第一部 灰の記憶 8 隔てる言葉
同じ道が続いているのに、人はその途中へ境を置く。
子どもには分からない決まりがありました。
村の外れには、地面から少しだけ頭を出した古い石があった。
石のこちら側の草は短く、向こう側は伸び放題だった。
人が歩くところは、踏み固められている。
幼いエリゼーは、その境に立つと、いつも左右を見比べた。
土の色も風の匂いも、大きく変わるわけではない。
それでも大人たちは、石の向こうへ行くときに言葉を変えた。
「向こうの人」
「こちらの者」
「昔からの敵」
その言い方を聞くたび、エリゼーは足元の石を思い出した。
誰が最初に置いたのだろう。
何のために、ここにあるのだろう。
村の子どもたちも、境の話を真似した。
誰かが向こう側の訛りをおどけて口にすると、ほかの子が笑った。
エリゼーも最初は笑いかけた。
けれども、その言葉を話す人の前では、同じことを言えるのだろうかと思うと声が止まった。
笑わなかった理由を尋ねられても、うまく答えられなかった。
ただ、知らない相手を知ったつもりになることが、少し怖かった。
ある日、家の用事で村の通りを歩いていると、人々が道端で話し込んでいた。
すれ違った荷運びの者の話をしているらしい。
その人は、こちらとは違う呼び方で道を尋ねたという。
誰かが「あの言葉は信用ならない」と言った。
別の者が「荷を運びに来ただけだろう」と答えた。
同じ場にいる大人たちでさえ、意見はそろわなかった。
それがエリゼーには意外だった。
敵という言葉には、誰もが同じ顔を思い浮かべているものだと思っていたからだ。
帰宅してからエリゼーは尋ねた。
「違う言葉で話す人は、悪い人なの」
火のそばにいた大人は、すぐには答えなかった。
薪を一本置き直し、火が落ち着くのを待った。
「悪いことをする人はいる」
「向こうだけ?」
「こちらにもいる」
答えは思っていたより短かった。
エリゼーは少し考え、もう一度聞いた。
「じゃあ、どうして敵なの」
今度は返事が長くならなかった。
「そう呼ばれてきたからだろうね」
エリゼーには、それがいちばん分からなかった。
呼び名を変えれば済むことのようにも思えた。
けれども、大人の顔には、簡単に名前を変えられないものを抱えている表情があった。
何日か後、村の広場で食料が配られた。
受け取る人々は順に並んでいる。
誰かが、自分の前に立った旅の者をじっと見つめた。
「どこから来た」
旅の者は短く答えた。
その言葉を聞いて、列の空気がわずかに変わった。
小さな子が母親の袖を引き、誰かが足を半歩下げた。
しかし配る側の人は、袋を取り分ける手を止めなかった。
「並んだ順に渡します」
静かな声だった。
「足りなくなれば、足りないと言います」
旅の者は袋を受け取って頭を下げた。
その仕草は、こちらの人が礼を言うときと少し違っていた。
エリゼーはそれが気になった。
なぜ違うのか、誰にも聞かなかった。
広場で袋を受け取った旅の者は、最後に袋の口をしっかり結び直していた。
その仕草が気になって、エリゼーはあとで自分でも真似してみた。
布の端を折り込む手順が違うと、紐が緩みにくくなる。
小さな発見だった。
その人が敵の側に属するのかどうかより先に、エリゼーの手は役に立つ結び方を覚えてしまった。
誰かのやり方を学ぶことにまで、境の石があっても止めることは出来ない。
その夜、境の向こうで火が見えたという話が広まった。
誰かが警戒を呼びかけ、別の誰かは遠くの農地で作業しているだけだと言った。
何が本当か分からないまま、大人たちは戸締まりを確かめた。
エリゼーは、知らないことに形を与えるために、人は「敵」という言葉を使うのかもしれないと思った。
怖い理由を全部知らなくても、名前がつけば少し理解した気になれる。
ただ、理解したと思えることと、本当に知ることは違う。
その違いを、幼い彼女が言葉にできるはずもなかった。
村へ戻ってからも、エリゼーはさきほどの旅の者の顔を思い出そうとした。
笑っていたか、疲れていたか、腹が減っているようだったか。
よく見ていなかったせいで、ほとんど思い出せなかった。
覚えているのは、袋を受け取ったときに深く頭を下げたことだけだ。
名前も知らない相手について、自分はあまりにも多くのことを聞かされ、あまりにも少ししか見ていなかった。
翌朝、風で境の石の周りの草がなびいていた。
一夜の間に、こちら側から向こう側へ種が飛んだかもしれない。
エリゼーは膝を折り、石のそばの小さな芽を見た。
どちらの土地から生えた芽なのか、見た目では分からない。
遠くで人が呼ぶ声がした。
彼女は立ち上がり、家の方へ戻った。
家に帰り着くと、彼女は袋の結び目をほどき、もう一度結んでみた。
教わったわけではない手順を、手だけが覚えていた。
誰かの土地と知らないまま、その人の知恵を持ち帰ることがある。
彼女はまだ、その意味を考える言葉を持っていなかった。
石はずっと動いていなかった。
けれども、その石に意味を与えているのは人の言葉なのだという、まだ形にならない疑問だけが、エリゼーの中に残っていた。
共同体の対立、すべての住民が同じ考えを持つ単純な構図ではありません。
子どもには、違いより先に似ているものも映ります。




