第四部 石片の向こう 92 受け継ぐ若者
土地の記憶は石碑に刻まれるだけではない。
覚えた言葉を、誰へ、どのように渡すかにも残っている。
宿の主人に教えられた家は、水路の折れ曲がるところにあった。
軒先には小さな木札が吊るされ、風が吹くと隣の札に触れて乾いた音を立てる。
札には文字が書かれていない。
一つずつ、異なる数の切り込みがあった。
「昨日の祈り手が言うには、ここの若い人なら昔の歌を覚えていると」
ジュリアが声をかけると、戸を開けた青年は手にしていた粘土を棚へ置いた。
「歌のことなら、祖母の方が詳しいです」
「お祖母様の話を、あなたが覚えておられるとも聞きました」
「覚えているつもりです。でも、時々直されます」
青年はそう言って、濡れた指先を上着で拭いた。
室内には焼く前の小さな器が並んでいた。
器の縁にも、木札と似た切り込みがある。
「数を数えているのですか?」
ジュリアが尋ねた。
「器を誰に渡すか。名前を知らない人もいますから」
「では、この五つの切り込みは」
「五人目という意味じゃない。川向こうの家です」
青年は少し照れたように笑った。
「間違える人が多いので、今度は形を変えようと思っています」
ジュリアは自分の筆記具を出さなかった。
「同じしるしでも、見る人によって意味が違うんですね」
「そちらの仕事も、そうですか」
「ええ。字が同じでも、書かれた理由が違うことがあります」
青年は器の一つを持ち上げた。
「これは渡すためのもの。残すためのものではないんです」
「記録とは、そこが違いますね」
「違うけど、間違って渡したら困るでしょう」
二人は顔を見合わせた。
***
青年の祖母は奥の部屋で横になっていた。
声をかけられると起き上がり、孫が差し出した温い飲み物を受け取る。
エリゼーはまず、話を聞くことが負担にならないか尋ねた。
「長くは話せないよ」
祖母は言った。
「話さなくていいところまで、聞きに来る人が多いんだ」
孫は戸のそばに立って言った。
「明後日の慰霊で読む節を、もう一度教わりたいんです」
「去年も教えただろう」
「最後のところを、違うふうに覚えているかもしれない」
祖母は茶碗を置いた。
「だったら、まずお前のを聞かせなさい」
青年は低い声で歌い始めた。
言葉の間には長短があり、同じ旋律が戻ってくるたび、最後の音だけが変わる。
途中で祖母が手を上げた。
「そこは『帰らぬ人』じゃない。『帰りを知らぬ人』だよ」
「どちらも同じじゃないの?」
「違う。帰ってこないと決まった人と、どこにいるか分からない人を、同じところに置かないための言葉だ」
エリゼーは胸の奥で何かが触れるのを感じた。
あの人の名を、彼女はいまだに知らない。
幼い自分を助けた人が、戦場から戻ったのかどうかさえ分からない。
誰にも行方を確かめられない者に、どんな言葉を置けばよいのか。
その難しさを、この谷の歌は長く抱えてきたらしかった。
祖母は青年にもう一度歌わせ、今度は途中で止めなかった。
歌が終わると、孫の頬を見た。
「その間の取り方は、私の母と違うね」
「直した方がいい?」
「お前がどうしてそうしたのか、聞いてから決めるよ」
***
祖母は歌い終えたあと、枕元の布を整えた。
「私がいなくなったら、あの節をどうするつもりだい」
青年は視線を下げた。
「毎年、覚えているとおりに歌うよ」
「覚えているとおり、というのは、去年と同じとは限らないよ」
「そうだね」
「そのとき、昔はどうだったかを尋ねられても、私の声をそのまま真似できないことを恥じる必要はない」
青年は器の縁を撫でた。
「でも、変えてしまうのが怖い」
「変えたことを隠す方が、私は怖いね」
ジュリアはその言葉を、紙に書く前に一度、自分の胸へ収めた。
記録を守る手も、何ひとつ動かさずに済むわけではない。
帰り際、ジュリアは青年と水路の脇まで歩いた。
「私は、覚え違いをしたら紙を直せばいいと思うことがあって」
「ここでは、直す前に誰が教えたかを聞かれます」
「紙にも、誰が書いたかが大切なんです。でも、声の方がそこを忘れにくいのかもしれませんね」
「忘れますよ」
青年は即座に答えた。
「祖母が子どものころの話と、祖母が祖母から聞いた話は、何度も混ざったんです。だから僕は、人ごとに言葉を分けて覚えようとしている」
ジュリアは短い沈黙のあとで尋ねた。
「その方法を、書き留めてもよいですか。誰の言葉かを明らかにして」
青年は考えた。
「あなたの勉強なら。ただ、祖母の歌そのものは、本人に聞いてください」
「そうします」
ヘルマンが待つ道の向こうで、子どもたちが水路に小石を落としていた。
ハインツは一人の子どもに、流れの速いところへ近づかないよう声をかける。
エリゼーは青年の軒先の札を見返した。
切り込みは、同じ数でも同じ意味ではなかった。
それでも青年は、新しい形を考えていた。
受け継ぐとは、触れずに守ることだけではないのだろう。
その考えを、今はまだ結論にしなかった。
ジュリアは、土地の声を受け継ぐ青年と出会いました。
紙に残すことと、人の口から伝えることの差が、少しずつ見えてきます。




