第三部 異郷の声 90 谷の入口
旅の道は谷へ下り、四人はこれまでと少し異なる暮らしの土地へ入る。
第三部の終わりに、エリゼーが見つめるのは答えではなく人々の姿だった。
商隊との別れは、思っていたより簡素だった。
宿を出たところで、女が四人それぞれに手を差し出し、これからの道の注意を伝える。
若い職人はジュリアへ、修理した車輪の小さな木片を見せた。
「これは持っていく。次に傷んだら比べられるから」
「そうしてください」
ジュリアは笑った。
「私も、書き残したことを読み返します」
魔法を使った男は荷車の端で休んでいた。
彼は四人へ軽く頭を下げたが、立ち上がろうとはしなかった。
エリゼーも会釈だけを返した。
疲れた人から、別れのために何かの言葉を受けることはなかった。
ハインツは自分の荷を小さくまとめ、右腕へ重みがかからないよう肩紐を掛け直した。
「今日はどう?」
エリゼーが聞く。
「歩く分には問題ない。痛みが増えたら伝えるよ」
「ええ。お願いね」
彼女はその返事を受け取り、歩き始めた。
***
谷へ入る道は、長い斜面の途中で二つに分かれていた。
一方は川に近く、荷車が通るために石が敷かれている。
もう一方は家畜と人が使う細道で、畑の端を縫うように下っていた。
「川の道は近いが、石の補修をしているところがある」
ヘルマンが言った。
「歩くなら上の道がいい。今日は荷車がいないから」
「地元の人にも確認しましょう」
ジュリアが言い、ちょうど畑へ出てきた男に道を尋ねた。
男は四人の荷を見て、上の細道を示した。
「雨のあとの石は滑る。足元を見ながら行けばいい」
そこから先では、祈りの場所が道端に点在していた。
木の根元に置かれた小石、浅い皿に汲まれた水、風で揺れる短い布。
同じ形のものは少なく、祈る人の姿もまちまちだった。
畑の脇で立ち止まる若者もいれば、歩きながら言葉を漏らす老人もいる。
「ここには決まった祈り手がいないんですか」
ジュリアが尋ねた。
ヘルマンは首を振った。
「村による。誰かが導く日もあるし、その役目を持たない人が皆を集めることもある」
「魔法を使える人が導くとは限らない?」
「限らない。祈りの声を覚えていることと、魔法を起こすことは別の仕事だから」
その答えに、エリゼーは足を緩めた。
これまでにも同じ考えに触れてきた。
しかし、いくつもの土地で似た営みを見るうちに、それが誰か一人の特別な教えではなく、暮らしのなかで選び直され続けるものだと感じ始めていた。
***
昼過ぎ、谷の入口を守るように家々が現れた。
水路が畑を横切り、石積みの小さな橋へつながっている。
家の壁には長く雨に打たれた跡があり、その上から新しい土を塗った場所も見えた。
遠くの山は白っぽい岩肌を覗かせている。
エリゼーはそれを見て、昔聞いた「白い丘」という歌の言葉を思い出した。
同じ場所だと思う根拠はない。
彼女は口に出さなかった。
入口の広場で、一人の女性が水桶を運んでいた。
桶の縁から水がこぼれ、足元の砂の色が濃くなった。
ヘルマンが道を尋ねると、女はまず四人の顔を見た。
「この谷へ何をしに来たの」
「昔の話を聞きたくて」
エリゼーが答えた。
「話したい人がいれば、ですけれど」
「今は畑が忙しい」
「分かっています」
「なら、今日は寝床を探しなさい。話は明日からにして」
女はそう言って、水桶を持ち直した。
四人は教えられた家を訪ね、空いた部屋を一晩借りることになった。
宿の主人は遠くから来た客に慣れているようだったが、急に親しく話しかけることはしない。
寝床の場所、火を使える時間、水を汲む順番を淡々と教える。
その慎重さが、エリゼーにはむしろありがたかった。
ハインツは荷を下ろすと、椅子に座って右腕を休めた。
ジュリアは借りた部屋の窓の向きと、明日の集合場所を確かめる。
ヘルマンは宿の主人へ、進んでよい道と入ってはいけない畑を聞きに行った。
エリゼーは窓の外の水路を眺めた。
***
夕方、近くの広場から祈りの声が聞こえてきた。
節回しは教会で聞き慣れたものと違い、短い音が何度も戻ってくる。
それを導いているのは、作業着のまま立つ年配の人だった。
周囲の者たちは、唱える者も、黙って聞く者もいる。
「行ってみる?」
ハインツが言った。
「まず、見ていてもいいか聞かなければ」
エリゼーが答えると、ジュリアも頷いた。
四人は広場の端へ行き、近くの人に見学を願い出た。
その人は少し考えてから、邪魔にならない場所を示した。
祈りが終わると、一人の子どもが倒れかけた水桶を支えた。
隣の大人が手を添え、水がこぼれないよう地面に置く。
それを見ていた老人が子どもの頭に掌を乗せ、何か短い言葉を言った。
魔法は起こらなかった。
誰も、そのことを不思議がらなかった。
エリゼーは、声をかけてよい距離を測るように、しばらくそこに立っていた。
祈りを導いた人が何者なのか、まだ知らない。
その人が魔法を使えるのかどうかも知らない。
しかし人々は、その声の周りに集まっていた。
「何か見つかった?」
ヘルマンが尋ねた。
「まだ、何も」
エリゼーは言い、少し考えて続けた。
「いいえ。知らないことが、ずいぶん増えて」
谷の向こうでは、夕日が山の縁をゆっくり沈んでいった。
祈りの終わった広場には、桶を運ぶ音と、人が家へ帰る足音だけが残る。
そのありふれた響きを聞きながら、エリゼーはここで何を問うべきか、まだ決めないことにした。
この旅は、答えのある場所へ着いたのではない。
これまで知らなかった人々の声が、自分たちへ届く場所まで来たのだった。
四人は谷の入口へ到着しました。
第四部「石片の向こう」では、この土地の祈り、伝承、そして住民が守ってきたものへ物語が進みます。




