「体罰は子どもに悪い」説に科学的根拠はあるのか?――「体罰禁止」論に対する反論②
最後に、「子どもに体罰を加えると成長に悪影響があることは、科学的に証明されている」という言説について、反論を試みよう。
この「科学的に証明されている」とする説は一見非常に説得力がある。「科学的に証明されたのだから、それは正しいんだ」と、多くの人を納得させる力をもつからである。
現に、厚生労働省は先にも挙げた「体罰によらない子育てのために」という文書においても、この言説に重きを置き、
1.体罰等が子どもの成長・発達に悪影響を与えることは科学的にも明らかになっており、体罰等が繰り返されると、心身に様々な悪影響が生じる可能性があることが報告されている。
2.親から体罰を受けていた子どもは、全く受けていなかった子どもに比べ、「落ち着いて話を聞けない」、「約束を守れない」、「一つのことに集中できない」、「我慢ができない」、「感情をうまく表せない」、「集団で行動できない」という行動問題のリスクが高まり、また、体罰が頻繁に行われるほど、そのリスクはさらに高まると指摘する調査研究もある。
3.また、手の平で身体を叩く等の体罰は、親子関係の悪さ、周りの人を傷つける等の反社会的な行動、攻撃性の強さ等との関連が示されており、また、それらの有害さは、虐待に至らない程度の軽い体罰であっても、深刻な身体的虐待と類似しているとする研究結果も見られる。
4.はじめは軽く叩く程度でも、子どもが痛みを受けることに順応する可能性があり、同じ効果を得るために暴力がエスカレートしていき、気付いたときには虐待に発展することも考えられる。虐待事例において、加害者が「しつけのためだった」と言う事例も存在する。
5.このような虐待や体罰、暴言を受けた体験がトラウマ(心的外傷)となって、心身にダメージを引き起こし、その後の子ども達の成長・発達に悪影響を与える。
などとつらつら「研究結果」を書き連ねることで、「体罰は絶対にしてはいけないことだ」という印象を国民に与えている。
これらの「啓蒙活動」により、「体罰等の厳しい罰を与えるのは、いかなる場合でも、子どもにとって害悪でしかない」という説に従い「体罰厳禁」を法制化したことを正当化し、保護者や教育関係者にこれらを遵守させようというのだろうが……先にも述べたが、実はこれらの言説、よくよく見ていくと本当に「科学的」かどうか、非常に怪しいものばかりなのである。
ウソだ、信じられない、と思われる方も多いかもしれない。それほどまでに「体罰は科学的見地から見て悪影響しか及ぼさない」という誤解は根強い。
だが、これらの言説について、一つ一つ丁寧に考察を行うと、なんてもいえねい「怪しさ」が醸し出されてくるのである。
どういうことか、一つ一つ検証していこう。
まず、1について。
「体罰等が子どもの成長・発達に悪影響を与えることは科学的にも明らか・体罰等が繰り返されると、心身に様々な悪影響が生じる可能性がある」と書いているが、非常に曖昧な表現だと言わざるを得ない。もっと具体的に、何歳頃にどの程度の体罰を受けると、どのくらいの割合で子どもに「悪影響」があるのか述べなければ、到底「科学的」とは言えない。さらに、体罰等をどのくらいの頻度でくり返せすと、心身にどのような悪影響が生じるのかも述べられていないので、こちらの文言も科学的とは言えない。
「どんな年齢・どんな軽度の体罰等であっても、子どもには必ず悪影響を与えるのだ」と強弁する方もいらっしゃるかもしれないが、それならば、現在よりも体罰が一般的であった1980年代以前に子ども時代を送った40代以上の大人は、成長・発達に悪影響を与えられた割合が、現在よりずっと多くなければならないことになる。だが、現状適応障害を起こしたり、校内暴力や授業崩壊を起こしたりする子どもの数が激増していることを鑑みるに、「体罰等絶対禁止」が声高に叫ばれるようになってからの方が、明らかに「子どもの成長・発達に悪影響」を与えているのではないか。
次に、2の言説について。
こちらについては、原文の下方にその根拠となった論文の題名が示されている(藤原武男他「幼児に対する尻叩きとその後の行動問題:日本におけるプロペンシティ・スコア・マッチングによる前向き研究」2017)。その題名から見るに、この場合の「子ども」とは、「幼児」のことであり、その体罰とは「尻叩き」のことであるらしい。
幼児とは、専門的には満1歳から小学校就学年齢にまでの子どもをさす。この論文が幼児期の前半期か後半期か、それとも幼児期全般の子どもを広く対象としたのかは定かではないが、もし全般を対象としたのであれば、少々年齢のくくりが乱暴であると言わざるを得ない。
前にも述べたように、(幼い頃から保育園に通っている子を除き)満1歳から幼稚園に入園するまでの時期は、保護者が子どもを全人的に認め、無償の愛情を注ぐことで、子どもの自己評価を高めるべき時期である。この時期に体罰等の厳しいしつけ・教育を頻繁に行えば、大人全般に対する信頼度が低くなり、問題行動のリスクが高まるのは当然のことだ。
だが、これはあくまで幼児期、それも「社会」と出会う前の時期限定の話である。
幼稚園等において、自分の意志を通したいがために他の子どもや先生に暴力を振るう子どもに対してすら、体罰等の厳しいしつけを行わなければ、子どもはそれを「絶対にしてはならないことだ」と認知する機会を失う(おそらくこのことが原因で、小学校における校内暴力が増え、さらには今では報道されることすらなくなってしまったほど、学級崩壊が日常化したのではないかと思われる)。
ひとくくりに「幼児期」とは言っても、保護者の元で1日大部分を過ごす時期と、幼稚園や保育園に通いはじめ、社会性を身につけはじめなければならない時期とに大きく分けることができる。それぞれの時期では、保護者が行うべき行動は違っているはずだ。さらに、保育園に通っていたり、主たる保護者である親だけでなく、例えば養育のかなりの部分が祖父母によって施されていたりなどという事例により、あるいは個人差により、この時期の子どもの発達の度合いはさまざまである。論文原文に当たっていないので、そのあたりの差異をどのように処理しているのか定かではないが、少なくとも「幼児に体罰を加えるとおしなべて問題行動を起こすリスクが高まる」という結論は、やや乱暴ではないか、という印象を受ける。
また、「その後の行動問題」と題名にあるが、教育手法の違いが子どもの発達にどういう影響を与えるかは、少なくとも研究対象となった子どもが成人し、社会の中でどのような生活を送っているかまで経過を観察しなければ、明確な結果を得たとは言えないはずである。たかだか数年後の、学童期の様子がどうであるかだけを調べただけでは、到底「発達の度合いに差異が出るリスクがある」とは言えないのではないか。
さらに言うと、そもそもなぜ保護者がその子に「尻叩き」を行ったのか、という問題もある。つまり、もともとやや育てにくい――保護者の言うことをさっぱり聞かず、勝手なことばかりしている性向の強い子どもであったからこそ、「体罰禁止」の声が高まる社会の中でも、耐えきれず保護者が体罰に及んだのではないか、その可能性は考慮しているのかどうか、ということである。
もとから「落ち着きがなく、一つのことに集中できず、我慢のできない」性向の強い子どもであったならば、尻叩きされたかどうかにかかわらず、その子が成長しても「落ち着きがなく、一つのことに集中できず、我慢のできない」性向を示すことは、ある意味当然である。元の論文は、そのあたりを加味して、はっきり「発達の度合いに差異が出る」と言い切るのではなく、「差異が出るリスクがある」と結論づけているのだと思われる。逆に言うと、そう結論づけている時点で、それらの子どもの個体差については、あまり重きをおいていないのではないかと推察される。
もしそうであるなら、この論文に示された条件だけではなく、対象となる子どもの性向や発達度合いを細分化した上で、改めて観察なり実験なりを行わないことには、はっきりした結論を述べることはできない。
ましてや、厚労省の「体罰によらない子育てのために」という文書では、元の論文で「幼児」であった対象をさらに大きく「子ども」――成人する以前の時期全般へと広げ、意識的にか無意識にかは分からないが、あたかも「子どもである時期全般において、体罰は悪影響を与えるリスクがある」かのような印象を読者に与える文面にしてしまっている。
これでは到底「科学的」などとは言えない。
さらに、3について。
この部分の文言についての典拠してあげられているのが、エリザベス・ガーショフ氏らによる一連の研究及び、その結果を発表した論文である。彼女の論文は、国際的に「子どもの虐待禁止」を推し進めようとする諸機関――ユネスコ等の国連機関やセーブザチルドレンのようなNGO組織の活動の根拠にされることも多い、かなり有名なものである。が、実のところ、この論文で述べられて結論も、一概に信頼していいものかどうか、かなりためらわれる。
「それだけ有名な論文なのに、疑うというのか!」
と激昂する方もいらっしゃるかもしれない。そういった方にも納得していただけるよう、研究手法等を細かく見ていきたい。
まず、「あやしげな点」その1。
このガーショフ氏らによる論文における研究手法は「メタ分析」である。
メタ分析とは、簡単に言えば、他の誰かが行った研究を数多く集め、それらを統計的に処理することによって、そこから何らかの「傾向」を見出す、というものだ。
分析手法にもよるが、通常このような統計学的手法をとる場合、「細かい状況」は多かれ少なかれ切り捨てられる。研究対象となった子どもの家庭環境、国籍、性向、年齢、そのほか諸々の条件を切り捨てた上で、いわば「要素としての体罰とその結果」だけを数多く集め「大ざっぱに言うとこういう傾向があるみたいだよ」ということを見つけ出す、そういった研究手法なのである。
したがって、そこから導き出される結論としては「大ざっぱに言って~であるという可能性が考えられる」というものに過ぎない。
ところが彼女は、「今回の研究によって、体罰は子どもの態度の改善につながるどころか、むしろ悪化させるという明確で説得力のある証拠が見つかった」「しつけの一形態としての体罰は、子供たちになぜその行動が間違っていたのかを教えることも、正しい行動はどうあるべきかを教えることもできない」などと断言してしてしまっている。
これは到底、科学的とは言えない態度である。
次に「あやしげな点」その2。
今述べたように、ガーショフ氏の研究手法は「メタ分析」である。
である以上、当然、その題材となるのは「他の研究者が発表した先行する虐待についての研究論文」ということになる。彼女は数百編に及ぶ先行研究論文を分析し、そこから結論を導き出したらしい。「それだけ多数の研究論文を分析したのだから、結論だってきっと正しいはずだ」と思われるかもしれないが、果たしてそう言い切れるのだろうか。
研究論文とは、ざっくりいってしまうと「研究者が発見した新たな事実を世間に知らせるための文書」である。それは「公正な事実ばかりを発表する」文書だと思われがちだが、実はそうではない。論文が発表できる場は――ごく最近、ネットの普及により、ようやくそのくびきが外れつつあるが――その学問の「専門誌」に限られており、その専門誌から依頼されて論文を下読みする研究者の考え方からあまりにかけ離れた論文は、その段階で掲載を却下されてしまうからだ。
簡単にいうと、ある学問分野の「研究傾向」からあまりにかけ離れた論文は、はじめから相手にされず、なかったことにされてしまう、ということである。
そして、「体罰」について研究する学問といえば「児童心理学」や「発達心理学」といった分野になるが、これらの分野においては、「体罰は虐待であり、必ず悪影響を与える」というのは「学問的常識」となってしまっている。
これには深い理由がある。
そもそもアメリカをはじめとしたキリスト教・イスラム教等の一神教文化圏では、伝統的に子どもは基本的に親の所有物であり、子どもの行動の結果は、所有者である親が責任を持つ以上、子どもは親に絶対服従するべきであり、もし親に逆らうようなことがあれば、厳しく罰を与え、しつけなければならない、という認識がいまだに根強い。
このため、これら諸外国で行われる体罰等のしつけは、日本では考えられないほどに厳しく、きついものになりがちであり、社会もそれを当然の行動と見なす傾向が、19世紀以来、ずっと続いていたのである。
その流れが第二次世界大戦後、変化した。
帝国主義が終焉を迎え、人種や民族の別なく自主独立が認められるようになる中、不自由な生活を余儀なくされている「女性」「子ども」にもスポットが当てられるようになる。
そして、ちょうどその頃発展の兆しを見せていた心理学研究の一環として子どもをその題材とし「それまでの文化的常識とは違い」子どもへの体罰は心理的に悪影響を与えるのだ研究が、続々発表されるようになったのだ。
こういった流れから、「子どもの成長と体罰の関係」を題材に研究を行う場合、「体罰は悪影響しか与えない・禁止するべきものだ」という結論が当然のものとなっていき、それ以外の「体罰が一概に悪いとは言えない」などという主張は――たとえそういう疑念を抱いていたとしても――その分野の研究者であり続けることを望む限り、口が裂けても言えない状況となっていく。
こういった学問分野の状況が存在する上に、心理学研究には大きな制約がつきまとう。生きた人間を研究対象とする関係上、人道上の問題から、例えば、「大勢の子どもを大きく二つのグループに分け、数年間、片方には継続的に体罰を与え、もう片方には与えないようにして、結果を見る」などといった、対象に悪影響を与える可能性のある大規模な実験は実施できないのだ。
従って、その調査研究の方法は、「福祉施設に寄せられた相談などから体罰を日常的に行っていた家庭をピックアップし、定期的に聞き取り調査等を行い、その後の成長過程を他の家庭と比較することで、体罰の影響を推測する」「既に成長した大人に対する体罰についてのアンケートを行い、その結果から結論を引き出す」などといったものが主流となる。
これらの研究手法、実は非常に危うい。
まず前者の「体罰を行っていた家庭を見つけ出して調査する」手法だが、そもそも福祉施設が介入しなければならないような家庭では、体罰以外にネグレクトや貧困、愛情の不足など、多くの問題を抱えている場合が多い。それら多くの問題が複雑に絡まり合い、影響し合うことで、子どもの問題行動を引き起こす、と考えるのが」妥当な考察ではないかと思われるのだが、こういった状況下を分析する研究者に「数ある問題の中で体罰が一番悪影響を与えるはずだ」という先入観があると、知らず知らず、あるいは意識的に、その影響ばかりを過剰評価してしまう可能性があるのだ。
同じことは、後者の「アンケートによる調査」にも当てはまる。
つまり、調査結果を集計する時点で、「保護者から日常的に体罰を受けていた」という回答の中から寄せられた「その後の悪影響」ばかりに注目してしまう可能性が高いのである(そもそもそれを見つけ出そうとして調査を行っているのだから、ある意味これは当然である)。
さらに、アンケート調査の場合は、他の危うさもつきまとう。
まず、アンケートの文面である。
例えば、「あなたは大人からどんな価値にしろ体罰を受けたことがあるか?あるとすれば、その事によってどのような悪影響を受けたと考えているか」などという文章を書いた上で「大人を怖れるようになった」「恐怖心のあまり、勉強に身が入らなくなった」などといった、あらかじめ用意された選択肢を選ぶという形のアンケートと、「あなたの子どもの頃、最もマイナスの影響が大きかったことはなにか。またその影響とはどのようなものだったか」という文章で、下に枠だけが示され、被験者本人が書き込む形式のアンケートでは、当然ながら結果は大きく違ってくる。前者は「子どもへの体罰は枠影響を及ぼす」とはじめから決めつけてしまっているため、被験者はそれに影響されてしまうのである。
こういうアンケート調査の場合、研究者の先入観の影響を防ぐため、その文面は細心の注意を払って作成しなければならない。が、実のところそのような「表現による結果の違い」について認知されるようになってからまだ日が浅く、古い研究ではそのあたりが全く吟味されていないことも多いのである。
そして、アンケートの回答を寄越したものが真に「無作為抽出」された人間なのかどうかについても、考える必要がある。
つまり、この種のアンケートがいきなり家に送付されてきた/学内で実施されていたとして、これに回答するのは、どういった人になるだろうか、という問題だ。
今現在の生活に満足し、充実した毎日を送っている人間が、このようなアンケートに答え、貴重な時間を消費しようと思うだろうか?
まあ、普通は思うまい。
「なんだこれ。フン、くだらない」と路上でのアンケートの場合は素通りし、送付されてきた場合はそのままゴミ箱にポイ、という結果になるのが関の山ではないか。
そうなのだ。
無作為抽出した被験者とうたってはいるものの、学内等でアンケートを実施する場合、回答するのは「教育問題に興味があり、それまでに講義等で教育論に触れたことのある者」の割合がかなり大きくなるだろうし、送付したアンケートの場合、それらにわざわざ回答して送り返すのは、例えば日頃から教育熱心で、細心の教育論などを熱心に読み込んでいたり、あるいは、現状に不満を抱えており、せめてその不満について、アンケートの形で研究者に理解してほしいと熱望しているような者が増える傾向がある。
つまり、「体罰に関するアンケート」では、「体罰は子どもの成長に悪影響があると、あらかじめ「常識」として理解している者」「俺・私は、幼い頃体罰を受け、ひどい目にあったという者」からの回答が多く集まってしまう危険性が、常につきまとうのである。
さらに、人間には、現状のマイナス要因は他人の責任として、プラス要因は自分の手柄として考えたがる傾向がある。
成績が常に上位ランクにあったのは、大人達に怒鳴られ叱られ叩かれしたからではなく、自分が頑張ったから。自分の性格がゆがんだのは、両親に叩かれて育ったから。そんなふうに考えがちなのである。
このような受け取り方をするため、厳しいしつけ、指導を受けた当人は、これらに対してアレルギー症状を呈するようになる。それらの持つプラス面は忘れられ、見落とされ、マイナス面だけがクローズアップして語られることとなるのだ。
そういった人間にアンケート調査を行えば、当然、「体罰には悪影響がある」という解答ばかりが多く集まることになってしまう。
これらのことを考えると、アンケートによる調査で得られる「結論」には、「親や教師に厳しくしつけられたことを恨んでいる人間は、自分が不幸な境遇に陥った原因を、昔受けた体罰などに求めることが多い」ということ、あるいは「体罰は子どもの成長に悪影響があるという教育を受けた者は、体罰は子どもの成長に悪影響がある判断しやすい」という「偏り」が、色濃く影を落としているということになる。
これらアンケート調査を行う研究者は、それらの調査結果をうのみにし、「だから体罰は子どもの成長に悪影響を与える」という結論を引き出しがちだが、それは勇み足に過ぎないのではないかと、私には思われるのである。
このように「体罰都政著への影響」といった心理学関連の論文では、その研究手法が「小規模で間接的」なものが多く、調査観察期間もたかだか数年間という短期間でその結論を引き出そうとするものが多い。しかも、従って、そこから引き出される結論も――たとえそれが他のあらゆる問題の影響を排したものであったとしても――局所的、限定的なもの(文化やその当時の社会に影響されるもの)であり、おいそれと一般化できるものではない。さらにその上、アンケート調査や聞き取り調査につきものの「研究者の先入観」をどれだけ厳密に排除できているか、さらにそれらの結果を分析する研究者が、どれほど自分の「予測」を排除し、公正な目でその影響を判断しているか……。
これらのことを考え合わせていくと「体罰の影響を測る学術研究においては、その影響が常に過大評価される傾向があるのではないか」という疑念を持たざるを得ないのだ。
さて、話をガーショフ氏の研究に戻そう。
先に申し上げたとおり、ガーショフ氏の研究手法はメタ分析であり、その分析対象となるのは、先行する研究論文である。
こういった研究手法は、これらの先行研究が妥当なものである――広く人類一般に適用できるだけの妥当性を持った、公正かつ厳密なものである限り、意味を持つ。
ところが、今見てきたとおり、心理学の研究論文は、研究者の立場や先入観、そして研究手法につきまとう「あいまいさ」という弱点により、偏った結論を出しがちな――少なくともその危険性が常につきまとうものである。
それら「研究者の偏見に満ちた(可能性をはらむ)研究」をいくら大量に集め、再分析したところで、結果は当然、「偏見混じり」のものにしかならない。
「いや、先行研究者の「結論」ではなく、それらの研究に使ったデータだけを使用するなら、きちんとした結果が出るはずだ」
などと思われる方がいらっしゃるかもしれないが、残念ながらそうはならない。
「体罰を受けた者」について「その後どういう影響があったか」について選び出すデータそのものが、研究者によって選別されたものだからである(つまり、親から体罰を受けていた子どもについて「攻撃性の強さ」という「悪影響」はデータ化しても、その裏返しの影響である「負けん気の強さ」から発する「社会的地位の高さ」「勉強やスポーツにおける業績」などといった項目については、誰も言及しない、ということである)。
結局のところ、メタ分析という手法をとる限り、それは先行研究者の出した結論である「体罰は悪影響を与える」という結果をなぞる結論しか得られないのである。
統計的手法であるメタ分析の、この種の危うさについては、当のガーショフ氏自身、はっきり気がついているはずだ。
にもかかわらず、もう一度言うが、彼女は、「今回の研究によって、体罰は子どもの態度の改善につながるどころか、むしろ悪化させるという明確で説得力のある証拠が見つかった」「しつけの一形態としての体罰は、子供たちになぜその行動が間違っていたのかを教えることも、正しい行動はどうあるべきかを教えることもできない」などと断言してしまっているのである。
この態度のどこが「科学的」なのだろうか。
そして、さらにこのガーショフ氏の研究には、本質的な問題点がある。
そもそも子どものしつけ・教育について、統計学的手法を当てはめていいものなのかどうか、ということである。
先ほども少し述べたが、「メタ分析」は統計的な手法であろ。「統計」は、その性質上、必ず対象をモデル化して――つまり、その子の個性の多くの部分を「ないもの」として扱う。そうでないと、「数多くのものを集計して一定の結論を得る」統計自体が成り立たないからだ。
だが、個々のしつけ・教育において最も重要なのは、そのモデル化する際に削り落とされる「個性」ではないのだろうか。
子どもは一人一人皆違っている。その子にもっとも適したしつけ・教育を考えることなく、全般としてこういう傾向があるのだから、このようにすべきだ、などと決めつけてしまうのは、それこそ子どもの個性を無視することになるのではないだろうか。
そして、それら個性を全く無視した、大ざっぱきわまりない「体罰は子どもの成長に悪影響を与える」などといった結論をそのままうのみにし、「間違いありません」といわんばかりに政府刊行の文書に載せてしまうお役人は、迂闊としかいいようがない。
「子どもの個性を重視した教育」などを謳うのであれば、その教育手法を無下に制限するのをやめ、体罰を含めた「子どもにとっても最も効果的な手法」を選択す余地を残すべきではないか。それを、なぜざっと見ただけであやふやきわまりない研究を持ち出し「科学的に証明されている」などとして、子どもの個性を全く無視した教育を押しつけようとするのか、本当に理解に苦しむ。
これを「非科学的」と言わずして、なんと言えばいいのだろうか。




