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「厳しい教育は子どもに悪い」という「常識」は正しいのか?――「体罰禁止」論に対する反論①

 さて、これまで子どもを取り巻く最も近しい環境である「家庭」について、「働く保護者しかいないご家庭」と「家事育児に専念できる保護者が存在するご家庭」に分け、現状を俯瞰してきた。

 そのどちらにおいても、「子どもはのびのびと自由に、やりたいことをどんどんやらせて育てるべきだ」「子どもの人権を最優先とし、しっかり守りつつ育てるべきだ」という美しいスローガンの下、子どもに対するしつけ・教育に費やすべき時間がどんどん少なくなっていること、そして、大きな原因となっているのが、「子どもの人権を守れ」から派生した「体罰を中心とする厳しいしつけ・教育は絶対禁止、子どもを叱る時は、あくまで優しく、理性的に言い聞かせるという手法だけが許される」という現行法による制限であることが、おわかりいただけたのではないだろうか。

 あえてもう一度いうが、「子どもに配慮した」しつけ・教育は効率が悪く、「成人し、社会に出て一人前の人間として生きていく、そのための知識・行動様式を身につける」という「しつけ・教育を施す目標」を達成するためには、極めて不向きである。

 というのも、子どもは大人と比べ、理性的判断力が未熟であり、その子どもに「理性に基づいた」しつけを施したとしても、効果が薄いからだ。

 一部の子どもは、時に怖い大人に脅しつけられ、ひっぱたかかれるからこそ、「身にしみて」自分がやってはいけないことをしたと悟る――その方法でしか悟れない。厳しさのないしつけ・教育はこういった子どもに対し無力であり、子どもの無知蒙昧・傍若無人を増長させる。

 「理性的に言い聞かせて育てる」だけに頼った方法は、子どもの「子ども時代」に限れば「子どもを幸福に成長させる」手法のように思われるが、長い目で見ると、子どもに必要な世間知を身につけることを阻み、成長してからの――子ども時代よりもずっと長い「大人時代」の――子どもの利益を損なうものなのである。

 ……と、公の場でこんなことを言えば、間違いなく反論の集中砲火を浴びることになるだろう。

 その内容も、大体想像がつく。

 曰く、

「昭和の古くさい教育を語るな!今は令和だ、時代が違う!」

「大人が体罰や怒鳴りつけのような虐待をすると、子どもが覚えて他の子に暴力をふるうようになる!」

「子どもにだって人権があるんだから、その人権を尊重すべきだ!」

「子どもに体罰を加えると成長に悪影響があることは、科学的に証明されている!」

などといったところだろうか。

 一見すると、どれもこれも、現代の「常識」に即し、説得力に満ちあふれたものばかりである。

 だが、驚くなかれ、だが、実のところこれらの主張は全て――最期の「体罰は悪いものだと科学的に証明されている」というものまで含めて――全て根拠があやふやで合理性に欠ける、「迷信」に近いものばかりなのである。

 いきなりそういわれても、にわかには信じられず、困惑するか、呆然とするばかりかと思われるが……一つ一つについて丁寧に考察を重ねていくと、そういう結論に至らざるを得ないのだ。

 順に説明していこう。

 

 まず最初の、「時代が違う、古くさい教育論は無意味だ」というもの。

 逆に考えてみてほしい。

 なぜ新しい教育論が「正しい」ものだと分かるのだろうか。

 厳しいしつけ・教育を行い、それによって社会性のある大人に成長させる、という教育方法は、江戸時代から行われてきた方法である。そのおかげで、日本はいつの時代にも人材が払底することなく、明治維新で列強に食い潰されることなく、また、太平洋戦争で敗戦し、国土が荒廃した後も、奇跡的な復興を遂げることができた。

 ところが、現在はどうであろうか。

 子どもの人権を叫び、優しい教育が蔓延するようになった現在、適応障害や鬱症状を起こす若者はどんどん増加している。働く意欲を持たず、一攫千金を夢見て危険な投資やギャンブルに手を出し、破産するもの、引きこもるものも、後を絶たない。

 体罰や怒鳴りつけのない優しい「新しい」教育が効果的なのであれば、少なくとも教育現場で、生徒の知性や健やかな成長が促されているはずだ。なのに、現状、学校での教育はどんどん荒廃し、教えることのできる内容はどんどんやせ細り、さらには近年、校内暴力までもがどんどん増加している。

 この現状を、どう説明するのか?

 「新しい・優しい教育」を推進してきた「進歩派」の人間たち――はっきり「リベラル派」といってもいいが――は、こういう質問については、黙りこむか、「もう後しばらく時間がたてば、きっと効果が現れるはず」と苦し紛れの言い訳をするか、どちらかである(ちなみに「優しい教育」が「常識」として語られるようになったのは、1990年代あたりからである。既に30年が経過しているのだから、そろそろ効果を発揮してもよさそうなものだ)。

 なので、代わりにはっきり言おう。

 「優しい教育」は、「子どもを社会人に成長させる」という目的にそぐわない――役に立たない方法なのだ。

 「新しい」ものだからといって、それが正しいとは限らない。同様に、昔からあるものだからといって、因習的・効果のないものだとも限らない。その方法を実施した結果、どのような効果が現れたかが大事なのである。

 そして、その「結果」を見る限り、「優しい教育」は子どもを成長させるためのツールとして、まったく不向きであると結論せざるを得ないと思われるが、いかがであろうか。


 次に、「大人が体罰や怒鳴りつけのような虐待をすると、子どもが覚えて他の子に暴力をふるうようになる」という反論について。

 先にも述べたが、今現在、校内暴力はどんどん増加している。もし、「大人が怒鳴ったり、叩いたりするから子どももそれを覚える」説が正しいとするならば、「理性的に教えさとす」しつけ・教育が徹底され、以前より暴力を目にする機会は減っている現在、校内暴力は減少しなければならないはずだ。

 だが、逆に増加しているのだから、この反論は成立しない。それどころか、逆に「大人が理性的になればなるほど、子どもは暴力的になる」ということを、この結果は雄弁に示している。

 なぜそうなるのかは、想像に難くない。

 いくら保護者が「暴力はダメ」と教えさとしたとしても、早晩子どもはどこかで「暴力」とその効果を目にすることになる。

 テレビドラマやアニメでは、いまだケンカや戦闘シーンが花盛りである。「正義」の名の下に振るわれるそれらの「暴力」を全て、子どもの前から隠すのは難しい。

 同様に、警察の逮捕劇や諸外国の軍事演習、あるいは、幼稚園でのケンカといったものまで、暴力は日常に浸透している。そして、それら暴力を振るうことで自らの我を通すことができる場面も、同時に目にすることになる。

 だだをこね、保護者や教師を叩いて泣きわめいても、優しく言い聞かされるだけ。そして、それを続けることで、首尾よくワガママな主張を通してしまう場面を目にすれば、どう思うだろうか。

「そうか、ああすれば皆に/先生に自分のいうことを聞かせられるんだ。今度から僕も/私もそうしよう」

と、多くの子どもはそう思うに違いない。

 そして一度味を占めたら、子どもはまた同じことをくり返す。そして、それが他の子らにも伝染していくことで、校内暴力の蔓延を招くのである。

 もちろん中には、「完全に暴力的なものから隔離されて育つことで、自らが暴力をふるうことなど考えもしない」ように育つ子どももいるかもしれない。

 だが、よく考えてほしい。こういう子が成長した後、もしも「暴力的な場面」――例えば家に強盗が押し入ってきたり、上司や取引先が強引なタイプであったりした場合、どうなるだろうか。

 暴力を知らなければ、当然ながら、それに対する冷静な対処もできない。強盗に入られてもどうすればよいか分からず、大の大人がひたすら立ち尽くし、泣き叫ぶだけという、この上なく情けない状況になったり、あるいはその逆に、相手が暴力という手段に訴えるということを想像だにできず、へらへら笑ってやり過ごそうとして相手を激昂させ、最悪の事態を招くかもしれない。

 仕事の面でも「あいつはちょっとすごんでやれば、なんでもいうことを聞く」となめられ、次々不利な取引を結ばれ、しんどい仕事ばかりを押しつけられて、自滅していくこともあり得る(こういった場合、当然警察は役に立たない。相手は「暴力に訴える素振り」を見せているだけだからだ。また、会社の体質や相手の巧妙さにもよるが、ハラスメント対策室のようなところに相談したところで、解決できるとは限らない。社会人として「この程度なら耐えて然るべき」と見なされる場合、手の打ちようがないからである)。

 現実問題として、暴力/暴力的なものと完全に無縁の社会など、この世のどこにも存在しない。である以上、それらをいくら禁止したり、それらから遠ざけたところで意味がない――どころか、かえって生活に支障をきたす。「暴力」を「いけないこと」としてやみくもに遠ざけ、ふたをすて見ないようにするのではなく、正面から向き合い、いかにうまくつきあっていくか、その方法を学ぶことこそ重要なのである。

 

 さらに、「子どもにだって人権があるんだから、その人権を尊重すべきだ」という反論について。

 このような人権論を振り回す方々は、あえて触れないことが多いが、「人権」すなわち「人間としての権利」には、必ず「義務」がつきまとう。

 権利を主張するからには、それなりの義務を果たさなければならないというのが、近代法の基本的な精神である。

「いや、人権とは基本的人権であり、それは人間が生来持っているものだ。その権利を享受するのに義務を果たす必要などない」

と、法律に詳しい方ならおっしゃるかもしれない。

 だが、よく考えてほしい。その主張が真実であったとしても、やはり無意識の、成文化されない義務はつきまとっている。すなわち、「他者の基本的人権を侵害しないようにする」という義務である。

 つまり、子どもの人権を認めるのであれば、当然それは他の子どもにも、教師にも適用される。教室で無駄に騒いだり、他の子どもや教師に暴力を振るい、その基本的人権を侵害するのは許されないはずだ。

 このような行動を大人が取れば――つまり、大声で講演の邪魔をしたり、他人に暴力を振るったりすれば、警察の出番となる。

 警察とはすなわち、国家公認の「暴力」である。

 もし「子どもの人権」を認め、同時に体罰禁止をも遵守するのであれば、常に学校に警官を常駐させ、教室で騒ぎ、暴力を振るう子どもに対しては、即時逮捕拘束する、という結論にならざるを得ない。

 警察以外に、国民に対し公認された「暴力」を行使できる機関は存在しないからである。

 これ以外に「子どもの人権・教師の人権」を守るすべは現状存在しない。もし、この方法について「そんな大げさな」と思われるのならば、教師・講師・保護者という「私人」による緊急避難的な「暴力」の使用を――つまりは厳しいしつけ・教育か、あるいは、「社会性のない子どもの一時的/恒久的排除」かを――認めるべきではないか。

 「人権」を振りかざす方々はたいがい、その「人権」が誰にも平等に与えられていることを忘れていらっしゃる。「人権」を守れと言うのならば、同時にその当人に「他人の人権を尊重する」義務があることも、教えなければならないのである。


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