第四部 石片の向こう 99 生き残った人々
隣の谷に残るのは、奇跡の記録だけではない。
空腹を分け合った家々の記憶があった。
朝の食事処は、湯気で窓が白くなっていた。
エリゼーが戸口で声をかけると、昨日の籠を負った女性が奥から顔を出した。
「話を聞きたい客だったね。今日は、畑が少し落ち着いている」
「お仕事の邪魔にならなければ」
「邪魔ならそう言うさ」
女性は四人を裏庭へ案内した。
そこには土で塗り直された古い窯が二つ並んでいた。
一つは今も使われ、もう一つは壁の半分を残して草に覆われている。
「こっちの古い窯の話を、祖母がよくした」
女性は草の茎を一本抜いた。
「災いのあと、食べ物を持たずに来た人たちがいたそうだ。ここではまず火を絶やさないようにした。それが始まりだと」
「どなたが火を守ったのですか」
ジュリアが尋ねる。
「家の娘たちという話もある。父親たちだという話もある。誰か一人の名は、うちに残っていない」
「どれほどの人が来たのかは」
「祖母の話では、夜に何度も戸を叩く人がいた。数えられなくなった、という言い方だったよ」
エリゼーは窯の口を見つめた。
口の縁には何度も塗り重ねられた土があり、焼けて固くなった部分と、後年の補修らしい柔らかい色の部分が混ざっている。
昔の火がどこまで残っているのか、今の目では分からない。
***
話を聞いている途中、庭の外で大きな声がした。
子どもが山羊を一頭見失ったらしい。
柵の戸が半開きになり、足跡が畑の方へ続いている。
女は話をやめた。
「それなら先に、あの子の山羊だ」
ヘルマンは子どもにどこまで探したか尋ね、ジュリアは家々へ知らせてよいか確認した。
ハインツは右腕をかばいながら、離れたところから柵の状態を見た。
「閉める金具が外れかけている。今は縄で留めておく方がいい」
子どもの父親が縄を持って来て、言われた場所を結んだ。
エリゼーは畑の端で子どもと待った。
「僕がちゃんと閉めなかったから」
子どもが下を向く。
「そうかもしれないわ。でも、今はどこへ行ったかを探しましょう」
「怒らないの?」
「私は持ち主ではないから。お父さんと話すのは、山羊が見つかってからでもいいでしょう」
しばらくして、道の向こうから鈴の音がした。
山羊は隣の畑の葉を食べていて、近くの人が首の紐を持って戻してくれた。
走って追う者がいたら、もっと遠くまで逃げたかもしれない。
女は受け取ると、山羊の脚を確かめた。
「怪我はないね」
それから子どもへ向き直った。
「今夜、一緒に柵を直そう。どうして外れたか見ておこう」
***
戻ってきた山羊は、すぐに柵の端の草を食べ始めた。
子どもは鈴を持ったまま、何度もその顔を見た。
父親は低く言った。
「見つかってよかった。怖かったな」
子どもは頷いた。
「ちゃんと閉めたと思った」
「そうか。それなら、外れた金具も確かめよう」
「僕も直す」
「じゃあ、今夜は灯りがあるうちにやろう」
エリゼーは二人の会話を聞き、責めることと責任を教えることの違いを思った。
過去の自分なら、もう失敗しないようにと子どもの手から仕事を奪ったかもしれない。
それがいつも優しさになるわけではなかった。
仕事が片づくと、四人はもう一度窯のそばへ戻った。
女は腰を下ろし、土のついた指を払った。
「いまのは何の話でもないね」
「私には、昔のお話と無関係には思えませんでした」
エリゼーが言う。
「そうかい?」
「山羊を探すために、誰かが道を知り、誰かが知らせ、誰かが縄を直しました。昔も、一人では足りない仕事がたくさんあったのでしょうね」
女は少し考えた。
「昔のことは分からない。でも、祖母は『火を守るのは一人じゃ無理だ』とよく言っていたよ」
「魔法を使った人はいたと聞いていますか」
「聞いたことはある。急に水が温かくなったとか、重い石が動いたとか。でも、今の窯で火が燃えているのは、薪を拾った人がいたからでもある」
ハインツは窯の外側に掌を近づけた。
まだ昼の熱が残っている。
「誰かが火を見ていてくれると、安心するね」
「安心するために、夜番は交代するんだよ」
女性は答えた。
「眠る人も必要だから」
***
宿へ戻ると、子どもの父親が木片を持って歩いていた。
柵の蝶番に当てる新しい部品らしい。
子どももその後ろをついて行く。
手には、今日探した山羊の鈴が握られていた。
ジュリアは窯について書いてよいと、女性から許された範囲だけを小さな紙に残した。
火の番が交代だったという話、語り手が祖母から聞いたこと、窯が何度も修繕されていること。
魔法の話は、聞いたことがあるという程度に留めた。
エリゼーはその紙を覗いた。
「よく分けられているわ」
「書きたいことは、もっとあります」
「ええ」
「でも、書くために来たわけではないとも思うんです」
「あなたは、どうして来たの?」
ジュリアは少し笑った。
「最初は、記録の役に立つと思ったから。でも今は、人に会いたかったのだと思います」
その答えを、エリゼーは直さなかった。
古い窯をめぐる記憶と、今朝の山羊探しが並びます。
奇跡の有無だけでは測れない助け合いが、この谷の日常にあります。




