第三部 異郷の声 76 教会に残る人
旅立つ者の決意だけで、旅は成り立たない。
残る者の仕事と時間にも、物語は続いている。
出発の三日前、エリゼーは保管室の鍵を責任者へ返した。
正確には、使っていた鍵を定められた場所へ納め、預ける書類に署名した。
未完の照会は封をした控えとともに担当者へ渡す。
返書が届いても、自分が戻るまで未処理のまま置かれるわけではない。
仕事は残っている人々の手で続く。
「あなたがいない間も、棚はここにありますよ」
若い書記が言った。
「分かっているわ」
「でも、帰ってきたら、場所を少し変えているかもしれません」
「そのときは、新しい目録を見せて」
書記は笑い、棚の番号を最後にもう一度確かめた。
ジュリアは自分の部署の引継ぎを終えたという。
彼女の上司は、旅の途中で得た情報を教会の公式な見解として発表しないことと、定めた時期に無事を知らせることを求めた。
ジュリアは承諾し、その条件を旅の帳面の最初の頁に書き留めた。
「帰ってきてから、何を話せるかも考えなければ」
「今から決める必要はないわ」
エリゼーは言った。
「相手の許しを得たことだけ、話せばいい」
午後、ジャック・ランスロが礼拝堂へ二人を呼んだ。
広い堂内では、一人の女性が椅子の脚を拭いている。
ジャックは手伝っていた布を置いた。
「私はここへ残ります」
「あの土地へ行ったことはないのですか」
ジュリアが聞いた。
「あります。ずっと昔に、今とは違う道を通りました。でも、私が覚えているからといって、今の人々の話を代わりにしてよいとは思いません」
「一緒に来ていただけたら、心強いと思っていました」
エリゼーは率直に言った。
ジャックは首を横に振った。
「ここには、私が向き合わなければならない人たちがいます。祈りに来る人は、あなたの旅が終わるまで待てません」
それは突き放す言葉ではなかった。
自分の場所へ残るという、彼自身の選択だった。
***
三人は礼拝堂の片隅に座った。
外から子どもたちの声が入ってくる。
ジャックは古い祈祷文の話を始めた。
「どこへ行っても、人の唱え方には差があるでしょう。意味を尋ねられても、私が知らないことはたくさんあります」
「教会の祈祷者でも?」
「教会の祈祷者だからです。自分が知っている祈りを、すべての祈りだと思いたくない」
エリゼーは旅の目的を簡単に話した。
記録の食い違いが気になっていること。
しかし旅先の人々に、教会の謎を解いてもらうつもりはないこと。
「照会の返書が届いたときは、どうしましょう」
エリゼーは仕事を思い出して尋ねた。
「定められた担当が受け取るでしょう。私から勝手に内容を知らせることはできません」
ジャックは答えた。
「そうですね。それが正しいと思います」
エリゼーは言った。
「あなたが帰ってきたとき、手続きを踏んで読めるなら、そのとき読めばいい」
旅に出る前の責任と、旅を終えて戻った後の責任は、一続きなのだとエリゼーは感じた。
「あなたの話を聞いても、答えが見つからないかもしれません」
「ええ」
ジャックは言った。
「それでも、聞くことに意味がないとは思いません」
彼は二人の無事を願い、短い祈りを捧げた。
空気が揺れるような魔法は起こらなかった。
ジャックは祈りを終えると、旅用の布を差し出した。
「古いものですが、濡れた荷物を包むには使えます」
「いただいてよいのですか」
「私の持ち物です。今日はそれを使ってください」
エリゼーは受け取った。
魔法の力ではなく、何度も洗われ柔らかくなった布だった。
礼拝堂を出るとき、ジュリアが立ち止まった。
「帰ってきたら、何を聞かれますか」
「知らなかった人の名前を、ひとつでも覚えてきたかと聞くでしょうね」
「たくさん覚えてきたら?」
「多すぎたら、少しずつ話してください」
ジャックは笑った。
夕暮れ、ハインツとヘルマンも礼拝堂の前で落ち合った。
ハインツは雨除けの布を見て、その厚さを確かめた。
「これなら荷が助かります」
ジャックは彼に言った。
「彼女が全部の荷を持とうとしたら、止めてください」
エリゼーが眉を上げた。
「それは、私に言うべきことでは?」
「もちろん、あなたにも」
三人が笑い、ヘルマンも笑った。
帰る道で、エリゼーは振り返った。
ジャックはもう礼拝堂へ戻っていた。
門の向こうに消えた姿を見て、出発が誰かとの別れであることを、彼女はようやく実感した。
それでも、教会が自分を追い出したのではない。
ここへ戻れる場所を残したまま、自分が外へ行くと決めたのだ。
ハインツが隣に来た。
「寂しい?」
「少し。でも、あの人が残る理由も分かるわ」
「私たちにも、帰る理由が一つ増えたね」
エリゼーは返事の代わりに、布の包みを胸の前で抱き直した。
明日の礼拝では、ジャックはいつもと同じ時間に扉を開けるだろう。
エリゼーの知らない誰かが祈りに来て、声を掛け、あるいは黙って帰る。
残る人の一日は、旅へ出る人の物語のために止まるものではない。
彼女はその当たり前のことに、出かける前になってようやく思い至った。
だからこそ、見送られたことを長く覚えていたいと思った。
ジャックは教会に残ります。
残る人々の営みを大切にしたうえで、四人が外へ向かう準備を整えます。




