非常識だった「子どもを守れ」が常識となっていく
こういった状態が「表向き平穏な時代」が10年ほど続き、「熱血」教師たちに「暴力絶対反対」「子どもの人権を守れ」と教え続けられた子どもたちが成長し、社会人となり、子育て世代となっていくことで、社会はいつの間にか変容していく。
「子どもが悪いことをしたら叩いて当然」という考えから「子どもを叩くのは暴力。暴力は絶対にいけない」と考える人間が、無視できない数にまで増えてきたのである。
こうなると、メディアが放っておかない。
ちょうどこの頃、欧米においても「体罰はいけないことだ」と主張する人間が一定の勢力を持ち始めたこともあり、テレビをはじめとするマスコミは、こぞって体罰反対を標榜する人たちを題材に、番組を作り始める。
それまで全く取り上げもしなかった事件――行き過ぎた体罰により死亡したり重傷を負ったりした事件をニュースやワイドショーで取り上げる。そして、ゲストとして呼んだリベラル派の教師たちの口から「そもそも体罰自体が悪いことなのだ」と主張させる。
人気タレントを主人公である教師に起用したドラマを作成し、学内で起こるどのような問題も、子どもたちとの腹を割った話し合いで解決できるかのような印象を、視聴者に植えつける。
欧米の一部で行われている、教師と生徒が友達同士であるかのような学校を大々的に特集し、あたかもそれが「進んだ教育」であり、先進社会ではそのような教育が主流であるかのような錯覚を視聴者に起こさせる。
学校で問題が起こるたび「管理側の責任」「教師の行き過ぎた指導が問題」などと「有識者」にコメントさせ、自分たちの制作しているドラマのような、自分たちが紹介している海外の学校のような教育システムを構築すれば、全ての問題が解決するかのような印象を与える……などなど、こぞって「体罰禁止」「子どもの人権を保護する」ことは大切だ、いいことだ、正しいことなのだと視聴者に訴えはじめるのである。
ちなみにマスコミ各社は、リベラル派教師に深く共鳴し、ぜひともその活動を後押ししようと思って、このような流れを作り出したわけではない(多少はそういった傾向もあったかもしれないが、それはごく小さなきっかけに過ぎない)。おそらく、純粋に「自分たちの利益」を追及した結果、そうなっていったのだ。
ネットの普及により、多くの人間が気づきはじめているが、テレビを代表とするマスコミ各社は、「視聴者の味方」ではない。
マスコミの主体である民間放送が営利企業であることを考えれば、これは、当然のことだ。営利企業である以上、その目標はクライアント――マスコミの場合、番組製作に出資してくれるスポンサー――を満足させ、利益を上げることが第一目標となる。つまり、「スポンサーが売りたいと思っている商品をどうにかして視聴者に買わせる」ことが、マスコミ各社の第一目標になる(ちなみにこれはマスコミに限ったことではない。発信者の多くが企業にスポンサードされていることを考えれば、SNSやニュースサイトなどのネット全般も、同じことが言える。「だからマスコミは」などと言ってネット情報を真実と思い込むのも、「マスコミ信者」同様危険なのである)。
「知ってるよ、それぐらい。だから、民報の番組の合間にはCMが挟まるんだろ?」
その通りである。だが、マスコミのやっていることはそれだけに留まらない。ただなんとなくCMを流しているだけでは、視聴者に「アレ買おう」という気を起こさせるのは難しいからだ。
そこで彼らは、視聴者に買う気を起こさせるため、さまざまな方法を編み出す。
人気アイドル演じるカッコイイドラマの主人公に、さりげなくスポンサーの会社の製品を使わせる。「人気ランキング紹介」などという名目で、ランクインしたスポンサーの商品がいかに使いやすく便利なものか、延々と解説する(一応言っておくが、あの種の「ランキング」の数値は、やろうと思えば簡単に操作できるものである)。
ここで重要なのは、「あ、どうやらこの番組の制作者は、この商品を買わせようとしているな」と視聴者に気づかせないことである。人は、他の誰かから強制されたことに反発を覚えることが多いのに対し、自ら「こうしよう・こうした方がいい・こうしなければ」と発想した――ような気がする――ことには抗いがたい、という性向があるからだ。
だから、あくまでさりげなく「人気アイドルもこれを持っていますよ、あなたも持っていると彼と同じようにかっこよくなれますよ」「今これが流行っていますよ、これをしないと時代遅れになりますよ」などと視聴者に印象づけ、スポンサーの商品売上増を図る。視聴者をそれとは気づかないうちに洗脳しているわけである。
その「洗脳」の古典的な手法の一つに「相手に不安を与える」というものがある。
人間、現状に完全に満足している状態では、新しいものを買おうとしたりしない。そこで、「安心してていいんですか?こんな危険があるんですよ?」という情報をことさら誇張して視聴者に訴えかけることで不安をあおり、「対策グッズ」などを買わせるのである。
リベラル派教師たちを後押ししたのも、彼らの思想に対する親和性もあっただろうが――なにしろ、学生運動の闘士や、心情的に彼らに同情的だった多くの学生が、マスコミ各社にももぐり込んでいたのだ――それよりなにより、彼らの意見が視聴者の不安をあおるのに適していた、ということが大きかったのではないかと思われる。
「現状の学校教育に満足してていいんですか?大事な子どもさんの教育を学校に任せっきりにしてていいんですか?それだけで十分だと考えているんですか?」と繰り返し訴えかけることで視聴者の不安をあおり、スポンサーである学習塾への入塾を促したり、出版社の発行する問題集を買わせたり、通信教育を受講させたりしようという目論見である。
マスコミ各社が歩調を揃えて「古い伝統的な教育方法は問題だ、それよりも欧米で注目されている、体罰など行わない新しい教育方法のほうが、ずっと素晴らしいんだ」と視聴者に訴えかけ続けているうち、マスコミのこういった戦略に疎い視聴者は――つまり、大多数の視聴者は――すっかり洗脳されていく。
先ほどリベラル派の方々はヒーロー願望が強いといったが、実のところ、ヒーロー願望が強いのは彼らに限ったことではなく、日本人は一般にヒーロー願望が強い。
ヒーロー願望というといいすぎかもしれない。が、日本人は全般に、周囲の人間から「一歩抜きん出た存在である」と見なされたくて仕方がないという願望を強く持っている。第3章で述べたように、多種多様な分野で抜きん出た才能を各人が皆で認め合うことをせず、とにかくトップからビリまで「人間としての順位」を決めないではいられないという、まさに島国根性丸出しの考え方をする方が多いためなのか、「人間順位」を大した労力をかけずに上げる機会には、皆こぞって飛びつくのである。
「意識高い系」という方々――メディアなどで「カッコイイ」とされる生き方やライフスタイルを仕入れ、これ見よがしに実践する方々が、まさにその好例だ。
ある「ライフスタイル」について、なぜそのような動きが生じてきたのか、そのような生き方をすることでどのようなメリット・デメリットがあるのかを注意深く考えることなく、ただそれが「なんとなくかっこいいから」と飛びつき、得意げに周囲の人たちにも吹聴する人々。
ああいう方々の心理の奥底には、日々研鑽に励んで技術を磨いたりといった「面倒な努力」をせず、なるべく楽をして「カッコイイ」という評判を手にしたい、という欲望が潜んでいると思われる。だからこそ、周囲の人々に自分の「新たなライフスタイル」を見せつけ、自分が「ちょっと違った――周囲の人々よりもややカッコイイ」人間であることをアピールし、また、その生き方がいかに素晴らしいかを語ることで、「先達」としての自分の素晴らしさを印象づけようとするのである。
このように言うとおわかりいただけると思うが、「意識高い系」の人々に限らず、こういった「楽して周囲の人と差をつけたい」ための言動・行動は、日常かなりの頻度でもって耳にする。
「知ってた?おいしいお店ができたんだって!」「これ?今流行ってるらしいよ」「そんなことも分からないのか」「あら、変わったやり方。この辺とはだいぶ違いますね」「うちにはうちのやり方があるから」などといった言辞はほぼ全て、この「楽して順位上げたがり」という性向から発したものである。
「なんだ、そんなのみんな言ってることじゃん」
と思われるかもしれない。
そうなのだ。日本人の多くは、意識してか無意識かの差はあるものの、なるべく努力せず、テレビやネット、「常識」なるものから仕入れた「他人の意見」を、さも自分の意見であるかのように吹聴することで、自分が周囲よりすぐれた人間であるかのようにアピールしたがる性向をもっているのである(これは、日本人に限った性向ではないのかもしれない。だが、この種の事例について、国別の調査が行われているのかどうか、その結果がどうであったのか、残念ながら私は存じ上げない。なので、ここではあえて「日本人の性向」と限定させていただく)。
こう言うと――内心むっとしながらも――「ああ、確かに大勢いる。私も、時折そんなことを言っているかもしれないな」としぶしぶ納得顔になられる方も多いのではないだろうか。
「カッコイイ」は、この「人間順位を手軽に上げる」キーワードのうち、経験や知識不足を盾に自分たちを低い順位のまま押さえつけようとする「上の世代」の人間たちに対抗すると同時に、同じ思いを抱えた同世代の中で一歩抜きん出るためにも、若い世代にとって極めて有用な価値基準である。だから、10代~40代にいたる多くの人間が、なんとか「カッコイイ」人間であろうと、必死で情報を集め、新しいものにやみくもに飛びついていく。
1980年代頃の「若い世代」は、無駄な勤勉さを発揮してずっと「体罰禁止、子どもに人権を!」と叫んできた「熱血教師」たちと、強力にその後押しをしたマスコミの宣伝――洗脳活動により、すっかり「カッコイイ」ものだとされたこの意見を、争うように取り入れ、成長していったのである。
かくして「子どもへの体罰禁止」思想は、短時間のうちに広く若い世代に認知され、受け入れられていく。1980年代初頭から中盤にかけては、それでもまだ「じゃあ、いうことを聞かない子どもをどうやってしつけるんだ」と反論する「古い考え方」に固執する大人も多かったが、90年代に入るとそういった人間は徐々に姿を消し、家庭でも学校でも「子どもに体罰なんてとんでもない!」と眉をいからせる人ばかりとなっていく。
かくして、「体罰禁止」は、一時の流行から「常識」へと変貌したのである。
リベラル派教師たちの、勝利の瞬間であった。




