第四部 石片の向こう 91 祈る人、祈れぬ人
谷の朝、四人が出会ったのは、奇跡を起こさずに人々を集める祈り手だった。
朝の広場には、まだ昨夜の水桶が二つ残っていた。
片方は空で、もう片方には落ち葉が浮いている。
谷を渡る風が水面に触れるたび、葉は縁へ寄って、また離れた。
エリゼーが桶を片づけようとすると、薄い灰色の上着を着た年配の女性がやって来た。
「それはあとで使うよ。空いている方だけ軒下へお願いできるかい」
女性は昨夕、広場で祈りの節を先導していた人だった。
「お手伝いします」
「客に働いてもらって悪いね」
「仕事をしている方の邪魔にならないよう」
「じゃあ、置き場を教えよう。勝手に動かされると、探す人が困るから」
女性は腰の小さな布袋から細い縄を出し、桶の持ち手に結びつけた。
次に来た若者は、縄の結び目を一度触ってから、桶を持ち上げた。
「目印ですか」
ジュリアが尋ねる。
「水を汲む家の順番さ。目の悪い人でも分かるようにね」
「祈りの順序にも、決まりがあるのですか」
「ある。けど、それは覚えやすくするための決まりだよ」
女性は広場の中央へ目を向けた。
そこには木の浅い皿と、小さな石が並んでいる。
昨夜、その前で彼女が祈ったとき、誰も魔法を使わなかった。
「ここでは、あなたが皆さんの祈りを導いているのですね」
「声を出す役は私が引き受ける。昔は母がやっていた」
「魔法も、お使いになるのですか」
尋ねたあとで、エリゼーは問い方があまりに直接だったかもしれないと思った。
だが女性は肩をすくめた。
「使えないよ。若いころから、一度も」
***
「それで、どうして祈り手に?」
ハインツが訊くと、女性は桶の底に残った泥を指で掻き出した
。
「母が死んだ翌日、誰も節を覚えていなかった。みんな少しずつは知っていたけど、先頭に立つ人がいなかったんだ」
「それで、あなたが」
「違う。最初は妹がやった。私は声が小さかったから」
女性は笑った。
「妹は農作業に出るようになって、私に譲った。私だって、毎日ここにいるわけじゃないよ」
エリゼーは教会で聞いてきた多くの説明を思い出した。
魔法を起こせない者が祈る理由を問われると、人々は忍耐、信頼、献身という言葉を使った。
女性の話には、そのどれも出てこなかった。
ただ、母がいなくなり、妹が畑へ行き、誰かが節を覚えている必要があった。
昼前、広場へ数人の人が集まった。
旅立つ親子のため、短い祈りを捧げるという。
母親は子どもの襟を直し、足元の紐を二度確かめた。
祈り手は木皿の水に指をつけ、濡れた手を静かに胸へ当てた。
周囲の人々も、それぞれに同じ動きをした。
唱えられた言葉は教会のものより短く、語尾で少し音が上がった。
エリゼーは意味を取り切れず、声を合わせなかった。
合わせなかったのは、拒んだからではない。
知らない音を、知っているふりで口にしたくなかった。
祈りが終わると、親子の背に荷が載せられた。
女性は手を伸ばして荷の紐を直し、それから子どもの靴を見た。
「坂を下りる前に休みなさい。靴が擦れている」
子どもは頷き、母親は礼を言った。
何も光らず、何も持ち上がらない。
しかし祈りが終わったあとに、確かに幾つかのことが整った。
***
昼の祈りにいた少女が、広場へ戻ってきた。
「おばあちゃんが、どうして声を出さなかったのか聞いてって」
少女は少し困った顔をしていた。
祈り手の女性は、笑ってしゃがんだ。
「おばあちゃんは、今朝から喉が痛かったんだろうね。祈らなかったから悪いことが起きる、と誰が言ったの?」
「誰も。私が、そうなのかなって」
「声を出すのがつらい人は、黙っていてもいいんだよ」
少女は考え、それからもう一度尋ねた。
「じゃあ、私が代わりに言ってもいい?」
「言いたいならね。覚えていないところは、隣の人に聞くといい」
女性は少女の頭に触れず、目の高さをそろえたまま答えた。
エリゼーはそのやり取りを聞き、祈ることが義務に変わる境目について考えた。
夕刻、エリゼーは女性にもう一度会った。
広場の隅で乾いた布を畳んでいる。
「祈っても、望んだことが起こらない日はありませんか」
「あるよ。起こらないことの方が多い」
「それでも皆さんは、あなたの声を待っている」
「私の声というより、集まる時刻を待っているのかもしれないね」
女性は布を折る手を止めた。
「けどね、魔法が使える人も昔はいた。遠くの畑から呼ばれることもあって、誰かが困っていても来られない日があった」
「では、そのときは」
「私たちが水を運んださ。あの人たちの力が要らないということじゃない。いるときは、ありがたかったよ」
ハインツが少し離れたところで、自分の右腕をゆっくり曲げ伸ばししていた。
痛みが残っていることを、エリゼーは知っている。
勝手に手を貸さず、近づいて様子を尋ねた。
「今夜は、重いものを運ばないで済みそう?」
「うん。明日も無理はしない」
彼はそう言ってから、祈り手の女性へ小さく頭を下げた。
宿へ戻る途中、エリゼーは木皿の水を振り返った。
明日にはまた別の人が、あの皿の前に立つのだろう。
祈りを支える役目が誰に与えられたのか、彼女には答えられない。
ただ、そこに立つことを引き受けた人の足元は、よく見えた。
この谷では、魔法を使えない人も祈りを担っています。
役目は特別な力だけで決まるものではありません。




