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「子どもを守れ」はさらに加速する

 こうして1990年代に「体罰禁止の常識化」という大いなる日本人の精神構造の変化を達成したことで、リベラル派教師たちの20年以上もにもわたる「努力」は、十全に報いられた。

 当初掲げた遠大なる目標が達成されたのだから、普通に考えれば、「ついにやった、やりきったぞ、これでもう日本は大丈夫だ」などと自らの起こした運動の成果に満足し、残りの人生はその満足感を胸に、静かに生きていけばいいのではないか、と思われるのだが、彼らはそうしなかった。

 運動の母体となる各組織の解体もせず、

「体罰禁止思想は、この国に深く浸透した。だが、「子どもの人権を守る」ためには、これだけではまだまだ足りない。次は「怒鳴ったり、脅したりすること」の全面的禁止だ。ああいった行為も全て虐待だ、今すぐ教育関係者はそれらの行為をやめるべきだ!」

と「ゴールポストを後方へと引き下げて」ますます熱心に叫ぶようになったのである。

 なぜ目的を達成したのに活動を停止しないのかについて当事者たちに質問すれば、「活動を続けているうちに、体罰を禁止しただけでは子どもの幸福を守れないと分かった」だのなんだのとしたり顔で説明するのだろうと思われる。だが、本当の理由はおそらく違う。

 活動をやめてしまったら、当事者たちがヒーローでいられなくなってしまうからだ。

 人間にとって「注目を集め、賞賛される」ことは魔物だ。

 社会活動により名声を博し、大勢の支援者を得て、自分の口にする『美しいスローガン』に皆が笑顔でうなずき、自分の思い描いた計画通りに皆が動いてくれる快感――「完全な形での自己実現」を一度でも味わってしまった人間は、それを手放すことなど考えられなくなってしまうのだ(このあたり、「ステージに三日立ったらもうやめられない」などと言われる役者稼業とよく似ている)。

 活動のリーダーたちは、皆に頼られ、オピニオンリーダーとして尊敬される快感に酔い、いつまでもこの快感を味わい続けることを希求するようになる。ところが、これまで自分たちが精力的に活動し続けてきた結果、「体罰禁止」はもはや常識として一般大衆の頭に根づいてしまっている。今さら体罰禁止を叫んだところで、「え?そんなの当然でしょ」という困惑した反応が返ってくるだけだ。

 そこで、彼らは先鋭化する。「体罰禁止だけでは子どもの人権と幸福は守れない。声を荒げて怒鳴りつけたり、脅しつけたりするのもみんな虐待だ。それらを全て禁止しなければならない。理性的で子どもをのびのび、やりたいことだけをさせて育ててこそ、理想的な子どもに育つんだ!」と、それまでの主張をより過激なものへと変え、活動を継続するのである。

 通常、この段階まで活動が進んでしまうと、支援者たちは徐々に離れていく。リーダーたちの言っていることがあまりに一方的で現実離れしていることに、皆が徐々に気づいていくからだ。

 例えば、「従軍慰安婦問題」がそういった軌跡を歩んだ。

 「太平洋戦争中、朝鮮(現韓国)において、日本の軍人が女性を連れ去り、強制的に慰安婦として働かせた」という証言から始まったこの問題について、実際に軍人による強制連行の証拠は一切認められなかったにもかかわらず、日本政府は河野談話の発表をはじめ、さまざまな対応を行い、慰撫と謝罪を行ってきた。ところが、それでもなお活動の当事者たちは「軍による直接の連れ去りはなかったにしろ、広義の関与はあった」などという言辞でもって「ゴールポストを引き下げ」、なおも当事者たちへのさらなる補償を迫ったのである(というか、今も迫っている)。そのあたりで徐々に運動が失速し、世間での話題に上らなくなっていった。

 同様のことは「貧困問題」や「難民問題」「自然保護」などについても言える。一定の成果を上げた時点でさらに主張を先鋭化し、政府や世間の負担が過重なものとなる主張をし始めたあたりで、支援者たちの支持を失い、失速していくのだ。

 ところが、こと「子どもの教育問題」についてだけは、こういった筋道をたどらなかった。

「それは、運動の方向性が間違っていなかったからだ」と主張される方もいらっしゃるかもしれない。だが、今まで示してきた「子どもに優しいしつけ・教育」のもたらす数々の弊害から鑑みて、私には「方向性が間違っていなかった」とは思えない。

 では、なぜ人々は「子どもに優しいしつけ・教育」が先鋭化し、突っ走るのを許容したのか。

 それはおそらく、他の「リベラル派の主張」と違い、「子どもを守れ」というスローガンが人々の耳に心地よく響き続け、今まで挙げてきたような弊害が見えにくかったからであろう。

 大多数の人間は、自分に深甚な悪影響が及ばない限り、「いい人」でありたいと思っている。「いい人」でいれば社会から排斥されることなく、その中に溶け込み、自分の行動、言動に自信を持てるし、なにより気分がいい(だからこそ、募金活動をはじめとした慈善活動は成立する)。そういった「いい人願望」のある人々にとって、「子どもの人権を守れ」という主張は、いかにも民主的で現代の風潮に適合した言葉に思われ……主張が先鋭化しても、耳に心地よく響き続けたのだ。

 さらに、保護者も教育機関も、子どものしつけ・教育の不備と、それに伴う子どもの「野蛮化」について、制度の問題ではなく、自分たちの能力不足が原因であると考えがちであり、その「能力不足」を外部に知られないよう、現状をなんとか外部から隠そうとする傾向がある。

 これにより、教育期間――つまりは「子どもが子どものである間」の18年間は、どれほど実情が荒廃したものになり果てようと、なかなか表面化しない。その種の教育を受けた子どもが成長し「社会人デビュー」してはじめて、適応障害や努力の軽視、身勝手な行動といった弊害が露わになるのだが、この「長時間経過してから影響がでる」という「しつけ・教育」の特性を逆手に取り、「優しいしつけ・教育」推進派は「悪いのは教育ではない。社会だ。社会でなければ他に原因がある」と強弁し――冷静に考えれば、その「社会」に溶け込んで生きていけるようにすることこそ、しつけ・教育の重要な一側面であるはずなのだから、「しつけ・教育に合わない社会はおかしい」と叫ぶこと自体、本来の目標を見失った言辞であると断ぜざるをえないのだが――なおも同じ路線のしつけ・教育を推奨し続けたのである。

 かくして、2000年~2010年代になっても「子どもの権利を守れ」運動は失速することなく、先鋭化したまま、さらに突っ走ることとなった。

 「体罰は虐待だ」「怒鳴るのは虐待だ」「怒るのは虐待だ」と、子どもの非社会的な行動を抑制する有効な手段の大部分に「虐待」というイメージのよくないレッテルを貼り付け、声高に非難する。さらにメディアも、その尻馬に乗り一部の「虐待死報道」などを感情的・大々的に取り上げることで、これらの手段全てが極悪非道な行いであるかのように報道する。

 さらに「意識高い系」の方々をはじめとした「かっこよくありたい」多くの人間が、「子どもの権利を守る」という「美しく、かっこいいスローガン」に賛同、そういった「流行」に逆らうような教師・講師等を非難し、クレームを上げるようになっていく。

 結果、現場の教育関係者たちは、なすすべなく、次々と手足をもがれていったのである。





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