「努力できない」子どもが成果主義の「大人社会」に直面した時、どうなるか
仕事をして身を立てておられる保護者の方々はよくご存じであろうが、通常「大人」は、どれだけの成果を上げたかによって評価される。
そして、成果を上げるためには、必ずといっていいほど「努力」が必要である。
大学における高度な専門教育について行くためには、難解な専門書を読みこなす必要があるし、会社において業績を上げるためには、業務についての詳細な知識と、その知識をフルに生かして営業なり開発なりに打ち込む姿勢が必要である。どちらにしても、「壁」を乗りこえる必要があるのだ。
そしてこの「壁」は決して低くなることはない。それどころか、成果を上げれば上げるほど、さらに重要な仕事を任され、難解な研究に挑むことになるのだから、さらに「壁」は高くなっていくのが普通である。
「子どものことを考えた」しつけ・教育ばかり受けてきた子どもは、成人して初めて、このような「決して低くならない壁」にぶつかる。そして、大いに困惑することになる。
仕事だから、課題だから、一応どうにかこなそうとはしてはみるものの、今の自分の力ではこなせそうもない、と思ったところで、彼ら――今まで「高い壁を越える努力」をしてこなかった「元子ども」はどうするだろうか。
当然、今まで学習してきたとおり「僕/私にはこんなの無理です」「やりたくありません」とはなから諦めてしまうか、途中までやったところで飽きてしまい「これ以上は無理です」と投げ出してしまうことになるだろう。
こういう場合、社会は非情である。
「そうなんだ、できないんだ。じゃあ仕方がないね」
と任していた研究や仕事を他の人に振り分け、当人にはもっと簡単・単純な仕事や研究のみ、振り分けることになる。
簡単にいえば、その人物を見限るのだ。
誰も「仕事をやりやすくするために壁や山を低くしてくれる」なんて手間をかけてくれる人はいないし、ましてや「成果は上がらなかったけど、ここまでできたのは大したものだね!」なんて褒めてくれることも――新入社員としての教育期間以外では――ないのである。
さらに言うと――これは日本社会の最大の欠点ではないか、と私は思っているのだが――日本人のほとんどは、子どもはあれだけ褒めて育てるのに、こと成長した人間同士となると、めったなことでは相手を褒めようとしない傾向がある。
おそらくこれは、農村の、めったに構成メンバーが入れ替わることのない閉鎖された空間で一生を過ごし、毎年決まった活動を皆で協力して行わなければならないという生活様式から生じた、「構成メンバー全員の順位をきっちりと決め、よほどのことがない限り覆されないようにする」という習慣により作られた性向であろうと思われる。
ただし、経験がものをいう農村においては、作業に長けたものが全てをしきるのが当然であり、そして、上に立つ者は「今まで身につけた経験」に絶対の自信を持てるがゆえに、メンバーに対しおだやかで寛容な態度を取り、相手を褒めることにも躊躇はなかった。
ところが、近代に入り、農村の「旧弊な生活習慣」が崩壊し、多くの人間が都会でサラリーマンとして生活するようになったことで、この「上に立つ者の寛容」が損なわれることになる。
会社組織においては、基本的に能力の高い人間が組織のリーダーとなる。しかも、そこでの仕事は、長年の経験より常に変化する情勢に合わせて対応を変える柔軟性こそがものをいう(と思われている)ことが多い。年齢を重ね、過去の経験にすがってなにごとも判断しようとする中年以降の社員より、精神が柔軟で新しいアイデアをもった有能な若者こそ、リーダーに向いていると思われがちなのである。
会社に長年勤め、そのことで出世を果たしてきた者たちは、したがって、常に下剋上の恐怖にさらされることになる。
昔有能であったものは、昔自分がそうしたように、そのうち有能な若者が自分に取って代わるのではないかと常に警戒する。まして、それほど有能ではなく、年齢を重ねることでどうにか現在の地位をつかんだものにとっては、若者の台頭は恐怖以外のなにものでもない。
しかし、若者に仕事をきちんとさせなければ、自分の評価自体に影響する。
ということで、会社のリーダーたち――特に中間管理職と呼ばれる立場の者たちは、若者を褒めなくなる。
どれほどいい仕事をしたとしても「はい。ご苦労さん」と素っ気ない態度を取ることで「これぐらいはできて当然だ」という雰囲気を醸しだし、相手の自信をそぎ、次こそ認めてもらおうとがんばらせることを目論むのである。
うまく仕事をこなす者さえ褒めようとしないこういった上司が、まして「うまくいかなくてもやれるだけのことをやればいいんだ」などと甘いことを考えている部下を、褒めるはずがない。
上司に限らず先輩も同様だ。
きちんと仕事をし、成果を上げている自分が褒められないのに、どうしてそれ以下の、中途半端な仕事しかできない後輩社員を褒めなければならないのか。それよりむしろ「自分がそうであったように」なにが足りないのか、どうすればよいのかをきちんと指導し、早く一人前の仕事ができる社員に育て上げる方がよい。そのためには、きちんと言うべきことを言うべきだ……となる。
また、日本社会では、ある基準で「こいつは自分より能力が低い」と評価された人間は――農村時代から引きずっている思考の弊害で――あらゆる面、あらゆる能力で役に立たない、とレッテルを貼られることが多い。
つまり、「こいつは自分より下位の、ダメな人間だ」と見なされてしまうのである。
こうなると、仕事と関係ない、例えばスポーツや芸能等の分野で優秀な結果を残したとしても、会社では決して認められない。「あいつにあんな特技があったなんてね」「まあでも、なんの役にも立たないけど」「そんなことに血道を上げるなら、もう少し仕事に身を入れてほしいものだね」「まぐれじゃないの?」などなど、相手をこき下ろし、不当にその結果を評価してまで、自分の中の「あいつはダメなヤツだ」という主観を守ろうとするのである。
そしてもちろん、相手を褒めたりすることはない。
子どもが社会に出た後に直面するのは、こういった状況である。
成果を出しても認められるとは限らない。まして「成果は上がらなくても、そこまでの過程が大事」「がんばるだけがんばったのだから、それで十分だよ」などといった、今まで当然だと思っていた行動評価は全く行われない。
そこでは自己実現はおろか、今まで周囲の忍耐により得られていた「子どもの幸福」さえ、手に入れることはできないのである。
そういった厳しい現実に直面した際、
「ああ、これが大人の社会か。今までの甘っちょろい子どもの世界とはまるで違うんだ。ここで通用する自分になれるように、今からしっかり努力していかなくちゃ」などと今までの自分を反省し、気持ちを入れ替えることができればいいのだが、残念ながら、一部のスポーツ少年やアート系少年など「一つのことに必死で打ち込み、一定の成果を上げた」経験のある子どもをのぞく大多数は、そのような考えには至らない。
なぜか。
今まで見てきたように、「優しいしつけ・教育」と「子どものを取り巻く社会状況」の相乗効果により、子どもは「努力は馬鹿馬鹿しいことだ」という信念を身につけてしまっているからである。
だから、成人後に研究や仕事で「壁」に突き当たったとしても、彼らはその壁を乗りこえる努力をしようとしない(むしろ、そういった発想など思いつきさえしない、といった方がいいかもしれない)。便利な道具や「楽に壁を乗りこえるための必殺技」を使い、なんとか効率的にそれを乗りこえようとする。
もちろん、それらの行為が成功することもある。
大学で課されたレポートを作成するのにAIを活用し、生成された文章をそのまま書き写して提出、単位を取得したりするのが、そのいい例である。
だが、そのような「裏ワザ」で壁を乗りこえたところで、真の喜びも、真の実力も得られない。
せいぜいが「こうやってさまざまな技術や、その場でちょこちょこっと調べた知識をうまいこと利用して生きるのが、うまい生き方ってものだよな」とほくそ笑み、急場をしのげたことにほっと安心するだけで、真の幸福感、充実感、満足感を得ることはない。
そして、こういった急場しのぎだけを繰り返すうち、仕事や研究で求められる難度はどんどん上がっていく。そのうちいつか、付け焼き刃ではどうしようもなくなる時がやってくる。
そうなった時に慌てても、もう遅い。
低いハードルを越えるための「努力」すらしてこなかった子どもが、「便利な道具を駆使しても超えられぬほどの高い障壁」を越えるほどの努力など、当然できるはずもなく……結果、成人に達した子どもたちの多くは「社会の壁」を前に、もろくも挫折することになる。
そして、挫折した子どもたちの多くは、その挫折を決して受け入れられない。
当然だろう。
それまでずっと「無駄な努力などせず、できる限り効率的に」という、社会全般で推奨されている方法に忠実に従い、生きてきたのである。まさかそれが、実社会では通用しない方法であるなど、一体誰が思うだろうか。
「自分は今現在自分ができることを全てやった。結果は芳しくないものだったが、それでも自分のできる限りのことをしたのだから、周囲の人間は自分を認め、自分を褒めたたえるべきなのだ。なのに、誰も彼も、微妙な反応しかしない。もう少し努力したり、勉強したりしてみたらいいんじゃないかという人もいるけど、自分なりにはやってみた。それ以上の努力?なんでそんなことをしなければならないんだ?そんな馬鹿馬鹿しいことをする意味が分からない。他の人が越えられる派壁を自分が越えられないのは、生まれつきの能力の差のせいだ。自分が悪いんじゃない。悪いのは、恵まれた能力を授けてくれなかった親のせいなのだ」
そんなことを考えている間に勉強や努力をすればいいのに、決してそれをしようとせず、くよくよ考えたあげく、自分が世界の不幸を一身に背負い込んだかのような顔をし、子どもはこうつぶやく。
「あーあ、親ガチャ失敗した」
社会の推奨するとおりに「子どものやりたいことをやらせてあげ」「たとえ途中で投げ出しても決して叱らず、できたことを褒めてあげて」「障害となるあらゆる出来事をできる限り取り除いて」子どもが立派に成長できるよう、努力してきたあげく、こんなことを言われてしまっては、親としてはたまったものではないだろう。
それならばと、今まで学校や塾などにそうしてきたよう、大学や会社に乗り込み、自らの子どもを不当に扱うのをやめ、きちんと評価しその成長を見守ってくれるよう、意見を述べたりする方もいらっしゃるかもしれない。
だが、何度も言うが、社会は非情だ。
一定時間内に一定の成果を上げられない人間――大学側、企業側が「人並み」と設定しているハードルを越えられない人間は、どれほど親が必死で訴えかけようとも、「役立たず」として切り捨てるか、あるいは「お荷物」「お客さん」として戦力外と見なし、それこそ誰でもできるような簡単な――その分達成感のない――ことばかりを割り振られるか、どちらかになる。無能なうえにおざなりな努力しかしない人間を重用したりすれば、組織の存続自体が危うくなるのだから、これは当然である。いくらクレームを入れたところで、この冷徹な社会の論理が覆ることはない。
かくして、子ども本人も親も、袋小路に入り込むことになる。
社会の非情さに耐えきれず適応障害を起こし、引きこもったり、精神を病んだりしてしまう子ども。そして、そういった子どもを「長い目で見守り」、ときに「あくまで優しく、子どもの気が向くように」社会復帰への道を模索するよう進めても、一向に効果のないまま、いつの間にか数年、十数年が経過してしまう。
老境にさしかかった保護者が、加齢と共に働かなくなる頭や身体を酷使し、必死でものの役に立たない中年の「子ども」の面倒を見続けるという、親にも子どもにも不幸な将来へと、ひたすら突き進む以外なくなってしまうのである。
考えてみてほしい。
このような現状に陥った時、子どもは「ああ、幸せだ」と思えるだろうか?
そして、このように成長してしまい、高い社会の壁を前になすすべなくたたずむだけの我が子を目の当たりにし、なんの手助けもできない自分の無力さを痛感しながら、保護者は「ああ、幸せだ」と思えるだろうか?




