そもそもなんのために子どもをしつけるか――「理念」と「目的」の大いなる矛盾
今現在、厚労省のお役人たちだけに留まらず、大多数の子育て中の保護者の方たちも、
「子どもを叱るとき、まず子どもの言い分をよく聞き、声を荒げずに冷静に教えさとし、時には注意を諦め、子どもができるようにあったら褒めてあげる。実に理性的で道義にかなった、素晴らしい方法だよね。体罰や怒鳴りつけなどといった野蛮な方法に頼らずとも、これでしつけは十分でしょう」
と思っていらっしゃるように思われる。
だが、果たして本当にこの方法だけで、満足なしつけ・教育が可能なのだろうか。
このことを検討する上で、まずは基本中の基本を押さえたい。
そもそもなぜ、しつけや教育は必要なのか。つまり、しつけや教育は、なにを目的としているのか、ということである。
先に挙げた厚生労働省の文書『体罰等によらない子育てのために』では、しつけについて、
「子どもの人格や才能等を伸ばし、社会において自律した生活を送れるようにすること等の目的から、子どもをサポートして社会性を育む行為」
と定義している。
つまり、しつけの目的とは、子どもが成長した後、社会に溶け込んで生きていけるよう、必要な知識と行動様式を身につけさせる、ということ――成人したときに社会人として生きていけるようにすることである、ということになる。
そこで問題は、今現在の「冷静に言い聞かせる」というしつけの方法で、この目的を十全に達成できるのか、ということになる。
このことについて検討する前に、少々本題から外れるが、現状政府が掲げている「教育理念」は、この同じ政府が示す「教育の目的」と、大いに矛盾する点があることを、一つ指摘しておきたい。
現在は「個性尊重の時代」である。
教育理念もこの方向に沿って「子どもの権利を守る」「子どもの個性を伸ばす」ことを大きな柱としている。
「権利を守る」とはこの場合、子どもの自由をできうる限り制限しないようにすること――自由権の尊重――を示しているのだと思われる(以前認められておらず、新たに子どもにも認めるべきと一部の人間が強く主張している「人権」はこれ以外にないからだ。子どもの「生存権」「教育を受ける権利」等については以前から保証されているし、「勤労の権利」は今現在においても認められていない)。
もしそうであるなら「しつけや教育はできる限り施さない方がよい」ということになってしまう。「しつけや教育」とは、「子どもが好き勝手に行動することを制限し、社会に溶け込んで生きるための知識や行動規範を身につけさせること」に他ならないからだ。
「だったらそうすればいい。今まで子どもたちは、余計なしつけや教育で縛られすぎていたんだ。そういったことを極力減らし、なるべく自由に、やりたいことをどんどんやらせてやることが、子どもの幸福につながるんだ」
などとおっしゃる方もおられるかもしれない。
だが、実際に「なるべく自由に、やりたいことをやりたいようにさせ、しつけや教育を制限する」ことは、直ちに子どもにとってデメリットとなる。それはすなわち、社会において必要とされる文化的制約をなるべく身につけさせないようにする、ということにつながってしまうからだ。
子どもであれば、目上のものに向かって「先生嫌い!」などといっても許される。が、その「自由」を引きずったまま成長し、会社の上司に面と向かって「おめえ見てるとむかつくんだよ、会社くんじゃねえよ」などと暴言を吐いたら大問題になる。「やりたくないから」と言って仕事を放り出したり、「行きたくないから」と仕事をずる休みばかりしていれば、たちまち会社での評判はがた落ち、すぐにリストラ候補となってしまうことは、目に見えている。
権利と自由を許容するばかりでは、社会性は身につかないのである。
また、「個性を伸ばす」とは、「子どものやりたいことをどんどんやらせて、才能を開花させること」を意味すると思われる。
それのどこが悪い、野球のイチロー選手や大谷選手、体操の内村選手、将棋の藤井棋士など、一つのことに打ち込んで素晴らしい結果を残した人物はたくさんいるではないかと――特に現在子育て中の方は――思われるかもしれない。
だが、よく考えてほしい。そういう方向性をバックアップし、「子どもの個性を伸ばす」ことは、ある意味諸刃の剣である。
今まで日本には数多くの野球選手が、そして野球少年が存在した。が、その中で「自分のやりたいことをやり続けた結果、抜きん出た才能を得て」結果を残せた選手は「イチロー」「大谷」以外に、数えるほどしかいない(同じことは、内村選手、藤井棋士にもいえるだろう)。
なぜ彼らは、「才能を開花させる」ことができたのか。答えは明白、彼らは「そのスポーツが、そのゲームがなにより好きだから」ということを原動力に、常人では到底不可能なほどの――生活のありとあらゆる瞬間を「自分のその分野における才能を伸ばす」ことのみに捧げて生きるほどの――「たゆまなき努力」を続けたからだ。
多くの人が誤解していることであるが、人間の「才能」は「天性の素質」だけで成り立つものではない(ごくごく稀に――ある分野において、数世紀に一人か二人、といった割合で――そういった「天性の素質」だけで社会で生きていくに足る能力を得る者もいるが)。「素質」を伸ばし、「揺るぎなき技術」「卓越した発想力」として身につけるためには、気が遠くなるほどの時間を反復演習に費やさなければなんらない。しかも、ぼんやりとただくり返すのではなく、常にその「練習」について意識を研ぎ澄まし、なにが足りないのか、どこを失敗したのか考え続け、それらを徐々に矯正し、理想の形に近づけていく、そういった練習をできるものでなければ、才能を開花させることはできない。
「好き」という原動力はもちろん、他のあらゆる活動、あらゆる可能性を削って――遊びも勉強もうまい食事もなにもかもを諦めて――までも、ひたすら練習に打ち込むストイックな忍耐力、そして、練習における創意工夫や本番での高い集中力などといった能力を「そのことについての素質」以外に兼ね備え、実行できた者だけが「抜きん出た才能」を持てるのである。
「抜きん出た才能」を示さないまでも、スポーツや芸事の世界で生きていけるだけの能力を開花させた者たちは、ほぼ例外なく、とてつもない努力を払っている。
常人がちょちょっとやってみた、程度の技術や能力では、他人を感心し、感動させることはできない。「うわあ、すごい。あんなの普通はできないよ!」と皆に思ってもらえるからこそ、その種の人間は「その道のプロ」として、社会に存在を許されるのである。
さらにもう一つつけ加えておくと、いかに「その道の素質」に恵まれ、たゆまなき努力によって「抜きん出た才能」を身につけたとしても、「その道」がメジャーな競技でない限り、「プロ」として生きていけるかどうかは未知数である。
今でこそ「プロバスケットボール選手」「プロバレーボール選手」などといった存在もいる。が、一昔前までは、どれほど素晴らしい選手であっても、プロリーグそのものが存在しなかったため、これらのスポーツ選手は(日本国内では)プロとして生きてはいけなかった。日本国内において、野球、サッカー、あたりに次ぎ、メジャーであったこれらのスポーツでさえそうなのだから、それ以外の、星の数ほどのある競技――バドミントン、水泳、新体操などといったスポーツや、ソリティア、カードゲーム、バックギャモンなどといったテーブルゲーム、テレビゲームの類いに至るまで――にどれほど打ち込んだとしても、その道のプロになることは、絶対に不可能とはいわないまでも、とてつもなく難しい。
ましてや、「競技」として認められないもの――あらゆる芸術活動や、それ以外の、例えば「けん玉」「コマ回し」、あるいは「逆立ち」「牛乳の早飲み」「にらめっこ」「じゃんけん」などといったもの――にいくら興味を持ち、打ち込み、才能を開花させたとて、「その道で生きていく」ことができるのは、僥倖に近い確率となる。
それでも、保護者として、あなたは子どもに「好きなことを好きなだけ」させることを推奨できるだろうか。
簡単にいうと「守備の下手なイチロー」「ホームランの打てない大谷」「そこまで将棋の強くない藤井」――その分野への傾倒と努力が足りなかったゆえに「プロ」に届かず、しかも、一心にひとつのことに集中しすぎた分、それ以外のことはなに一つできず、社会的常識にも欠ける部分の多い存在となり果ててしまった子どもの面倒を、あなたは最後まで見ることができるだろうか。
そして、あなたのお子さんは、そうなり果ててしまった後でも「ひとつのことに打ち込んでよかった」と晴れ晴れと後悔無く笑えるだろうか。
このように言うと、人生のかなりの部分を一つのことに打ち込んで過ごすことを否定しているように聞こえるかもしれない。だが、私にそういった意図は全くない。第3章でまた述べるが、何らかの競技や研究などに打ち込むことは、自己実現に通じるため、子どもが成長してからの幸福につながりやすいからだ。
だが、政府やメディアなどが推奨するほど「好きなことに思い切り打ち込んで」過ごす子ども時代は、気楽なものではない。今まで述べてきたように「好きなこと」内部での競争は熾烈で、その競争に打ち勝ってそれなりの成績を残そうと思えば、気の遠くなるほどの努力が必要だし、努力したところで必ずよい結果を残せるとは限らない。そして、それなりの成績を残せたとしても、よほどメジャーな競技などではない限り、その道のプロとして生活していくことはかなり難しい。
好きなことに打ち込んで生きていくには、かなりの覚悟が――他の楽しみを人生から切り捨て、多くの時間を費やし、才能や素質不足で大成できずとも後悔せずにいられる覚悟が必要なのである。
あなたの子どもさんは、そういった覚悟ができるほど「その道」に惚れ込んでいるだろうか?そして、保護者であるあなた自身も、成功を信じ、ありとあらゆるバックアップを行ったのに、それでも子どもさんが結果を残せなかった場合、子どもさんを責めず、笑顔でその結果を受け入れられるだろうか?
もしそうでなければ――例えば、子どもさんに自ら望んでつらい努力を重ねることができず、誰かにせっつかれてようやく腰を上げるようなところが少しでも見受けられるのであれば――切りのいいところで早めに見切りをつけ、社会に順応して生きていく方向へ切り替えさせた方がよい。
「才能で生きていく」というのは、それだけ厳しく、難しい選択なのである。
そろそろ話をまとめよう。
「子どもの権利を守り」「自由を保障する」という理念にとらわれていると、しつけや教育の目的である「社会において自律した生活を送れるようにすること」を達成することは、限りなく難しくなっていく。つまり、この両者は両立することがほぼ不可能な、ほぼ対立概念といっていい考えなのである。
ところが、これらを主張するリベラル派の教育関係者や、文科省、硬度労相などのお役人たちは、このことについてまるで気がついていない(あるいは、気がついていながら、気がつかないふりをしている)。
かれらの文言をうっかりうのみにして、その通りに子育てをすれば、子どもはこれらのはらむ矛盾と、その矛盾から生じるデメリットを一身に引き受け、その後の人生を歩むことになる。そういった生き方や教育理念を否定するわけでは決してないが、もしこれらに殉じるのであれば、保護者の方も子どもさん本人も、その点をしっかり理解し、覚悟しておいてほしい。




