第三部 異郷の声 83 渡し場
川を渡るには、岸辺で働く人々の知恵を借りなければならない。
旅人は、道そのものにも暮らしがあると知る。
渡し場の朝、川の匂いと濡れた縄の匂いが重なってきていた。
船を繋ぐ杭の根元には昨夜の泥が残り、水位の跡が幾筋もついている。
ヘルマンが料金を確認するあいだ、四人は荷を二つに分けた。
船に載せるものと、岸に残して次の便を待つもの。
その分け方も渡し守の指示を聞いてから決めた。
「四人なら一度で行けるが、荷を全部は載せられない」
渡し守は白いものの混じった髭を撫でた。
「対岸に今朝から野菜を運ぶ人がいる。先に空いた場所へそれを載せたい」
「分かりました。私たちの荷は次の便でも」
ハインツが答える。
「その間に何か手伝えることはありますか」
「手伝いはありがたいが、船の中では勝手に立たないでほしい」
「承知しました」
乗り込む前、渡し守は岸の平たい石へ掌を当て、短く祈った。
音の大半は川風にほどけ、エリゼーには聞き取れなかった。
ただ、祈りのあとに彼が船縁を二度押し、木の傷を確かめたことは見えた。
「いまの祈りは、川が静かであるようにという願いですか」
ジュリアが尋ねた。
「そうとも言えるね」
渡し守は答えた。
「私の父は、川へ出る前に必ず祈った。父がそうした理由は聞かなかった。そして、船底を確かめることも教わった」
「祈りだけで渡れるとは、お考えにならない?」
「祈りだけで舟板が直るなら、私は毎晩もっと眠れるよ」
老人は口の端で笑った。
***
船は思ったより広かったが、足元は狭く感じられた。
四人は座る場所を決められ、膝を抱えるようにして荷の脇に身を寄せる。
先に乗った野菜売りの女が籠の上へ布をかけていた。
「風が入ると葉が萎れるからね」
女は布を押さえながら言った。
「水に落ちる心配より、そっちが気になるの?」
ハインツが聞くと、女はまっすぐ彼を見た。
「落ちないようにするのは渡し守の仕事。売り物を守るのは私の仕事だよ」
ハインツは短く頭を下げた。
「そうですね」
川の中央へ出ると、岸からの人声が小さくなった。
櫂が水を掻くたび、船底がわずかに震える。
船は斜めに流されながら、渡し守の腕によって少しずつ向きを戻された。
川面には小さな泡が流れ、その下の水は思いがけず深い色をしていた。
岸から眺めたときは平らに見えた流れにも、幾つもの速さがある。
エリゼーは、それぞれの流れを渡し守が身体で覚えているのだと思った。
ヘルマンは岸の木を見て位置を測っていたが、途中からその手を膝に置いた。
ここでは彼より渡し守が川を知っている。
案内役であることを手放すのに、彼は少しも不満そうではなかった。
エリゼーは濡れた木の匂いに、子どもの頃の渡しを思い出した。
故郷を離れた日のことではない。
もっと小さな、買い物の帰りに母と川を渡った日の記憶だ。
人が大きな声で笑ったこと、母が袖を握ったこと、名前も知らない舟番の背中。
今となっては確かな場所さえ思い出せない。
けれど、揺れに合わせて身体を預ける感覚は残っている。
隣のハインツが声を落とした。
「怖い?」
「少し」
「僕も」
エリゼーは彼の顔を見た。
彼は笑ってごまかさなかった。
「泳ぎが得意でも、荷を抱えて落ちたら困るからね」
「そうね」
「手を握ってもいい?」
彼女は自分の掌を差し出した。
短いあいだ、二人は水音を聞いていた。
***
対岸へ着くと、最初に野菜の籠が下ろされた。
女は渡し守と代金を確かめ、葉の状態を見てから籠を肩に担いだ。
「次に会うときも、こんな朝だといいね」
そう言って、坂を上がっていった。
ジュリアは料金を書き留めながら、首を傾げた。
「昨日聞いた額とは少し違います」
「荷が減った分だよ」
渡し守は答えた。
「次の便に積む荷は別に数える。あとで分かるよう、ここに印をつけておく」
差し出された板には、数字の下に刻みがあった。
エリゼーはそれを見て、記録を残す方法が紙だけではないことを改めて思った。
ただし、刻みの意味は渡し守にしか分からないかもしれない。
二便目で荷が渡り終えるまで、四人は岸の石段を掃いた。
渡し守が頼んだのではなく、足元の泥を落としてもよいか聞いてからのことだった。
縄を巻く若い手伝いが、ジュリアへ水を渡した。
「向こうへ行っても、上の道は使わない方がいいよ。昨日、一台はまったから」
「荷車が?」
「そう。雨のあと、柔らかいところがある」
ヘルマンはその話を聞き、道を確認した。
船はまた川へ押し出されていく。
渡し守の祈りの音は、もう聞こえなかった。
エリゼーの目に残ったのは、船を離れる前に木の継ぎ目を指で確かめる、その慎重な手つきだった。
川を渡ることは、他人の仕事を信じることでもあった。
渡し場で四人は地域の仕事と祈りに触れました。
対岸には、雨で傷んだ街道が続いています。




