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第四部 石片の向こう 第94 読まれる名

名を読む声は、そこにいた人と、戻らなかった人を同じようには語れない。


挿絵(By みてみん)

朝の風は、昨日より穏やかだった。

広場の布は四隅を留められ、白い面に淡い影を落としている。

水鉢の表面には雲が映っていた。


人々は、決められた席へまっすぐ歩く者もいれば、しばらく端に立ってから座る者もいた。


祝いの日のように挨拶を交わす人はいない。

それでも、子どもが転びかければ手が伸び、道を譲るための声は聞こえる。

沈黙を守ることが、周囲に気づかないふりをすることではなかった。


昨夜の祈り手が台の前に立った。

隣には、木札を刻む青年がいる。


「これから、受け継いだ名を読みます」

女性は言った。


「亡くなったと伝えられる人と、行方の分からなくなった人は、言葉を分けます。新たに確かめられたことがあれば、来年また直します」


青年は少し緊張した様子で板を渡した。

最初の名が読まれた。


次の名は、家の名と結びついていた。

三番目の名には、生まれた村の言葉らしい音があり、読み手が一度息を整えた。

エリゼーには聞き慣れない響きだった。

それが何という綴りなのか、確かめたい気持ちが湧いた。

しかし今日は、質問を差し挟む日ではなかった。


***


途中で一人の老人が立ち上がった。

「その人は、死んだと決まったのか」

広場に小さなざわめきが広がった。


読み手は答えず、板を持つ青年へ目を向けた。

青年は板の裏を確かめる。


「家の方の申し出では、帰らなかった人に移す予定でした。ただ、今朝まだ返事がありませんでした」


昨日、板を持っていた男が人々の間から進み出た。

「家で話した。今日は、名前を読んでほしい。ただし、行方の分からない者として」


女性はその言葉を繰り返し、広場へ聞かせた。

「帰りを知らぬ人として、この名を読みます」

名が呼ばれた。


男は目を閉じなかった。

呼ばれた音を最後まで聞こうとしているようだった。


エリゼーの胸に、幼い日の荒れ地が戻った。

自分を抱き起こした人は、敵と呼ばれる側の服を着ていた。

その人が戦場へ戻ってから、どこへ行ったのかは知らない。

死者と呼ぶことも、生存者と呼ぶこともできない。

ここでは、分からないことが一つの言葉を持っていた。


隣のハインツは、彼女が小さく息を吐いたのを聞いたらしい。

何も尋ねず、少しだけ立つ位置を変えた。

肩が触れそうで触れない距離だった。

その距離を、エリゼーは自分から縮めた。


***


名を読む時間は長く続いた。

一人の少女が途中で泣き出した。


母親は抱き上げようとして、少女に首を振られた。

そのまま横にしゃがみ、顔を覗きこまずに待った。

離れた席にいた人が、濡らした布をそっと差し出す。


ジュリアは膝の上に置いた手を開き、また握った。


「覚えられないほど、たくさん」

小さな声が漏れた。

エリゼーは答えた。


「全部覚えられなくても、忘れたことにしてはいけないのでしょうね」

「書くことなら、できるのに」

「今日は、書かないで聞く約束です」

ジュリアは顔を上げて頷いた。


名が半ばまで読まれたころ、列の後ろで幼い子が母にささやいた。

「名前を忘れたら、いなくなるの?」

母は答えに窮したらしく、子を抱き寄せた。

やがて小さな声で言う。


「名前が分からない人も、そこにいたんだよ」

「でも、呼べないよ」

「だから、呼べない人のためにも祈るんだと思う」

子どもは納得したのかしないのか、しばらく母の服の端を握っていた。


エリゼーも、言葉を見つけられなかった。

自分の仕事は、読める字だけを残すことではない。

けれど字にできなかった人生を、他人の言葉で勝手に埋めることもできなかった。


最後の板には、人名がなかった。

読み手は板をかかげず、胸の高さで静かに持った。

「呼ぶ名の残らなかった人々へ」

人々はそれぞれの言葉で祈り、ある者は何も唱えなかった。

魔法を発現させようとする声もあったのかもしれない。

しかしその場で誰かが特別な働きを起こしたかどうかを、エリゼーは確かめようとしなかった。


***


式が終わっても、皆はすぐに帰らなかった。

青年と祖母が水鉢を片づけ始める。


昨日の男は読み手の女性へ礼を述べ、そのあとで声を低くした。

「来年までに、もう少し確かめたい」

「そうしなさい。確かめて分からなければ、そのことも持っておいで」


広場の端では、子どもたちが水の器を運び合っていた。

エリゼーは小さな器を一つ持った。

濡れた底が掌を冷やした。

名を読むだけでは足りないのかもしれない、と彼女は思う。

けれど名を読まなければ、足りなかったことさえ分からなくなる。


ハインツが器を受け取りに来た。

「僕が運ぼうか」

「軽いから、これは私が」

「じゃあ、置き場を教えてもらおう」

二人は並んで歩いた。


昨日より少しだけ、人々の声が近く感じられた。

慰霊では、亡くなったと伝わる人、行方の分からない人、名の残らなかった人が、それぞれ異なる言葉で悼まれます。


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