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第三部 異郷の声 89 災いの歌

文字にならなかった災いは、歌として人々に残ることがある。

四人は旋律の中で、同じ出来事が違う形に語り継がれるのを聞く。

挿絵(By みてみん)

修繕を終えた商隊が宿を出る前の晩、共同の広間に歌声が上がった。

歌い始めたのは、荷車の幌を繕っていた年配の女だった。


手を休めることなく、低い声で同じ節を繰り返している。

最初は子守歌のように聞こえた。

けれど途中で声が沈み、聞き手の何人かが顔を上げた。


「古い歌なの?」

ジュリアが近くの若い職人に尋ねた。


「うちの母も歌ってた。でも、あの人のとは少し違う」

「どこが?」

「母は最後に家へ帰る歌だった。あの人の歌では、帰れないまま終わる」


エリゼーは歌詞を追おうとしたが、土地の古い言葉が混じり、半分ほどしか聞き取れなかった。


白い丘、消えた道、夜の水。

その言葉が繰り返されるたび、昼間の井戸端で聞いた古老の話が胸の奥によみがえる。


同じ災いを指しているのだろうか。

そう思いかけ、すぐに確かな理由がないことを思い出した。


歌いながら女は針を布へ通し、糸を引いた。

縫い目は少し曲がっていたが、女は気にせず針を進める。


歌う間にも手を休めないその姿が、エリゼーには忘れがたかった。

拍手は起こらなかった。

代わりに、何人かが静かに杯を置いた。


***


「歌のことを聞いてもよろしいでしょうか」

エリゼーが声をかけると、女は手元を見たまま頷いた。


「歌ったことなら聞いていいよ。私も全部の意味を知ってるわけじゃない」


「誰から教わったのですか」

「母親から。母はその母親から。どこかで節が変わっただろうね」


「白い丘というのは、場所の名ですか」

「場所だったと言う人もいるし、災いの夜に丘が白くなったという人もいる」

女は糸を結び、初めて顔を上げた。


「私はそこへ行ったことがない。歌の中の丘に、今の地図の印を打つつもりもないよ」


ヘルマンが椅子を引いた。

「私の故郷にも、夜に道が見えなくなったという話があります」

女は興味深そうに彼を見た。


「そうかい。でも、似た話はどこにでもあるものさ」

「ええ。同じことだと決めたいわけではありません」

「なら、そのまま聞いておけばいい」


ハインツは腕を毛布で支えながら、広間の隅に座っていた。

「帰ってくる歌と、帰れない歌。歌う人にとってはどちらも本当なのかな」

彼が言うと、女は首をかしげた。


「本当という言葉は難しいね。帰れなかった人の家族が歌うこともあれば、戻ってきた人が歌うこともある」

「歌う理由が違うんですね」

「歌ったら、何かが戻るわけじゃない。でも、歌わなければ残らない声もある」


***


ジュリアは紙を出さずに尋ねた。

「歌詞を覚えて帰ってもよいでしょうか」

「覚えるのは止められないよ」

女は少し笑った。


「でも、あの歌を『これが正しい歌だ』と言ってほかの村へ持っていくのはやめておくれ」

「分かりました」


「それに、誰かが亡くなったときに歌う節もある。今夜の節と混ぜないでほしい」

「ありがとうございます。そこまで考えていませんでした」


エリゼーは、書き残すことの正しさだけを追っていた頃の自分を思った。

記録のない言葉が失われるのは怖い。


しかし、記録すればその人の言葉を守れたことになるとは限らない。

語る人は、相手を選び、場所を選び、語る時間を選んでいる。


商隊の女が温かい飲み物を運んできた。

「明日から道が分かれる。歌を聞けたのはいい晩だったね」

「ありがとうございました」

ヘルマンが頭を下げる。


「谷へ行く道は、ここからどちらへ?」

女は窓の暗がりを指した。

「朝になれば見える。いま無理に教えるより、あの山の影を見た方が早いよ」


***


夜更け、宿の廊下で、エリゼーはハインツに言った。

「歌を聞きながら、幼い日に助けてくれた人を思い出したの」


エリゼーは、その人の名前さえ今も知らない。

自分の記憶の中ではいつも、濡れた手と低い声だけが先に戻ってくる。


「あの人は、自分の話を歌にして残そうとはしなかったと思う」

「話す時間がなかったのかもしれないね」

「ええ。私が聞かなかったのかもしれない」


ハインツはすぐに慰めを言わなかった。

廊下の向こうで誰かが戸を閉め、足音が遠ざかる。


「聞けなかったことも、あなたが覚えていることも、どちらも残っている」

彼はやがてそう言った。


エリゼーは頷いた。

知らない人の声に、昔の自分の記憶を重ねすぎてはいけない。

それでも、あの手の温かさが今夜の歌に呼び起こされたことまで、否定する必要はなかった。


部屋へ戻ると、遠くで歌の節がもう一度聞こえた。

今度は別の誰かが口ずさんでいるのか、少し音が違った。

エリゼーは窓を閉めずに、最後まで聞いた。

商隊の歌には異なる結末があり、災害の事実を確定する資料とは扱えません。

歌う人の事情と、聞く人の記憶も物語に残ります。

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