第四部 石片の向こう 97 祈りの場所
「昔の祈りの場所」と呼ばれる丘を訪れる。
いま見える景色が、昔の景色そのものとは限らない。
案内人が来たのは、朝の畑仕事が一段落したころだった。
小柄な男は丈夫な靴を履き、縄を腰に巻いている。
「石段の先は細い道だ。もし雨が降ってくれば戻ることになる」
最初に言ったのは、そこだった。
ヘルマンは行程を確かめ、ジュリアは宿に帰りの目安を伝えた。
ハインツの右腕にはまだ痛みが残っていた。
「上りがきつければ、途中で待っている」
彼が自分から言うと、エリゼーは頷いた。
「戻るときは声をかけてね」
「もちろん」
道は畑の裏から細くなった。
歩くたびに乾いた草が脛へ触れ、低い石垣の間には小さな花が咲いていた。
案内人は曲がり角ごとに立ち止まり、後ろの四人を振り返った。
急がせる気配はない。
「この道は慰霊のときにも使うんですか」
ジュリアが訊く。
「使う家もある。あの広場へ直接行く家の方が多い」
「ここが祈りの場所だというのは、いつから?」
「父が子どものころには、そう呼んでいたらしい。父の父も言っていたそうだ」
「その前は?」
「分からんよ。分かる人に会ったこともない」
***
丘の途中で、三つの平たい石が見えてきた。
一つには浅いくぼみがあり、水が少し残っている。
二つ目には草が生え、三つ目は土の中へ半ば埋もれていた。
「ここで、祈ったと?」
ハインツが尋ねる。
「ここだと言う人がいる。昔はもう少し上にあったという話も聞く」
案内人はくぼみを指さした。
「水を置いた跡だろうと言われているが、誰かが石を削ったのかもしれん。子どもが遊びに使ったこともある」
エリゼーは石へ近づきすぎず、周囲を見渡した。
足元の土には、新しい靴の跡が幾つも残っている。
石の横には枯れ枝が束ねられていた。
誰かがここを訪れ、掃いたのだろう。
「ここで何か起きるのですか」
彼女が訊くと、案内人は問いを返した。
「何かって?」
「祈れば、魔法が現れると」
「そう言う客もいる。起こらなかったと怒って帰った客もいたよ」
男は帽子のつばを押さえた。
「私に怒られても、どうしようもないんだが」
***
丘の上に出ると、下の方に谷の水路が細い線となって見えた。
家々は斜面に寄り添い、畑の間には土の色の異なる区画がある。
遠くの山の一部が白く光っていた。
昨日の伝承が、その景色に重なりそうになる。
エリゼーは一度、目を閉じた。
眩い光を伝えた人々が見た山と、いま目の前にある山が同じ形だったかは分からない。
「こちらへ石を移したと聞いたことはありますか」
ジュリアが尋ねた。
案内人は少し考えてから答えた。
「道が崩れたあと、下の方から持ってきた者がいたとは聞いた。どの石かは知らない」
「それなら、この並びは」
「古いものもあるかもしれんが、昔からこの形だったとは言えんね」
誰かの手が加わった場所だった。
だから価値が失われるのではない。
ここで祈る人たちの今日の足跡も、いつかは昔の足跡になる。
エリゼーは、その順序を取り違えたくなかった。
案内人は石から離れた草むらに、一か所だけ土がえぐれているところを見つけた。
「昨夜、獣が掘ったかもしれん。道を変えよう」
「石の並びから離れてしまいますが」
ジュリアが言うと、男は笑った。
「石を見るために足を痛めたら、石に申し訳が立たない」
ヘルマンは少し遠回りになる斜面の様子を確かめた。
「こちらなら、雨のあとでも歩けそうです」
男は頷き、四人へ手を振った。
石の傍らにたどり着くことだけが、ここへ来た意味ではなかった。
土地に生きる人が、どこを危険と感じ、どこに足を置くか。
エリゼーはその知恵を、地形の説明より先に受け取った。
風を避けるため、四人は丘の陰で水を飲んだ。
ハインツは腰を下ろし、右腕を膝の上に置いた。
エリゼーは水袋を差し出した。
「持てる?」
「うん。ありがとう」
渡したあとで、彼女は自分も息が上がっていることに気づいた。
旅の中で、人を気遣うことばかり考えて、自分の足の疲れを数えていなかった。
***
下り道、案内人は石を指ささずに一度だけ祈った。
声は低く、風に消えかけた。
「ここで唱える決まりですか」
エリゼーが訊くと、男は首を振った。
「今日は、無事に下りられたらいいと思っただけだ」
男は足元の滑りやすい土を杖で示した。
ジュリアが先に通り、次にハインツ、その後ろからエリゼーが続く。
祈りを聞いたからといって、道の危険がなくなったわけではない。
それでも祈りの声を聞いたことで、案内人が四人の安全を考えてくれているのが分かった。
丘を下りきると、畑の縁に子どもが一人立っていた。
「今日も何か分かった?」
案内人に尋ねる。
「客は景色を見たさ」
男が答えると、子どもは満足そうに笑った。
エリゼーは、その言い方が気に入った。
何かを見たことと、何かが分かったことは、違うのだ。
四人は、昔の祈りの場所と伝わる丘を訪れました。
現在の石の配置や地形には、後から人の手が加わっている可能性があります。




