大野は言った。
「この名前について、全員がすべてを覚えているわけではないと思う」
誰も喋らなかった。
「私も、まだ曖昧だ。記録も確認する。中学にも問い合わせる。何が事実で、何が記憶の混乱なのか、整理しなければならない」
大野はそこで一度言葉を切った。
「だが、昨日、私たちはこの名前を呼んだ。なら、少なくとも今日、ここで消す必要はない」
遼が机の下で拳を握っているのが見えた。
千紗はまっすぐ黒板を見ていた。
真柴はいつになく真面目な顔をしていた。
僕は、高瀬湊という文字を見つめた。
その名前は、もう滲んでいなかった。
授業は、普通に始まった。
それが、ひどく奇妙だった。
現代文の教師が来て、教科書を開かせる。数学の小テストが返され、英語の教師が宿題の未提出者を叱る。昼休みには購買のパンが売り切れ、真柴が本当に消しゴムを落として遼に笑われた。
普通の日常。
けれど、完全には元に戻らない日常。
遼は何度か、何かを言いかけてやめた。
千紗はそんな遼を見ていた。
僕も見ていた。
以前なら、遼が笑えば安心していた。もう大丈夫だと思っていた。
今は違う。
笑ったからといって、大丈夫とは限らない。
大丈夫かどうかは、聞かなければわからない。
昼休み、僕たちは屋上へ行った。
立入禁止の屋上。
昨日までなら、鍵がかかっていたはずの扉は開いていた。大野に見つかれば怒られるだろうが、今日は少しだけ許される気がした。いや、許されなくても、怒られればいいと思った。
屋上は晴れていた。
雨の跡はない。
校庭には体育の授業を受ける生徒たちがいて、遠くには商店街の屋根が見える。踏切も、駅も、北沢川原へ向かう線路も見えた。
遼はフェンスにもたれた。
「昨日、ここで俺、泣いたんだっけ」
「うん」
「忘れていい?」
「駄目」
千紗が即答した。
「厳しい」
「忘れなくていいけど、毎日思い出さなくてもいい」
千紗は少しだけ柔らかい声で言った。
「必要な時に思い出せばいい」
遼は黙った。
その言葉は、僕にも響いた。
忘れないことは、毎日痛み続けることではない。
必要な時に、名前を呼べるようにしておくこと。
それがたぶん、覚えているということなのだ。
真柴がフェンス越しに校庭を見下ろした。
「高瀬って、どんなやつだったんだ」
遼が答えた。
「字がきれい」
「それは聞いた」
「口が悪い」
「それも何となく聞いた」
「俺より頭がいい」
「それはだいたいの人がそうでは?」
「真柴、今日ちょいちょい刺してくるな」
「事実だろ」
遼は笑った。
それから、少し真面目な顔になった。
「あと、危ない時に一番先に動くやつだった」
僕は頷いた。
「うん」
「だから消えた」
遼の声が低くなる。
「そういうやつが消えるの、やっぱり納得いかない」
「うん」
「でも、俺が代わりに消えればいいっていうのも、たぶん違う」
「違う」
千紗が言った。
遼は彼女を見た。
「強いな、水瀬は」
「強くない」
「強いよ」
「私は、北原みたいに笑って誤魔化すのが下手なだけ」
「それは強いって言うんじゃない?」
「うるさい」
遼は少し笑った。
それから、僕を見た。
「凪人」
「何」
「明日の話していい?」
僕は頷いた。
「いいよ」
「明日も学校来る」
「普通だな」
「普通が一番むずいんだよ」
プロットの中にあったような台詞を、遼は本当に言った。
僕は笑った。
千紗も少し笑った。
真柴は「それ名言っぽく言うほどか?」と呟いた。
遼は真柴に向かって、「じゃあお前の明日は?」と訊いた。
「俺?」
「明日の話」
「消しゴムを落とさない」
「小さいな」
「普通が一番むずいんだろ」
「使い方が雑」
千紗が言った。
「私は、北原が本当に来るか確認する」
「怖い」
「佐倉は?」
遼が僕を見る。
僕は少し考えた。
明日の話。
未来の遼がしたかった話。
高瀬が遼に頼んだ話。
昨日に閉じ込められた未来の僕が、持てなかったもの。
「僕は」
言葉を探す。
「明日、高瀬のことを調べる」
遼が真面目な顔になった。
「うん」
「中学の記録とか、写真とか。大野先生も動いてくれると思う。高瀬の家族がどうなっているのかも、わかる範囲で」
「うん」
「それから、商店街の人たちにもお礼を言う」
「うん」
「あと」
僕は少し迷った。
「未来の僕のことも、忘れない」
遼は黙った。
千紗も、真柴も何も言わなかった。
「あの人は、失敗した昨日の僕だった。でも、なかったことにはしたくない。あの人がいたから、僕たちは失敗を避けられた。だから」
遼が頷いた。
「覚えよう」
「うん」
「名前は?」
千紗が訊いた。
僕は答えた。
「佐倉凪人」
「同じじゃん」
真柴が言う。
「同じでいい」
僕はフェンスの向こうの空を見た。
「同じ名前だから、忘れやすい。でも、同じ名前だから、覚えていられる」
風が吹いた。
屋上の隅に、小さな水滴が一つ残っているのが見えた。
雨など降っていない。
僕は近づいた。
水滴は、コンクリートの上に丸く光っていた。
その中に、灰色のコートの男が映っているような気がした。
でも、瞬きをすると、ただの水になった。
指で触れる。
冷たくない。
朝の光で少し温かくなっていた。
放課後、大野に屋上にいたことがばれて、僕たちはまとめて職員室へ呼ばれた。
当然、怒られた。
葬列だの名前だのとは関係なく、屋上は立入禁止だと言われた。遼は「世界を救ったあとなので情状酌量を」と言いかけ、千紗に足を踏まれた。真柴は「俺は巻き込まれただけです」と言って、三人に同時に睨まれた。
大野はため息をついた。
「まったく」
それから、少しだけ表情を緩めた。
「全員、明日も来い」
その言葉だけは、叱責ではなかった。
僕たちは頷いた。
学校を出たのは、夕方だった。
商店街を通って帰る。
遼と千紗と真柴も一緒だった。途中で真柴は自分の家の方へ曲がり、「明日消しゴム落としたら名前呼んでくれ」と言って帰っていった。
遼が言った。
「あいつ、何か変な方向に慣れたな」
「真柴らしい」
千紗が言う。
「佐倉も大概だよ」
「僕?」
「自覚ないんだ」
「何の?」
「何でも背負おうとするところ」
僕は黙った。
千紗は続けた。
「また列に並びそうになったら、名前呼ぶから」
「ありがとう」
「ありがとうじゃなくて、並ばないで」
「うん」
遼が横から言った。
「俺も呼ぶ」
「お前も並ぶな」
「はい」
遼は素直に頷いた。
商店街の踏切前で、僕たちは立ち止まった。
朝、高瀬がいた場所。
夕方の踏切は普通だった。遮断機が下り、電車が通る。会社員が待ち、自転車の中学生がブレーキに手をかけている。誰も濡れていない。誰も黒い服を着ていない。
電車が通り過ぎると、遮断機が上がった。
向こう側には、夕日が差している。
遼が小さく言った。
「湊」
僕も続けた。
「高瀬湊」
千紗も。
「高瀬湊」
踏切の向こうで、風が吹いた。
返事はない。
でも、それでよかった。
高瀬はもう、返事を求めるために名前を呼ばれる存在ではない。
僕たちが忘れないために呼ぶ。
それでいい。
遼は踏切を渡る前に、僕を見た。
「凪人」
「何」
「昨日までのこと、夢じゃないよな」
「うん」
「でも、そのうち薄れるのかな」
「薄れると思う」
「いいのか、それ」
「薄れても、なくならなければいい」
遼は少し考え、頷いた。
「そっか」
「必要な時に、呼べばいい」
「名前を?」
「うん」
遼は夕日の中で笑った。
「じゃあ、凪人」
「何」
「明日な」
僕は頷いた。
「明日」
千紗が言った。
「明日、遅刻したら許さない」
「水瀬、明日が強すぎる」
「北原が弱すぎる」
「反論できない」
二人は並んで歩き出した。
僕は少し後ろを歩いた。
葬列の最後尾ではない。
二人の背中を見ながら、同じ方向へ歩いているだけだった。
ふと、ショーウィンドウに自分の姿が映った。
濡れていない制服。
鞄を肩にかけた高校生。
その後ろに、灰色のコートの男はいない。
黒い服の列もない。
僕は立ち止まり、ガラスの中の自分を見た。
「佐倉凪人」
小さく名前を呼んだ。
ガラスの中の僕も、同じ口の形をした。
そのうしろには、誰もいなかった。
夜、僕は机に向かい、ノートを開いた。
今日あったことを全部書こうとした。
けれど、すべてを書くには言葉が足りなかった。
だから、まず名前を書いた。
北原遼。
高瀬湊。
水瀬千紗。
真柴悠斗。
大野孝一。
小宮晴美。
田辺修一。
古賀幸江。
三原和夫。
三原礼子。
岡崎進。
岡崎千代子。
相馬健二。
そして、佐倉凪人。
最後に、もう一度同じ名前を書いた。
佐倉凪人。
失敗した昨日の僕のために。
それから、ページの下に短く書いた。
葬列の最後尾には、もう誰もいなかった。
書いた瞬間、窓の外で小さな音がした。
鈴ではない。
風が、物干し竿に当たっただけだった。
僕はカーテンを開けた。
夜の住宅街が見える。
街灯。
乾いた道路。
遠くの踏切の光。
雨は降っていない。
窓ガラスにも、水滴はなかった。
僕は机に戻り、ノートを閉じた。
明日、学校へ行く。
遼も来る。
千紗も来る。
真柴はたぶん消しゴムを落とす。
大野は僕たちを叱る。
高瀬湊の名前は黒板の端に残っているかもしれないし、消されているかもしれない。でも、僕たちの中には残っている。
未来の僕のことも。
未来の遼のことも。
全部を毎日思い出す必要はない。
でも、忘れない。
必要な時に名前を呼べるようにしておく。
それが、葬列の外を歩くということなのだと思った。
布団に入る前、スマートフォンが震えた。
遼からだった。
『明日、購買寄る?』
僕は返信した。
『行く』
『カレーパン?』
『たぶん』
『普通だな』
『普通が一番むずいんだろ』
少し間が空いた。
『それ、俺の台詞』
僕は笑った。
『明日、直接言え』
既読がつく。
返事。
『了解』
そのあと、もう一通。
『おやすみ、凪人』
僕は少しだけ画面を見つめた。
名前を呼ばれる。
それだけで、胸の奥が温かくなる。
僕は返信した。
『おやすみ、遼』
送信して、スマートフォンを伏せた。
部屋の電気を消す。
暗闇の中で、時計の秒針が動いている。
一秒。
また一秒。
時間は止まらない。
昨日に閉じ込められた僕は、もういない。
明日は、まだ見えない。
だからこそ、そこへ行ける。
僕は目を閉じた。
どこか遠くで、踏切の音がした。
カン、カン、カン。
それは葬列の音ではなかった。
ただ、電車が夜の町を通り過ぎていく音だった。
了
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました。
この物語は、「名前を呼ぶ」という、あまりにも当たり前の行為について書いた作品です。
人は、誰かに名前を呼ばれることで、そこにいることを確かめられるのかもしれません。
反対に、誰からも呼ばれなくなったとき、その人は生きていても、少しずつ世界の外側へ押し出されてしまうのかもしれません。
凪人、遼、高瀬、千紗、真柴、大野先生。
彼らはみんな、誰かを助けたいと思っていました。けれど、誰か一人だけが背負えばいいわけではなく、誰か一人だけが覚えていればいいわけでもありません。
忘れないことは、ひとりで抱え続けることではなく、必要なときに名前を呼べるようにしておくことなのだと思います。
もしこの物語の中で、誰か一人でも心に残る人物がいたなら、その名前を少しだけ覚えていていただけると嬉しいです。
評価、ブックマーク、感想などで応援していただけると、今後の創作の大きな励みになります。
最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。




