第三部 異郷の声 73 資料室の会話
知らない土地の言葉を調べるとき、尋ねる相手は資料だけではない。
教会と旅人が、同じ机を囲む。
ヘルマンが保管室へ来ることになった朝、ジュリアは戸口の前で立ち止まった。
「外の方をここへ入れていいんでしょうか」
エリゼーは手にした書類を閉じた。
「来客を迎える部屋と、原本を保管する部屋は違うわ。まず相談室に案内しましょう」
「何を見せるかも、先に決めた方がいいですね」
「ええ。許可のある公開用の目録だけ」
ヘルマンは約束の時刻より早く到着した。
扉の近くで雨具の泥を落とし、差し出された椅子に腰を下ろす。
彼が持ってきたのは古い羊皮紙でも石片でもなく、旅の途中で書き込んだ道順の覚え書きだった。
「紙としては粗末ですが、今でも通れる道と、雨の日に危ない道を分けてあります」
「これは私たちが預かってよいものですか」
ジュリアが問う。
「見てもらうのはいい。ただ、渡し場の家の位置は写さないでほしい。住人が知らない人に訪ねられると困るから」
「分かりました」
ジュリアは地図の一角を布で覆った。
エリゼーは机の上に、閲覧が認められた古い地名の一覧を置いた。
複数の表記が並ぶ村の名を、ヘルマンが指で追う。
「ここの読み方は、今とは違いますね」
「昔から違ったのか、書いた人が聞き取れなかったのかも分かりません」
「では、この一覧から私の故郷の位置を決めることはできない」
「そうね。ここに書かれた呼び方を、手掛かりの一つにするだけ」
ヘルマンは、祖母が使っていた古い言い方を一つ教えた。
ジュリアは書いてよいか尋ねた。
「地名なら構わない。ただ、祖母の祈りそのものは、今日ここで話すつもりはありません」
「もちろんです」
彼女は紙を引き寄せ、名前の欄だけを埋めた。
ヘルマンがふと問い返した。
「その一覧は、誰でも見られるものですか」
「許された人には見せられます。でも、土地に住む方の個人的な事情まで載せているわけではありません」
エリゼーが答える。
「私は自分の道を教えることはできます。ただ、そこに住む人たちの暮らしまで、私の持ち物みたいに渡すことはできません」
ヘルマンは丁寧に返した。
ジュリアはその言葉を覚えたかったが、紙に書く前に本人へ確かめることにした。
***
昼ごろ、ジャック・ランスロが相談室の扉を叩いた。
「話の邪魔でなければ、少し聞かせてください」
エリゼーが席を勧めた。
ジャックは旅の地図を見て言った。
「この辺りでは、旅立つときに安全を願う祈りを唱えるそうですね」
「私の故郷だけではありませんが、やり方は村ごとに違います」
ヘルマンは答えた。
「教会では、言葉を正しく伝える仕事があります。私たちは、ときに違いを誤りと考えてしまう」
「違いを教えたら、直せと言われますか」
「その危険はあります」
ジャックは答えを曖昧にしなかった。
「だから今日は、勝手に正しい形を決めたくありません」
ハインツが遅れて差し入れのパンを持って来た。
彼は机の上を見てから、包みを窓際へ置いた。
「仕事の机には置かない方がいいだろう」
「助かるわ」
エリゼーは笑った。
ハインツは戸口で外套を脱いでから、空いた棚へ荷を移した。
「さっき、受付で村の名を尋ねられた。私には読めなかったよ」
ヘルマンが身を乗り出す。
「どの名でしたか」
「この地図と似た二つの綴りのうちの一方だった」
四人はもう一度一覧を開いた。
その文字は、同じ場所を指すかどうかの確証がなかった。
ハインツは肩をすくめる。
「読めないって言ってよかった。知ったふりで違う道を教えなくて済んだ」
食べながら、ヘルマンは道標を直した話をした。
村で古い地名が消えそうになると、旅人が困る。
しかし住民が使っている呼び名に換えれば、長年そこを知る人が迷うこともある。
「だったら二つ並べることはできますか」
ジュリアが尋ねた。
「石が小さければ難しい。板を足すなら、誰が直していくか決めないと」
ハインツが言った。
「道標を作って終わりではないんだね」
「ええ。読む人がいる限り、手入れも要ります」
会話は不意に途切れた。
遠くで鐘が鳴り、窓の外で人々が頭を下げる。
ヘルマンは鐘に合わせて少しだけ目を伏せたが、言葉は唱えなかった。
エリゼーはその姿を見ていた。
教会の祈りを否定しているわけではない。
彼には彼の身についた間合いがある。
「遠くへ行けば、もっと違うものがあるでしょうね」
エリゼーが言うと、ヘルマンはパンを置いた。
「違うものばかりではありません。どこでも荷車は壊れるし、人は腹を空かせます」
「そんなことも見に行くべきだと思う?」
「むしろ、そういうところから始めた方がいい」
午後、ジュリアは今日の会話を自分の覚え書きにまとめた。
エリゼーは公開目録と旅人の個人的な地図を別の場所へ戻すのを見守る。
誰の言葉なのか分からなくなるような写し方は、したくなかった。
ジャックが帰り際に言った。
「この机で話したことが、いつか旅の役に立つといいですね」
ヘルマンは答えた。
「その前に、どこまで行けるかを確かめる必要があります」
エリゼーは、ようやくそこへ考えが進んだのだと思った。
知りたいという気持ちだけでは、道は歩けない。
しかし今は、同じ机で話すことからなら始められた。
ヘルマンが教会に足を運びます。
記録の取り扱いと、語る人が持つ権利は、別々に尊重します。




