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「自己実現」を達成する条件

 さて、自己実現が幸福感に大きく関与しているとすれば――今まで見てきた例により、深い関与があるに違いないと私は思っているが――「やりたいことを自由にのびのびとやらせてもらっている」日本の子どもたちだって、その自己実現を味わう機会が多いのではないか、と首をひねる方もいらっしゃるかもしれない。

 ところが、なかなかそう簡単にはいかない。

 なぜそう言えるのか理解していただくために、まずは、自己実現を達成するには、それなりの条件が必要であることを見ていきたい。


 こんな例を考えてほしい。

 メジャーリーグの大谷選手が「よし、来期はホームランを最低一本は打とう」という目標を立て、それを実現したとする。その時彼は「よし、やったぞ!」という充実感でいっぱいになるだろうか?

 あるいは、東大合格絶対間違いなし、と太鼓判を押される秀才がいたとして、その彼が「Fランク大学入試に合格する」という目標を立て、首尾よく合格したとする。その時彼/彼女は、「やった、目標達成だ!」と大喜びできるだろうか?

 かつてはものすごい成績を残したが、何かの理由でそれは過去の栄光となり、現在は絶不調である、などといった特殊な事情がない限り、これらの目標を達成したところで、大谷選手が喜びに満たされ、東大レベルの秀才が幸福感を感じられるとは、到底考えられない。

 なぜなら、彼らにとってそれらの目標は「達成できて当然」のものであるからだ。

 そういった「できて当然」の目標を達成したところで、普通喜びは生じない。ゲーム等で全く攻撃してこない敵ばかり撃破したところで全然おもしろくないのと同じである。

 「でも、中にはいじめなどで無抵抗の人間を虐待し、喜ぶものもいるではないか」と反論するものもいるのかもしれない。だが、あれは単に、自分では到底かなわない能力を持っているものを「暴力」というそれとは全く関係のない――そして、社会的に重視されていない――力で自分よりも下位に貶め、それでかりそめの優越感を得ているか、あるいは、自分の中にたまった鬱憤を、それとは関係のない他人に八つ当たりすることで、一時の平安を得ているかのどちらかであることが多く、自己実現の幸福とは全く違った、偽の充実感に過ぎない(だからこそ、しばらく時が立てばまた不満がたまるので、いじめは継続し、またエスカレートしていくのである)。

 真の充実感を得るためには、現在の自分の実力では到底達成不可能だと思われる高い目標――もしくは、最低限、現在の実力から考えて達成できるかどうか五分五分の「難しい目標」をまず立てる必要がある。そして、あらゆる才能を駆使し、また必要な努力を重ねてさらなる技術や知識、思考力を身につけることで、その困難な目標を達成するからこそ、充実感/幸福感を味わうことができるのである。


 さらに、こんな例を考えていただきたい。

 幼いころからずっと「トランプタワー」――カードを積み上げてピラミッドのような構造物を作ること――にはまり、カードを積みあげる技量はもちろん、積み上げやすいカードを識別する鑑識眼はもちろん、土台としてどのような材質、高さ、構造のテーブルを選べばよいかに至るまで、関連するありとあらゆる才能を磨きに磨き抜いた末、ついに目標とする30段のトランプタワーを立てることに成功した。だが、その成功した場所というのが無人島にある地下室であり、しかも、他の人類は皆死に絶えてしまっており、その快挙を知らせることのできる存在は誰一人いない。

 この状況で、目標を達成した「彼」は、深い充実感を感じられるだろうか?

 私は、そうは思わない。

 もちろん、自分の成し遂げた快挙に、最初は満足し、大いに達成感を感じるだろう。

 だが、すぐにその達成感はしぼみ、すぐにまた憑かれたように新記録への挑戦をはじめるか、そうでなければ挑戦自体をあきらめ、無為な日々を送るようになるのではないだろうか。

 人間とは、社会性の強い動物である。

 社会性とは、集団をつくって生活しようとする傾向であり、その集団の成員に認められることで、集団内の一定の地位を占めることが、青年期以降の人間の大きな欲求の一つとなる。

 「会社で上司に自分の仕事が認められた」「趣味のサークルで自分の作品が表彰された」「保護者会で自分の企画したイベントが評価され、皆に褒められた」などといったことが、それがたとえ自分が生きていく上での直接間接の利益につながらないことだとしても大変うれしく感じられること、あるいは、SNSなどの投稿に多くの「いいね」がもらえると大変喜ばしく感じられることなど、これら全てが「社会により自分が認められた」ことによる喜びである。

 これなしでは、どれほどの業績と成し遂げたとしても、喜びは半減する。

 人は、他者から認められようと努力し、他者から認められることによってはじめて完全なる達成感――自己実現を感じることができる、そういった傾向の強い生物なのである。


 この二つの例から、自己実現に必要な「三つの条件」が見えてくる。

 すなわち、


 ① 現在の自分の実力では到底達成不可能、もしくは達成困難な目標立てる。

 ② 努力を重ね、才能を十分に発揮して、その目標を実現する。

 ③ その業績を他人から認められる。


 以上の三点である。

 もしこの考察が正しいのならば――少なくとも「子どもの主権を守れ」が幸福な国家を形成する、という意見よりは、よほど真実に近い考察であると自負しているが――そのような状況を作り出すことで、自己実現は可能になり、「自分は幸福だ」と実感しながら生きていけることになる。

 そうではあるのだが……残念なことに、現状日本において、この「自己実現」の3っの条件をクリアすることは、非常に困難である。

 そして、「子どもを守れ」から始まる現在のしつけ・教育理念こそ、その「自己実現」を困難にする一つの――そしてかなり大きな原因となっているのである。

 



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