第三部 異郷の声 70 声に宿る差
異なる声を並べて聞いても、その違いを優劣へ置き換えなければ、そこから新しい道が見えてくる。
広場の祈りの翌日、ジュリアが一枚の覚え書きを持ってきた。
「昨日の話を、これだけにまとめてみました」
そこには祈りの言葉の正しい形を決める表ではなく、話を聞くときの約束が書かれていた。
誰の言葉か、どこで聞いたか、何をしているときだったか。
記録してよいか、その人に確かめたか。
エリゼーは最後まで読んだ。
「あなたが考えたの?」
「はい。間違っているところがあれば、教えてください」
「間違いを探すより、どう使うかを考えたいわ」
ジュリアは腰を下ろした。
「私は、ひとつの祈りを聞くたびに、その人の暮らしまで書くことになるのが怖いんです」
「怖い?」
「相手は祈りを聞かせてくれただけなのに、私はその人のことまで知った気になりそうで」
エリゼーは、紙に書かれた「本人の同意」という言葉へ指を置いた。
「それなら、書かないことを選べるようにしておけばいい。相手にも、私たちにも」
「書かないことにも意味がありますか」
「ええ。知っていても、残してよいとは限らないものがあるから」
ジュリアは覚え書きの端へ、小さく印を付けた。
***
その午後、ハインツの提案で、四人は北門の外にある休憩所へ出かけた。
ヘルマンが旅の荷を引き取る用事を済ませる間、ほかの三人は水場の周囲に散らばった器を片付けた。
休憩所を預かる老人が、手を止めて礼を言った。
「この辺りには、道の神に呼びかける古い言い方があるんですよ」
「道にも神がいるのですか」
ジュリアが尋ねる。
「さあね。儂は知らん。でも、道を出るときには必ず言う。帰ったときにも」
老人は小さな声で、短い祈りを唱えた。
その言葉は、広場で耳にした祈りとはまったく違う調子だった。
ヘルマンが戻ってきたとき、ジュリアは老人に、もう一度聞いてよいか尋ねていた。
「耳だけで聞くならいい。紙に書くのはやめておくれ。儂のじじぃと、今の儂の声は違うから」
ジュリアはすぐに紙をしまった。
「分かりました。ありがとうございます」
老人は笑った。
「何も持って帰れんじゃろう」
「いいえ。聞けてよかったです」
ハインツが老人と一緒に器を運び、エリゼーは空いた水桶を洗った。
帰り際、老人は四人へ乾燥した果物を少しずつ分けてくれた。
門へ向かう道で、ヘルマンが言った。
「あの祈りは私も子どものころに聞きました。でも、言葉の意味を聞いたことはない」
「知っている人へ尋ねればいいのでは」
ジュリアの問いに、ヘルマンは首を振った。
「尋ねたからといって、教えてもらえるとは限りません」
エリゼーは頷いた。
知りたいことがある人間は、ときに、答える人の都合を忘れる。
自分にも覚えがある。
***
休憩所から戻る途中、ジュリアは何度も紙を取り出しかけた。
結局、ひとことも書かなかった。
「まだ気になる?」
エリゼーが尋ねた。
「気になります。でも、あのおじいさんが書かないでと言った意味も、分かる気がして」
「それでも聞いたことは消えないわ」
「消えないからこそ、誰にでも話していいわけではないんですね」
エリゼーは頷いた。
少し前の自分なら、相手のために残しておくべきだと思ったかもしれない。
記録は失われた人の人生を守るものだと、今でも信じている。
ただ、今を生きる人には、自分の言葉をどこに置くか決める権利もある。
ハインツが二人を追い越し、狭い橋の手前で立ち止まった。
「通れる幅を見てくる」
彼は靴で板を確かめ、向こうから来る荷車を先に通した。
ヘルマンが後ろから言う。
「道を知っているつもりでも、その日の様子は見ないとね」
ジュリアは顔を上げた。
「それは、記録にも似ていますね」
四人は橋を渡った。
誰も先頭になることを競わなかった。
夕方の風が、まだ使われていない屋台の布を小さく揺らしている。
「峠の向こうにある村へ行くとしたら、どの道がいい?」
ハインツがヘルマンへ尋ねた。
「季節によります。川が増水する前なら、旧道が歩きやすい」
「荷は多くなる?」
「少ない方がいい。ただ、雨具だけは省かないことです」
ジュリアが口を開いた。
「私も、現地の人の話を聞けたらと思います。でも、今の仕事があります」
「そうね」
エリゼーは彼女の言葉を遮らなかった。
「まず、何が必要なのか、一緒に調べましょう。行くと決めるのは、そのあとで」
ヘルマンは頷き、用事のある通りへ歩いていった。
ジュリアも保管室へ戻るため、反対の道を選んだ。
ハインツとエリゼーは、二人だけでしばらく歩いた。
「ずいぶん大勢で話すようになったね」
「まだ四人とも、同じ行き先を決めていないわ」
「だから、話せるんだろう」
エリゼーは彼の手を取った。
自分ひとりの願いで、人の道を決めてしまいたくなかった。
遠くで鐘が鳴る。
その音を聞きながら、エリゼーは、次に開けるべき扉が教会の中だけにあるのではないと感じていた。
第三部の最初の10章を締めくくります。
四人はまだ旅立ちを決めず、それぞれの仕事と意思を持ったまま、同じ道を考え始めます。




