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「努力の大切さ」は本当に学びにくい

 「いや、そうは言うけど、子どもだっていつまでも幼いままじゃないし、そのうちいやでも努力の大切さを悟り、自分から努力しはじめるんじゃ……」

そのように思っていらっしゃる保護者の方も多いのではないかと思われる。

 だが、これは「希望的観測」である。

 実際には、努力の大切さを知らぬまま成長し、成人を迎える子どもが大多数を占める。

「どうして?子どもだって、そのうち努力しなくちゃ自分が損をするって、いやでも分かってくるだろうし、そうなったらきっと……」

などと思われるかもしれない。

 確かに、努力を軽視し、努力したがらない態度は、長期的に見て、確実に子どもの不利益になる。

 身につけるべき知識や一般常識等を身につけないまま、あるいは身につけたとしても不十分なまま成長することになるからである。

 ところが、こういった「長期的な視点」を自ら身につけるのできる子どもは、今も昔もごくごく少ない。

 今現在自分がいやなこと、面倒なことをすることで、近未来の自分がどのように変わるのか、そして、そのことが自分にとってどのような利益をもたらすのかを考えるのには、それなりの社会的知識が必要であるし、なにより「じっくりと考える」能力がなければ、そのような結論に達することはできないからである(意外に思われるかもしれないが、「物事をじっくり考える」ためになにより必要なのは「ひらめき」「頭の回転の速さ」ではなく、「一つのことにじっくりと向き合う忍耐力」なのである)。

 そして、この「じっくり考える」ことに必須な「社会的知識」「忍耐力」は、生まれつきその才能に恵まれた少数の幸運な子どもを除き、どちらも「努力」により身につけなければならない。

 つまり、努力の大切さを身をもって知るには、初めにまず「努力」しなければならないのである。

 この矛盾を解消するのは、現状ではとても困難だ。

 というのも、いかに「努力が大切か」を大人がこんこんと言って聞かせたところで、長期的にしか利益をもたらさず、短期的には苦痛でしかない「地道な努力」など、子どもはまずやりたがらない。「そんなつまらないことをしなくたって、その場その場の発想でしのげばいい。自分にはその能力がある」と、自分に自信のある子どもならば、まずそう考えるからだ。

 そして、再三言うが、現在のしつけは「できないことには目をつぶり、やったことを大いに褒める」方法が主流だ。

 この方法しか適用されずに育った子どもは、当然、「なにをやっても褒められるのだから、自分はなにごとも通常以上にこなせる能力の持ち主なのだ」と、自分を過大評価し、自信過剰に陥りがちなのである。

 この二つの相乗効果により、いかに長い時間をかけて言い聞かせようとも、子どもは努力を軽視し、まるでそれをしようとしないか、もしくは、おざなりに「やったふり」をしてお茶をにごすか、そのどちらかになってしまうのである。

 以前の、厳しいしつけ・教育が可能な状況下では、最初の数ヶ月間、有無を言わさず無理矢理子どもに「努力」を強いることで、その効果を実感させ、努力の大切さを身をもって学ばせることができた。だが、現行の法制下では、それは不可能である。そのせいで多くの子どもは、いつまでたっても「努力の大切さを知るための最初の努力」を成し遂げることができないのである。


 こういった「子どもの努力嫌いの傾向と、それを助長する育てられ方」に加え、さらに現在の社会状況も、子どもに「努力の軽視」を促していく。

「え、どうして?塾や学校では、努力の大切さを教えないの?」

と思われるかもしれない。

 そうではない。もちろん塾や学校などの教育機関でも「努力の大切さ」を口をすっぱくして子どもに教え込もうとする。

 だが、それはあくまで「口先だけ」でのこと。子どもが身をもって「努力の大切さを知る」ところまではなかなかもっていけない。

 なぜか。

 第1章でも述べたが、今現在、各教育機関における「厳しいしつけ・教育」は全て禁じられている。そのせいで、自分の思うがままに行動した結果、図らずも授業を妨害することになる子どもを強くいさめることができず、20年ほど前であれば「学級崩壊」として問題になったであろう状況が日常化していたりする。講師・講師はこれらの状況の収拾に追われ、その結果、以前に比べ「知識を伝授する」ための時間が大幅に減少してしまっている。

 しかし、各教育機関において、子どもたちが卒業するまでに身につけるべき知識というのは、文科省による学習指導要領において、厳密に定められている。

 少し脱線するが――この「学ぶ内容をあらかじめ決めておく」制度に関しては、さまざまな意見があると思われる。だが、例えば、小学校は卒業したものの、分数の計算どころか九九もあやしい、漢字は一切読めず、書けないといった生徒ばかりでは中学の勉強についていけないだろうし、中学校卒業したのにアルファベットもろくに読めないという状況では、高校での学習にはたえられないだろう。

 もちろん、中にはそのような「基礎的知識さえ身についていない子」が少数出てしまうかもしれないが、大多数の子どもには、最低限身につけるべき知識を身につけた状態で各学校を卒業してもらわないと、後々――ひいては社会に出てからの生活にも――響くことになる。従って、多少の改訂は必要かもしれないが、各学校で最低限身につけるべき知識をあらかじめ決めておくことは、やはり必要であると思われる(米国では、「教えるべき必須内容」について大ざっぱな規準しかなく、州ごと、学校ごとにかなり自由な学習内容が認められているらしい。生徒や保護者は、好みに合わせて学校を、学ぶ内容を選択できるという「自由」はあるものの、その分、大学入学後は図書館に缶詰になる勢いで勉強し、それら「欠けている知識」を補わなければ、卒業は難しいという。地域密着で生きていく分には「その地域での常識」さえあればいいが、「全国レベル」の人材になるつもりならば、やはり「全国レベルの基礎知識」が必要であるということだろう)。

 ということで、「教えないといけないと定められた知識」については――少なくともそのうちの「最低限必要な内容」は――遅くとも各学校を卒業するまでに、なるべくたくさんの子どもに――ただでさえ限られた時間しかない中、生徒をとりまとめるのに時間を取られるため、さらにほんのわずかしか残らない「授業時間」内で――伝授しなければならない。

 となると、授業形態は必然的に、効率的な、無駄のない形にならざるを得ない。

 「無駄のない授業」とはすなわち、「いかに効率的に問題を解くか」を教える授業である。

 文章の意味や読み方などはそっちのけ、とにかく「このような問題はこうやって解け」「この問題はテストに出やすいからしっかり解法を覚えておけ」という教え方をするしか――特に高校受験を控えた中学校では――するより他ないのである。

 同じことは、学習塾でも言える。

 保護者が学習塾に望むのは、成績アップである。成績アップとはすなわち定期試験や模擬試験、そしてもちろん中学高校受験で高得点を取ることに他ならない。しかもその上、これも学校と同じく、塾に通う生徒の中に「その場でやっていいことと悪いことの区別がつかない」「空気を読めない」子が混じり、意図せずして授業を妨害する。となれば、学校に増して「いかに効率的に設問を解析し、解答を導くか」という効率重視の授業をするより他なくなる。  

 塾でも学校でも、口では「努力は大事」というものの、実際に行われる授業においては「努力よりも要領の良さ」「楽に、効率的に、発想を生かして問題を解くのが大事」ということを、身をもって子どもに示し続けているのである。

 これでは、努力の大切さなど、身にしみるはずがない。

 

 こういった状況に加えて、さらにメディアが「努力なんかやめなよ、アイデアと発想こそ大事なんだ」と、子どもの耳元でささやき続ける。

「え、テレビとかネットとかで、そんなことを言っているの、みたことないけど」

と、けげんな表情を浮かべる方もいらっしゃるかもしれない。

 だが、よく考えてみてほしい。

 例えばテレビでよく見かける「裏ワザ」「ライフハック」などを紹介する番組。あれなどまさに「いかに家事を楽に、効率的に行うか」を伝えようとしているではないか。

 「ダイエット特集」や「コーディネイト特集」なども同じだ。数あるこれらの特集の中で「毎日しっかりきつい運動をしてやせないと、リバウンドするから無駄」「それなりの値段がするしっかりした服を買わないと、いくら小手先の工夫をしたところで安っぽく見える」などといった「耳の痛い事実」を中心においたものを、ご覧になったことがあるだろうか。

 おそらく、一つもないはずだ。

 これらはそのほとんどが「いかに楽に、簡単にやせるか」「出費を抑えていかに簡単におしゃれな格好をするか」を伝えるものばかりなのである。

 「おしゃれな女子高生の間で今~が熱い」「若い子達の間で~が人気急上昇中」なども同様。さまざまな情報を仕入れ、実際に現地へ足を運び、品物を吟味するといった「努力」をしなくとも、番組で紹介された「~」を着たり食べたり体験したりするだけで、今風のおしゃれな若者になれるのですよ、と教示する。

 さらに言えば、幼い子どもが夢中になるアニメや、思春期の子どもが見入るドラマ等の主人公も、その多くは「大した努力をすることなく」「たまたま手に入れた変身グッズのスイッチを押したり、たまたまちょっとしたアイデアを思いついただけで」、「世界征服を企む者や、分からず屋の上司といった『悪人』を、鮮やかに打ち倒す」といったストーリーのものが多い(恋愛ものなら、大した努力もせず、地味に生きていたのに、ある日突然イケメンに見初められる、といったパターンだろうか)。

 こうして俯瞰するとおわかりいただけると思うが、どれもこれも「努力なし、ちょっとしたきっかけで成功する」ことを暗に勧める番組ばかりなのである(同じことは、ネットメディアでも言える。どの動画を見ても「楽にうまくいきました」を伝えるものばかりで、「苦労に苦労を重ねてようやく成功をつかんだ、皆さんも努力すれば成功できるかもしれません」と訴えるものはまずない)。

 もちろん、メディアにはメディアの事情があることは重々分かっている。

 メディアのほとんどは、スポンサーの商品を宣伝する代わりに番組の制作費を出してもらうというシステムで成り立っている。つまり、メディアは本質的に「宣伝装置」である。

 宣伝装置である以上、その制作した番組を大勢の視聴者に見てもらい、商品の売り上げに寄与しなければならない。そうしないと、制作費を打ち切られてしまうからだ。

 ということで、番組製作者たちは、いかに視聴者の心をつかむか、視聴者の好むものを作るかに躍起になる。

 そして、メディア視聴者の大きな部分を若い世代が占めており、その若い世代である子どもたちは、努力よりも「ひらめき」を重視しているとなれば――本来「ひらめき」とは、なんとか難題をクリアできないかと長時間の努力と思考をくり返した結果得られるものなのだが、ここでいう「ひらめき」とは、そういったものではなく、単なる「その場の思いつき」であることに注意してほしい――その好みに迎合したプログラムを作らぬわけにはいかない。

 メディアはそういった「大人の事情」に忠実に番組を制作しているだけなのだが――それはそのまま、子どもたちの「努力の軽視」をますます助長する働きをしていることも、また事実である。


 さらには、効率重視、スピード重視の傾向は、家庭にも色濃く表れる。

 第2章で述べたように、共働き家庭はもちろん、専業の保護者がいる家庭でも、保護者は忙しい。

 そして、その忙しさのあまり、できる限り効率的な行動を取ろうとする。

 料理はなるべき時短や作り置きを活用し、こなさなければならない家事は一番手慣れた者が――つまりは自分が――さっさと行い、こなしてしまう。子どもに手伝ってもらいながらゆっくり家事をこなす暇など、どこにもない。子どものと共にする行動はたまのバカンスで十分、普段の生活はとにかくひたすら効率的に、なるべく手間暇かけず、さまざまな便利道具や「アイデア時短料理」等を活用し、なにごとも素早くこなすべきだ、それが一番よいことなのだ、という生活を、子どもにも強いる。

 その結果、子どもは「時短・手抜き・効率化はいいこと。地道な努力は馬鹿馬鹿しいことだ」という価値観を、骨の髄まで染みこませていくのである。


 成長期のどこかで――スポーツやゲーム、あるいは好きな勉強などで、どうしても勝てない相手に巡り会い、悔しい思いを味わうなどで――「努力しないと成長は望めないのだな」ということに気づくことができ、それまでの自分を改め、地道な反復練習を繰り返せるようになった、という子どもも、もちろん存在するだろう。

 だが、それはたまたま幸運であったに過ぎない。

 多くの子どもは「優しいしつけ・教育」によって身につけてしまった「努力軽視」の傾向を、家庭や学校、メディアといった、「子どもが最も親しみやすい社会」の風潮により、ますます強化、助長され、「努力なんてバカのすること」「要領の良ささえあれば、世渡りなんて余裕」などという思い込みをもったまま、成人を迎えることになる。

 そこで、大いなる価値観の転換に直面するのである。


 

 

 


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