第一部 灰の記憶 9 灰の道
危険は、いつも前触れのある大きな音としてやって来るわけではありません。
その日は、朝から空が白く濁っていた。
雲が厚いわけではない。
遠くの道を荷車が通ったときのような、細かな埃が村の上に薄く漂っていた。
エリゼーは戸口に立ち、袖で鼻を覆った。
草の匂いに混じって、乾いた木が焼けたような臭いがした。
大人たちは、互いに短い言葉を交わしていた。
声を張り上げる者は少ない。
その静かさが、かえって子どもには恐ろしかった。
その朝、温かな食べ物が差し出された。
エリゼーは食欲がなく、少ししか口にできなかった。
いつもなら周りの大人たちは残したことを気にするのに、その日は誰も何も言わなかった。
大人の一人が器を下げるとき、いつもより長く肩に手を置いた。
その手を今なら引き留めただろう、とエリゼーは後に思う。
幼い日の彼女は、それが何の合図なのか知らず、ただ外の様子を見に行きたかった。
「今日は遠くへ行かないで」
そう言われた。
エリゼーは頷いた。
どこまでが遠くなのかを尋ねなかった。
昼になる前に、村の道を急ぐ足音が増えた。
水を運ぶ人、戸を閉める人、子どもを呼び戻す人。
すべてが少しずつ速く動いている。
それでも、何がどこで起きたかを確かな言葉で教えてくれる人はいなかった。
エリゼーは、誰かに頼まれた小さな用事を果たそうとしていた。
すでに受け取ったものを届ければ、すぐに戻れるはずだった。
その用事が何であったかは、後になって何度も考えた。
思い出そうとするたびに細部の記憶は変わる。
渡すものは布包みだったようにも、小さな器だったようにも思える。
はっきり覚えているのは、道の途中で人々が逆の方角へ走り始めたことだった。
「戻れ」
誰かが叫んだ。
戻ろうとした。
だが前を横切った人影に道を塞がれ、思わず壁際へ寄った。
肩が壁の石に当たる。
落としたものを拾おうとして身をかがめたとき、遠くから低い音が響いた。
地面が揺れたかどうか、覚えていない。
音だけが身体の奥へ入ってきた。
次に顔を上げたときには、道の向こうが埃で見えなくなっていた。
エリゼーは家の方角を見た。
いつもなら道の端に見える高い木を目印にすればよかった。
その木が見えない。
曲がり角の先にある屋根も分からない。
怖いと思ったとき、声が出なかった。
祈ればよい、と教わったことを思い出す。
神に願いを伝える言葉なら知っていた。
家の者たちも唱えていたし、自分も繰り返したことがある。
唇を動かす。
しかし最初の音がうまく続かない。
何度か息を吸い直すうちに、言葉そのものより、口が渇いて開かない。
祈り直した。
「エゴ・ウォロ・ウト・エンテラフィアス・セクリターテム・フイク・コルポリ・プラエベアト」
今度は、教わった順に最後まで言えた。
何も変わらなかった。
埃は薄くならず、道の先は見えないままだった。
誰かが自分の名を呼んだように思え、振り返った。
そこには誰もいなかった。
呼ばれたのか、呼んでほしかったのかも分からない。
しゃがんだまま、エリゼーは自分の手を見た。
掌に土が貼りつき、細かい傷から血がにじんでいる。
そんな小さな傷が痛むことが、いまは不思議だった。
遠くでは、もっと大きな出来事が起きているに違いない。
それでも身体は自分の痛みを訴え続ける。
誰かの役に立たなければという思いより、ただ家へ帰りたいという願いの方が強くなっていった。
エリゼーは壁に沿って歩き始めた。
早く戻ればよい。
その考えだけが頭にあった。
角を一つ曲がると、見慣れたはずの路地が知らない場所に見えた。
土の上に布が落ちている。
転がった容器から、白い粉が細くこぼれていた。
向こうから人が走って来た。
エリゼーは避けようとして足を滑らせた。
膝をついた瞬間、掌へ石の細かな粒が食い込む。
痛みより先に、起き上がれないかもしれないという恐怖が来た。
祈りの言葉をもう一度唱えた。
声に出したのか、胸の中で唱えたのか、今となっては分からない。
ただ、自分の体が動かないまま、周りの人々が動いていく光景が残っている。
遠くの音が少しずつ変わった。
騒ぎの中にも、誰かが指示を出す声があった。
助けを求める声もあった。
幼いエリゼーは、それらを一つずつ聞き分けようとした。
どの声が自分へ向けられたものなのか、分からなかった。
その前に、息を吸おうとして、むせた。
咳が出ると胸の奥が痛み、さらに息を吸おうとしてまた咳き込む。
誰かに呼びかけたいのに、声は形にならなかった。
大人が言っていた「落ち着きなさい」という言葉だけが頭に浮かぶ。
落ち着くというのは、どうすればできることなのか。
子どもには分からなかった。
それでも、掌を地面につけて身体を支えることだけは、必死に続けていた。
そして、目の前に人の影が落ちた。
いつからそこにいたのか。
どちらの道から来たのか。
それでも、影を見て胸の奥が少し緩んだことは覚えている。
誰が来たのか分からないのに、人の形をしたものが立ち止まったというだけで、もう一人ではないと思った。
恐怖はすぐには消えなかった。
ただ、そこへ別の感情が混じった。
その記憶は、いまも欠けたままだった。
危険に遭った日の記憶は、後から組み立てた説明ではありません。
覚えている感覚と、失われた部分の両方を残します。




