第四部 石片の向こう 98 別の谷へ
一つの谷だけでは、災いの記憶を測れない。
四人は隣の谷へ向かう。
隣の谷へ通じる道は、朝だけ荷を運ぶ人で混み合った。
四人は出発を少し遅らせ、宿の主人へ借りていた道具を返した。
祈り手の女性は、水鉢の置き場を確かめていた。
「聞きたいことは聞けたかい」
彼女が尋ねる。
「聞けたことと、聞き直したくなったこと両方があります」
エリゼーは答えた。
「それなら、来たかいはあったね」
女性は口の端を上げた。
「別の谷では、ここで当然だと思っていることが通じないかもしれない。祈りの歌も、余計な説明をしないで、まず向こうの人に聞くといい」
ジュリアは青年へ短い礼を伝えた。
彼は片手に泥のついた器を持っていた。
「祖母の歌は、まだ書かないでくださいね」
「約束しています」
「僕が覚えたやり方なら、どこかで役に立ててください」
「ええ。必ず出どころを忘れないようにします」
別れは長引かなかった。
それぞれの仕事が、朝から待っていた。
***
道は低い尾根を越えた。
登るにつれて、先ほどまでいた谷の屋根が一枚ずつ見えなくなる。
水路は光を返す細い線となり、やがて木立の陰へ消えた。
「こちらの道は、昔から使われていたの?」
エリゼーがヘルマンに尋ねる。
「いまの形ではないね。崩れた斜面を避けて、少しずつ変わってきた」
「昔の避難路だったという話は」
「聞いたことはある。でも、それがこの道かどうかは分からない」
彼は歩幅を落とした。
「僕も、この二つの谷を行き来したのは子どものころじゃない。仕事で通るようになってからだ」
エリゼーはその言葉を大切に聞いた。
案内役だからといって、あらゆる道の昔を知っているわけではない。
ヘルマンには、知っている場所と、知らない場所がある。
自分が尋ねるたび、その区別をしてくれることがありがたかった。
尾根の上では、小さな祈りの布が木に結ばれていた。
昨日までの谷で見た布より色が濃く、端には細い結び目が幾つもある。
ジュリアは遠くから見て、触れなかった。
「結び目には意味があるのかしら」
「分からない。向こうで聞いてみよう」
ヘルマンが答えた。
***
尾根を下りる途中、背負い籠を負った老人とすれ違った。
老人は四人の靴を見て、短い近道を勧めた。
ヘルマンは道の状態を聞き、ハインツの腕のことを伝えた。
「なら、遠回りの方がいい。近道には手をつく岩がある」
「助かります」
エリゼーは礼を言った。
少し歩いてから、ハインツが口を開いた。
「僕のことを先に言ったね」
「勝手に話してしまったかしら」
「いや、助かった。僕が気づく前に、手を使う道かどうか聞けた」
「次はあなたから話せるようにしておくわ」
ハインツは笑った。
「一緒に聞くのが、いちばんいいかもしれない」
新しい谷の入口には、低い石垣と、風よけのために重ねた薪があった。
畑は前の谷より広く、家の壁には木の板が多く使われている。
水を運ぶ人たちは、背に大きな籠を負っていた。
最初に声をかけた女は、四人を見て、祈りの歌のことを尋ねてきた。
「向こうの谷の慰霊に行っていたの?」
「ええ。昨日まで、そこで話を聞いていました」
エリゼーが答える。
「ここでも、昔の災いの話を聞けるでしょうか」
「聞きたいなら、畑の方に人がいる。ただ、あそこと同じ話にはならないよ」
女は籠の重みを直した。
「うちの祖母は、光なんか見なかったと言っていた。明るかったのは、丘の向こうで火を焚いたからだと」
「そういう話が伝わっているのですね」
「見たこともない光を見たと言うより、見なかったと言う方が勇気がいる場合もあるさ」
女はそれだけ言い、用事へ戻った。
ハインツが小さく息を吐いた。
「最初の一言から違うね」
「どちらかが間違いとは、まだ言えません」
ジュリアが答える。
「それに、同じ場所を見たとも限らないから」
***
日が傾く前、四人は小さな食事処で休んだ。
出されたのは固い麦の薄焼きと、酸味のある汁だった。
ヘルマンは慣れた手つきで薄焼きを裂いたが、ジュリアは少し苦戦した。
「こうすると、汁を吸いすぎない」
彼が見せると、ジュリアは真似をした。
「あなたにとっては、この食べ方も懐かしいの?」
「いや。こちらに来てから覚えた。故郷では違う」
彼の故郷という言葉を、エリゼーはその場で深く尋ねなかった。
いつか話したくなれば、本人が選ぶだろう。
エランに対してできなかったことを、いま誰かに向けて練習しているのかもしれない。
ただ、そのためにヘルマンを使うつもりはなかった。
宿の前では、布を細く裂いて縄にする人々がいた。
遠くで子どもが歌う音は、前の谷の慰霊の歌と似た調子で始まり、途中からまるで違う節へ変わった。
旅の地図で隣り合う二つの谷は、歩けば一日もかからない。
それでも、その間には人が語らずに守ってきた距離があった。
四人は隣の谷へ移りました。近い土地であっても、災害の記憶や祈りの節回しは必ずしも一致しません。




