そして役人と国連がとどめをさした
「子どもの権利を守れ」運動と同調する形で1990年代に政府が打ち出した教育改革が「ゆとり教育」である。
学校の授業について行けず、落ちこぼれる子どもを救うため、と称して、小中学校における学習内容を思い切ってそぎ落とし、簡略化した。「詰め込み教育」を廃止し、子どもの大多数が理解できる授業を行うことで、子どもの全体的な学力の底上げを目指した改革だったのだが……ふたを開けてみると、落ちこぼれる子どもは減るどころか増加した。
それはそうだ。学校で学ぶことが減れば、遊んでいても授業につけていけるのだから、子どもはその分、怠けるようになる。怠けていればますます「勉強の仕方」が分からなくなり、簡単なことでさえ理解できなくなっていくのは当然である。
学力を引き上げるのに必要なのは、子どもに「努力の習慣」をつけさせることである。が、その努力の目標となる「学習内容」を簡単なものへと変え、「目の前の壁を低く」してやれば、ますます努力しなくなるのは目に見えている。
そんな当たり前のことに目をつぶり、「子どもの権利を」「子どもに優しく」と叫ぶ「有識者」たち、そしてその耳に心地よい言葉にすっかり酔わされている有権者たちの要望におもねるような政策を打ち出したところで、うまくいくはずがない。
にもかかわらず、政策の方向性としての「ゆとり教育」は30年近くも続けられた。一度大きな流れができてしまうと、たとえそれに効果がないということが明らかになってもなかなかそれを転換することができず――それを実施した役人や閣僚は、その責任を問われることをおそれ――ずるずると実施を引き延ばしてしまい、悪影響が蔓延し、手の打ちようがなくなってからようやく対策に乗り出す、というのが、日本の行政の特徴の一つだから、これはある意味仕方がないのかもしれない。
だが、こと教育問題の場合、割を食うのはその間教育を受けた子どもたちである。
小中学校時代、ろくに知識を身につけられなかったがために、その分学ぶ内容が増やされた高校で落ちこぼれるものが激増し、また、なんとか高校生活を乗り切ったにしても、学ぶ時間が減ったがゆえの基礎的な「社会常識」の欠如はいかんともしがたく、社会に出てからもさまざまな苦労をしなければならなかったのだ。
さて、この「ゆとり教育」は2010年代初頭に終了する。
以後は小中学校の教育内容、授業時間は徐々に増加されつつある(それでも、1980年代以前の水準にはまだ達していないが)。
これでようやく日本の教育指針はまっとうな方向に進み、学力レベルの回復するのか、というと、残念がらそうはならなかった。
過去「熱血教師」として熱心に「子どもの人権を守る」運動を繰り広げてきた教育関係者たちは、まさにその「熱心に運動を繰り広げてきた」業績により、発言力のある立場となっており、定見を持たないお役人たち、そして国民からの支持を得たい閣僚たちは、彼らの意見に耳を貸さざるをえない。
その上ここに国連が絡んでくる。
第3章でも述べたが、国連という組織は「自分たちの理想である「世界国家形成」は誰にとっても素晴らしい目標であり、その実現のためにはどのような手段を使っても構わない」と思っている、先鋭的な理想主義者たちが職員の多くを占めている。その上、武力という実力を自前で持たず、各国を動かすことで理想を実現するよりほかないゆえに、人の心を揺さぶることに長けている。
簡単にいえば、「カッコイイ言葉で人を洗脳し、自分たちの味方にする」能力が非常に高く、それを駆使して多くの国々に影響を及ぼし、自分たちの思惑通りに動かそうとするのである。
そして日本人は――「子どもの人権を守れ」というスローガンに酔わされ、あっという間に「熱血教師」たちのシンパになったことからも分かるように――こういった「宣伝工作」に、てきめん弱い。
世界国家形成のためには「国境を越えた助け合い」や「人類全員の人権を守る」といった意識を人々に植えつけることが必須であり、そのために、あらゆる差別をなくし、人権を尊重する風潮を作る必要がある、ということで、国連は1940年代から、ユニセフ、ユネスコなどの活動を通じて「子どもの人権を守れ」と訴えかけてきた。
「子どもの幸福度調査」を行い、国別ランキングを作って大々的に発表したりするのもその一環である。前にも述べたが、これらの「ランキング」の評価基準には、かなり恣意的なものが混じっており、今現在、国連が最も理想に近いと考える国家――ヨーロッパ諸国が上位になるように作られている。が、日本人の多くはこういった「からくり」にまず気づかない。「世界平和のために活動する国連は「いい組織」であり、その行動や言動が間違っているはずなんかない」と、全面的な信頼を寄せてしまっているため、その「ランキング」の結果を盲信してしまう。そして、「国連発表の子どもの幸福度ランキングで、日本は先進奥では最低レベルだ」となれば、「それは大変だ、ぜひとも今以上に子どもを幸福にしてやらなければ」などと、相手の思惑通り、いともたやすく「危機感」を持ってしまうのである。
さらに、日本政府も国連とは「いい関係を続けていきたい」という思惑がある。
太平洋戦争で大敗を喫し、平和を阻害した「枢軸国」の一角として世界中から糾弾されるという経験をしたからか、それとも、「できるだけ周囲の人たちと波風立てず、おだやかにうまくやっていきたい」という日本人特有の心性が影響するせいなのか、日本は――国民も政府も――「世界」からできる限り高い評価を受けたい、という思いが強い。
かといって「これからの世界はこうなるべきだ!」という強力な信念に基づき、リーダーシップを発揮していこうという意志があるわけではないから、自然目指すは「調停役」ということになる。
具体的にいえば、あちらの国にもこちらの国にもいい顔をしてなだめすかし、諍いが戦争に発展する前に、できるだけおだやかに解消させていこう、という立場である。
そういった活動により世界から評価され、国連常任理事国入りを果たしたい、というのが、日本の悲願の一つなのだが……そのためには、世界の中でもトップクラスの平和国家、民主国家である、という評価が必要となる。
ここを、国連につけ込まれるのだ。
教育関係、子ども関係でいえば、「自国の国民、特に子どもたちの幸福度さえ低いままなのに、「世界全体の幸福について考える」常任理事国になんてなれるはずがない」という言辞を弄することで政府に揺さぶりをかけ、「国連が推奨する」「先進的かつ民主的な」法整備を行うよう、陰に日向に揺さぶりをかけてきたのである。
国連からの圧力、「ゆとり教育」失敗後もなおも教育界で発言力を持ち続ける「熱血リベラル派」からの提言、そして、彼ら「熱血リベラル派」の薫陶を受けた教師たちにより、「ゆとり教育」は失敗したかもしれないけれど、かといって体罰などの厳しい指導は不要だ、カリキュラムと授業時間が増えれば、子どもの教育水準は上がっていくはずだ、と単純に信じ込んでしまう保護者たち。これらの思惑と理想、欲望が絡み合った結果、2020年には体罰によるしつけ・教育が全面的に禁止され、2022年からは、体罰以外の厳しいしつけ・教育全般をも、法律で禁止されることとなった。
その結果、子どもたちがどうなっていったかは、今まで述べてきたとおりである。




