第四部 石片の向こう 100 高台の視線
高台から見える道と水の流れ。
四人は、伝承を手がかりに現在の地形を眺めるが、過去を断定しない。
谷の上にある高台へは、畑の間の細い道を通った。
風が冷たくなり、麦の穂が同じ方向へ傾いている。
昨夜、宿の主人が教えてくれた道で、途中の家へ声をかけて通行の許しを得た。
「上から見ると、古い逃げ道が分かるかもしれない」
ヘルマンが言った。
「分からなかったら?」
ハインツが笑う。
「眺めのいいところで休もう」
ジュリアは足元の石を数えていた。
「ここ、石が並んでいますね」
「道を補修した跡だろう」
ヘルマンが答える。
「いつの補修かは、知らないけど」
「古い避難路という話と、同じ道なのかしら」
エリゼーが尋ねる。
「似たところを通ったかもしれない。でも、土砂が動けば道も変わる」
ハインツは右腕を胸の前に置いた。
歩くには支障が少なくなっているが、強く引く動作はまだ避けている。
エリゼーは坂を上りきるまで何度か振り返った。
彼は気づいて言った。
「痛みが増えたら、僕から言うよ」
「ええ。分かっているつもりなのに、見てしまう」
「見てくれていい。ただ、決めるのは僕にさせて」
その言葉には責める響きがなかった。
彼女は一度だけ頷き、前へ向き直った。
***
高台には低い石垣があり、その向こうに二つの谷が広がっていた。
手前の谷では畑が細長く並び、川が家々の間を曲がっている。
奥の谷には、昨日訪ねた古い窯の煙がごく薄く見えた。
「水があふれたとしたら、どこまで来たのでしょう」
ジュリアが訊いた。
ヘルマンはすぐに答えなかった。
「今の川幅を、そのまま昔へ当てはめるのは危ないね」
「川の位置が変わったこともありますか」
「この谷ではそう言う人がいる。畑の石垣が何度も築き直されたのは見て分かるけれど、川がどうだったかまでは」
エリゼーは眼下の屋根を見つめた。
高いところからは、人々の家が同じくらいの大きさに見える。
だが実際には、家ごとに戸の高さも、暮らす人数も、抱えている仕事も違う。
昔の避難者たちが、どの戸を叩いたのか。
同じように見える谷を、どんな足で歩いたのか。
見通しが良くなるほど、かえって分からないことが増えた。
***
石垣の脇で、年配の男が木の枝を束ねていた。
四人が挨拶すると、男は腰を伸ばした。
「旅の人かい。ここから何を見ているんだ」
「古い災害の伝承を聞いて、谷の形を見に来ました」
エリゼーが答えた。
「災いの話なら、家によって違うさ」
「ええ。だから、まず今の地形だけでも」
男は杖代わりの枝で、谷の西側を示した。
「あそこは以前、家があったと聞く。私が子どものころには畑だった。今は木が生えている」
「いつごろ家がなくなったのかは」
「知らない。祖父のころかもしれんし、もっと前かもしれん」
「では、なぜ畑になったのでしょう」
「人が暮らす場所を変えたからじゃないか。もっとも、理由は一つじゃなかろう」
男は積んだ枝を肩に担ぎかけ、途中で下ろした。
ハインツが手を伸ばしかけたが、本人に尋ねた。
「結ぶところだけ、お手伝いしましょうか」
「それなら頼む」
ハインツは無理のない方の手で縄を押さえ、ヘルマンが結び直した。
***
仕事が終わると、男は四人に水を勧めた。
古い石垣の上に木椀を並べる。
「明日は、谷の下の家で年に一度の片づけをする。昔から家に置いてきたものを確かめる日だ」
「家のものを?」
ジュリアが訊いた。
「壊れた道具とか、使わなくなった器とか。受け継いだ話がついているものもある」
「外の者が訪ねてもよいのでしょうか」
エリゼーは尋ねた。
男はしばらく考えた。
「家の人に聞かなければ分からない。見せないものもあるから」
「もちろんです」
男は枝の束を持ち直した。
「興味があるなら、私から一度聞いておこう。返事があれば宿へ伝える」
四人は礼を言い、彼の背が坂の向こうに消えるまで見送った。
ハインツが水袋の栓を閉めると、ジュリアが石垣の内側に落ちていた乾いた枝を拾った。
「こちらへ積んでおいた方が、踏まずに済みますね」
彼女が尋ねると、ヘルマンは頷いた。
四人で枝を道端へ寄せてから、坂の入口を振り返った。
「ここを逃げた人たちも、足元を気にしたでしょうか」
ジュリアが言った。
「そうかもしれない。でも、逃げる人に今と同じ道が見えていたとは思えない」
ヘルマンは言葉を選んだ。
「僕たちは晴れた日に、食べ物も水も持って登ってきた。昔の夜がどうだったかは、知らない」
エリゼーは返事の代わりに、乾いた靴の底を見た。
それだけでも自分たちは、伝承の人々とは違う位置に立っていた。
帰り際、エリゼーはもう一度、高台から谷を眺めた。
昼の光が川の一部だけを明るくしている。
遠い災いのときにも、誰かがこの景色を見たのだろうか。
その人がどこに立ち、何を恐れ、誰を探したのかは分からない。
それでも眼下には、今日も人の住む屋根があった。
明日も火を起こし、水を汲み、壊れたものを直す人がいる。
昔を知りたいという願いは、今日を生きる人の手を妨げてはならない。
石垣の向こうから、風が吹き上げた。
エリゼーは目を細め、四人とともに坂を下り始めた。
高台から過去を見通すことはできません。
四人は次に、土地の家々が守ってきたものについて、持ち主の許しを求めることになります。




