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第三部 異郷の声 71 自分の限界

祈りを知っていることと、祈りによって何かを変えられることは違う。

それでも、人は願うことをやめない。


挿絵(By みてみん)

朝の保管室は、窓を開けると少しだけ冷えた。

エリゼーは書棚の間を歩き、前日に乾かした用紙を一枚ずつ点検した。

ジュリアが残した覚え書きは、机の端に置かれている。


祈りを聞いた相手の同意を確かめること。

相手が残すことを望まない言葉は、書かないこと。

たった二行だが、エリゼーが長年かけてようやく気づいたことだった。


「今日は門の外へ行くのですか」

若い書記に聞かれ、エリゼーは首を振った。


「昼から、裏庭の荷の整理を手伝うことになっているの」

「そこは雨のあと、足元が滑ります」

「知っているわ。だから先に見に行くの」


裏庭では、近くの救護所へ運ぶ木箱が積まれていた。

男たちが木箱の底へ縄を通し、行き先を確認している。

傷んだ石段の脇で、一人が足を滑らせた。

木箱を落としかけたが、隣の者が肩を入れて支えた。

すぐに誰かが安全を願う祈りを口にした。

エリゼーの唇にも、よく知る音が上った。


「エゴ・ウォロ・ウト・エンテラフィアス・セクリターテム・フイク・コルポリ・プラエベアト」


一音も間違えずに言える。


終わりの響きを息に乗せ、指先の感覚へ意識を向けた。

しかし石段は乾かず、縄も変わらなかった。

胸に小さな失望が走り、すぐに恥ずかしさが続いた。

誰かが転びかけた場面で、自分の能力について考えてしまったからだ。


声を掛ける一瞬の前、彼女はためらっていた。

保管人の自分が、現場の仕事を止める権利を持つのだろうか。


相手は重い箱を抱え、やり直すには時間が掛かる。

それでも転んだ人が負ったかもしれない傷より、作業の遅れを優先することはできなかった。

責任者へ話すべきことと、今すぐ知らせるべきことは違う。

エリゼーは石段の緑色になった部分を見せ、判断を求めようと決めた。

彼女は運搬を続けようとする男たちへ声を掛けた。


石段を指さし、踏み石の表面に薄い苔が残っていることを伝える。


「右側へ回せますか。あちらは幅がある」

作業を仕切る男は荷の大きさを見た。

「遠回りになるが、そちらの方がいい」

「道を空けておきます」


エリゼーは水桶を端へ寄せ、見張りの位置に立った。

祈りが届かなかった後にも、できることは残っていた。


***


昼食のころ、ジャック・ランスロが裏庭へ来た。


長い衣の裾を持ち上げ、作業員が座る場所を空けている。

エリゼーはその横へ腰を下ろした。


「また、何も起こせませんでした」

「祈ったのですか」

「ええ。私が唱えたからといって、何が変わるわけでもないのに」

ジャックは少し考え、湯を飲んだ。


「変えたいものは何だったのでしょう」

「私自身も、箱が崩れたら危ないと思ったんです。そして、その人にも傷ついてほしくなかった」

「その願いは、少なくともあなたを立ち上がらせましたね」


「それを魔法だとは言いたくありません」

「私も、そう言ってはいません」


「魔法が使える人なら、転ぶ前に何かできたのでしょうか」

エリゼーの問いに、ジャックはすぐ答えなかった。


「できた人もいたかもしれません。でも、目の前で何が起こるかを見ずに、祈祷だけで安全を約束することはできないでしょう」


「それなら、私は何を願ったのでしょう」

「ご自身も怖かったのではありませんか」

エリゼーは頷いた。


荷が崩れたら、自分の身体も傷ついただろう。

彼女が口にした安全の祈りは、その身体のための言葉だった。

そのうえで他の人を助けたいと思ったのだと、やっと区別できた。


答えを与えない言い方だった。

彼は慰めるより、エリゼーが何を求めたかを聞いている。


「昔、私は何かできる人間になりたかったんです」

「今は?」

「できないことを隠して、できるふりをしたくないと思います」

ジャックは頷いた。


「それなら、今日の仕事はそこから始まったのでしょう」


午後、運び終えた箱の数を確認するため、エリゼーは再び裏庭へ出た。

さっきの男が、石段に細かな砂をまいていた。


「転んだときに気づきゃよかったんだがな」

「私も、いつも通るのに気づきませんでした」

「祈りだけで道が変われば楽なんだが」

男は笑い、砂を手の甲で払った。


「でも、次の人が転ばなきゃそれでいい」


帰宅すると、ハインツが水を汲んでいた。

エリゼーは今日の出来事を話し、最後に自分が祈ったことも伝えた。


「悔しかった?」

「少し。今は、別のことを考えているわ」

「どんな?」

「自分にできないことを知るのと、人の役に立てないと決めるのは、違うのね」

ハインツは桶を置いた。


「私にしてほしいことがあるなら、言ってほしい」


彼女はためらってから答えた。

「今夜は、仕事の話をもう少し聞いて」

「喜んで」

その返事は、祈祷のように荘厳ではなかった。


けれどもエリゼーには、安心して息をつけるだけの確かさがあった。

祈りの不発と、人間が選んで行う助けを同じ場面に置きました。

エリゼー自身に魔法は発現しません。

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