第三部 異郷の声 81 古老の話
災いのことを語る人が、災いそのものを見たとは限らない。
それでも、その人にしか守れなかった記憶がある。
井戸のそばには、昨日の夕餉に使った木椀が伏せてあった。
朝の光はまだ家々の屋根を越えず、石の縁に落ちた水だけが空を映している。
エリゼーが近づくと、桶を持った老人が紐の結び目を直していた。
指は節くれ立ち、紐を締めるたびに手の甲の皮膚が薄く伸びた。
「昨日、食事の席でこちらへ来るよう勧められました」
彼女が名乗ると、老人は桶を井戸へ下ろしながら答えた。
「話を聞きたい人だね。あの女は客をよく見ている」
「差し支えなければ、昔の災いについて」
「差し支えはあるよ」
紐が滑り、暗い底で水の音がした。
「朝の水がまだ汲めていない」
エリゼーは口を閉じた。
後ろにいたハインツが一歩前へ出る。
「運ぶ先を教えていただければ」
「重いよ」
「持ってみてから決めます」
老人はようやく笑った。
「そういう返事なら、悪くない」
水を待つ家は三軒だった。
ジュリアは桶の取っ手に布を巻き、手の痛みを和らげた。
ヘルマンは近道を尋ねず、老人の歩く速さに合わせた。
一軒目の戸口では子どもが眠そうな顔で待っていた。
二軒目では、病み上がりらしい女が受け取りに出た。
三軒目の家だけが戸を開けず、内側から「置いておいて」と声がした。
老人は何も聞き返さず、桶を決まった場所へ置いた。
「それで、何が知りたい」
井戸へ戻るころ、老人が聞いた。
「いつ、何が起きたのか。そして、ここにいた人がどう生き延びたのか」
「二つ目の方が、答えに近いかもしれないね」
* * *
老人は井戸端に腰を下ろし、濡れた手を膝で拭いた。
「私の祖母は、あの丘の向こうからこの村へ来た。まだここに石の家が少なかったころだ」
東の低い稜線を指さす。
「祖母の祖母が逃げてきた、とも聞いた。どちらの代の話だったか、年を重ねると人は混ぜてしまう」
「その違いも、大切ですね」
ジュリアが言った。
「大切だが、混ぜた者を嘘つきにはしないでおくれ」
彼女は頷き、筆記具を出さなかった。
「昔、夜なのに丘が白く見えたという。朝になっても家畜が戻らず、道の向きが分からなくなった者がいた。空が鳴ったという人もいれば、地面が鳴ったという人もいた」
老人は言葉を切った。
「私が見たわけじゃない。祖母も、どこまで見たか知らないよ」
「その話は、祈りと結びついていますか」
エリゼーが尋ねる。
「結びつける人はいる。あの晩、誰かが大きな祈りを捧げたから助かったと。逆に、その祈りのせいで災いが来たと言う人もいる」
「どちらを信じておられますか」
「分からないものを、急いで選ばないようにしている」
老人は足元の石をひとつ拾い、掌に転がした。
「ただ、逃げた者を泊めた家があった。冬の薪を分けた家もあった。それは、この村の家々に今も話が残っている」
一軒目の家で子どもが水を待っていたことを、エリゼーは思い出した。
知らない者のために桶を運ぶ。その手順は、何代も変わっていないのだろうか。
問いを浮かべて、すぐに自分で打ち消した。
昔から続く行為だと決めつければ、今日ここにいる人の選択が見えなくなる。
* * *
「書いてもよろしいでしょうか」
エリゼーは尋ねた。
老人は少し考えた。
「見たことと聞いたことを分けるなら。私の名前は書かなくていい。祖母の名も、ここでは」
「分かりました」
ジュリアは小さな紙を出し、話の伝わり方から先に記した。
年代は未詳、証言者本人の目撃ではないこと、村の外への公開は許可されていないこと。
読み返して老人に見せると、老人は字を追いながら言った。
「私の言葉は、もっと迷っていたはずだ」
「そうでした。そこも直します」
ジュリアは文末に一つ、断定を避ける言葉を加えた。
話のあと、老人は四人に橋のことを教えた。
「その古い橋は、雨で橋桁が緩くなっておる。人が渡れても、荷車は無理かもしれない」
「確かめます」
ヘルマンが言った。
「見れば、分かることもある。見ても、分からないこともあるよ」
老人は立ち上がり、空の桶を持ち直した。
別れ際、エリゼーは礼を述べた。
「お話を聞かせていただいて、ありがとうございました」
「話を聞いてもらったのだ、こちらも同じだ」
老人は井戸の暗がりを覗いた。
「話しているうちに、忘れていた水汲みの順番を思い出した。人の記憶は妙なものだね」
丘を越える道へ戻りながら、エリゼーは書かれなかった名前を考えた。
記録に載せないと決めた名にも、その人の生涯がある。
そして伝承に残る光について、四人の誰も答えを持っていなかった。
それでも今朝、一軒の家の前へ水を置いた老人の背中は、よく覚えていた。
古老の証言は目撃談ではなく、世代を越えて伝わった話です。
四人は伝承を尊重しつつ、事実の確定とは区別して旅を続けます。




